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2017-03-23

http://anond.hatelabo.jp/20170323053036

おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。

増田が挙げているのは自己責任論というより、自分もつ特定思想に反した振る舞いをする人間罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。

本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、

それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。

増田のと真逆なんだよ。増田モデル全体主義ファシズムに近い。

そして、自己責任論と結びつけられやすリバタリアニズムだけれども、

リバタリアン想像するリバタリアンは「個人自分のやることを理性的判断して行動できる合理的個人である

と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。

でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。

だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。

認知症から大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、

ギャンブル依存から破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、

そういった例が100%自分責任自分コントロール圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。

そもそも情報があふれかえる現代、人は自分意志で「自己決定」していることなんてあるのか、

なんてシニカルに言うことすらできるんだから

「~から自由である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由である積極的自由を認めすぎると

衝突にあふれた社会になり、他人攻撃制御・統制しようとする邪悪自由侵食され、消極的自由が脅かされる。

増田のいう「当たり前の価値観」は後者だ。

穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、

それによりどうなってしまうか、合理的判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。

そうやって「自分意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。

もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。

理性的判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムITとの親和性が高い理由)の自己責任

それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、

乗り越えた結果失敗してしま被害を最小化するために自己責任の考えを導入しているにすぎない。

日本で使われる「自己責任」は前者のニュアンスであることが多すぎて、苦々しい思いだ。

2017-03-15

私はかつて差別主義者だった、『けものフレンズ』を観るまでは。

 私はかつて差別主義的なケモナーだった。

 ご存知のようにケモナーには様々な派閥存在する。

 メスケモ派、オスケモ派にはじまりマッチョ派、モフモフ派、デブ派、ショタ派(なぜかロリほとんど見ない)、モンスター派(極左人外連)、トランスファー帝国肥大化公国、融合辺境伯領、ロイヤル竜奇兵連(ドラゴナーズ)、爬虫人類委員会レプタリアンズ)、キグルミ派、母性探求派、海生動物会議(「海の人々」)、四ツ足派だけどズーフィリアじゃないもん派(愛ケモ主義極右)、丸呑みだけが人生だ派、卵胎生出産教会インターレイシャル(人×ケモ)派、反インターレイシャル派……

「天はケモナーの上にケモナーを造らず、ただし、ケモナーの横には無限ケモナーを造った」

 とは近代日本における先駆的ケモナー福沢諭吉名言である

 産業革命以降の通信技術の発達は、孤独だったケモナーたちに「同好の士」を発見する機会を与え、ファンダムの拡大に成功したものの、

 同時に細かな嗜好の違いによる派閥対立をも生じさせ、その軋轢がついに二度に渡る世界大戦の引き金となったことは今更説明するまでもないだろう。

 そうした争いは近年まで衰えることなく続き、いつしかケモナーたちは「派閥が違えば殺し合って当然」という野蛮な虐殺言語所与のものとして生きるようになっていた……。


 私もそうだった。

 私もある狭い派閥こそ唯一かつ至高と信じ、他者排除差別によって所属派閥への帰属意識を高めていった。

 派閥意志に叶うと思えば、喜んで我が手を血に染めてきたし、かつての友人たちをためらいなく2ch晒した。

 なかでもいっそう劣悪とされ、他のありとあらゆる派閥から敵視されていたのが「ケモミミストである

 サイバーコネクトツー・スペクトラムでいうところの「レベル2」。

 「ニンゲン身体に、ケモミミ(としっぽ)がついてさえいればよい」とする日和見主義的邪教徒たちだ。

 彼らにはケモコミュニティ内において最初から人権など与えられてこなかった。

 なので、ふだんは「一般人」に紛れて潜んでいたのだが、ときおり何かの間違いで何も知らない”レベル2”がケモコミュニティに迷い込んでくることがあった。

 多くの場合、彼らは痕跡も残さずにコミュニティから「除去」された。


 中道過激派秘密ケモナー警察あいだで流行ったジョークにこんなものがある。

 「”レベル9"(いわゆる真性の獣姦嗜好)はケモナー以上に進化してしまったケモナーだ。だから畏敬をもって殺す。

  ”レベル2”はケモナーになれなかったケモナーだ。だから哀れみをもって殺す」

 私も彼らを憎んだ。

 でじ子の肖像を何枚も焼いたし、それ以上におぞましいこともやった。


 

 現代ケモナー社会は、あらゆるケモナーには自分自身同胞である他のケモナーの「性欲」を認め、尊重することができる能力、そして性的志向の善し悪しについて自ら判断する能力があるというフマニスト的前提をもって、各人に普遍的ケモナー権を付与しようとしてきた。

 一見それは理性的合理的、かつ人道的な判断基準なように思える。

 だが、人は他者の良い面よりも悪い面を重視する傾向にあるようである。それが上記のような派閥争いとケモミミスト蔑視の引き金となったのである



 だが忘れもしない2017年の某日。

 私は『けものフレンズ』を観た。

 もちろん、観る前は”レベル2”だと貶していた。

 しかし、一種社会現象となるにつれ、そして「一般人」たちがけもフレを「ケモナー」と結びつける言説を多く弄するになるようにつれ、私は「世間無理解を忠実バラなぬ」という一種義憤から、けもフレを鑑賞したのである


 最初はなんと退屈でつまらなく、くだらないアニメだろうと思った。

 だが、一話の終わりにさしかかったあたりから胸がざわめきはじめ、

 画面にかじりつくようにして二話に没入し、三話を見終わるころにはすっかりフレンズたちに魅了されていた。

 のみならず、こう思うようにさえなっていた。


「これは”われわれ”について語られた、”われわれ”のためのアニメである」と。


 ケモナー一般に受けいられる性的志向ではない。というか、世間的には性的志向ですらないと考えられがちだ。

 同胞たちは自分たちの好きなものカミングアウトできずに日々気持ちを圧し殺して生きている。

 ファンダムとは、そうした「のけもの」たちを包摂するために存在するやさしいシェルターではなかったのか?

 それがいつのまに、我々自身から「のけもの」を作り出し、排除し、殺し合い、差別するようになってしまったのか――


「姿かたちも十人十色からこそ惹かれ合」い、「みんな自由に生きている」場所

「飾らなくても大丈夫」な場所

 それこそが我々が最初に求めたファンダムのあるべき形ではなかったのか?


 蒙が啓かれるとはまさにこのことだった。

 すべての教えは『けものフレンズ』のなかにあったのだ。 


 私はいてもたってもいられなくなり、地下壕から出て地上へとあがった。


 灰色廃墟が広がっていた。

 だが、つい先刻まで鳴り響いてはずの銃声や悲鳴はすっかり止んでいた。

 地には戦車ではなく瓦礫の影で戯れる少年少女が、空には爆撃機ではなく大きな翼の鳥たちが遊んでいた。

 こんな穏やかで静謐時間はどれくらいぶりだろう?

 まるで、あらゆる憎しみが「ぼくのフレンド」に包まれて溶けて消えてしまったのかように。


 私はあてもなく、ただ何かにつきうごされるかのごとく歩いた。

 そして、数分もしないうちに反対側の地下壕から出てきたであろう年老いた男と出くわした。

 老人はあきらかに”レベル2”であった。

 ふだんなら我々の姿を見て怯えて眼をそらすはずの彼らが、瞳に決意をたたえ、凛としてこちらを見据えている。


「きみも、観たのかね?」

 そう老人は問うてきた。

 私は無言で頷いた。 

 頭を傾げた途端に、一条の熱い何かが頬をつたい、顎からしずくとなって焼けた大地に滴った。

 涙を流している、と自覚したのは、湿った点が地面に染み込んで数秒経ったころである

「私は、私たちは」とうわずる声で私は言った。「許していただけるのでしょうか。あなたたちとフレンズになることは……できるのでしょうか?」


 老人は痩せこけた顔に、穏やかな微笑を浮かべて応えた。

「笑おうじゃないか。ともに笑ってみよう。

 高らかに笑い、笑えば、フレンズなのだ

 喧嘩してすっちゃかめっちゃかしても仲良しに戻れる」   


 そうとも、と老人は私の肩を叩いた。

 ここが、われわれのジャパリパークなんだ。

 われわれは『けものフレンズ』というサンドスターを通過して、今一度生まれ直したのだ。

 まっさら状態で。

 だから、ここからはじめよう。 

 本当の愛は、ここにあるのだよ。

2017-03-13

サイコパス思考による膠着状態脱出

http://anond.hatelabo.jp/20170211181942

筆者がある種の膠着状態仮定した上で、ものすごく記述乱暴だけど今の私の対処法を書く。

幼少期から人付き合い苦手。そもそも人に興味がない。でも食っていけないので社会人でやっていける程度に人付き合いを学習してきた。アスペADHD思い当たることはあるが真性とまではいかない。現在アラフォーエンジニア。年齢の割にソロプレイが許されている。この数年間この膠着状態に陥っていた。

乱暴な仮説

サイコパスの対となる状態が、『パニック障害または鬱』(これを「膠着状態」とする)」

着想の元はこちら

中野信子サイコパス

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E9%87%8E-%E4%BF%A1%E5%AD%90/dp/4166610945/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1489400058&sr=8-1&keywords=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9

橘玲の「言ってはいけない」と雰囲気かぶるところがあるが、中野のほうが科学っぽい。

仮説の解説

今手元に上記の本がないので正確な記述はできないが、こう仮定する。

So What?

膠着状態に陥っているなら、自分思考サイコパス側に振ればいい。具体的はこんなかんじ。

何がよくなったか

サイコパス状態本来の私なんじゃないか?と考えると落ち着きを取り戻し、静かながら興奮に満ち溢れた状態になる。結果的に膠着状態は脱している。

懸念

本当にサイコパスになったらどのような社会的不都合が生じるか?と冷静に考えるが、実際に真のサイコパスになるわけではない。マイナスを0に持ってきただけだ。

その他

もともとサイコパスに近かったのかどうかわからないが、そうだとしてもではなぜ膠着状態になったのか?妄想さらに全開だが、おそらく、社会性の習得において、「Aという状態はBさんがCという感情を抱く。この結果Dという状態を招く」ということを人生を通して連綿と学習してきた結果なのではないかと思う。感情のふるまいまで理性で学習した結果、理性がデッドロックした。

女の人はなぜ「やり捨てされた」と被害者のような態度を取るのですか?

何か原因が自分にあったのでは?と思い至れない点も問題問題教育必要だとは思いますが、いちばん疑問なのは「やり捨て」のところです。

セックスは二人で行う以上お互いに「やっている」のであって相互利用の関係にあります。にも関わらず一方的に利用されたような言い方なのはなぜでしょうか?

相互利用の関係なのに文句が出るとすれば、それは互いの価値が=でないということになります男と女の間に暗黙の上下関係でもなければ説明がつかないからです。

もしそのような性別における価値上下が男女にあるのだとすれば、それは性差別です。差別は悪いことですよね?

まり「やり捨て」を主張する女は自分は悪いことをしておきながら、悪いことを非難していることになります

なぜ女の人はこのように都合の悪い時だけ被害者ポジションをとる習性があるのでしょうか?よろしくおねがいします。

感情的意見女性意見という意味ではありません)ではなく理性的意見をおねがいしま

女性擁護のために考えた中身のない意見ではなく平等・公平な内容だと嬉しいです

2017-02-25

ここぞという重要局面で、感情に任せて理性的判断が出来ず更なる事態悪化を招いてしま登場人物について。

たとえば敵にトドメをさせないで躊躇してしま主人公とか(逆に生かしておくべき敵を個人的怨恨で殺してしまったりも)、隠れてろと言われたのに仲間が心配とかで外に出てきてしまって攫われるヒロインとか。

昔はすごく嫌いだった。お前がそこで個人的感情を優先させたせいでどんだけの人間迷惑がかかる(かかった)と思ってるんだよとイライラした。

なのに最近、逆にそういった登場人物こそ好きになれるかもしれないと思うようになった。

自分自身が常に理性的な行動を取る登場人物共感しにくくなってしまったというのはある。

人間舞い上がってしまうと周囲が見えなくなるし、心配になれば居てもたってもいられなくなるし、惚れ込んでしまった相手には盲目になるだろう。少なくとも自分はそうだ。そこに論理的理由あんまり存在しない。辛い時は辛い。

感情とは厄介なもので、時に理不尽だ。理性でねじ伏せた上で最善の行動を取ったらそれは物凄い盛り上がるが、逆に感情に振り回されて誤った選択をしても、それはそれでどうにもならないものへの無力さを感じさせられて面白い文字通り人間そんなもんだよなとどこかで安堵し、そしてその誤った選択を取ってしまったキャラクター共感してしまう。

逆にどんな事態でも冷静に状況を把握し、最善手を取ろうとするキャラクターには、むしろ近寄りがたさのようなものを感じるようになってしまった。登場人物全てが理性的な行動を取ることでスムーズに進んでいく物語となると、むしろ自分なんかが読んではならないのではないかというレベルで畏怖を感じる。こうありたい、ありたかったという憧れを越えて、劣等感を抱かされてしまう。

ただ単に自分が、現実のあらゆる(という訳でもないけれど)局面感情に任せて失敗してきたから、そういったキャラクター感情移入というか自己投影するようになったというだけの話なのだが。

だが、だからこそ個人感情的な失敗がある程度許容される物語が好きだし、たとえその結果理不尽なバッドエンドを迎えたとしても、自分はその物語を通して癒されているという自覚がある。これから感情的でどこか不安定物語出会いたいなあと、そんなことを考えている。他者が本当に他者として存在している現実ではあまり許されることではないから。

2017-02-17

うらやましい

http://anond.hatelabo.jp/20090923013046



半分は分かる。私も恋愛感情がわかないから。

元増田の抱えている灰色のような漠然とした不安もわかる。



自分が、誰かと付き合ってデートしている姿がしっくりこない。

なんだかすごく間違ったようなことをしている感じがする。ちぐはぐで気持ち悪くなってしまう。



から、もう誰とも付き合わないことにしている。

やっぱり、何で誰とも付き合わないの?って聞かれるし、うまく濁したつもりでも色々突っ込んできかれるし、もう嫌だ。



それで、何で「半分だけ」わかるのかというと、

私は恋愛感情がわかないけど性欲だけわくタイプからだ。

うちも、元増田んちみたいに性的なことがタブーな家庭だった。

でも、私の場合それが余計に性欲の昂進に拍車をかけたような気がする。



悩んでいるところ悪いんだけど、恋愛感情なくて性欲だけあるのっていうパターンもそれはそれで結構地獄だ。

忙しいのに朝オナニーしないと日中エロいことばっかり考えて集中できなくなるし、ストレスが全部性欲につながるからいくらやっても収まらない。

街でカップル夫婦を見たりするとこいつらどんなセックスしてんだろーなと想像するのをやめられない。

そんなことが思春期からずっと続いている。

普段理性的に生きているのに、こうして自分がただの動物なんだと思い知らされて嫌になる。

だけど、さっき書いたように性的なことがタブーという家庭で育ったか倫理に外れたことはできない。



こういう種類のマイノリティもいます

正しい知識を得て理性的判断できるようになった結果

あなた幸せになれましたか

隣にいる馬鹿のほうが幸せそうだけど。

2017-02-15

舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」(ネタバレ注意)

とんでもない作品だった。とんでもない体験をした一週間であった。




まず先に言うと、本作品は『ミステリー演劇』だった。

それは原作推理小説カテゴリーされているからとか、原作者江戸川乱歩だからとか、そういう理由じゃない。

私はその解説、および回答を以下に記すのだけど、それは完全なるネタバレです。



もう知らなかった頃には戻ってこられない、作品を殺す系のネタバレ



なので、未観劇の方には本当に読むことを勧めません。

本作は素晴らしい完成度の傑作だし、舞台演劇でここまでのミステリーを作り上げるのは絶対に容易じゃない。

また、私はエグいほど容赦なくネタバレしていますので、正直自分ももう二度とミステリー演劇は鑑賞できない脳になってしまったのでは…と震えております。

(なので、読んでほしい気持ちがあって増田に書いているものの、観劇済みの方も生半可な気持ちではネタバレを読んでほしくない。六道の辻で迷い不幸だと感じている方にだけ、光が届けば良い。)

まり未観劇でネタバレを読むということは、人生の楽しみを自らの手で一つ潰すということ。尋常じゃない損失です。



本作はDVDの発売が決定しています。

公式DVD予約サイトhttp://www.shop-ep.net/east_park/shopping/a04020102/iid/0000000001746/

(発送日未定。予約は3月末まで)

めちゃくちゃ好評だったので、あなたの周りにも購入している人が居るはず。そして恐らく「見せてほしい」と頼めば喜ばれるはず。布教したくなるタイプの作品なのです。なので数ヵ月後DVDを鑑賞してから、是非また読みに来てください。



「数ヵ月なんて待てねーよ!」って方は、妥協点として2015年に他の演出家さんで上演されたものを見ることができます。

こちらは未観劇のためなんとも言えませんが、おそらく2015年版は絶対解けない「超ハードモードの『ミステリー演劇』」か、『ミステリーではない普通演劇』の可能性が高いと予想しています。でもまぁ全く観ないでネタバレ読むよりは絶対良い。

たぶんDVD売ってるし、3月になれば我らがdアニメストア殿が配信してくれます。

https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/CP/CP00000660

高いチケット買って劇場に行くか高いDVD買うかしか選択肢がなかった時代を生きてきた作品の取捨選択にすごい苦しんできた勢なので、dアニさん月額400円でこんだけ見れるとかマジ神過ぎ。最初目を疑った。(WOWOWさんにも感謝していますが、うちTV無いから見れないんですよ…そもそも家にあんま居ないし。お金なら払うのでスマホでもWOWOW見れるようにしてください。)



原作「孤島の鬼」を読むのも手ですが、本作はある意味では『原作本質を描いている』けど、ある意味原作とは全くの別物』です。だから舞台版のネタバレは、舞台版を観てから読んでほしい。



そして、せっかく未来の楽しみを潰してまでネタバレを読んでしまうのだから、その前に『ミステリー演劇』の推理に挑戦してほしい。

一人で解くのは超ハードだと思うので、できれば仲を深めたい方と一緒に。(私が今回の回答に至るのに協力してもらった友人の数は4人です。内1人は原作を読み込み一緒に推理してくれました。)

ぼっちの方も安心してください。本作はめちゃくちゃ面白かったので『2017年版の感想』も、ネットの海に転がっています。そこから辿り着くことも不可能じゃないはず。鮮度のいい印象論の良さも、一晩寝かせた感想の良さもあるので、いろいろ漁ってみてください。

あと私は推理した一週間の思考ログをほぼすべて残しているので、トリックがわかってからログを読み返してみたら翻弄されている自分がめちゃくちゃ面白かった(当時は睡眠不足神経衰弱で瀕死でしたけどね)。間違ってはいないけど騙されている。そんな楽しさもあるので、ぜひ推理に挑戦してみてください。

そして私がまだ解いていない謎の答えを見つけられたら、ぜひ教えていただきたい。



また、運良く本作を劇場でご覧になられた皆さま。感想はもう書き残しまたか

公式がwebでアンケート回収もしています。送ると抽選で非売品舞台写真もらえます。私もとても欲しい。

本作は、『感想を残す』ところまでを含めて作品です。せっかく運良く観劇できたのだから、140字で良いから書き残しておきましょう。

できれば思いの丈をすべて書き出しておくと良いです。『他者に感想を伝えようとした人だけが、謎解きの後に得られる感動』があります。(※個人の感想ですが!)

この感動を、本作品が本当に素晴らしい江戸川乱歩原作舞台化であったことを伝えたくて、読んだら作品を殺すことになるようなネタバレを恥を忍んで書いています。

私はソワレ観劇後、徹夜で翌昼に感想書き上げました。これが私の沼への一歩だった訳ですけれども、これを書き残しておいたお陰で、謎が解けた時に私の回答を出すことができました。

一度ネタバレを読んでしまうと、もう観劇で感じた感想書けなくなると思いますので、本当に一言で良いから感想書き残しておいてください。ついでだから公式アンケートに答えて非売品写真当てましょう。当たったら私にも見せてください。



最後に公式各位。

ネタバレにあたる部分は私の個人的ミステリー体験なので、これが公式解とは主張断言しません。

と言うか、理由なき見落しと、自分の能力ではどうしても咀嚼できなかった部分(言葉スムーズに脳に入ってこなくて読解しながら観劇することができなかった原作には無いシーン)があったので、私のネタバレは不完全です。他にも拾い損ねている箇所がポロポロ出てくる。逆転する可能性が大いにある、お粗末な推理

ですが、キャストの皆さまが最後までネタバレに配慮されていたのに、ネタバレを公開し誰かに読んでほしいと願うことが、浅間しいようにも感じています。

ネタバレ注意喚起に約2000字程裂きましたので、どうか堪忍してください。

p.s.オリジナルマグボトル購入しました。作中に赤い色が無かったのでデザインも綺麗だし購入したのですが…紐解いてみるとなかなか意味深なグッズですね。とても良い記念品になりました。




それでははじめます。



導入


無人の屋敷に風が吹き込む

暗転

まったく光のない深い暗闇から男性の声が聞こえる

「不幸ということが、私にもよくよく分って来ました。本当に不幸という字が使えるのは、私だけだと思います。遠くの方に世界とか日本かいものがあって、誰でもその中に住んでいるそうですが、私は生れてから、その世界日本というものを見たことがありません。これは不幸という字に、よくよくあてはまると思います」

暗転明け

無人だった屋敷に白髪の男性が立っており、書物を音読していた。

彼は自身について取り止めなく独り言つ。

彼……『私』を語り部とした、物語がはじまる。




まず本作の初見の私の感想と回答は、下記増田で参照できる。

http://anond.hatelabo.jp/20170206104211

ミステリーとして解いた今読み返すと相当ブッ飛んだ納得の仕方をしている。自分の妙さについて今までなんとなく感じていた部分が浮き彫りになりすぎである。こわい。

当時も気持ち的にスッキリはしたけども、<もやもやした原因が『認知を歪められている感覚』だったのに、「それは作者の願いだよ!」という犯人動機の『妄想』では、『論理的解決』にまったくなっていない>ので、悶々とはしていた。

作り手側は演劇を魅せるプロだが、観客は演劇を観るプロだ。伊達や酔狂でやっているわけではない、こちとら真剣に観ている。

認知を歪められている感覚』なんて中途半端ものは見過ごせない。

ちゃんとトリックを暴きたかった。

そこからずるずると私は沼に嵌まっていき、推理のためにガチで眠れない一週間を過ごすことになる。



そもそも、舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」の何がミステリーなのか。

それは、本作品が叙述トリックを駆使し、とある真意』を隠しているということにある。



しかし私の目下の推理動機は、トリックを逆手に取った『簑浦も諸戸も幸せになれる最適解』にあった。どうしても二人を幸せにしたかった。

そのために以下のことを行った。

そしてひたすら二人が相思相愛ではないという可能性を潰し、相思相愛である可能性を見つけ出す作業




解説『簑浦も諸戸も幸せになれる最適解』①

箕浦の白髪

二人の愛の一番の障害は、箕浦の白髪化=「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」という点。

これが諸戸が箕浦の前にあらわれることがなくなった原因だと思う。彼がどんなに誠意を尽くそうとも、これだけはどうにも覆すことができない。

しかし、実は原作では白髪化したタイミング=直接的な原因が諸戸に襲われたことのみだとは明記されていない。

そして舞台でも、実はめちゃくちゃぼやかされている。

冒頭、語り部である『私』が自身の体験した恐怖について語ろうとする。その時にまるでトラウマが呼び起こされるかのように喉元を掻く仕草をする。

後半井戸の奥、深い完全なる暗闇の中、水位が増して死の恐怖に襲われた時。『私』佐藤箕浦も、諸戸と石田箕浦と同じマイムを行って移動し、水位が増しだすと喉を掻いて苦しみ悶絶する。

これは、白髪化するほどの『生理的』な恐怖が、諸戸に襲われる前から強烈にあったという解釈にできる。

では逆に、諸戸に襲われた後の恐怖はどうだろう。助八さんの救助が来て、生死の恐怖は去った。丈五郎の恐怖も去った。では諸戸に犯される恐怖はなくなるか? 普通に考えれば、自分を襲ってきた相手が側に居るなんて恐怖しかない。第三者が居るから安心だなんて暢気になれる訳がない。(学術的根拠を略していることは恥じています)

箕浦は、諸戸に襲われた時にあれほど恐慌したのに、襲ってきた相手が側に居てもケロっとし過ぎなのである脱出できた時なんて笑いあっていたりする。

これらによって、「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」ということを否定できる可能性が、十分にある。


同性愛への拒絶:あの夜まで

生理的』に受け付けられない訳じゃないのなら、箕浦の同性愛への拒絶はどこからくるのか。

実は学生時代の箕浦は、同性愛を拒絶していない。

諸戸が触れるままにさせ遊戯を楽しんでいたと言っているが、これってちょっとエッチではないですか? 私は『もてあそぶ』というよりも、遊廓でのお戯れみたいな印象の方が強かった。エロかった。

…脱線した。ともかく同性愛を否定する、拒絶する描写が無い。

ましてや「あつい手だね」というセリフは、諸戸と佐藤箕浦の両方が同時に口にする。

これは原作では諸戸が言い、簑浦も『私も同時に、火のような相手の掌を感じた』とある

あの夜、諸戸と箕浦は、本当は同じ気持ちであったのではないか。


同性愛への拒絶:あの夜から

しかし大人になった箕浦…いや『私』佐藤箕浦は、頻繁に同性愛を拒否する。

そして井戸の中、「今こそ、僕の願いを容れて、僕の愛を受けて」と請い願う諸戸を「あさましい!」とはね退ける『私』佐藤箕浦。

実はこのセリフ原作には無い。そして学生時代のあの夜は諸戸の方が言っていたセリフなのだ

「君は浅間しいと思うだろうね」と。

箕浦に『同性愛を持つ者は異人種』だと一番最初に植え付けたのは、他ならぬ諸戸であった。

そしてあの夜、「『私』は諸戸との関係はこれで終わったと思った」。

もし、もし諸戸が、自分で自分の気持ちを否定してしまわなければ、二人が結ばれていた可能性もあるのではないか?


『箕浦』の存在

あの夜の後、箕浦が大人になりSK商会に勤める場面から「過去の『私』」石田箕浦が登場する。

大人になった『私』佐藤箕浦は同性愛嫌悪感情を見せるが、石田箕浦は同性愛嫌悪していない。

諸戸が自分に恋していることを頭では理解しているが、そもそも同性愛をわかっていない。だから諸戸からの熱視線性愛アピール)をまったく感知できないし、諸戸からの接触に応えること・握手を求められた手を握り返すことができる。

スポットライトが当たらないところでの石田箕浦と諸戸は、まさしく「諸戸と簑浦は何か変だ」状態熱視線を送ったり触れようとしたり羞恥の色を見せたりする諸戸に、石田箕浦はまったく気付かない。A.T.フィールド固すぎ)

絶望的に脈ナシな究極のノンケ

原作の簑浦とはかなり印象が違うそう(私は一度推理完了するまで未読を貫く主義のため世論であるが)。

簑浦と箕浦、原作とは名前漢字が異なるし別人か? いや、そうじゃない。無意味な改変は絶対に起こらない。「虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェア」だからだ。印象が違うなら、『変えた理由』と『変えても原作の簑浦を成立できる理由』がある。

石田箕浦が登場する前。佐藤箕浦が諸戸との関係は終わったと思ったあの夜。諸戸が泣きながら請うた内容は以下だ。

「君は分っていてくれるだろうね。分ってさえいてくれればいいのだよ。それ以上望むのは僕の無理かもしれないのだから 。だが、どうか僕から逃げないでくれたまえ。僕の話し相手になってくれたまえ。そして僕の友情だけなりとも受け入れてくてたまえ。僕が独りで想っている。せめてもそれだけの自由を僕に許してくれないだろうか。ねえ、簑浦くん、せめてそれだけの……」

諸戸が願った内容、これまんま石田箕浦じゃん……

石田箕浦は諸戸を友人として深く信頼しているし、井戸の中でなんて一緒に死ぬことすら受け入れている。諸戸の願いを、字面通りに叶えている。

しかし周知の通り、諸戸が心の内で望んでいたのは、彼の『死にもの狂いの恋』を受け入れてもらうことだった。


諸戸の望みと願い

諸戸は自身について怖れている描写が多々あった。それは自分の素性と性愛対象が『普通と違う』ことでもあったし、『父に命じられたから行っていたはずの不気味な研究にいつしか諸戸自身不思議な魅力を感じはじめていた』ことも大きいと思う。

強い劣等感を抱えた自意識と、強い罪悪感をもたらす超自我

我と我身を醜いと卑下すればするほど、美しいものを強烈に求め、美しくあるべきだという観念に囚われる。

諸戸の心の内の葛藤が『手記の秀ちゃんと吉ちゃん』そのものに見えた。諸戸の望み(イド)と願い(超自我)は大きく解離している。

箕浦が写し取ってしまった『同性愛を持つ者は異人種』という価値観、『親友という姿』は、諸戸が持つ美意識刷り込みだった。箕浦にとって諸戸は、本当に「美しい青年」だったのだ。


『私』と『箕浦』

石田箕浦は本当にクセのない、まっすぐな好青年だった。諸戸の理想とする『普通』がそこにあるように見えた。そして原作の簑浦とは印象が異なる存在

これはつまり、簑浦のイドと超自我のようなものが、『私』佐藤箕浦と石田箕浦に分かれて表現されているのではないか。一人の人間を二人で演じ、二つの存在(語り部の『私』と、簑浦のイド)を一人が演じているのではないか。

彼らの箕浦の分担は、紀州の孤島に着いてから大きく変動し反転してゆく。

井戸の中で諸戸に襲われ、完全に石田箕浦から佐藤箕浦に替わったのは、諸戸が望んだ存在が友人ではなく恋愛対象としての箕浦だったこと、そして諸戸の手によって「諸戸の理想とする『普通』」が壊されてしまったこと…『私』になった石田箕浦にも諸戸の姿は獣のようだと評されている。学生時代のあの夜に諸戸が否定をしてしまったこと、それの繰り返しだった。


『私』の恋心

そして秀ちゃんへの恋心を諸戸に恥ずかしいものと責められる場面。実はあれは原作だと簑浦のモノローグによる言い訳タイムとなっている。諸戸はそもそも丈五郎に捕まって、島に到着して以降会っていないというのだ。正確にセリフを覚えていないが、原作未読の私でも、最初に秀ちゃんから手紙を受け取ったシーンに諸戸が居ることに強い違和感を感じた(そして友人が原作では諸戸が居ないことを確認してくれた)。

よくよく考えれば変なのである。箕浦に恋慕を寄せる諸戸に責められる筋合いはない。初代に操を立てるなら諸戸の恋に応えることも恥ずべきことだし、諸戸に気を遣う必要だって本質的には無いのだ。(まるで『アイドル恋愛しちゃいけない』理論だ。)

ではなぜ超自我ポジションである石田箕浦ではなく、諸戸が責め立てるのか。

箕浦の美意識は諸戸の影響を強く受けているから諸戸の姿をしていたとも捉えられるが、それ以上に、常識的な葛藤だという以上に、箕浦の心の中に諸戸を慕う側面も幾ばくかあったから、秀ちゃんに恋する自分と、諸戸を慕う自分で対立したことを表現していないか。

佐藤箕浦はもちろん初代にも秀ちゃんにも惹かれているが、彼が箕浦のイドのポジションであるならば、諸戸のことも結構好きだった。(イドでなく単なる『私』なのだとしても、諸戸を見つめる視線に愛憎のような熱が込もっていたし、)諸戸との会話に深山木が入ってきたとき「早くないですか!?」と驚くのは二人の箕浦で、石田箕浦一人だけが言うと単純に時間が早かっただけに聞こえるが、佐藤箕浦も合わせて言うことで「諸戸との会話に邪魔をされた(もっと諸戸と話したかった)」かのような邪推ができてしまう。

海岸で諸戸を見付けるのも石田箕浦ではなく佐藤箕浦だ。

そして諸戸が握手のために差し出した手を『箕浦が握り返さなかった』時。諸戸は驚愕の表情で『私』を見る。見つける。実は、物語の始まりを告げる運命が廻りだすような音楽が流れて以降(犯人だと疑って諸戸の家を訪ねて以降)、諸戸が『私』を初めて見たのが、この『箕浦が握り返さなかった』時。

握り返さないのは、握り返すことに意味が生じてしまうから石田箕浦は諸戸の恋をまったく感知しない。そんな石田箕浦が握り返さないわけがない(実際に、諸戸に見つかってしまった『私』が顔を背けた瞬間、石田箕浦は手を握り返す)。つまり学生時代のあの箕浦が、心の中にまだ居たということ。

諸戸にとってはそりゃあ嬉しいことだろう。彼はそれ以降箕浦に話しかける時、佐藤箕浦を見てから石田箕浦を見る。ここからどんどん、『箕浦』の行動を表現するのが佐藤箕浦へ移行してゆく。


すれ違う二人

一度は友人として、諸戸と共に死ぬことも受け入れた箕浦。

しかしその結末を自らの手で潰す諸戸。

逃げながら箕浦は吼える。「死んでたまるか!」と。箕浦は白髪化するほどの生死の恐怖を体験したばかりだ。

諸戸に襲われるも未遂に終わり、命が助かることに深く絶望する諸戸。

井戸を出た二人は笑いあう。諸戸は箕浦が白髪化するほど生理的同性愛を受け付けないのだと認識したように、箕浦の白髪を見て泣いているように笑う。

そして箕浦の前に現れなくなった諸戸は、気持ちを遺して逝くことで最期にまた箕浦へ大きな傷を残す。




解説叙述トリックを駆使し隠された真意

先述の通り、私の推理動機叙述トリックを逆手に取った二人が相思相愛であったことの証明にある。

からくりが解ってみると、どうってことない・ただ上演されているものそのままに過ぎないのだけど、ここに辿り着くまで本当に一週間ひたすら睡眠時間を削って悩んだ。二回目に観劇した時などは、とにかく正確に推理するためにありのまま最前列からガン見してきたのに、どうあがいても悲恋という現実に心が折れそうになった。マジで。実は二回目に最前列観測した時よりも、初見H列サイドから観劇した時の方がイイ線いってたよな(納得の仕方はブッ飛んでるけど)と思う。

で、共に推理していた友人が先に原作叙述トリックに気付き、簑浦と諸戸のBLは成立しているという解を出してくれたので、二回目の絶望した記憶で観劇を終えるのもなんだし推理はやめて初見のつもりで観劇しようと思って向かったのが三回目の観劇。最後尾辺りの補助席。

しかし驚くほど新たな発見がまたどんどん出てきたうえ、深山木のセリフによって私は舞台も叙述トリックを使ったミステリーなのだ確信してしまう。

これは原作にもあるセリフらしいのだが、深山木がトリックについて思わせ振りなことを言うシーン。そのセリフが完全に『叙述トリック説明』になっていたのだ。聞いた瞬間、震えが走った。

本作がミステリーであると気付けるように、最初から以下の違和感と解法が提示されていた。

さて。ここで疑問に思われることがあるだろう。なぜ叙述トリックを使用しているのか? 隠したいものは何なのか?

この件について私は非常に貴重な体験をする。

本作の大好評っぷりと、推理に明け暮れ神経衰弱している私を心配して、友人が本作を観劇してくれた。三回目観劇の日、偶然スケジュールが合って友人2人(友人Aと友人Bとする)と一緒に観ることができた。終演後、私はわくわくしながら二人に感想を求めた。

友人A「箕浦殴りたい……不快過ぎて体調悪くなってきた……」(※意訳)

当時、箕浦殴りたい勢は最大勢力に感じた。過激箕浦擁護派も0ではないが、大多数が箕浦(おそらく『私』のみ)に不快感情を持っていた。冗談ではなくガチで友人Aが苦しそうにしており、私も初見後は物凄くモヤモヤしていて苦しみがよくわかるので、少しでも気が晴れないかと友人Aと対話することになる。



不快感を分解していく。

友人Aは非常に言いに難そうに、しかし押しかかる不快感から助かるため、意を決して打ち明けてくれる。

友人Aも不快の対象は『私』にあり、その根源を追ってゆくと友人自身が「『拒絶』されるのが本当に無理」だから、諸戸を拒絶しているのに側に居た『私』を悪だとした。

増田「拒絶することを『悪』だとするなら、今『拒絶を拒絶』している友人Aも悪だということになるでしょ? 友人Aは悪なの?」

結局友人Aには私の初見感想を読んでもらい、加えて私の心の闇()もひっかかった話をしたことで、とりあえず翌日出社できるレベルには不快感が晴れたと言ってもらえた。良かった。

さて、私は友人Aと対話して思った。「もしかして江戸川乱歩のやりたかったことってこれでは?」



感想を書いた方ならわかると思うのだが、感じたことや思ったことの根拠を話そうとすると、自身についての話、しかも心の闇()の部分を語らないとどうにも説明できなくなってしまう。

私も推理ログ含め大量に書き残したが、心の闇()を除いても、暗闇マジ怖い体験とか、無意識下の生理的拒絶は実在するよ体験とか(思えばこいつが二人の恋の一番の障害だった)、とにかくネガティブ体験談バンバン出てくる。

共に推理原作解読した友人も、舞台の感想を書こうとしたら闇にぶち当たって、書くのを控えようとしていた。(Permalink | トラックバック(0) | 22:47

http://anond.hatelabo.jp/20170215164956

神学を身近にやっている人がいるけれど、話を聞いてるとめちゃくちゃな原典に対してどうにかして理性的解釈を与えて現実世界により良くなじませてしていこうとする行為の積み重ねであるように思える

無宗教信仰こそ盲信しやす

宗教が悪いんじゃなくて、宗教排他性とか盲信することとか、そこからくる暴力性や無理解がいけないんだと自分は思う

から無宗教な人こそ、宗教は悪だとか、自分は真に理性的人間だとかといいたがる人が多い気がする

でも自称無宗教宗教が悪だと唱える人は、それこそ無宗教信仰に取り込まれてるんじゃないか

自分が考えていることこそが真実だと盲信してるその姿こそ、宗教狂信者と似ているんじゃないだろうか

大切なのは自分が何を信じ、正しいと思っているか自覚し、そのうえで他人のそれを許容することなんじゃないか

それは無宗教だと考えている人でも、何らかの宗教に属していると思っている人でも同じだと思う

もちろん、無宗教でも宗教を信じている人でも、それができている人は既にたくさんいるんだろうけど。

そもそも日本に住んでいる時点で儒教やら仏教やら神道やらがごった煮になった常識や慣習のような何かを信仰してる気がする

宗教って難しいね。こういう話しをすると特大ブーメランな気もしてきてしまうし。

でも宗教が悪いんじゃなくて、それを盲信して人に迷惑をかけるのがいけないんだと俺は思うわけですよ。

反対にいえば迷惑かけなければ何信じてても、本人が幸せならいいんだよきっと。

2017-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20170212230250

保育士の件でもロリコンどうこうで感情的になる人はようさんいたけど

結局そういう声は押しとどめて理性的に語るべきって意見が多数出てしまたか

今更ロリコンとかそういう方面から過度に人権否定しようというのはかなり厳しいのでは

三十路フリーター女、結婚に迷う

彼と付き合って2年、結婚視野に入れている。

とても私を大切にしてくれる。

ただ怒ると怒鳴り散らしたあとに黙ってどこかへ行く癖がある。

次の日には機嫌を直してくれるけれど、喧嘩きっかけになった話をもう一度冷静にしようとするとやはり怒って黙ってどこかへ行く。

でも何度か繰り返すうちに彼の中で何か納得がいくようになったらしく、怒らなくなった。

それ以来何事もなかったかのように機嫌がよく、大切にしてくれる。

彼の、頭が良くてしっかりしていて、私が好きなもの、好きなこと、全て把握していていつも構ってくれるところが好き。

それなのに一方で、彼が怒っては機嫌を直しを繰り返し何も解決しないという期間が1ヶ月以上続いたことが私にはかなり心細くショックで、今も忘れられずにいる。

結婚して家庭を築いたり子どもができたときに、私が無意識に彼にとって理解できないことをするたびにまた怒鳴ってどこかへ行ってしまうのだろうかと、また機嫌を伺いながら自分意見が言いづらい日々を過ごす日がくるのだろうかと、そういう漠然とした不安を抱えるようになった。

私はもう30歳も近く、理性的には彼と結婚したいのに、ここへきてもっと他に良い人がいるのではないかと戸惑い始めてしまった。

いや、でもたいした定職もつかない三十路女をこれ以上愛してくれる人など現れるのだろうか。

そもそも現れるならあっさり今の彼と別れるみたいなドライな話なのだろうか。

彼の好きなところもまだいっぱいあるのに。

目の前の彼はいつも優しいので、やはりなかなか別れようとまでは思い切れない反面、フリーなら身の回り男性に関心を持って声をかけられたのだろうかと思う反面、別れて同棲を解消すること、ひとりで30歳を迎えることを怖いと思う私がいる。

けものフレンズってすっごーい!!!

けものフレンズが、思いやり/助け合い/許容/共存その他諸々の道徳的メッセージ性に溢れている事は、もうわざわざ言わんでもいいだろう。私も初見時、Eテレ幼児向けアニメを思い出した。確かに、現代大人に欠けている「思いやり精神」を思い出させよう的な作品だ。内容が幼児向けアニメ酷似しているのだからIQが下がる」という反応もわかる。しかし、ただ「脳が溶ける」という方向で捌くには惜しい程、挑戦的で強固で強烈なアニメだと私は思う。

けものフレンズは、幼児向け情操教育アニメとは決定的に違う点がある。(萌え美少女描写についてはここでは扱わない)

はてなを読むタイプの諸氏になら、つくってあそぼゴロリを例にするのが適切だろうか。わくわくさん提案に対して、否定/疑問→評価(改心)の流れがテンプレだ。幼児向け番組では、「否定/疑問」のフェーズがほぼ必ず存在する。頭や言葉を意地悪く操り始める年頃の、5歳以下の幼児向けである為だろう。言葉の覚束ない乳幼児大人気なアンパンマンにさえ、バイキンマンがいる。そして、「”意地悪な”否定や疑問」には、必ず「”罰”や”改心”」といった結末が用意されている。正しく情操教育だ。

既に言われまくっている様に、けものフレンズには「意地悪な否定や疑問」と「罰や改心」のフェーズ存在しない。だから、優しく平和物語と言われる。だが私は、その「意地悪な否定や疑問」は、省略されているだけで存在すると考えている。

そのフェーズは、視聴者の側にある。

けものフレンズが無理な人々がいるのもよくわかる。けものフレンズ世界には、セルリアンという危険生物がいるとはいえ、争いや困窮は存在しない。幼児向けアニメと同じく、鬱陶しい程の理想の塊と上っ面の美しさに満ちた世界だ。「こんなに上手くいく訳がない」という言葉にまとめられるようなツッコミをせずにはいられない。そういった「バカかよ」「そんな都合よくいくか」的否定/疑問をわざわざ描写せずとも、観ているのは現実をよく知った大人たちなのだ現実社会には「意地悪な否定や疑問」は当たり前に存在する。人前で叱責するのが大好きな上司、けなす事で自分の優位性を保ちたがる人、重箱の隅をつつく様なクソコメクソリプ。具体例をあげればキリがない。大人になっても「意地悪な否定や疑問」に晒されたことのない人はいないだろう。だからこそ、けものフレンズはその段階を飛ばす。いちいち描写しなくても、視聴者自分で補完できる。「意地悪な否定や疑問」のフェーズがなければ「罰や改心」という回収も必要ない。だから最初から全て受容しちゃっていい。

個性尊重しよう。互いに違いを認め合い、助け合おう」

美しく理想的だが、現実にするにはあまりにも難しい。自分人生を振り返るだけで分かる。大体の人は、そんな現実離れした理想は建前で子供だましだと割り切り、諦める。けものフレンズは、そんな疲れた大人たちへ向けられた優しくも暴力的物語だ。

余計な描写を省き、極端にシンプル言葉で、「互いを認め合うこと」「共に助け合うこと」を強烈に表現している。ただシンプルに、愚直に、ド直球ストレート視聴者の心へぶち込んでくる。余りにも単純で暴力的なまでの行為に、視聴者は同じく単純に「すごーい!」としか反応できない。偶然にも、太平洋の向こう側で人々が分裂し憎み合っているこのいま。幼児向けアニメ手法という仮面を被り、美しき理想で何度もしつこく殴りつけながら、その精神を、敢えて大人である視聴者へ向けて真剣に再提示している。

そう考えると、すごい。本当にすごい。逆にすごい。強い。美少女要素なんか飾りだ。ただただ、単純に強い。レベルを上げて物理で殴っている。おそろしい。幼すぎるほど平易に研ぎ澄まされたその言葉が。自己他者のできる/できないをすぐに受け入れるその合理性が。これで行こうと決めた制作陣の胆力が!

「すごーい!」「君は◯◯が得意/苦手なフレンズなんだね!」の定型文が流行るのもわかる。シンプル真摯一言は、理性的だが長過ぎる文章よりも伝達力が強い!

そりゃ流行る!!シンプルでわかりやすく強い言葉は、流行!!!

そして、理念提示だけじゃなく、何かを達成するまでの過程や、フレンズ達の個性をクッソ冗長的かつ丁寧に描写する所だ!視聴者厳選な一話冒頭の狩りごっこも、橋作り地上絵作り等の困難を乗り越える過程も、フレンズ習性説明も、とにかくやたら尺が長い!だが、そのしつこくしつこく丁寧な描写が、フィクション過ぎる美しさを持つけものフレンズ世界と、私達の現実世界を繋げるリアルさを醸し出す!動物園のおにいさんおねえさんの生声による解説のおまけ付きだぞ!リアルと繋がってしまうだろやめろ!!ああなもう嫌になる!作品の純度が高すぎる!シンプルものは、真摯に作られる程強烈な強さを持つ!!私がどんなに言葉を費やしてけものフレンズを褒めても、「すっごーい!」の力に遠く及ばない!!

けものフレンズはすごい!!!すっごーーい!!!!!やったーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2017-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20170209185201

しろほとんどのケースでは宗教側の方が理性的にふるまっているように見えるけどな。

なんで宗教の話をするとき宗教側の人も宗教側でない人も非理性的になってしまうんですか

2017-02-08

大人になったら自動的理性的人格的にすぐれた人間になれると思ってた

大人っていうのは具体的には25歳とか30歳とか。でも夏目漱石の「こゝろ」の先生も言ってたじゃん、本来はどの人間も善人だが、誰もがふとしたきっかけで悪人になりうる。利他的な心を持った優しい人間も土壇場で利己心をむき出しにすることがあるみたいな…… そんな具合で人間追い詰められたら簡単に弱くなるし、カントみたいに定言命法(~~するべき、という形で内心にもつ倫理規範)に従って完全に正しく生きることなんて何歳になってもいか人間的に成長しても無理だったんだ! 少し前まで弱い人間の話読むと「いい大人のくせして」って嫌だったけど、そういう不完全で無力な人間が理性によって己に打ち克とうと一生もがいてもがいて死んでいくさまもそれはそれで健気で可愛いなって最近思いはじめた

2017-02-06

舞台「孤島の鬼」2017版を観劇して

※私の答えが見つかったので、現在最終解答を書いています

ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。



※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ

http://anond.hatelabo.jp/20170209222825

http://anond.hatelabo.jp/20170212024356



夜明けて昨日の話。

推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。



とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。

ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから観劇予定のある方は読まないでくださいね



まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。

こーゆー考察甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。

そこでまず強烈に思い浮かぶのが主人公であるはずの『私』。

『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在である共感し難い。

そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦感情移入できない。

ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)

これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……

それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、

そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。

でも、それっておかしくね?って思って。

ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。

自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、

いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、

どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。

目線だって絶対許せない地雷カップリングというもの実在する。

から「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。

でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?

これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。

この感情原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈押し付けなのか?

という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ

http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636

Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードから勝手妄想して、

江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。

諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。

観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。

田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩ブロマンス結晶として大正解

対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。

女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。

『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。

(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)

メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害物語カタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。

(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠片想いとして殺す……って、個人的めっちゃ萌える。)

作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷箕浦永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。

しかしそれが本当に『箕浦』のすべてだったのか?



舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。

私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。

でも、配役を知ったとき

美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、

佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年石田隼さんが20代箕浦過去の『私』」を

演じることが疑問だった。

いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。

「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはい観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在公表されてることは少なそうだけども。)

しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。

舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、

諸戸と出会い親交を深めた学生時代箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、

諸戸と別離大人になり恋人の初代との出会いから箕浦石田さん)は登場する。

石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。

 

「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦であるため、『私』の歪さから箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、

事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。

(皆さんは自分の体が深層心理拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれ意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)

箕浦』は諸戸の性愛を受け入れることはできなかった。

しか性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?

必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか

そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。



物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!

より妥当なところの分裂理由として「箕浦二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い

作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。

うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈ハッピーだよね。

(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)

(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性テーマ舞台大好物なんです。)



延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出表現もとても良かった。

諸戸の父親最期に対して、主人公である箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想セリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。

父親の変貌は、絶対他人箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。

父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親経験たからわかる。

河合さんの怪演は本当に感じるものが多くあった。



舞台というもの面白いもので、同じ現実を同じ密室複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものから

書籍映像物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。

たとえ自分複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。

演出による印象操作完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)

から舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい



そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観しかなく、原作者スタッフキャストが込めた意図真相はわかんないんですけどね。

舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」、とてもよい観劇でした。

勉強したくなければしなければいい」

いつも謎なのは勉強の内容自体には理由文脈まで把握することを求めるのに、形式に関しては最終的には盲目に受容しなければならないという理論カットアウトしてしま場合がよく見られること。理性的でもないし、勉強させる効力もない態度で終わってしまう。

たいていこの話は勉強できる人たちと勉強できない人たちが交わる場所で生じる。だが、勉強できる人たちは勉強に苦を感じないので勉強する理由を探索する必要がない。また一方で、勉強できない人たちは勉強する理由を欲しているけれども勉強をできないのでその理由を探索できない。

から、この手の話で一番納得がいった答えは、なんのために勉強するか分かるようになるために勉強するってことかなと思う。

なんで勉強するのかわからないならば、勉強して分かるようになればいい。それは勉強してみないとわからない、勉強してもわからいかもしれない。けれど分かるようになることがある。勉強をする理由が知りたいならば勉強するしかない。

まりこれは勉強できない人たちに宗教的決断を促す行いなのだ

なので、勉強する理由がわからないのに勉強しなければならない人には、勉強を続ければ言葉では表せないけれどなぜ勉強をするのか分かるようになるという宗教的事実(?)と、それまでの間に苦痛なことを耐えるためのテクニックを指示するっていうのがベストであるように感じる。それ以上の理性的ななにかが用意できるのだろうか。ほんとうは信仰心なんてものに頼ることは理性の観点からは望ましくないのかもしれないけれど、まずは宗教者が正しいということを受け入れる心性がなければ理性は手に入らないという仕組みになっているように思う。理性が手に入ってからようやく勉強する理由にたいしてどうこう言うことができたり、それを理解したり実感できたりする。それまでは信仰しなければならない。

はじめの段階でこれを受け入れるにはある程度知的活動による充実感を得たことがあるという宗教体験がすでにあるか、あるいは他の場面において日常的に信仰心もつという習慣があればよいようで、実際にそういう人たちは勉強する理由理解していなくても勉強を続けられるみたいにみえる。

2017-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20170203165636

自分正義だと認識するためにも

客観的「悪」存在と対比しなきゃダメなはずでしょ。

から、なんで正義けが理性的じゃないと思ってるの?

2017-02-01

合理性について

道理にかなった性質論理法則にかなった性質

2 むだなく能率的に行われるような物事性質。「合理性に欠ける役割分担」

goo辞書より

このgoo辞書合理性についてそれが能率を求めるものか、人に道理を求めるものか使い分けていない。

合理性を理性と能率性という全く別物の言葉を一つに含めてしまったのは

合理性という言葉の最大のミスだと思う。

以下の文章でそれを明らかにしたい。

私たちは何が道理にかなっているか決めることは相対的であることを知っている。

その相対性人間社会では極力減らすべきものである

何が正しいかを人に語る際に一々人と対話し正しさについて合意を取ることはコストになる。

そして、コストを少なくするのは合理的である

(ここで合理的といってのは、本当に混同して使った、コスト使用を能率的にすること、コストを少なくすることを論理的

その結果以下の文が生まれしまった。)

相対性コストという点で無くすべきものです。

なぜこんな極端で文に?

コストの面で相対性は少なくするべきですというマシな文章にできたはず。

コストを少なくするのが合理的であるという文がそうさせた。

ここで合理的だといったのは、論理法則にかなった、などの意味で使ったと脳が勘違いしている。

合理性は、コストをまるで使わない、相対性を無くすことを選んだ。

まり合理性には理性による間違いを正すという極端さと、ただ能率をよくすることを一つにして使っているため

あらゆる能率性・効率性を求める用途において極端になってしまう要因の一つになっている。

能率を求める事は必ずしも理性的ではない、惰性で能率性を求めているときに理性は働いていない。

2017-01-30

一目惚れなどの衝動的な要素で恋愛をすると

「いっときの迷いで関係を持つとは何事か!」と怒られ

きちんとした考えのものとで恋愛すると

恋愛理性的思考など持ち込むとは何事か」と怒られ

いろいろ工夫してもなんだかんだ言っていろいろ怒られるんだから

恋愛したくなくなる若者が増えるのも道理だと思う。

2017-01-26

韓国って大丈夫なのか?

日韓合意によって、とりあえず、両国交流が本格的に再開するのかと思ってましたよ。

韓国映画やKポップも割と好きで、韓国料理は大好きだ。

ヤフコメTwitter嫌韓的な発言には辟易していた。

しかし、大統領弾劾に始まり少女像、そして今回の仏像

日韓合意って何だったのよ。

韓国の人々は、おかしいと思わないのだろうか。

理性的であろうとは思わないのか。

そりゃ色々と思うところもあるかもしれないが、道理よりも感情が優先されすぎでは?

個別具体的には良い人ばかりなんだけどね。なんか流石にイヤーな気分になる。

2017-01-24

婚活アプリで間違って「いいね」をした人と結婚した話

Facebook連携婚活アプリ婚活して結婚した。そろそろ新しい命も授かり。すごく幸せ

この人と子供と、一緒にいろんな景色を見ていろんな話をして、苦労もあるだろうけど、豊かな人生が開けているのがすごくイメージがつく。

自分自分であるだけでだれかを安心させられて、自分安心できる場があることは本当に幸せだ。



ただ、嫁と知り合ったのは婚活アプリで間違って「いいね」を送ったからだった。





2年ほど前、当時の希望は家庭仕事がちゃんとできて、身長も150センチくらいが希望で、おっぱいがおおきくて、童顔で、できれば26歳までがよかった。何人かうまく続いている人もいた。

理性的に、無機質に、仕事を進めるように戦略的婚活を進めていた。


ある日酔っ払っていたせいで、タッチがずれて嫁に「いいね」を送ってしまった。

当時嫁は30歳だし165センチの大柄で、喫煙もして、お酒も飲んで、男性と同じくらいばりばり働いて、家庭的さは感じられなかった。

めんどくせーと思ったけど「いいのみ友達ができればいいかな」くらいの気持ちでいた。メッセージがすぐに飛んできた。自分は3日おきくらいに適当に返していた。嫁からは必ず6時間以内に返事が来ていた。



1ヶ月ほどやりとりをしていた日、嫁に飲みに行かないかと誘われたので「日曜の早い時間なら(さっさと帰りたい)」といって軽く飲みに行った。




そもそも女性として会うつもりもなかったので気を遣わないで仕事のこと、人生のこと、趣味ことなどあれこれぶっちゃけたら、なんだか楽しくなって二次会まで行ってカラオケ行って朝帰りして(ホテルではない)、一緒にいるとすごく楽しいので次も取り付けて・・・・みたいな感じで、だんだん彼女のいいところを見つけ、交際をすることになり、今に至る。


同棲してわかったが、意外と嫁は残り物で飯を作るのがうまく、「料理うまい」にも2種類いるんだなあということに気づく。人によって賛否はあるだろうが今後家庭生活を送る分にはすごくいい感じ。家族とのつきあいもきちんとする。あと二馬力で稼いでいるか貯金ができる。金を稼ぐことの大変さをわかっているからか、結婚にまつわる出費も無理を言わずにとても助かる。



からハードスペックや顔が若干はずれていても、縁があればとにかく会ってみることをおすすめする。相手雰囲気や人となりを見るとほんとに変わるし、結局web写真でわかることなんてほんとに一部。

ノシノシ

2017-01-23

差別主義者は男にも女にも同じくらい居たという男女平等の話

今までは女性男性優位社会に虐げられてきたので可視化されていなかっただけだった。

よく考えてみれば女だから差別主義とは縁がないはずもなかった。

男性保育士に対する今般の女性陣の非理性的差別意識丸出しの反応は、

一昔前、フェミニズムがまだ全く力を持っていなかった頃の男性優位社会による女性に対する野卑な眼差しと瓜二つだ。



だがフェミニズムなどの運動一定程度奏功し、女性の権利がやっと「マシ」になってきた。

からこそ、フェミニズムは次のステージを目指さなければならない。

ただハンディを受けるだけではなく、自らが主張してきた政治的正しさを、自分自身にも適用して律していかなくてはならない段階に差し掛かった。

ここが正念場。

ここで対等な立場に立とうとせず、

いたずらにこの問題放置したり見当違いな擁護をしてしまえば、

女性男性から「守られる」存在であるという呪いからは決して自由になれない。

(女の理不尽も受け入れるのが男の甲斐性、といった言い訳を男側に許してしまうから

手始めに、ohnosakiko氏あたりがこの問題をどう考えるかを見守ってみたい。

2017-01-20

http://anond.hatelabo.jp/20170119185550

私的には書いた人が悪い。

『甘える』というのは(関係性の近さに因り)許されるだろう、迷惑行為を犯すことである

この時点で

書き手加害者

彼氏被害者

という形式が確定する。

迷惑行為をする以上は『許す/許さない』の判断被害者によるものであり、被害者は『許さない』を選択した。


感情というのはまず、受けた刺激を『快/どうでもいい/不快』のパラメータ認識する。

本能でその感情に直結した行動がデフォルトで設定されるが、経験価値観性格、総じて理性といったもので取る行動を設定しなおすことができる。

書き手はそれをするように求めている。

が、行動の再設定は『判断するリソースがある』時に限る。つまり正常な思考能力と考える時間がある時にしかできない。

状況は「眠くて寝落ちするほど眠たい状況で叩き起こされた」場合であり、また用件は「叩き起こされてまで聞くほどのことではない」ことだ。

考える時間はあっても理性的思考ができたとは考えにくい。

(この「聞くほどのことではない」というのは典型的男性脳で思う「解決策を求めない話」「知っておくべき情報ではない話」という類のものである。今回の場合、痛み止めと医者以外に解決手段を持たないし、そもそも話し相手自分である意味がないため価値を感じない)


ここで

(1)書き手の訴えを聞く(メリット好感度アップ / デメリット解決しようがない、睡眠時間が減る)

(2)自分睡眠を優先する(メリット:充足 / デメリット:怒られる、または不明)

という行動選択になる。


直前まで睡眠を取っていた脳に、(1)のメリットもしくは(2)のデメリット検討材料として挙げられていたかというと難しいと思う。

となると必然的に(2)を選ぶことになる。

なので私にとって、彼の選択はごく自然で全く非のないことだと思う。


お腹が痛かったから優しくされたい、という気持ちは分かる。

だがお腹が痛かったら迷惑をかけたり法を犯していい訳ではない。

要望迷惑行為であり受け入れられなかった。その現実を早々に受け入れた方がいいのではないだろうか。


というか『甘えたっていいだろう』という善意強要をする姿勢(または自分要望は全て通るものだと思う姿勢)を根本から改めた方がいいと思う。

甘えられていいかどうか判断するのは甘えられる方である

要望を通すかどうかを決めるのは要望を通せる権限を持つ方である

世の遍くほどこしを受ける全てに、ほどこす側の善意強要する権利はない。善意は当たり前ではない。

(なお文句を言う権利はあり、文句を聞くかどうかの権利はほどこす側にある。)

それに世の誰が許しても彼が許さなければ有罪である。であれば罪は償うべきだ

書き手がまずするべきは「寝てるときに起こしてごめん。腹痛はもう大丈夫です」と謝罪することだったのではないだろうか。

もうとっくに手遅れのようだが。


なお、書き手の怒りは自分要望自分の思い通りに通らなかったことへの憤りであり、こちらも生理という肉体的苦痛により行動の再設定に割くリソース不足で怒り以外の選択ができなかったための残念な結果である情状酌量余地はあったと思う。

が、反省する意思はなく再犯の恐れが増大したため、情状酌量すべきではない(やっぱなし)との考えに私は至った。


書き手自身も、冷静になって考えさえすれば、自分の全ての要求100%通るなんてことはないということに気付くだろう。(気付かないならそれはそれで。どうせ私に実害ないし)

また立場を逆転させてみて、夜中叩き起こされて唐突に自慢話(典型的女性脳が判断する「聞く価値のない話」)をされれば電話を切り睡眠を優先するのも分かるだろうと思う。

手遅れではあるものの、そういった時に本当は自分がどの行動を選択するべきだったかを考えるべきではないだろうか。

そして次回は受け入れられない甘え方をしないように、経験として蓄積するといいと思う。


なお当カップルが今後も交際を続けるのに必要なのは理解であると思う。

生理の痛みの理解ではなく、痛みを感じているときにとる行動と目的理解である。具体的には

生理苦痛から逃避する手段として甘えたいと思っている。甘えるというのは好きな人に『大丈夫か』などと気遣ってもらう行為などのことを言い、心配されている・優しくされているというのは精神的な鎮痛薬になるため大変有用であるあなたとのコミュニケーションのみで成立するため、是非とも協力して欲しい」

ということだろうと思う。

まぁ共有のみならず理解までを求めるなどというのは大変な手間であり、つまりデメリットであり、それを差し引いてでも恋人でいて欲しいかどうかは当人たちの愛の強さ()によるのではないだろうか。

という訳で通りすがり他人としては「とっとと別れろよwww」と感想を述べておく。


なお短絡的に『彼氏が己の罪を認めて土下座して謝り「二度と生理中のきみにひどい対応をしない、優しくする」と誓う』という対応彼女要望が通りかつ優越感も得られて単純明快だとは思うが、今後DV女になる可能性が高く、また彼氏浮気自殺をする要因になると思うので、老婆心ながら選択すべきではない行動だと愚考する。


愛想つかされるなどと思いもよらないであろう可哀想書き手彼女へ。

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