はてなキーワード: ぼんやりとは
な な 懐かしい~~~!!!って気持ちで思わず録画して見ている
最後まで見たような見なかったような結末がどうなったかは全然覚えてないんだけど
小学校中学年くらいの頃の放送だから記憶がおぼろげでも全然不思議ではないな
コミックスも最後まで読んだか読まなかったか覚えてない 結末はいったいどうなったのか
それよりアニメ版、姫ちゃん(主人公の少女)の憧れの先輩役の声優が草薙剛だった
OPもEDもSMAPだ よく覚えてないけどこれはもしかして森くんがまだ所属している頃のSMAPでは
当時中学生だったねーちゃんが友だち数人と森君の追っかけしてたことを同時にありありと思い出す
SMAPファン向けの映画かなにかでなぜだかメンバーがみんなオオカミ族?みたいな設定で
誰かが鶏生きたまま食べて口元から血が垂れてくるみたいなみたいな描写の映像を観た記憶もぼんやり思い出す
(何度思い返してみても設定が特殊すぎるのでこれは疑似記憶かもしれない)
当時この枠の女の子向けアニメって必ずジャニーズのアイドルとタイアップしてたような記憶がある
「赤ずきんチャチャ」も確か香取慎吾が声優やってて曲もSMAPだったような気がするし「こどものおもちゃ」はTOKIOだったろうか
思えば夕方6時台のアニメ枠は大抵少女誌「りぼん」の掲載作だったけど、
私は「りぼん」には縁のない子供で、というかその頃からコミックス派で素敵な表紙の漫画を買うのが好きで
コミック雑誌を定期的に買って読むという習慣に縁がなくアニメで観る以前は上記の作品の原作を読んだことがなかった
全部中学生以降に少女漫画オタクになってからはじめて読んであれっ面白いじゃんとなったものだった
「りぼん」よりは花とゆめコミックスやぶ~けコミックス、サンデーコミックス等の方に馴染みのある子供だった
絵やお話の傾向もそれぞれの雑誌でかなり違っていて私は花とゆめ系の絵が好きだった 特に星野架名の絵が好きだった
なんとなく子供心に「王道」に通ずる要素を好きになれなくて毛嫌いしていたところもあったと今となっては思うけど
アニメになるとなんでだか普通に見ていた アニメになると何かが急にキャッチーになって受け取りやすくなる気がする
そんな感じで全体的に好みじゃないな~と当時思っていた作品でも
こんなに懐かしくてこんなに愛しい気持ちになるのがなんだかふしぎだし面白い
単に懐古や感傷だけじゃなくて色んな作品のそれぞれの魅力が今やっとわかるようになったのかなという気がする
「花とゆめ」や「ぶ~け」作品はりぼんよりは対象年齢が高かったのかあまりアニメにはならなかった印象
少女にとっての「りぼん」は少年にとっての「少年ジャンプ」のような王道の立ち位置の雑誌だったのだと思うけど
それにしてもたまに岡田あーみんとか彩花みんとか破天荒な作家も堂々掲載している結構ヘンな雑誌だ
でも「ジャンプ」にもうすた京介とか漫☆画太郎とかいることを思えば別におかしくはないのか
ちょうど鏡写しのようではないだろうかと最近思う アニメ化される頻度の高さという点に置いても
姫ちゃんのリボン、当時のおぼろげな記憶の中で唯一鮮明に残ってるのが
主人公のライバル?役ともいえる高飛車でエキセントリックな少女日比野ひかるの事である
茶色いくるくる髪にヘアバンドの女の子で空気読めない意地悪な女の子だけどかわいくてなんだか好きで
今見てもやっぱりかわいい女の子じゃんってなる 昔っからライバル役の女の子の方をすごく好きになってしまう
子どもの頃「らんま」も見ていてシャンプー!なんてかわいいんだろう!!!って思っていた
今でもラブコメに出てくる女の子の造形でいちばんかわいいのはシャンプーだなって思ってる 声も動作も服も全部かわいい
もう何度目だよという再々再々再々再放送くらいのものを見て「らんま」だとうっちゃんもかわいいしなびきは昔から大好きだし
とにかく気の強そうな暗い髪色の女の子が好きなんだな~というどうでもいい好みを発見したりするのだが
小太刀は前髪も好きじゃないし性格も嫌いだったんだけど今見たら か か かわいいじゃねえかよ~~ってなってしまって
アニメのだいぶ空気読めない性格に難のある(と設定されている)女の子ってなんだかわからない普遍的な魅力があるなと思った
そんな感じで日々野ひかるもやっぱりかわいいなーと思いながら懐かしいアニメを見ている 時々名状しがたく泣きたい気分になる
そして90年代のアニメを見ているとファッションのトレンドが今の感覚に近いというか
今のファッションが90年代のトレンドを模しているのかなという感じなのでキャラクターが着ている服が普通にかわいい
過去のものを大人になってから見るとあれこれ楽しいフックがあってというか見る側の自分の方にできていて
はー姫ちゃんもかわいい 当時リボンを模したグッズとかも発売されてたのかな こういうのリアルタイムで買ってみたかった
裸眼で鏡を見ると目と鼻の穴がぼんやりあることくらいしか分からんくらいの近視
この間コンタクトを処方してもらった。幼少のみぎりにメガネを与えられてからというもの20年ぶりくらいに素顔と対面
俺の本来の顔ってこんな感じなんだな……
本提出はした。副査の先生に査読もしてもらい貴重なご助言も賜った。
追加実験して、足りないデータを足して差し替えた後、スライド作って発表するだけ。
だけど、ここで何故か気持ちが無理になった。
モチベが出てこない。追加実験はやっているけれど一向に進まない。
ADHDのケがあると言われたら多分そうだと思うし、無気力性とか集中力のなさとかに関係してくると思う。
ただ「修論も出し終わったから週の進捗報告会も復活させます」と上からのお達しが出ていて。
データを取りつつ前にも進まなければいけない地獄、しかもこれが三月末まで続くとなると改めて絶望しか生まれない。
やらなきゃいけないのに、やる気が基底状態から動かないのでまずい。
本提出前にホイホイやってた二徹三徹が出来なくなった。
一日中眠気に襲われるようになり、視界が半分くらいボヤけて見えるようになった。
追加でやってる部分、あわよくば発表時に出そうと思っている部分の進捗が芳しくない。
一日十何時間実験やってて、半分泊まり込みでやっててもダメだ。
その割に本気で死のうと思う自分もいないし、かといって死ぬ気でやろうと思う自分もいない。
この前の東北大学の自殺した学生とはまた違うけれど、いつ死んでもいいと思いが過ぎる。
それくらい目の前に茫漠な死が突きつけられている気がする。
支離滅裂だし、甘えだし、ここに吐き出す暇があるならさっさとなんかやれと言われるけれど。
なんか、ぼんやりとした無理に囲まれている。そんな感覚が続いている。
誰か、助けてくれ。
食品業界の片隅にいる僕が「飲食店アルバイト不適切動画」問題について全部話す。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/13/070000
仕事が無いから暇なんじゃなくて、そこかしこに転がっている仕事を見ないようにしているだけだと、私は同僚達の働きぶりを見て思った。
何にも仕事なーい、と言って相方が売り場で突っ立ってぼんやりしている横を通り過ぎてトイレに入ったら、便器の周囲が小便でひたひたになっていた、なんて事がよくありすぎる。
久しぶりに夢を見た。
とりあえず時刻の確認と連絡をするために、スマホを探すが、どうにも身体がおかしい。
寝惚けているというか、完全に身体が起きていないらしく、頭からの命令をあまり受け付けていない感じ。
手を下敷きにして寝ると、起きた時に手が動かなくなってることあるけれど、それの全身バージョンと例えるのが近いか。
まあそんな状態で頭も少しぼんやりしてたけど、近くにあった物干しスタンドに掴まりながら周囲を探す。
丁度アラーム音を鳴らしたスマホを見ると、時刻は8時29分。ああこりゃやばいな。
……というところで目が覚めた。
スマホは普通に手元にあったし、支度を加味しても悠々と間に合う時間。なんならアラームの鳴る前に起きた。
よく考えればアラーム音が一つ前に使っていたスマホのものだったし、物干しスタンドには畳んだはずのタオルがあったりと変といえば変だった。
しかしここまで現実に即した夢を見て、なおかつ記憶まで明瞭なのは初めてだと思う。
自分の格好から部屋の内装、果てはスマホのカバーや待ち受けまで同じだったのだから。
普段から夢見が悪いことを鑑みれば、もう二度とこれを超える臨場感のある夢を見ることはないのかもしれない。
その貴重な夢が遅刻する夢だったのは、まあ、なんともはや。
友人に誘われ、友人の友人である頭のいい人たち(初対面)とチームを組み、謎に挑むこととなった。
チームとしては惜しいところまで行ったが個人的には惨敗。けして楽しくないということはなかったが、楽しさより悔しさが残ってしまった。
ゲーム開始後よくわからないままオロオロしているうちに連携して手際よく問題を解いていく面々。自分が1,2問解く間にチームメンバーの回答がみるみる埋まっていく。
制限時間が短く、分担して解いていかなければいけない中で全くの戦力外のままただ後ろをついていくだけの醜態をさらし続けてしまう。恥ずかしい。つらい。
中盤、後半の問題でも前半の内容や解き方を応用する場面が多々あり、前提のパターンが頭に入っていないため益々遅れをとってしまう。
最終局面が近づき、優秀な彼らが謎とにらみ合う中、戦力外の自分はいつしか思考を放棄していた。
誰か早く答えを教えてくれないかな、と考えるふりをしつつぼんやりしていた。彼らに解けないなら、自分に解けるわけがないと。
結局メンバーで一番賢い人が見事答えにたどり着き、それでもすべてを解くには時間が足りなかった。皆は悔しそうだったが私は終始ぼんやりしていただけだったので、悔しさもぼんやりとしていた。
初対面だった優しい人たちはまた遊びましょうと言ってくれた。友人も特に自分の能力の低さを揶揄するでも責めるでもなく、謎解きとは関係のない他愛ない話をして、散会した。
帰宅してから、なんともいえない気持ちになって、かなり時間が経ってもまだ引き摺ってしまっているのでこんな文章を書いている。
解けなかったことよりなにより、思考停止してしまったことが一番悔しい。
回答を見てからなら何とでも言えるけれど、もう少し問題をよくみて、整理して考えようとしていたら、解けたかもしれなかった。むろん解けなかった可能性のほうが高いが。
謎解きに限らず、いつもそうだ。考えること自体は嫌いじゃないはずなのに、ちょっと順調にいかないとすぐに考えるのをやめてしまう。
謎解き自体は好きなのでまた機会があればやってみたいが、今のまま行くとまた戦力外になってしまいそうだ。
言い訳にしかならないがすべての問題が全く解けないわけでなく、ただ相対的に遅く、また初動でもたつき、そこに焦りなどが加わり処理能力が落ち続けて停止してしまう。
寝たふりには気づいていないと思う。
触ってきた途中でぼんやり目が覚めるんだけど、目は絶対に開けない。
意地でも目を開けないぞ!という気分になってきてしまう。
それで、彼は良いころあいになると挿入する。
「んん・・・」とか言って起きたフリをすることもあれば、
彼はスリルを楽しんでる。そして私も寝たフリがばれないかスリルを楽しんでる。
ウィンウィン最高。
子犬のおもちゃで、リードひもがスイッチになってるようで 握ると歩き出す
知人は物静かなタイプであまり多くを話さないのは理解しているが
いいおもちゃだね、親戚の子に買ってやったら と声をかけたら 親戚の子はもう皆大きいから、と返ってきた
お互いにいい年ではあるので、子供の遊ぶ風景を微笑ましく眺めたり、そういった風景に憧れがあったりする のは分かるけど
周囲はそうは見ないよな、と自覚した瞬間だった
子供がおもちゃで遊んでるね、かわいいね〜くらい言葉に出せば 連れ(自分)もいることだし、そこまで変な雰囲気にならないと思う
まず断っておくと、自分はめちゃくちゃVtuberという存在が嫌いだ。
中身おじさんなのを知りながら男が(同性愛としてではなく)ガチ恋だとかエロいだとかと言っているのを見ると身の毛もよだつ思いだったし、いわゆる普通の生身のYoutuberを小馬鹿にしてたくらいの層の人間が、Vtuberのことは嬉々として喋るようになったのを嫌と言うほど見てもやっとした気分になっていた。
いくつか有名どころの動画を見たことあるけど、結局普通のYoutuberと内容に大きく差があるわけでなし、むしろ内輪感みたいなのがより強いように感じて、中身がないだの信者が気持ち悪いだの生身のYoutuberに浴びせられていた批判は、こっちにも浴びせられてしかるべきなんじゃないかとずっと感じていた。言葉を選ばなければ、結局こいつら絵が付いてないとブヒれなくて、自分がブヒれないのに世間で話題になるコンテンツは無条件で叩くってだけだったんだな―と思ってた。
けど、今はすっかり下火とはいえ、Vtuberはアンチの自分から見ても相当流行りに流行った。評判がよろしくないらしいけどアニメが今やって(もうやってない?まだやってる?)たり、NHKのニュースにまで出るようになっているらしい。テレビで取り上げられたのは近未来感があって面白い試みだから…とかいろいろ理由があるにせよ、オタク趣味持ってる人間でVtuberのこと全く知らないというのは、深夜アニメを一切見ない人種と同じくらい少数派になっているように感じた。
自分は萌え系のコンテンツに積極的にハマりに行くタイプではなかったが、オタク趣味全般はある程度知識の「守備範囲」に入っているというつもりで、自分の気持ちと一致するかは別としてmその辺のジャンルの何が受けているのか、ファンはどういう気持ちでそれを見ているのかをある程度理解できるつもりだった。
だからこそ、ここまで自分にとって受け入れられない、楽しんでるヤツの神経がわからないコンテンツが自分の守備範囲から世の中に肯定的に取り上げられていくというのは個人的に初めての経験で、ハンドル含め名前の出るところでは「詳しくないけど面白そうと思っている」くらいのスタンスを演じつつ、匿名掲示板で死ぬほどくさしたりしていた。(増田には書いてなかった)
ただけっこう過激派アンチだと思う自分でも、Vtuberのみんながみんなを毛嫌いしているわけではなく、どうやら自分の中に「これはまあ許せる」という基準があるようだった。一言でいえば、「自分の知識や技能を発信するときに、生身とか解説動画でやるより多くの人に見てもらえそうだから」という感じでVtuber活動をしている人たちには、あまり嫌悪感がないのだ。○○〇〇学という素人にはちょっと気乗りしたい分野の知識をシリーズ動画で話しているVtuberを知っているが、この人は中身はおそらくおじさん(たぶん学者さん?)で、お嬢様風の萌え萌え女の子アバターを使って活動しているのだけれど、これは自分の勝手な基準の中で「許せる」。
逆に中身とアバターの性別や属性が一致している(若い女の子が中身の人とか、アバターが別にイケメンでもない男だったりとか)としても、自分は大半に対してさぶいぼが出るほどの嫌悪感を抱く。女体化だのおじさんがかわいい女の子の振りをすることだのに抵抗があるわけではないということだ。じゃあ自分はVtuberの何が嫌いなのかというのをこっから吐き出すとともに、「でも、お前らだってそうだったはずじゃん!」と駄々をこねたいというのがこの投稿の主な目的だ。
一言でいうと、つまり自分は、「キャラなりきり」というものをものすごく気持ち悪く感じるのだ。
基本的にVtuberは自作のキャラになりきって、そのキャラを演じて動画を作るから、ここが嫌いではそりゃ大半はどうしようもない。そもそも自分には絶望的に合わないコンテンツだったのだ、と自己分析としてはすんなり納得がいっているのだが、その中でも「許せる/許せない」が出るのはどういうわけか。
これは、「許せる」側の投稿者は、キャラなりきりをあくまで情報発信のための都合がいい手段としてとらえている(ように自分には見える)ということが要因なのだと思う。町おこしのためにゆるキャラが考えられ、中の人が着ぐるみになりきって活動していたとしても全く嫌悪感はないわけで、Vtuberの中でもそちら側のタイプっぽい人は全然許せる、という心情をどうも自分は持っているらしい。
反対に許せないタイプのVtuberは、どこからどう見てもキャラになりきることが目的の人たちだ。別に誰にも迷惑をかけていないのだから自分が許さない道理はないのだが、どんなに友人におすすめされても、こういう人たちは全く好きになれる気がしなかった。なまじ設定が凝っていたりすると余計ダメで、その設定を持ち出して動画の中で一笑い起こそうとしているのを見たりすると、もう半日くらいおなかを壊すくらいにどうしても受け入れられなかった。
この「なりきり」への嫌悪が自分の中で醸成された過程は正直定かではない。ぶっちゃけ、自分が人並外れてこのジャンルへの嫌悪感が強いとは全く考えていなかった。嫌悪感に今まで気づかなかったという意味ではなくて、みんなこれぐらい嫌っている(忌避している)ものだとばかり思っていたのだ。
SNSだのが登場する以前、ネット上のコミュニケーションがBBSやらチャットだった頃、普通に自分のハンドルで雑談するコミュニティのすぐそばに、「なりきりチャット」やら「夢BBS」やらがあるのは目にした覚えがある。なんなら覗いてみたこともあるかもしれない。でも、そこでやっていることが楽しそうだとはどうにも思えなかった。多分、初めてその存在を認識した時から、なんとなくそういう趣味は普通の雑談よりもキモチワルイものだと感じていたのだと思う。
SNSが、とりわけミニブログ系のやつが登場して以降、「キャラクターなりきり垢」みたいなものもたまに目にした覚えがある。テニスの上手い〇部とか不〇とかになりきって会話してるやつ。ああいうのも存在は知っていたが、やっぱり気持ち悪いやつらがやっていることだと認識していた。ジャニーズの夢メール画像だとかと同じジャンルのものとして。テーマに沿った、あるいは沿っていない雑談をする中でも、かなりヤバい奴が集まっているテーマというか、あまり直視したくない「ネットの闇」の方のコンテンツだと思っていた。
ましてや、オリキャラのそれなんて、もっと見たくないものというか、あけっぴろげに言えば思いっきり見下していたジャンルだった。
そもそも素人がオリキャラ作ってそれをみんなに見せて…という行動自体、メアリースーだの、オリジナルSSだので割と見下されることの多い趣味だったように思う。その上、それ自体も怖いコンテンツであるキャラなりきり。このような趣味は、もうネットの恥部と恥部の重なりの部分、見下す云々以前にどんな奴がやってるんだかむしろ怖いもの見たさで知りたいくらいの闇ではなかったか。
そして正直なところ、自分のここまでの認識がそこまで一般ライトオタクとずれていたというつもりはない。Vtuber流行以前なら、キャラなりきりに対するスタンスを聞いてみれば、結構な人が(程度の差はあれ)同じような答えだったのではないかと思う。
ぶっちゃけ、オリキャラ作って他人に見せて…のほうは、「その中でも認められて素人でなくなった人はいる」という所を指摘されるとどうにも反論できない。が、そういう風に羽ばたいていった人たちに備わっていた力量みたいなものが今流行っているVtuberにあるとは思えない。そもそもそういう人たちの創作は内輪ネタみたいなものと無縁な気がする。反論しきれていないというのは重々承知だが、「なりきりではあるがオリキャラだからVtuberは流行れた」ということにはならないのではないかと思う。
というかぶっちゃけ、「オリキャラなりきり動画投稿者」と呼んだ時、ほとんどの人は何かおぞましい、自分が上で言っているようなネットの闇っぽいものを連想しないだろうか?以前似たようなアンケートを匿名の場でとったことがあるが、大体のオタクはこれをVtuberのことだとは思わず、ゆっくりで茶番劇をやるようなのだとか、一人で必死に声色を使い分けてヴォイスドラマを録ってるようなヤバいの(そんなのがあるらしい)だとかを連想していた。
でもVtuberって要するに「オリキャラなりきり動画投稿者」だよね?これ以上の要素も特に含まず、過剰に誇張している部分も特にないと思う。意味を端的に表そうとすれば相違なくこうなるのではないだろうか。
だからこそ、自分にはなぜこのおぞましいジャンルが流行し、多くのオタクに受け入れられたのかが分からない。たとえ最盛期のVtuberファンの半分が「みんなが見てるから」でファンになったのだとしても、もう半分はこのネットの闇を好意的に捉えたということになる。一体それはどうしてなのだろうか。
Vtuber好きが集まるところでこんなことを言えば荒らし扱いで無視されるだろうし、同じアンチ同士で話しても「最初は工作でそれに流された奴がファンになった」だの「あいつらはシコれればなんでもいいだけだから」だのいまいちピリッとした答えをもらえないでいる。
多分自分の認識のどこかにずれがあるからこうなったのだと思う。それがどこなのか、誰かに教えてほしいのだ。
追伸
反応を見て、だいたい「Vtuberはオリキャラなりきり的なコンテンツではなくて、単に中身本人の人格のままアバターを被せただけのものである」や、「TRPGやPBWのように、素人のオリキャラなりきり自体言うほど忌避されるものではない」というあたりが自分の勘違いだったのかなと感じている。
前者の方はかなり納得していて、要するに自分の「許せる」基準に合わせて言えば、Youtuberとして自分自身を発信していきたい人間が、生身の自分よりも多くの人に親しみを持ってもらいやすいと考えてアバターを使ったということなのだろうと思った。アンチの中にはこういう捉え方をした上で「○○とか○○は単なるYoutuberワナビーが売れるためにアバター被ってるだけじゃん」みたいな嫌い方をする人もいるかもしれないが、自分自身としてはそうであってもいいんじゃないかと感じるし、ファンになれるかは別として、こういう方針で活動をしている人なら別にサブイボが出るほど嫌いにはならないと感じている。
後者の方は確かにオリキャラなりきり系コンテンツの中でもまあまあ高尚(というか多少カッコが付くくらいの意味)な趣味もあったなあ、と感じたのだけれど、TRPGやらPBWはあくまで本人が楽しいコンテンツであって、誰かが作ったオリキャラの情報発信をファンが楽しむ、みたいな構図はあまりなかったように思う。人生で数回やったことがある程度の知識しかないので、この辺の認識違いがあればまた指摘してもらいたい。
VNIに関しては、正直自分の頭からVtuberと同ジャンルのものだというイメージが全然抜けていて、指摘されて自分でびっくりした。構図的にはかなりそっくりなものなのに、なんで抜けていたのだろう。(これ自体広く受け入れられたかというか、ネットの闇扱いされていなかったかはこの際考えないでおく。)
多分、VNIはあくまで受け手側の気持ちとして見ていたので、「オリキャラなりきり」と自分は捉えていなかったのではないかと思う。Vtuberは、ネット上の知り合いが何人もなっていったりして、中身の人間、つまり発信する側が自分の視野の中に入っていたせいで、そういうものとして見ることになったのかもしれない。
流行った理由の考察としては、もともとゲーム実況が好きになる素養のあった人が、可愛い女の子のアバターに惹かれて見に行ってファンになったというのがとても自分でしっくりきた。というか以前から何となくそういう推測は自分の中にもぼんやりあった気がするのだけれど、「それでもあのオリキャラなりきりっていうコンテンツへの拒否感が普通は勝たないか!?」と考えてそれを流行った理由として捉えられていなかったのだと思う。その拒否感の方が自分の勘違いだったと分かってしまえば、すんなりと腑に落ちる。
自分としては、今挙げたような内容が自分の勘違いのせいで認識のずれが生じ、世間で受け入れられたものを自分は許せない、という状況が生まれたということである程度納得している。だからと言ってたぶん好きにはなれない(これは完全に個人的な好みとして嫌いなタイプの文化が界隈にあるから)のだけれど、多くの人に受け入れられて流行った理由も、ファンの心理もとりあえずは理解できたように感じている。
もしこれらの他にも自分の認識の違いがあったり、あるいはまったく的外れなことを言っていたりするようならば、また指摘してもらいたいと思う。よろしくおねがいします。
風疹の予防接種の厚生労働省の作ったポスターがシティーハンターしていて、
とか言ってみたりして。
ゲットワイルド始めましたって季節麺メニューの如く貼ってあるし、
まあそれはともかく、
なんか物書きしたいのよね。
都合良くお風呂で使える、
打ちやすいブルートースの防水キーボードがないかしら?と探してみたけど
なんかへにゃへにゃなのしかなくて、
しっかり打ち込めるものがなくて残念だわ。
何かやりながらだと、
最近はどんなに遅く帰っても
なんかぼんやりしてて歩いてたら、
買い損ねちゃって、
お昼ガッツリ生きたいところね。
炭水化物を控えてると何か食欲が急に爆発したりしない?
なんて。
久しぶりにキウイ使ってみました。
彩りがトロピカルです。
あと赤があればいいわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
タイムラインにこのツイートが出てきて、子供の頃のことを思い出した。
https://twitter.com/scissors_nagasa/status/1091335900817063936
中学1年か2年のときの英語の授業で、「自分の名前の由来を親に聞いてきて、次の授業のときにで英語で説明しなさい」という宿題が出た。
私は親に虐待というほどのなにかを受けていたわけではないけれど、うまい関係は築けていなかった。
暗澹たる気持ちで一応母親に由来を聞いてみたところ、返って来た答えは「あるわけねぇだろ馬鹿野郎!!!!!」だった。
その直前まで何も怒っておらず落ち着いていたように見えたのに、突然激昂した。まあでもこれはいつものことだった。
私はこの激昂のスイッチがわからず、かといって息を潜めて生きるのもうまくできなくて、ずっと苦しかった覚えしかない。
翌日の英語の授業は宿題の答え合わせがないまま残り15分になった。
私は授業開始時点では当てられたらどうしようとかなり焦っていたが、このときにはもう完全に安心していた。
ところが突然先生が「では昨日の宿題の答え合わせをしましょう」と言い出して、あろうことか私をピンポイントで当ててきた。
「さあ、説明してください。あなたの名前の由来はなんですか?」
起立したけど何も言えなくて、でも何か言わなきゃいけなくて、喉の奥がひくつくのを感じながら一言「nothing」と言った。
先生は目をまんまるに見開いて(普段からやたら動作も表情も大げさな先生だった)、「ないってどういうこと?なにかあるでしょ?」と詰め寄ってきた。
教壇から降りてこちらまで歩いてくる先生。静まり返っている教室。コツコツという靴の音だけが響いていた。
なにか言わなきゃ、でも何も言えることなんていない。
「さあ、教えて。あなたの名前の由来は?」やたら顔を近づけて聞いてくる。近いのはやめてほしかった。
「I cannot hear anything」こんな感じのことを絞り出した気がする。
「じゃあいいわ。あなたの名前の漢字を説明して」先生は一応逃げ道をくれた。
しかし自分の名前は全部ひらがなだったので私はそれを使って逃げることはできなかった。
長い間うちのクラスを教えておきながらこの人は私の名前も知らないんだな、とぼんやり思った。
「早く答えて。みんなの迷惑になるでしょ?」先生がまた顔を近づけてくる。
「I don't have kanji characters in my name」とか言った気がする。クラスのみんなはまだ静まり返っている。
もともと授業中は静かなクラスだったけど、空気が緊張しきっていた。
「えええ??仕方ないわねえ。じゃあ由来を言って。早く。みんなの迷惑でしょ」迫る先生。
なにかいいたい。何も言えない。時計の針はまだあと10分以上残り時間があることを示している。
はやく、はやく、チャイム鳴って、はやく。
このあと私は学校でトイレに閉じこもって大泣きした。2時間ぐらい出てこれなかった気がする。
元のツイートに戻って、こんな思いをするような子供がいることがわからないならまだ仕方がない。教育者には知っていてほしいけど。
刀の映画を見に行った。
2回目。
1回目からずっと感じてたけど、あんまり口にすることでも文章にすることでもないかなと思って蓋をしてたけど、どうにもしんどいので吐き出してしまうことにする。
書いてスッキリしたいだけ。
なんだけど、誰かに知ってほしい気持ちもあるらしくて匿名ツールを引っ張り出してきた。
映画を見た人間のぼやきなので映画鑑賞済みであることを想定して書きます。
***
自分に正直に言うと、
「正しい歴史のために正しく死なねばならない」
と言われた信長のことを、少し羨ましいと思った。
まだまだ完結するまで死ねないと思っている作品も多いしオタクとして生きてて今が楽しくないわけでもない。
楽しいと感じている時、発している時、私は確かにその瞬間「楽しい」と心の底から思っている。
なんだけど、それに反するように、死にたいと、心のどこかでずっと感じている。
「生きることで発生する日々の煩わしさ」と、「死ぬ瞬間に生じる種々の煩わしさ」を天秤にかけて、ただ「現状維持」だけを選択しているような感じ。
変わることが面倒くさい。
だけど生きていることも面倒くさい。
なんなら今、「歴史のために」と言う大義名分を掲げてこの命を終わりにしたい。
「正しい歴史のために」
「正しく死なねばならない」
人の生死に正誤などあるのかと感じもするが、私の命が正しい歴史のために摘み取られるのであれば私は喜んでこの命を差し出したい。
彼の死には意味があった。
それ以上に、彼はそこで歩みを止めることを許された。
私も許されたい。
「生きる」ことを「辞める」ことを許されたい。
生きた時代が違うから、信長のその選択は私が望むそれとは全く別のものなんだけれど。
信長は歩みを止める気なんてなかったと思うんだけど。
それでも、今生きていることが間違いだと言われて、あぁそうなんだ、やっぱり生きてることは間違いだったんだ、って、私は納得できる。
別に誰に何を言われたわけではないけれど。ただの現実逃避だってだけかもしれないけど。
それでも、羨ましいと感じてしまった。