はてなキーワード: 口語とは
14:34
婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。
14:35
もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
コリント人への第一の手紙(口語訳) - Wikisource
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E4%BA%BA%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AC%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC14%E7%AB%A0
2:11
2:12
女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
2:13
なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
2:14
またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
2:15
しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。
テモテへの第一の手紙(口語訳) - Wikisource
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A2%E3%83%86%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AC%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#%E7%AC%AC2%E7%AB%A0
うわあ・・・、これを書いたパウロって奴は酷いミソジニー野郎ですね。間違いない。キリスト教徒はこんな本をありがたい神の言葉と信じているのか・・・(困惑)。たまげたなぁ。
ある友人に我慢できず、他の友達に話すのも気が引けるので筆を執ることにした。
私の自分語りを多分に含んだ愚痴のような物なので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。
私はしがない字書きの大学生である。中学生の頃には仲の良い友人二人と、自分たちを模したキャラクターを架空の世界の中活躍させる創作を交換ノートの中でやっていた。元々絵を描くことも好きだったが、どう足掻いても上手く描けないことに諦めを感じ、気付けば文章ばかりを書いていた。
高校に入ると文芸部に入った。入部届けを提出するまで、入ったことは親には黙っていた。シンプルにそれまでやっていた吹奏楽に嫌気が差しただけなのだが、高い楽器(丁度自分の貯めていたお年玉やらお小遣いやらの全額程度だった)を買ったというのに吹奏楽を続けなかったので、父親は後にも先にも無いほど激怒した。当時の私は相当にショックを受けたが、まあこれは関係の無い話なのでやめておく。
とにかく文芸部に入ったのだ。正直本当に楽しかった。気の合う友人もできた。文学という架け橋が無かったら話すことも無かったような、私とは系統の違った部員と一冊の本を作るのは刺激的だった。空が白んできても何も浮かばず空虚な日の出を見たり、締切の為に定期テストそっちのけで徹夜をしてキーボードを叩いて編集をしたり、高校生なりの熱量で部活を、書くことを、“創作”を、楽しんでいた。
恐らく想像がついている方もいらっしゃると思うが、私はオタクである。とはいえ、二次創作をイラスト等の投稿や閲覧が楽しめるSNSに投稿を始めたのはつい最近で、それまでは内輪のオリキャラでの創作小説を書いたり、時には友人を主体にした夢小説を書くこともあった。
そんなこんなでここの所二次創作を楽しんでいる私であるが、どうにも腑に落ちないことがある。
端的に言ってしまうと、あまり好かない友人がいるのだ。彼女は高校1年生の頃からの友人で、ありがちな書き方ではあるが彼女をAと呼ぼうと思う。(A以外にアルファベットは出てこないので、特に気に留めて置く必要はない。)
Aは自信家だった。帰国子女のAは英語を始めとして成績優秀で教員にも好かれる模範的な生徒だった。本人はそれを隠すこともなく、「私は天才だから」「と言うより、努力型の秀才なんだけどね」と言ってのけていた。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいし、怠惰な私は純粋に尊敬したが、その努力をひけらかす行為はいただけなかった。受験期にはキーワードをページいっぱいに書き連ねたノートやボロボロになった単語帳を常に持ち歩き、志望校の赤本まで隠さず机の上に置いてあった。私は「落ちたら恥ずかしくないのかな」とぼんやり思っていたし、本番当日にもAは「Twitterしてる場合じゃないけど不安 報われなかったらどうしよう」だの「爆死」だの呟いていたが、最終的にAは無事合格し、その大学へと進学した。
思うに、Aはオープンな性格なのだ。未だにTwitterの鍵垢同士で繋がっているのだが、課題の進捗やらをよく呟いている。「自称天才だから(オンデマンド)授業明日の分全部受けてレポートまで書いた」「虚しいから労って(レポートの画像)」などなど。活きの良い大学生である。
さて、本題から離れてしまったが、私がお話したかったのはAの創作についての話である。
実はAは高校在学中から一次創作を嗜んでいた。Aはもう一人の友人とタッグを組んで自作のゲームを作ろうとしているようだった。所謂ファンタジー物で、次々とキャラクターを生み出してはストーリーの核となる部分を練ったり、キャラクター自身の掘り下げをしていた。
なぜ私がそれを知っているのか。それは彼女が片っ端からTwitterに放流するからである。興味が無いので完全にスルーしていたが、AやAの周りの友人はいつもAの生み出したキャラクターの話をしていた。
彼女はゲームのシナリオとなるその“創作”の本筋を書いて、もう一人の友人は立ち絵や背景を書いていた。
Aのそんな旨の呟きをよく見かけた。
そのうち、Aの周りにいる友人は、そのキャラクターのイラストを描き出した。漫画にせよ小説にせよ映画にせよ、ストーリーを追ううちにキャラクターの個性を見出す私にとっては、設定や性格が書き連ねられた一枚絵を見せられても特に何も思わなかったが、友人たちは違ったようだ。確かに毎日それらのキャラクターの話を聞いていれば興味を持つのも自然だろう。
最初こそAは大いに喜んでいたが、そのうちさして大きなリアクションをとらなくなっていった。そのうち、「おまえらのファンアート15溜まったら本編まじで進めるわ、ケツ叩いてもらわないと無理かも」といった旨をツイートしていた。
Aとタッグを組んでいた友人は、徐々にTwitterに浮上しなくなっていった。その代わり、Aは自分のことを“字書き”と自称することが増えて、ゲーム制作の話は一切しなくなっていった。
Aはよく産みの苦しみの類いのツイートをする。
そう言って一通り喚き散らした後、「やっぱり今日は書けないから寝よう」と言って日付の変わる前には就寝している。
なるほど、AもAなりに書くことを楽しんでいるようだ。いつか自分の創作を完成させて、それが大々的に二次創作される日を夢見ているらしい。丁度今、絵の上手い他の友人に描いてもらっているように。
四の五の言わずに書けよ。
一発当てたいなら本気で完成させろよ。
甘えてんのか。
もちろん私は今の文壇をリードするような大作家でもなければ、新進気鋭の小説家でもなんでもない。しかし、Aよりも文字を書くことは数こなしてきた。適切な表現が思い浮かばなかったり、心苦しくても大部分を削除してエンディングを書き直したり、寝食を忘れて夢中になって書いていたこともある。もちろんそれが重要なことでないこともわかっている。
「わたし、○○(私の本名)ちゃんのことすごいと思うよ。文芸部に入ったら、締め切りとかそういう重圧で死んじゃいそうだもん。自分の好きな物上手く書けなそうじゃない?」
私はこれに何と返したかは覚えていない。しかし、文芸部は私に書き終えることの大切さを教えてくれた。
オープンな彼女は書いている最中の苦しみを漏らすことを抑えていられない。しかもそれをやたらと文学的に表現しようとする。浮かんでこない、降ってこない、突然書けなくなる……、そういったありきたりの表現で。Aはやたらと“創作”や“小説”という言葉を使いたがった。自分が今しているのは“創作”で、“小説”を書いている。その行為に酔っているように見えた。けれど言葉が固くなってはいけないと思っているのか、進捗状況が載ったスクリーンショットに映る文はなろう系を模したような劣化させたような文体なのである。
「私の文幼稚なのはわかってるんだけど、かっこつけた描写はしたくないな。児童書目指してるし」
子供が読みやすい文、単純に砕けた文、そして口語ばかりで仮名遣いの怪しい文。難解な表現を使うことと、状況を説明するために上手く言葉を組み立てること。これらは明確に分けられていると思う。斜に構えた描写を、子供には解しがたいと思っているのだろうか。私は自身の素の書き方がかなり固いこともあり、まるで自分が“かっこつけた描写”をしているような気がしたこともあり、なんだか頭にきてしまった。
また、数日後にはこんなツイートもあった。
「承認欲求足りな過ぎて手っ取り早く誰かに褒められたいけど、二次創作は書けないからなぁ」
私は、自分の書いた二次創作を「承認欲求を得るための行動だ」と言われたように感じたのだ。書いた物を貶されるのは嫌だけれど、書く動機をAのようにあからさまに「誰かから評価されるため」にすり替えられるのが耐えられなかったのだ。ネットに公開している以上、何らかの反応があることはもちろん嬉しい。しかしそれ以上に、頭に浮かんできたシチュエーションを練ってひとつの話を作ることが楽しいのだ。
今思うとAはそこまで考えて発言したように思えない。恐らく私の考えすぎだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、何を言ったかより誰が言ったかが気になる質なのかもしれない。
SNS上でのAとの繋がりを消そうにも、そのアカウントには共通の友人が多く、彼女たちが気を利かせて私の転生後のアカウントをAに伝えてしまうことは想像に難くない。かと言って「繋げないでくれ」とあからさまに嫌う素振りを見せて友人関係にヒビを入れたくもないし、ログアウトしてしまうと他の友人の呟きまで見れなくなるのも寂しい。そういうわけで今でもAとはFF内で、表向きは仲良くやっているわけである。
さほど苦ではない。しかし確実に自分がストレスを感じていることはわかるので、いつか縁を切ろうと思っている。
結局これはさして大きな問題ではなく、周りからチヤホヤされている人間を妬ましく思っている私の醜さが露呈しただけなような気がしたので、この辺で筆を置いておこう。自分の“創作”のスタンスに口を挟まれて気分を悪くするのは、私自身もそうだから。
先によくある質問への回答
a.1度wais-3を受けて発達障害じゃないと言われ(知能指数は具体的には覚えてないが言語性動作性共に平均値で差もなかった。)、「一つ一つのことをゆっくりこなしましょう」と月並みなアドバイスを頂き、セカンドオピニオンへ。そこでもwais-3や性格診断諸々やったが、発達障害ではないと言われました。発達障害ではないです。
私がワーキングメモリの低さを感じる時は仕事で指示を受けた時や会話をしてる時だ。例えば、作業Aに取り掛かかりに行こうとした時に、上司から「それをしに行くなら作業B(そこそこ時間がかかる)を先にしてきて、帰りに物品Cを取ってきてもらえる?」と言われたとする。聞いた時点では「完全に理解した」状態なのだが、作業Bをやり終えだ後、作業Aも終わった時点で、物品Cの件を完璧に忘れてしまう。メモ書く余裕がある時は忘れないのだが、メモが無しで完遂した事が1度もない。最初は「平気平気」と萎縮させないように気遣ってくれた上司も、転職してから2年目となると「お前時々やる気ない時あるよな?」と釘を刺してくるようになった。なるべくメモは取るようにしているが、メモ取りが酷く遅いので「それぐらいメモとらないでいいから早く行ってきて」と急かされ忘れることが多々ある。
それと、マルチタスクが壊滅的に苦手だ。作業中に電話がくると、作業から電話への頭の切り替えが上手くいかず、電話先の声が音としては聞こえるが情報として処理できない状態になる。謝りながら再度聞き取り、上司に取り付いだりりするのだが、1つ前にやってた作業が何をしていたのか完璧に抜け落ちてしまう。これは通話に限らず、作業中に話しかけられた時にでも発生する。雑談しながら作業が壊滅的に出来ないので、上司や先輩に日常生活会話をもちかけられた時は作業の手を止めて、脳のメモリをフルに会話に使うはめになる。(話し上手ではないので、喋るだけで脳に負荷がかかりすぎてる可能性もある。)
口語でのやりとりを頭に留めておける自信が無いので、チゃットやメールが主軸で仕事が進む業種があればそこに行きたい、とよく思う。
頭が悪いと言われればそれまでだけど、脳機能が改善するなら改善させたい。口語コミュニケーションに難が出てくるので、働くことと自分の将来が酷く怖くなることがある。もしも私のような経験がある人間の改善エピソードがあれば教えていただけると嬉しい。改善の参考にしたい。
実習後に提出された日報を見ても、口語と文語表現が入り混じり、文章が子どもっぽく、日報というより「がんばりたいです」といった感想文ばかりで、ため息が出た。
これ高卒に限らない。
一方でパワポの自己紹介の完成度や、受け答えの礼儀正しさは年々良くなってきているように感じる。
10年で重視される事が変わってきているのだろうか。
これも同じく。上っ面だけ皆取り繕ってる。
大きくなってきたせいかなと思ってる。
新卒時点で実績があるやつなんぞほぼ居ないので、
どうせ手塩にかけても皆わりとすぐ辞めるっしょ。
私もその中の1人であり、今年で10年目になる。
会社は通信機器を生産しており、電気的知識が業務上必須となる。今回の実習では、そこを踏まえつつ現場で行っている計測やデータ解析を行うことにした。
新入社員の人数は10人で、首都圏と地方出身者が半分くらいだった。まずは緊張をほぐす為にコロナ禍の大変さや、彼らの趣味の話をして、発言しやすい雰囲気づくりを心がけた。新入社員の笑顔と発言が増える。いい感じだ。
そして彼らの実習に必要なオームの法則、接頭辞、振動数(波)、対数などの知識を確認しようとした。
そこで公式や数値の表を書き、あとは代入して計算するようにした。
けれどもほぼ全員がそこから先に進めない。
そこからは「これから分かるようになれば大丈夫だよ」と彼らを励ましつつ、基礎的な説明に終始した。
結果として予定していた実習を時間内にこなすことが出来なかった。
また、Excel上のテーブルからVLOOKUPの使い方を調べて、所望のデータを見つける作業で検査力を見たが、スマホネイティブ世代の彼らにも難しい課題だったようだ。
実習後に提出された日報を見ても、口語と文語表現が入り混じり、文章が子どもっぽく、日報というより「がんばりたいです」といった感想文ばかりで、ため息が出た。
私はこれからの新入社員と、OJTで指導する社員の苦労する未来が見えて、気が重くなった。
(技能職なので、職人のような業務内容もあり、その分野での活躍も期待できるが、少なくとも私の担当している業務では厳しい。)
毎年なんらかの形で新入社員を見ているが、年々学力の低下が否めない。
もしかしたら「近頃の若いやつ」的に自分の認知が歪んできているのかもしれない。
一方でパワポの自己紹介の完成度や、受け答えの礼儀正しさは年々良くなってきているように感じる。
10年で重視される事が変わってきているのだろうか。
自分かわいさもあるけれど、私は工業高卒で就職するメリットが大学進学に比べてあると思っていた。しかしそれも懐疑的になってきた。
専門知識はおろか基礎から身についていなければ工業高校から選出するアドバンテージはない。これからは就職難だろうし、もっと待遇面をアピールして普通科の高校生や大卒者などを採用すべき時期かもしれない。
関東方言(といっても幅広いけど)と標準語の差異として、例えば、
ら行が撥音になる 例:わからない→わかんない、食べられない→食べらんない
間投詞としての"さあ"の使用 例:あのさあ、君さあ
”では”が"じゃ”になる、”ではない”が”じゃん”になる 例:それでは→それじゃ、ではないか→じゃんか
などがある
"ない"が”ん”、"へん"になる 例:わからない→わからん、わからへん、食べられない→食べられん、食べられへん
"まう"や"もう"の使用 例:食べてしまう→食べてまう 食べてしまった→食べてもうた
間投詞としての"な"の使用 例:あのな、君な
”だ”、”では”が”や”になる 例:それだと→それやと、ではないか→やんか、 やないか
となる
標準語→「見た目ではわからないけれど、いちど食べてしまえば思っていたよりもうまいではないか」
関東方言→ 「見た目じゃわかんねえけど、いちど食べちゃえば思ってたよりうめえじゃんか」
近畿方言→ 「見た目やとわからへんけど、いちど食べてまえば思おてたよりもうまいやんか」
口語を文字に書き下したときの標準語からの距離はどんぐりの背比べだろう
もちろん、標準語にない語彙や言葉の変化はどの方言にも有るし、
イントネーションも東京方式は京阪方式に比べて標準語に近いとはいえ、違いは多い
関西弁が標準語とかけ離れているというなら、関東方言含めて他の方言も標準語とかけ離れているし、関東方言が標準語と離れてないなら関西弁も標準語と離れてないとみなすべき。
あなたや周りの人が話してるのは標準語じゃなくて関東方言、首都圏方言ですよ。
むしろ、他の地方から東京に来た人のほうがきれいな標準語を話すことが多い。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%9C%8F%E6%96%B9%E8%A8%80
首都圏方言は、実際には共通語とは違い、あくまで首都圏地域で最も使用される方言の一種であるにもかかわらず、口語的なくだけた全国共通語として扱われることが多い。
そのため、首都圏方言話者は、自分達の口語について方言であると意識しないことが一般的であり、首都圏方言を方言として扱われることに違和感を示す人も多い。
実際、首都圏方言話者にとって共通語との区別を意識しにくく、両者の切り替えが難しいことから、むしろ非首都圏方言話者の話す共通語のほうが正しく綺麗であるとされる。
プログラマに転職を考えてた俺が元増田の部下に似過ぎて絶望してる。
当方、どこへ行っても仕事を覚えられず煙たがられて、職場を辞める話をすると上司がホッとしたり優しくなったりした経験を何度も目撃してきて、痛い酷社会不適合者の自覚がある。
発達障害扱いされて検査したら凹凸もなく全IQ110のごく普通の健常者だった。しかし致命的に理解力も短期記憶も無いので高校は偏差値40の底辺校を出た。
元増田の部下って、最初は愛想よかったり、話してみると趣味が無かったり、口語能力がとりわけ低かったりしない?
最初だけ愛想がいいのは働き出してから毎日がいっぱいいっぱいで気持ちに余裕がなくて頭も心も萎縮しきってるだけで、趣味がないのは幼い頃から社会環境に疲れきって寝てるのでなにか趣味を楽しもうと思える精神的リソースがないからで、口語能力が低いのは頭の回転が遅すぎて会話の反射神経がとりわけ低いだけで別に貴方に対して苦手意識があるとかそういうんじゃないんだよ。
俺は自分が迷惑かけるサイドの人間だから、迷惑かける人間の行き辛さがすごい分かるんだけど、かけた迷惑を被る人に対しては申し訳なさすぎて胸が詰まる。優しく根気よく指導してくれた上司がある日を境にすごい冷たくなって、ドアの向こうで「あいつには本当に参ったよ」と俺の話してるのが聞こえるの、そういうの凄い辛い。自分がいなければこれだけ迷惑もストレスもかけてなかったってのが嫌でもわかる。頭の中が真っ白になる。元増田の書き込み読んでると元増田に謝りたくなってくる。その部下は俺じゃないけど、間違いなく俺のそれだからだ。
社会が悪いとは思ったこともないし、周りが悪いと思ったことも無い。社会に参画しようと自分なり努力してきた過程で痛いほど「自分の頭が悪い」ことはわかった。
無能でも生きやすいように社会整備しろとも言わないし、無能のためにBI始めろとも言わない。ただ、社会に対して一つだけわがままを言えるなら安楽死させて欲しい。
かつては嫌いだった、というべきかも知れない口語。
~じゃね。
~(だ)(なる)からな。
~だろ。
おまえは~。
等2ch・5ch由来の、一様に皆同じでイキった喋り方をする口語。
なぜ皆一様に同じ喋り方なのか当時は疑問だった。
というより、今でも多少疑問はある。
悪口を言われた際彼らは一意の人格性を自らに認めている。すなわち反論する。
みな名無しであると自覚するならば、単なる群れの一種である彼らに個別性など存在しないはずだ。
ところが彼らは同じように他人に合わせながら自分は個別であるというおかしなコンプレックスに陥ってる。
(スタンドアローン・コンプレックスといえばまるで攻殻機動隊だ)
コテハンなど個性があればそれを否定しにかかるが、レス番付きの「我」のことになるとコテハンのごとく振る舞う。
このダブルバインドの矛盾は柔軟性として機能していない。したがってあの場所ではよく闘争が起こる。
一つはまるでAIのような群体としての5ch、もう一つは匿名なだけで個別性しかない5ch。
個別性しかない連中が「荒らさない」という共同作業するには「押さえ込み」しかない。
いまならTwitterのプロフがそれに近い。話しによれば、どうやらプロフでは以下の者達がNGらしい。
曰く、
見ての通り3,4番目は相反する。1,2に至っては思い込みでしかない。
あるいは傾向がある、程度の話だ。ここでも個性に対する検閲が入る。
しかし一方でTwitterはそれぞれが個性を発露してユーザーを獲得するという大矛盾した構造がある。
その割に上記「押さえ込み」により発生した「空気」により同調圧力を強いられる。
ここに至りSNSで疲れは発生する。言い合うときは「空気」が恐ろしいので集団で襲いかかる。
いわゆる炎上である。抑圧が「空気」を発生させ、その空気が炎上の火種になるとは、まさに化学反応的ではないか。
空気は抑圧の結果生まれるので、水面下では皆本当の自分を容認されたいという承認欲求を抱えることになる。
日本人はディスカッション文化ではない、ディスカッションが苦手であり訓練されていないという。
もちろん嫌味や嫌がらせも多くあるためこの可能性は除外できない。
しかしながら、反論は直ちに人格攻撃ではなく、意見の穴に対する指摘であったり、改善案であったりする。
ディスカッションが苦手となると、結果的にお互いを傷つけない「大人の対応」という欺瞞を皆実践することになる。