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2022-12-28

anond:20221126105813

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会話

炭酸水の「ウィルキンソン」は日本ブランドだったこ

・昔のブランドロゴは仁王像だったこ

・「TANSAN」は1893年商標登録されてたこ

・つまり100年以上つづく長寿商品であること

神戸炭酸鉱泉発見したウィルキンソンさんにちなんで命名されたこ

を一気に知って処理が追いつかず

https://twitter.com/katsunomisanzai/status/1607630943334064128

おーバズってたか

最近は1か月くらい遅延させてバズらせることも多いね

ワイの情報が誰かの利益になったようでなにより

2021-10-08

anond:20211007234035

とりあえずググってみたら1890年代くらいの文章がたくさん引っかかった。

島田三郎ほか『近世泰西通鑑』1884年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219

然レドモ此ノ陰謀最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士煽動セリ

今回見つけた中では最も古かった。これはトーマスヘンリー・ダイアーの『History of Modern Europe』の翻訳で、原文では以下のようになっている。

But one of its most zealous supporters was Setschin, Archbishop of Novgorod; who incited the multitude of popes or priests in his jurisdiction against the "profane" Emperor.

天野為之『高等経済原論1891年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128

「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州最モ生産多キ土地の一ト為レリ

こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。

One of the barrenest soils in the world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes in Flanders, has been so fertilized by industry, as to have become one of the most productive in Europe.

最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。

田口卯吉『史海 第7巻 光明皇后1891年

光明子は嘗て我邦土の上に生れ出てたる最も明敏なる婦人の一人に御座すなり

日本評論」誌による竹越與三郎『マコウレー』評

https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11

加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。

竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。

森鴎外『月草』1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235

されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。

竹越與三郎『二千五百年史1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128

良房藤原氏中、無学無術、最も拙劣なる政治家の一人なりき。

再び登場の竹越與三郎。今度は本人の文章である

外山正一『藩閥之将来 附教育之大計』1899年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11

リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル



このように並べてみても、通説のとおり英語の「one of the most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。

2021-07-10

アメリカ歴代大統領

1.ジョージ・ワシントン1789~1797)(無所属

 言わずと知れた初代大統領アメリカ独立戦争を勝ち抜いた。

2.ジョン・アダムス(連邦党)

 合衆国建国の父の一人。フランスとの戦争回避した。移民法と治安法に署名

3.トマスジェファソン()民主共和党

 合衆国建国の父の一人。フランスからルイジアナを買収した。出港禁止法により対英戦争の回避に尽力した。

4.ジェームズ・マディイソン(1809~17)(民主共和党

 憲法の父。大統領としての初の宣戦布告をし、米英戦争を起こした。

5.ジェームズ・モンロー(1817~1825)(民主共和党

 合衆国建国の父の一人。奴隷制を巡るミズーリ協定を制定。スペインからフロリダを買収。モンロー宣言を発表し、孤立主義を打ち立てた。

6.ジョン・クインシー・アダムズ(1825~1829)(民主共和党

 関税法設立、軍の巨大化などを試みるもジャクソンらの激しい妨害に遭い大した功績を残せなかった。大統領就任前は外交官として活躍し、米英戦争終結、モンロー宣言の起草などに貢献した。

7.アンドリュー・ジャクソン(1829~1837)(民主党

 白人男子普通選挙制、地方役人を自らの支持者で固める猟官制を確率インディアン移住法を制定し、激しい弾圧を行った。大統領就任から軍人として活躍し、米英戦争セミノール戦争インディアン虐殺した。

8マーティン・ヴァン・ビューレン(1837~1841)(民主党

 オランダ系。任期中に1837年恐慌が発生した。更にアルーストック戦争、キャロライン事件で対英関係に緊張が生じた。

9.ウィリアム・ハリソン(1841)(ホイッグ党

 就任わず31日後に肺炎で死去。就任前はティカピヌーの戦いでショニー族を破ったことで名高かった。

10.ジョン・タイラー(1841~1845)(ホイッグ党

 任期末期にテキサス併合され、南北戦争の遠因になった。

11.ジェームズ・ポーク(1845~1849)(民主党

 米墨戦争勝利し、広大な領土を獲得した。スミソニアン博物館海軍士官学校設立した。米国史上最低の関税の一つであるウォーカー関税設立

12.ザカリー・テイラー(1849~1850)(ホイッグ党

 任期中にカリフォルニアゴールドラッシュが発生し、奴隷制を巡る対立が激化した。

13.ミラード・フィルアモ(1850~1853)(ホイッグ党

 1850年妥協により、南北対立一時的回避日本ペリー派遣した。

14.フランクリンピアス(1853~1857)(民主党

 カンザスネブラスカ法を支持し、北部から強い反感を買った。オステンド宣言を発表し、スペインからキューバを奪おうとするも失敗。

15.ジェームズブギナン(1857~1861)(民主党

 南北戦争回避に尽力するも、水の泡とかした。

16.エイブラハム・リンカーン(1861~1865)(共和党

 南北戦争勝利に導いた奴隷解放の父として知られるが、実は奴隷解放には消極的であり、インディアンに対しても激しい弾圧を行った。

17.アンドリュー・ジョンソン(1865~1869)(民主党

 合衆国の再建を担ったが、奴隷制を支持したため、議会と激しく対立した。

18.ユリシーズ・グラント(1869~1877)(共和党

 南北戦争北軍勝利に導いた英雄であったが、在任中は多くの汚職事件が発生し、米国史上最悪の大統領とも評される。

19.ラザフォード・ヘイズ(1877~1841)(共和党

 南部駐在していた北軍撤退させたため、黒人差別が再び激化した。1877年鉄道ストライキに対しては連邦軍を派遣して鎮圧した。

20.アンドリュー・ガーフィールド(1881)(共和党

 就任後4ヶ月後に銃撃され、その2ヶ月後に死去した。

21.チェスターアラン・アーサー(1881~1885)(共和党

 地方公務員を資格により採用するペンドルトン法を制定。

22.クロバー・クリブラント(1885~1889)(民主党

 州際通商法により鉄道運賃規制公約であった保護関税の引き下げには失敗した。

23.ベンジャミン・ハリソン(1889~1893)(共和党

 シャーマン反トラスト法、高関税マッキンリー関税などを制定した。

24.クロバー・クリブラント(1893~1897)(民主党

 再選された。1893年恐慌解決に失敗した。プルマンストライキなど反政府デモ労働運動には激しい弾圧を加えた。

25.ウィリアムマッキンリー(1897~1901)(共和党

 金本体制ティングレー関税法を制定。米西戦争勝利し、フィリピングアムプエルトリコを獲得した。ハワイ併合した。中国に対しては門戸解放を主張した。

26.セオドア・ルーズベルト(1901~1909)(共和党

 独占禁止法を制定。中米に対しては棍棒外交を展開した。自然保護に尽力した。日露戦争調停したことからノーベル平和賞を受賞した。

27.ウィリアム。タフト(1909~1913)(共和党

 ラテンアメリカアジアに対してドル外交を展開。

28.ウッドロー・ウィルソン(1913~1921)(民主党

 第一次世界大戦に参戦。国際連盟設立した。

29.ウォレンハーディング(1921~1923)(共和党

 ワシントン会議を開催。内政面では富裕層優遇した。在任中に多くのスキャンダルが発生した。

30.カルビン・クーリッジ(1923~1929)(共和党

 パリ不戦条約を締結。内政では自由放任政策を行った。

31.ハーバードフーヴァー(1929~1933)(共和党

 世界恐慌への対応を誤り、民主党に敗れた

32.フランクリン・ルーズベルト(1933~1945)(民主党

 ニューディール政策により不況を脱した。中米諸国に対しては善隣外交を展開。日本への石油輸出を禁じて、太平洋戦争引き起こした。

33.ハリー・トルーマン(1945~1953)(民主党

 日本原爆を投下した。NATO、CIA、国防総省、NSAを設立共産主義に対しては封じ込め政策実施朝鮮戦争に参戦。

34.ドワイト・アイゼンハウアー(1953~1961)(共和党

 封じ込めよりも強硬な巻き返し政策提唱武力行使すら辞さないとしたアイゼンハウアー・ドクトリン提唱した。

35.J.F.ケネディ(1961~1963)(民主党

 アイルランド系カトリックキューバ危機に対処し、核戦争回避した。宇宙開発にも力を注いだ。ニューフロンティア政策に基づき、公民権運動積極的であった。

36.リンドン・ジョンソン(1963~1969)(民主党

 「偉大な社会」を唱え、公民権法を制定した。ベトナム戦争に参戦し、泥沼化させた。

37.リチャード・ニクソン(1969~1974)(共和党

 ベトナムから撤退ソ連中華人民共和国訪問し、緊張緩和を進めた。金とドルの交換を停止した。

38.ジェラルド・フォード(1974~1977)(共和党

 前大統領に引き続き、デタント推し進めた。在任中に日中貿易摩擦が生じた。

39.ジェームズカーター177~1981)(民主党

 人権外交を展開し、パナマ運河返還第四次中東戦争仲介、米中国正常化を果たした。

40.レナルド・レーガン(1981~1989)(共和党

 「強いアメリカ」をスローガン福祉削減、減税などを行った。レバンノン出兵グレナダ侵攻など強硬対外政策を展開した。

41.ジョージ・ブッシュ(1989~1993)(共和党

 レーガン政策継承マルタ会談冷戦終結宣言湾岸戦争イラクを破った。

42・ウィリアムクリントン(1993~2001)(民主党

 オスロ合意ベトナムとの国交回復ボスニア和平などを実現した。反面、多くのスキャンダルに悩まされた。

43.ジョージ.W.ブッシュ2001~2009)(共和党

 同時多発テロを契機に「テロとの戦い」を主張、アフガン攻撃イラク戦争に踏み切った。

44.バラク・オバマ2009~2017)(民主党

 黒人医療保険制度改革軍縮などを実行した。

45.ドナルド・トランプ2017~2021)(共和党

 アメリカ第一主義を主張し、移民制限WHO,ユネスコなどからの脱退を実現した。

46.ジョセフ・バイデン2021~)(民主党)NEW!!

2021-07-08

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い 2

前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマークコメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください

古代

・第二次合肥の戦い

 214年 三国時代 曹操軍★7000vs孫権10

 孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。

中世

・沙苑の戦い

 537年 南北朝時代 ★西魏1万vs東魏20

 西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。

パリ包囲戦

 885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万

 西フランク王国首都パリヴァイキング大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキング撤退した

多々良浜の戦い

 1336年 南北朝建武の乱 ★足利1000vs菊池軍1万

 博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。

ベオグラード包囲戦

 1440年 ★ハンガリー軍3500vsオスマン軍3万~5万

 オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。

・クルヤ包囲戦

 1450年 オスマンアルバニア戦争 ★アルバニア8000vsオスマン10

 スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気流行に苦しめられたトルコ軍撤退した。

近世

ベオグラード包囲戦

 1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万

 コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラード英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。

・ヘミングステットの戦い

 1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000

 ディットマルシェーンの農民達がカルマ同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢溺死したため、撤退した。

・ロドス包囲戦

 1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12

 ロドス島支配する聖ヨハネ騎士団オスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団降伏シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た

・クーセグ包囲戦

 1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン12万~20

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍ハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世撤退した。ハンガリー軍最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。

カステルヌーヴォ包囲戦

 1539年 スペイン軍3500vs★オスマン軍5万

 現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍降伏勧告無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍8000から2万人が戦死した。

・アンドリエンの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族2万人

 マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。

・エゲル包囲戦

 1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万

 イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍トルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップトルコ軍の内部対立に助けられ、防衛成功した。

マラッカ包囲戦

 1568年 ★ポルトガル軍数百vsアチェ軍1万5000

 アチェ王国ポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。

・ファマグスタの戦い

 1570年~1571年 オスマンヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン10万~12

 キプロスクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャン安全保証するもその約束反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。

・英賀合戦 

 1577年 戦国時代中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000

 織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利大軍派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。

・クヴォダンスコの戦い

 1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万 

 クロアチア都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った

・石城合戦7月) 

 1578年 ★伊東軍600vs島津軍7000

 伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍派遣して城を堕とした。

・ナジカニジャ包囲戦

 1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10

 現ハンガリー都市ナジカニジャをハプスブルク大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。

・パバンカインドの戦い

 1660年 マラータ軍600vs★ビジャープル軍1万

 マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァジーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァジーは逃亡に成功した。

・ハドウの戦い

 1694年 ポーランドオスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万

 ポーランドポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。

アナントプルの戦い

 1700年 ★シク教1000vsムガル軍1万

 シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。

・ナフプリオ包囲戦

 1715年 ヴェネツィア軍4500vs★オスマン軍7万人

 現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコ大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍8000人以上が戦死した。

・ガングワナの戦い

 1741年 マールワール軍1000vs★アンベールムガルバラプールなど連合軍1万~4万

 マルワール王国はアンベール王国戦争に敗れ賠償金土地要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍12000人が負傷した。

近代

レイバー橋の戦い

 1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人

 セネガルセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。

・第二次長州征伐

 1866年 ★長州軍3500vs江戸幕府10万5000

 江戸幕府将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。

カブール英国居住地の包囲

 1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン2000

 カブール英国居住地に居たピエールカヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。

・マイワンドの戦い

 1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000

 アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。

・シャンガニ・パトロール

 1893年 第一次マタベレ戦争  イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000

 イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。

サンファンデルモンテの戦い

 1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティナン800~1000

 マニラの東サンフアンフィリピン独立を求める秘密結社ティナン武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。

カカロン・デ・シリの戦い

 1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000

 ブラカンフィリピン人がカカロン共和国設立宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラ抵抗を続けることとなる。

・サラガリの戦い

 1897年 ティ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人

 ティ地方アフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリ駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。

サンタ・クルス包囲戦 

 1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万

 ラグナスペイン軍最後拠点サンタ・クルスホセリサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗フィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。

・ベーラー包囲戦

 1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800

 教会に立て籠もったスペイン軍フィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍フィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した

現代

・ウェンギエルスカグルカの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド1200vs★ドイツ軍1万7000

 ドイツ軍ポーランド軍の防衛するウェンギエルスカグルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。

・ヴェステルプラッッテの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド205vs★ドイツ軍2600

 ドイツ軍自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島攻撃ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。

ウィズナの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000

 ドイツ軍ウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘ポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。

ミルの戦い

 1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ2000vs★ドイツ軍3万

 ドイツ軍ミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。

・ソーミュールの戦い

 1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万

 フランス軍の訓練生達がドイツ軍攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気ドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥停戦呼びかけの後に行われたため、最初レジスタンスであるとされる。

・ニリムの戦い 

 1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12女性)vsエジプト軍500~800

 イスラエルキブツ共同体)ニリムエジプト軍が包囲した。エジプト軍装甲車航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。

・3234高地の戦い

 1988年 ソ連アフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650

 3234高地配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。

・ヴコヴァルの戦い

 1991年 クロアチア紛争ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000

 クロアチア東部都市コヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人虐殺追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。

2020-11-10

フレンチ・カンカンの穴あき見せパントップレスのショー

カンカンとの出会い

フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それからドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtube検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画確認できる。

カンカン歴史、当時の見せパン

本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレス基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまりレオタード姿のソネットCMフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。

衣装ではなく、カンカンダンスのものについては、日本語版ウィキペディア英語版ウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。

両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパン起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサー娼婦セミプロ役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパン確認できる。これらのスター生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌財産を失い、寂しく亡くなっている。

さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からロッチ部分が開いていたからである。要するに性器丸出しになるわけであるもっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディア普段自然科学記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。

ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代アメリカで人気が出たスタイル逆輸入したものでそうである

実際、19世紀から20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキング対照エロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。

結論から言うと、当時のフランスに見せパンのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現自由でなかった当時のこと、そんなことを文学絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界起源」が1868年ヌードスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である

著名なキャバレーについて

パリはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代芸術芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュ活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方広告が載っていたと記憶しているものピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレス女性旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。

学生時代パリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である

ムーラン・ルージュ

赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズロートレック作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。

ところで、ウィキペディアだけからヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年舞踏会に裸の女性いたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国劇場のように活人画、すなわち生きた人間絵画再現する目的としてならヌード猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場ヌードが現れたとき当局1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップ記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。

これまたよくわからないのがゾラ1880年小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事カンカンについてなので劇場ヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。

1889年開業1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。

フォリー・ベルジェール

モネ絵画「フォリー・ベルジェールのバー」舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Baker活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズム流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女黒人人権活動家としても知られている。最近グーグル彼女の生涯を記念するドゥードゥルトップにした。

1869年開業1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌード披露されることで知られる。

リド

映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。

ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうであるヌードトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術ヌードならOKなのか。フランス映画年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。

1946年開業1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。

クレイジーホース

ストリップティーズ」の項目によれば1960年代全裸のショーが行われた、とある

現に、創業者であるアランベルナルダン芸術性を伴った女性ヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である

とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業

余談

天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂CMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者CG黎明期であったせいかサイケデリック表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。

ところで、この曲は地獄オルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話オルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話パロディ的なオペレッタからだそうだ。なるほど。

まとめ

今後の展望

こうしたレオタード姿のラインダンスカンカンではないと述べたが、それではこれはいからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版ウィキペディアバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである

また、劇場において全裸が許容されたのはいからか、それも調べねばならない。

だが、まずはラインダンス調査に移りたく思う。

2020-10-26

『翼ある人びと』整理

『BADDAY』『星逢一夜』『金色砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。

金色砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。

それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?

ああ、本来は『サパ』ブルーレイ購入検討のためであった。

前段:上田久美子氏

金色砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。

前段:ブラームス

ブラームスイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。

それからビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。

自分携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。

あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ交響曲1番1楽章とか激しい。

まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家

前段:シューマン

シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。

あと名高い『音楽音楽家』が3ページぐらいで止まって積読

から

ヨハネス・ブラームスクララシューマンロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム

知ってる人らだからと油断していたら名前からなくなった罠。ヨハネス、クララロベルト、ヨーゼフ。

ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。

フランツ・リストフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

史実らしいこと整理

【】翼ある人びと

1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』

1841年シューマン交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチメンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。

1845年:三女ユーリ誕生【長女、遥羽らら】

1846年長男エミール誕生【秋音光】。シューマン交響曲第2番 Op.61』

1847年長男エミール死没

1848年フランツ・ヨーゼフ1世即位

1850年シューマン交響曲第3番 Op.97』

---

1853年ブラームス20歳クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳フランツ・ヨーゼフ1世23歳)

8月18日バート・イシュルの夏は暑い、今年は特別

9月30日シューマン邸『ピアノソナタ第1番』を弾く

10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声使用などの先見性が評価されるようになった)。

秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタシューマン出版提案するもブラームス判断で破棄

11月シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている

12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒヴァンハウスシューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品作品1として出版することを提案していた。

12月30日シューマン交響曲第4番(改訂版Op.120』初演(現在一般的演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)

1854年

1月:『ピアノトリオ第1番 Op.8』@ハノーバー

2月27日シューマン投身エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。

春?:『ハンガリー民謡主題による14の変奏曲 Op.21-2』

6月:四男(末子)フェリックス誕生次男、花菱りず】。ブラームス名付け親ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。

8月:『シューマン主題による変奏曲 Op.9』完成

夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。

1855年クララ手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンレッド序曲』を聞いて)。

1856年フーガ』『前奏曲フーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』

4月05日:『惜しみなく与えよ Op.30』

7月29日シューマン

---

1857年:『前奏曲フーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』

1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルト婚約。『セレナード第1番 Op.11

1859年結婚生活音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄

1861年:『シューマン主題による変奏曲 Op.23ユーリエへ献呈。

1863年エリザベート・フォン・シュトックハウゼンブラームス弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女まれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。

1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生戴冠式マーチャーシュ協会ミサ曲はリスト作曲

1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクラライタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」から断章Op.53』を作曲(別のサイト表現では、プロポーズを承諾したときにわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。

1874年フェリックスの詩に付曲(Op.63-5~6)

1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。

1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った

1879年フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリンソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。

1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。

1889年フランツ・ヨーゼフ1世から芸術科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララ改訂版派だった)

1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。

1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナ校訂版出版、世に知られるようになる。

1893年:『シューマン全集刊行ブラームスクララ編纂

1896年

3月26日クララ脳出血で倒れる

5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世作品とみなされている。

5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。

6月:『11コラー前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームス健康は日に日に衰えていく。医者治療を受けても病状は一向によくならず。

1897年 4月3日:没(63歳)

1898年エリザベート暗殺

1937年シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される


※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。

あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい

あと映画

2020-04-01

61]。弟子ヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシ

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2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

2015-02-22

一番良かったのは明治初期だよ

大審院歴代院長

歴代院長[編集]代 氏名 就任日 出身校及び備考

1 玉乃世履 1875年明治8年)5月12日 岩国藩代理

2 玉乃世履 1878年明治11年)9月13日

3 岸良兼養 1879年明治12年)10月25日 薩摩藩

4 玉乃世履 1881年明治14年)7月27日

5 尾崎忠治 1886年明治19年)8月12日 土佐藩

6 西成1890年明治23年)8月21日 府中藩

7 南部甕男 1891年明治24年)4月8日 土佐藩、院長心得

8 児島惟謙 1891年明治24年)5月6日 宇和島藩

9 名村泰蔵 1892年明治25年)8月24日 長崎出身、院長心得

10 三好退蔵 1893年明治26年)3月3日 慶應義塾

11 南部甕男 1896年明治29年)10月7日

12 横田国臣 1906年明治39年)7月3日 慶應義塾

13 富谷太郎 1921年大正10年)6月13日 司法省法学

14 平沼騏一郎 1921年大正10年)10月5日 帝国大学法科大学

15 横田秀雄 1923年大正12年)9月6日 帝国大学法科大学

16 牧野菊之助 1927年昭和2年)8月19日 帝国大学法科大学

17 和仁貞吉 1931年昭和6年)12月21日 帝国大学法科大学

18 林頼三郎 1935年昭和10年)5月13日 東京法学

19 池田二郎 1936年昭和11年)3月13日 東京帝国大学

20 泉二新熊 1939年昭和14年)2月15日 東京帝国大学

21 長島1941年昭和16年)1月31日 東京帝国大学

22 霜山精一 1944年昭和19年)9月15日 東京帝国大学

23 細野長良 1946年昭和21年2月8日 京都帝国大学

2012-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20120322171607

からカンケーねーからw

それ以前だろうがなかろうがカンケーねーからw

お前日本人じゃねーだろw

チョンは消えろやちなみに制定されたのは1893年辺りだな

 
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