はてなキーワード: 再考とは
ああいうの難しいというか、面倒くさいよなぁ、と思ったり
雑想ノートみたいなのちまちま描いて、
緻密な設定は後で役立つこともあるので、案外バカにできない
それより、大人になってみると面倒くさいというのが先に立つ気がする
士郎正宗の殺陣とか、エロ一枚絵描きになる前は、空間認識力はスゴいと思う
読者が気にしない領域まで、損得で考えれば無駄になってしまうんだけど、
いちいち考えてるのが偉いというか、
よく考えられたカンフー映画の格闘シーンを漫画なり絵コンテなり動画で描く感じ
主に面倒くさいから
イマジナリーラインぐらいは考えるけど
あと、絵コンテだと簡単に描けてしまう、というのがあると思ってて、
例えば、「ここでコルドバが180度回頭するやろ」
今はCGがあるから楽だけど、下請けイジメにしか思えないところもある気がする
というか、あれって佐藤元さんなんだっけ
今になって観てみると、CGにはない歪みというか、
なんか生き物っぽく、クジラとかそんな感じに思えてきて、
CGのような硬さを感じないのが逆に新鮮に思えたり
(ゲームは無理だけど
シンエヴァみたいに、プリビズとか元に手で描けば、
頭悩ませる必要もないし、寧ろ楽な気もするんだよなぁ
まあ、労力が格段に増えるだろうけど
手描きの良さってのも再考したい気がする
メールを整理してたら親のブログを見つけてしまった。少し自殺する気が失せたが情緒が安定しない。ブログごときで揺れる自分が嫌になって、気分は最悪だ。
私は3年前以上の記憶は意図的に思い出さないようにしており、親からみた自分自身を読んでもどこか他人事にしか思えない。無邪気に小学生してた頃があったことが信じらないのに、記憶の残骸と部分一致するのが気持ち悪かった。
そして過去の親にも自殺を考えるほどの状況があって、それでも自分のことをちゃんと大切にしてくれていたことが感じ取れて憂鬱だ。親だって人間なんだよなーって実感した。
これがドラマだったら改心して、前向きに生きていくのが正解なんだろうな。親孝行して、看取るまでちゃんと生きなきゃいけない。ベタなトゥルーエンド。絶対に親の介護はしたくないが。
でももう生きることを頑張りたくないから死にたい。死にたいというか消えたい。ありがたいことに世界を恨んでるわけじゃないので、透明人間にしてくれるなら死ななくても済むかもしれない。透明人間になって、隣の晩ごはんでも眺めていたい。何もできなくていいのでテレビ感覚で人の人生を見ていたい。でもなれないので困っている。
「苦しみたくない」がわがままで甘えで、その全部は私の責任だと認めるから『楽に』死にたい。就活したくない、すべての締切が辛い、人と話したくない、ずーっと遊びたい、苦痛を感じたくない、痛いのが嫌だ。この場合の苦痛に一般的に言う「向上するための努力」を含む。
自分より辛い状況で頑張っている人に比べたら全然恵まれているかもしれない。寝床も明日のご飯もあるし、なにしろ親の金で絶賛モラトリアム中だ。ここでちょっと頑張ればなんだかんだやっていけるかもしれない(超楽観主義)。
だが自分にめっちゃくちゃ甘いので無理なもんは無理なのだった。だって安楽的な自殺が成功することに期待しちゃうくらいには甘ったれだ。「言い訳しないで死ね」といわれれば「でもでもだって」、「努力しろ」といわれたら「でもでもだって」と返すのでよろしく。
それでもこの先の自分に期待するよりは自殺の方が確実性が高く、生きていても苦痛なんだろうと思う。局所的な快楽は漠然とした苦痛を超えられない。その根拠なき妄想は十分に自殺の理由になると思う。それに自分でさっさと苦痛を感じる器官を壊す方が楽だし早いのは事実。
それでおわりなんだが、私のシミュレーションの中では、自分が自殺してもそんなに影響ないかなと思っている。実際、親以外に連絡先持ってないから連絡しようがない。
今回NHKも民放各社も投票日20時発表の獲得議席予想を大きく外したが、これは「出口調査は民主党!」(実際は自民党か維新に投票)というインターネットミームが定着してしまったせいだろう。
Twitterをよくあさると分かるが、普段あまり政治的なツイートをしない人も今回の選挙では「出口調査では立憲民主と答えた」というケースが増えていた。
ざっくりとした計算だが、出口調査で自民党に投票した人を100人捕まえて、そのうちの3人(3%)が「立憲民主党に投票しました」と回答するだけで、立憲民主党の獲得議席数予想は30議席以上も上振れしてしまう。
逆に、本当に立憲民主党や共産党に投票した人で「出口調査は自民党」という人はいなかった。
「出口調査は民主党!」というインターネットミームが国民レベルのお遊びとして定着してしまったのだ。出口調査の在り方を再考する時代がやってきた。
とりあえず「行き過ぎでない共産主義」がどういう方針で国家を運営する想定なのか示してみてくれ。
あなたの主張通り100%資本主義は上手く行かないし100%共産主義も上手く行かないから現実の世界の国家は資本主義と共産主義のエッセンスを(割合はともかく)両方取り入れているわけで、
という事は「共産主義って本当にダメなの?」に対してはすでに「全くダメという訳ではない」と言うところまでは話が進んでいるわけだ。
確かに騙されている可能性はある。何度だって再考してもいいだろう。
共産主義、つまり富の分配を嫌がるのは損をする平均以上の資本家、そのとおりだ。
だが平均以下にとって「共産主義」がソレに対してお得と言い切れるのかという点はまだ一考の余地があるように思う。
均されるということは、平均以上稼いでも何のアドバンテージもないということである。政策で別の形でアドを設けようとしても、そういう勾配が格差を生むだろうから許されないだろう。共産主義的な考えなら
高所得者の実質税率が低いだ何だ言っても、高所得者層が税金の多くを負担しているのが現状なわけだが、これを負担するために頑張る理由が慈愛か趣味ぐらいしかなくなる。
一部の物好き除いて、やめちまうか海外行くわな。
すると当然税収がガクッと下がる。つまり平均も下がる。平均上層の頑張る理由がなくなる。負のループだわな。
資本主義が根付く国に共産主義を持ち込んだらそういう方向の下がり方をするのは間違いない。
もちろん実際やるならそんな負の方向に進まないよう、愛国教育なりでモチベ上げる運動をするだろう。
で、このモチベ上げをどうやるかっていうのを考えた時に、自由主義的な国はとことん相性が悪い。
民主主義の利点は色んな人の意見を取り入れて最大幸福を目指すところにあって、一番のモチベが金・資本とかの「自分たち利益」って事考えたら、まぁ間違いなく資本主義に逆戻ってとりあえず総収入上げようとするだろうし。
というあたりを考えると、強い共産主義は独裁政権からしか生えてこない。
じゃあ弱い共産主義ならどうだろうかっていうの考えたら、富の再分配程度ならもう取り入れてるよねって。分配の割合の調整は色々議論はあるだろうけど、結局そこの調整でいいよねってなる。
中国も共産主義に限界感じてそのモチベのために資本主義的なところを取り入れてるからある意味弱い共産主義と言えちゃうかもしれない。ウイグル自治区だのの話を聞くと再分配がちゃんとできてるのか怪しいし。
というか取り入れすぎだし格差はアレだし、中央が強い独裁政権なところ除いたらもう資本主義とさして変わらんくねっていう気さえしてくるけど。
じゃあ今の技術で最強の共産主義は作れないのか、というのを考えると、これも怪しい。
パフォーマンスのうまい政治家とか聞こえの良い政策を出すところを選ぶとこは変わってないし、システムとしてヒトラーを弾けるような構造になってるわけでもないし。(独裁になりにくいシステムはあれど)
計画経済・政策に従わせるほどの強権を政府に与えることは多分民衆が許さないし。今あるものも自由化の一方だろうし。
インターネットは色々な情報をもたらしてくれたけど、自由主義的な国民は管理社会を嫌がるし。
第3次AIブームは商業的にも有用な様々な利益を提供してくれて、マザーコンピュータには程遠いし。そもそもコンピュータのランニングコストが人間より高い始末だし。AIに責任能力ないし。
強いて言うなら統計取って国策きめるぐらいのことはまぁやってるよ昔から。ビッグデータなりで情報は増えたけどそんな大層な感じではない。
失敗から学んで次こそは……みたいなのあるかもしれないけど、残機は俺たちみたいな状態でやりたくないし……
資本主義一辺倒良くないよね、共産主義のエッセンスを気持ち取り入れる分にはできるよね、富を分配してみよか、というところはもうあって、今現在
みたいなバランスで、可も不可もないところにはあるよね。
法人から金取れの動きあるけど、法人って家みたいなもんだし。内部留保だなんだ言われてるけど、絞って体力落ちたとこはコロナ禍生き残れなかったろうし。そもそも多くの人間にとっての収入源だからね法人は。金の卵を産む鶏みたいなもんよ。増税議論はあるべきだと思うけど、金のなる木みたいなノリで軽率に叩いていいようなもんとは思えない。
結局、「格差を作らずにモチベを上げたり生産性を上げようとすると、独裁・強い権限がいる」「独裁はポカると軽率に詰む」「強い権限は自由主義が嫌がる」あたりを根本的に脱せずに居る今、現状に更に取り入れるべき「共産主義」は浮かばないから「共産主義は人類にはまだ早い」としか言えんかな。
精々ベーシックインカム的なキッツイ富の再分配制度を追加するとかそういうとこだけど、それは今ある社会保障・格差是正の延長でしか無いのではないか?
これ以上共産主義に何を期待しているのか?
深夜テンションで頭全然回ってない状態で書いたので文章まとまってるか怪しいけど、ガバガバにガバガバをぶつけたもんってことで許してや
自民支持者は反発するだろうが、端的に結論を言えば、市民に理性がないことがこれまでの結果に表れていると考える。何故そう言えるかは本題でないので割愛させてもらう。私自身、現状を変える活動、市民に理性をもたらす活動を極微力だが行っている。一方で有権者の動向にあきれ果て、諦めてしまった人もいるだろう。いずれにしても選挙の結果は受け入れざるを得ない。現状では自民党政権が続くことを前提として生活をしていかざるを得ない。少し話がそれたが、私が言いたいのは選挙に勝つ為に必要なものは理性に訴えかけることではないということだ。
野党を積極的に支持するものではないが、少なくとも自民党政権はいけない。その意味で現野党には政権をとることを求める。政権をとる為に必要な点は二点だ。
1点目として野党はまず協力体制を築く必要がある。特に立憲民主党と国民民主党の二党についてだ。野党の失敗は分党の繰り返しにある。一方で安倍政権以降の自民は何があってもそのような動きはなかった。それに至る理由はいくつもあったにもかかわらずだ。小選挙区制度においては、分党は自滅だ。その意味で言えば共産党との連携も必須だ。もちろん共産を閣内に入れろとも、ましてや共産と合流しろとともいわないが、一人区、参院選における二人区においても共産党との連携は効果的であった。この点で言えば、比較的現状の国民民主党に対しては再考を求める点が多い。つまり、共産党との連携を拒絶せず、野党連携をも拒まないという点だ。国民民主党の昨今の言動、並びにそれを支持する声は野党連携の拒絶であり自滅だ。立民の、特に以前の合流を嫌う振る舞いも問題だという声はあるだろうが、上記の点を理由にやはり現状において誰が1番悪いかといわれれば国民となる。この姿勢を改めない限りにおいては、立民は国民に刺客を立てて潰すという手以外に無くなる。「対決より解決」を謳うのであれば、まず立民との対決を改めるべきだ。一方で立民も共産党との連携は絶対的に堅持しつつも、それ以外の点では国民の言い分を聞く分には罰は当たらないだろう。
2点目は地方組織の充実だ。こちらは今では立憲民主党に対する要求といえるだろう。小選挙区制度においては必須。これがあるのは自民党と共産党と公明党だけだ。維新も組織が充実している大阪近郊では勝てている。この点についてはこれからの課題となる。
逆に言えば自民支持者は、野党のこの動きを妨害すると良い。現状それで圧勝できているのだから、それが続くことを願うことだ。最初に有権者に理性がないなどといったが、選挙制度に合わせた選挙対策を行わない野党の自滅という側面は非常に大きい。
また、自民党が有利になる選挙制度の改革、言い換えると投票率を上げる為の選挙制度の改革。たとえば電子投票や郵便投票なども野党が勝ちやすくするために必要なことだがこれは政権をとった後の事だ。
別に特にメンタルがやばい状況というわけではないのでその点はご心配なく。
ふと自分の掲題のあたりについて改めて考えたりしたので、書いてみます。
なお、以下の文章で考えや認識を示しているところでは、暗黙に「個人的には、」という枕詞がついているいると思って読んでいただければと思います。
(毎文につけてるとくどいので)
ただ、何かの強い使命感などを持っているなどの理由から、簡単に答えの出る人は少なくて、生きていく中で、同じようなことを再考し続ける人も多いのではと思っています。
で、これについて自分の場合を考えると、前提として、私はあまり生に執着の無い方だと思っています。
痛かったり苦しかったりするのは嫌ですが、生を終えること自体に恐怖はありません。
人生楽しいこと、苦しいことがありますが、割合としては苦しいこと(や面倒くさいこと)の方が多いと考えているので、多分生きている方が大変なんだろうな、と感じています。
ここで、唐突にキアヌ・リーヴスの話をすると、彼はテレビ番組で死生観を問われた際に、少し間を置いて、
と答えたそうです。
私はこの答えが自分の生きる理由を一言で言い表していると感じました。
自分の場合、親は存命ですし、兄弟もいます。そして既婚者でもあります(現状、子供はいません)。
仮に私が自死をしたとした場合、おそらくそれは、私の親にとっては、何よりもの親不孝だと思いますし、兄弟や妻にとても大きな喪失感を与えることは想像できます。
(妻を幸せにする責任があるだろ、というような考え方もあると思いますが、正直なところ、それが生きる理由になるかと言えば、私の場合、ならないです)
ちなみに、余談ですが、ある友人は「絶対に死にたくない、怖いし」 といったことを言っていて、そもそも生きる理由なんて考えない人も結構いるのかもな、とちょっとした衝撃を受けたことがあります。
オチはありません。
どこかで聞いた(見た)ものですが、
という発言を知っていて、私もおおむね同じようなメンタリティで生きています。
ただ、つまらなかったり、退屈なのも辛いので、高杉晋作が遺したとされる以下の言葉に則って、
楽しく生きていけるようライフマネージメントしている日々です。
(上の言葉には続きがあるそうですが、ここでは省略しています)
以上。
自分で参考書を書いてみれば分かりますが、数学の検定教科書はおそろしく完成度が高いです。そのことを具体的な実感をともなって理解できれば、あなたの学力は入試レベルなど優に超えています。
数学の本の出来は、理論の構成で決まります。数学の理論の構成とは、かんたんに言えば定義や定理をどう配置するかと言うことです。どのトピックを載せるか、ある定理を述べるために事前にどのような概念を定義しておく必要があるのか、その定理を証明するために事前にどのような命題を示しておく必要があるのか。トピックの選定が的確で、理論の道筋が明快であるほど、数学書の完成度は高いです。たとえば、余弦定理は重要ですから当然載せます。余弦定理を述べるには三角比を定義する必要があります(鋭角だけではなく鈍角に対しても)。そして、証明には通常、三平方の定理と有名な等式
が必要になります(これも三平方の定理のcorollaryです)。さらに三平方の定理を示すには、ふつうは三角形の相似を使用します。この道筋をいかに最適化できるかに、著者の力量が現れます。もちろん、余弦定理を要領良く示すために他の定理に至る過程が鈍臭くなってはいけません。全体の最適化を考えなければいけないのです。
証明の最適化を図るには、定義から再考しなければいけません。同じ概念であっても、それを特徴づける性質が複数あるなら、どれを定義として採用しても良いですが、それによって効率は違って来るからです。たとえば、ベクトルの内積は
のどちらを定義としても良いですが、後者の場合は別の座標(たとえば、45°回転した座標など)で考えたときに値が同じになるのか疑問が残ります。前者は座標の取り方によらずに定義できています。
この場合はどちらを採用してもそれほど変わりはありませんが、指数関数などは定義の仕方で必要な議論の量はまるで変わってきます。多くの教科書では、自然対数の底
e = lim (1 + 1/n)n -- (☆)
を定義し、そのべき乗として指数関数exを定義します。もちろん結果だけ知っていれば、微分方程式
df/dx = f
を満たすf(x)で、f(0) = 1となる関数としても指数関数を定義することはできます。しかし、このようなfが存在することを、(☆)を使わずに示すのは高校レベルを遥かに超えます。そのようなfが一意的であることも明らかではありません。
以上のようなことを考えるだけでも相当大変ですが、これに加えて検定教科書では、直感的な理解を損ねないことも考慮しなければなりません。高校生が読んで理解できなければならないからです。理論の整合性・効率と教育的配慮の間でバランスを取るという難しいことを、数学の専門家たちが苦心して行い、作成されたのが検定教科書です。このような本は他の参考書にはありません。場当たり的に問題の解き方を解説するだけの本とは格が違います。
数学の検定教科書は極めて洗練されています。教科書の理論構成を把握し、その流れや証明手法に合理性や必然性を見出だせる水準まで理解できれば、入試などは余裕で通過できます。
この夏の帰省や旅行は中止・延期を、とか言ってもチケットや宿泊を予約した人間にしてみれば「今更おせーよ!!」としか言いようがない。
しかし「キャンセル料を政府で補填せよ!」だと単に消費を冷やすことに国費を突っ込む行為なので良くない。
そこで延期に限って旅行費用の補助をGoTo並に出すようにしたらいいんじゃないか?
この夏の旅行を1ヶ月半ずらせば旅行費用が半額になる!というインセンティブを与えれば盆の予定を再考する人も結構いると思う。
補正を打ちまくった前年度の予算が30兆も繰り越されているんだからそれぐらいできるはず。
もう要らない物事や終わった文化になってるのかもうちょっと説明が欲しい。
PTAが終わってるなら保護者会も終わっていることになるし、それを言い出せばもう、学校という仕組みそのものが..となるかもしれない。
ただ、人間が社会的動物である以上、自分は正直どれも終わった文化だとは思ってない。
例えば、一都三県の児童たちにオリパラ観戦をさせるのか否かの判断は学校ごとにすることになっている。
PTAがあるとそこでそれなりに意見を集約し、保護者の温度感を理解できるだろうとは思う。
学校と交渉をしないといけない場合もPTAを通せばかなり強く出られるが、PTAがないと分割して統治されてしまうだろう。
学校行事においてもそれなりに人手が必要で、それは教員では賄えないし、児童にそんな責任を負わせられない。
その場合、PTAがその部分を負うことで高すぎる負担なく行事を実行することができる。
...と考えてPTAの存在にそれなりに自分は理解を示すんだけどね。
夏休みの思い出はお弁当みたいに貧富の差がもろに見えるから、むしろそういうのの差が少ない時代にはよかったと思う。
戦後すぐはその辺がもろに見えてよくなかっただろうし、7人に1人が相対的貧困にあると言われている現代でも再考が必要かもしれない。
この度は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への私の参加につきまして、多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます。
ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。
学生時代、そしてインタビュー当時の私は、被害者である方々の気持ちを想像することができない、非常に未熟な人間であったと思います。記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
それにより、当時のクラスメイトだけでなく、学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族、応援してくださるファンの方々に対しても、不誠実な態度を取り続けることになってしまいました。本当に申し訳ありません。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
今回、私が東京2020オリンピック・パラリンピック大会に携わることにつきまして、否定的なご意見を頂くのは尤もであると思います。また、このコロナ禍において、国民の皆様が不安を抱えるなかでの大会開催に関与することへの疑問のご意見も頂戴しております。
本来であれば、様々な理由から、私の参加にご不快になられる方がいらっしゃることを考慮し、依頼を辞退すべきだったのかもしれません。しかし、課題も多く困難な状況のなか、開会式を少しでも良いものにしようと奮闘されていらっしゃるクリエイターの方々の覚悟と不安の両方をお伺いし、熟考した結果、自分の音楽が何か少しでもお力になれるのであればという思いから、ご依頼を受けるに至りました。
そのうえで、今回の音楽制作にあたりましては、自分なりに精一杯取り組んで参りました。それは、私だけではなく、他のクリエイターの方々も同様であると思います。故に、私の関与により、開会式へ不快な印象を与えてしまうことを心から申し訳なく思います。
この度、様々なご指摘を頂いたことで、あらためて、自分自身の在り方について振り返り、反省と再考をさせて頂く機会を得ました。それにつきましては、ご意見をくださった皆様に、感謝すべきことだと感じております。
私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます。
一人の人間として、また、音楽家としてどう在るべきか、自分は世の中や周囲の人々に対して、どういったかたちで貢献していくことができるのか、常に自問自答し、より最善の判断をしていけるよう、一層の努力をして参りたいと思います。
小山田圭吾 2021年7月16日