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2011-09-10

鉢呂氏発言「死の町」

鉢呂氏発言についていろいろ思うことがあり筆をとります。

今日新聞テレビなどメディアで鉢呂氏が福島県「死の町」と発言し首相が不穏当な発言と非難し引責辞任をしたと報道された。

僕のツイッターTLでもおおむねその意見同調する方が多く思えた。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201109100180.html

引用) 鉢呂氏は8日、首相とともに原発周辺地域を視察。翌9日の記者会見で「残念ながら周辺市町村市街地は人っ子一人いない『死の町』だった」と発言した。


確かに「死の町」という言葉ショッキングだ。

しかし、間違っているんだろうか?

僕が登山家 野口健氏が福島原発周辺を取材したブログを見たときの印象は、どちらかというと鉢呂氏の「死の町」との表現に近いものだった。

野口健ブログ http://blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/52166029.html

それまで生活があった町から人が消え、今後何十年にもわたって住めなくなってしまった。チェルノブイリのように健康への懸念もある。

ゴーストタウンになった町をその目で見て、これからも住めないと思うと「死の町」という表現を使ってしまうのもわかる。


引用)鉢呂氏は福島第1原発事故を受けたエネルギー政策の見直しを所管しており、事故対応政権の最優先課題に掲げる野田首相は早急な態勢立て直しを迫られる。停止中の原発再稼働をめぐる地元自治体との協議にも影響を与えそうだ。

そしてこれだ。

鉢呂氏は経済産業相で、エネルギー政策の見直しを所管していた。

その人物が実際に福島の現状を見てその絶望的状態を認めたともとれる発言をした。

それに対して首相が「不穏当」と言ったのであれば?

まったく意味が変わってくる。


もし鉢呂氏が原発について絶望的な状態を認めたとしたら、今後のエネルギー政策は大きく変わる。少なくとも原発推進を進めることはしないだろう。

これは脱原発を望む世論に沿ったことなんじゃないだろうか?

それに首相は「不穏当」と言った。


引用)また視察後の8日夜、都内で報道陣の一人に防災服をすりつけるしぐさをし、「放射能うつす」という趣旨の発言をしていたことも分かった。

これにしたってツイッターから情報で真偽は今の僕にはわからないが

記者の発言への抗議との情報もある。

ツイッター発言より引用

鉢呂発言。記者が「福島放射能ついたままですか?」と質問して、それに対して抗議した大臣が、「それがどうしたんだ?放射能つけてやろうか?」と怒ったという話がある。もしそうならば、記者差別発言で、鉢呂さんは、それに抗議したということになる。

本当に糾弾するべきは鉢呂氏だったんだろうか?

本当は野田首相こそ糾弾するべきでは?

そして

もっとも糾弾されなければいけないのはショッキング言葉を捕まえ、その発言の真意を深く追求することなくスキャンダラス報道するマスコミではないだろうか?それをそのままうのみにする我々国民ではないだろうか?

こんなもの自民党時代の「漢字が読めない」「夜はバー」などと政策と関わらないところであげ足をとる報道と一緒だ。

ツイッターでは震災以降、いや尖閣以降政府マスコミによる隠ぺいだの情報操作だのに対する怒りが多く聞かれる。

でもこれだってマスコミによる情報操作じゃないのか?

それをそれを喜んで享受し一緒になって叩いてるんじゃないのか?

ふざけるな!

2010-02-19

http://anond.hatelabo.jp/20100219161201

服は着替えてるし、洗濯もしてるし、お天道様に責められる筋合いは無いけど。

天網恢恢疎にして漏らさず』ってことわざもあるからね。普段からお天道様に顔向け出来るような服装/行動は心掛けておいて間違いないんじゃないかな?

監視されてる可能性が高くても冷静に答えてる理由がわからないんですか(笑)

それは俺を叩きまくってるような人達に言えと。

スキャンダルに固執する彼らこそ、監視したらスキャンダラスな要素がたくさん出てくるでしょう。

2009-06-22

http://anond.hatelabo.jp/20090622203552

文才、ねえ・・・

スキャンダラスだから人が飛びついたというか

「実話」の力が大きかったと思うけどな

あれを初めから「小説です」と言われて面白いと思った人がどれだけいるかな

だからこういうサイトで「実話」と偽って出すのは卑怯なんだよな

まあ読者もなれてきたからそう飛びつかなくなったけど

2008-12-28

カブトボーグベスト10

あいかわらずイカれてる

だがそこがいい

10位:ロイドさんの過去(第12話 過ぎ去りし日 チャコールグレイフォルクローレ)

9位:ベネチアン初登場(第7話 涙の素パスタオーバー・ザ・レインボー)

8位:勝治のおじいちゃん(第8話 鎮魂歌リビングレジェンド・グッド・ナイト)

7位:リュウセイ暴走(第24話 試練!ワンダー・ミラクルハート)

6位:マンソン(第41話 裏切りの序曲!ノイズ・アンド・ファンタスティックハーモニー)

5位:勝治ネ申回(第31話 王様は絶対!スキャンダラスマジェスティックエゴイズム)

4位:飛行機(第39話 墜落!?エアボーグナインナイン)

3位:地下バトル(第29話 危険地帯!ダークバトル・ソルジャーズ)

2位:G(第14話 敗北、そして崩壊…ロストワールドエンドロール)

1位:最終回(第1話 親父越え! 勇気ライジングプロミネンス)

2008-03-01

http://anond.hatelabo.jp/20080301231417

慎重にしたい理由は、こういうスキャンダラスで、しかも事実関係がわからない事件については噂がわっと一人歩きするのではないかと危惧を抱いているから。ついつい憶測で話をしたくなるし、他の話題では気づかない間にやってしまうこともありがちだけど。それにはまると歯止めが利かないので、言ってみた。

2007-11-02

何故ニコニコ動画は「きもい」のか

 ニコニコ動画に対して「きもい」と仰る方々の数が増えています。以前は西洋日本の顔の差に関する単純な文化的な差異が原因かと思ってましたが、理由はもっと深いところにあるようです。


 ニコニコ動画で「嫌だ」とか「きもい」と言われて来た内容は当初、以下の文脈で説明されていました。

  ニコニコ動画ユーザー・・・・二次元オタク


 この問題は参加者の多くの女性達から指摘され、「日本的なリカチャン顔」風に初音ミク押し出すことによって殆ど解決しました。

 でもニコニコ動画が「きもい」と言う批判の内容はそれだけでは無く、初音ミクを好むDTM業界でも出ています。

 そこでどうもおたく初音ミクの文化差異論だけでは浅い理解と考えられる為、真面目に検討することにしました。


 ニコニコ動画「きもい」論は最初、IT系の人々からのものが多かったのですが、最近は一般の人々(参加者の夫や妻まで)から「ニコ動はきもい」と言う言い方をされていると言う話を良く聞くからです。

  「おたくなんてきもい・・・まるで牡丹灯篭の怖い話のように彼氏彼女をさらって行く・・・」 これ、まことしやかですよね。うーん困ったもんです。全く。


 さて哲学者ミッシェルフーコーは「物と言葉」の中で建物や言葉の持つ「表象イメージ」の研究を行ない、「表象イメージ」は時代によって移り変わると言いました。

例えばパリエッフェル塔は登場した時、「グロテスクな鉄の塊」「スキャンダル」=きもい!!と騒がれました。画家マネも「草の上の昼食」に始まる一連の絵も「スキャンダラス」=きもいと言われました。鉄道フランスで・・・・「怖い鉄の塊」=きもいと表現されました。

  判り易く言えば時代が大きく変わる時には、社会規範や人々の美意識が大きく変わると申せましょう。

  だから古い一般常識や美意識に囚われている人々から見ればニコニコ動画に「何か異様な・・・」と言う印象を持つ人々の方が普通だとも考えられます。

 でも今ではエッフェル塔東京タワーもマネの絵も鉄道市民に親しみをこめられて眺められています。時代による規範の変化、美意識の変化とはそんなものです。面白いですね。

 江戸末期にフランス軍服を着た最後の将軍徳川慶喜さんなどはさぞや「きもい」と一部から批判されたことでしょう。でも明治になれば当たり前の感覚になった訳です。

 ニコニコ動画=「きもい論」は何か廃刀例が出た時の明治初期の武士の怒りに似ているような気がします。まあYouTubeの新しい著作権の考え方もJASRACを含む音楽レーベルの「怒り!!」と「きもい、非常識だ!!」と言った批判で迎えられた訳ですが。

 ニコニコ動画が「きもい」とかセカンドライフが「きもい」とは「ニコニコ動画セカンドライフ社会を変える何か」と言う時代のシグナルでもあります。


やっぱりニコニコ動画は既存のネット参加者の美意識社会規範感覚に手を触れ、怒らせる怖いものなんですね。昔のインターネット批判と同じですよ、これは。


 それにしても10月初のサンノゼのVIRUAL WORLD 2007の会議は面白かったです。グーグルセカンドライフにIBMやソニーまで含んだアバターなどの標準化、オープンソース化の協議会設立が決まったし、動きは早いです。

2007-09-21

キャラクターズ」のどこがキャラクター小説なの?

 東浩紀桜坂洋の「キャラクターズ」(新潮10月号掲載)を読んだ。論壇へのスキャンダラスな興味で読むぶんには面白いのだけれど、宣言した「キャラクター小説」としては失敗だと思う。文芸誌に載るキャラクター小説とはいかなるものか、そこにしか興味はなかった。オタク哲学者ラノベ作家の共作ということで期待したのだが、残念ながら期待は裏切られた。これはキャラクター小説ではない。この作品のどこら辺がキャラクター小説だと考えているんだろうか。私小説が「この作品の私は作者としての私ではありません」と説明することと何が違うというのか。東浩紀の虚構話を書くこととキャラクターとしての東浩紀を書くことは違うのだ。この作品には標題に反してキャラクターなんて一人も描かれてはいない。

 100歩譲って、この作品の登場人物キャラクターである、という説明を受け入れたとしよう。それでもこの作品はキャラクター小説としては駄作だと思う。簡単な話だ。この作品の登場人物はどれもキャラが立っていないじゃないか。例えば作品の中では東浩紀東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iの3人に非現実的に分裂する。この3人は向かうあう問題と行動が異なるだけで、いつでも他の東浩紀と交換可能であり別の性質的な差異は感じられない。つまりキャラが立っていない。北田暁大にしても香山リカにしてもその他の人物にしても、凶行の被害者に実在する人物の名前を与えただけではないか。これもキャラが立っていない。

 キャラクターとは本来、記号的で類型的なものである。また、実在する何かを写し取ったものではなく虚構の世界に独立して存在するものだ。漫画ネズミを登場させることとミッキーマウスを書くことは違う。前者は実在するネズミと対応させることができるが、後者に実在を求めることはできない。

 そもそもキャラクターとしての「私」は可能なのだろうか。しばしば現実の世界では「キャラを演じる」「キャラが被る」という言葉が使われるように、私とキャラクターの問題は「私」と他者との関係における記号的類型的な役割の問題である。文章の大半を「私」の愚直な内省独白が占めるこの作品はこの点においても私小説の延長線上にある単なる「私」の虚構話であり、キャラクター小説であるとは言い難い。

 桜坂洋文学に媚びたりせずにラノベの流儀を貫くべきだった。この作品を書くにあたっては東の自分語りに流されず、ラノベを書く時のように、キャラクターの造形からしっかりおこなって欲しかった。論壇やオタクが東に求める役割=キャラクターは最大限に利用または逆用するべきだし、キモオタロリコンガリ勉という類型化された属性ももっと強調したっていい。例えば男性登場人物全員になんらかの腐女子好み属性を割り当て東×鈴木、柄谷×桜坂…手当たり次第にヤリまくったほうが朝日新聞社を爆破するよりもまだ破壊力があるというものだ。この小説は「私」に対して愚直すぎる。

 あるいは東は桜坂よりもイラストレータと組むべきだったのかもしれない。そして二次創作や便乗グッズ販売が生まれるくらいのクオリティで東をはじめとするキャラクターを作ってみれば面白い。そんな魅力的なキャラ絵を含む小説新潮に載ったら痛快ではないか。それで掲載を拒否されてたら新潮社と徹底的に戦え。それこそラノベ文学との戦いそのものじゃないか。

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