はてなキーワード: 必要条件とは
自分の周囲でもマッチングアプリを使っている、という話は聞くし
同性はもちろん異性の目から見てどうか?という相談を受けることがある。
・相手に合わせる柔軟性がある
・理想を追い求めすぎない
の4点に尽きる。
早い話、結婚というゴールに向けての戦略がちゃんと立っている。
自分というものが婚活市場においてどのような評価をされるのかちゃんと理解しているので
プロフィール1つにしても自分のターゲットに刺さるように書かれている。
また、相手に求めるポイントが明文化できるのでそこに絞って相手をみている。
かつ、必要条件と十分条件みたいなものがあって「ここは譲れないが、ここは別に妥協できる」というのがあって
自分の要求ばかり押し付けるのではなく相手のことも尊重していると思う。
それとも関連があるが理想を追い求めていない。
マッチングしただけでこの人じゃなければだめだ、とか
画家や建築家などを挙げている辺り、研究者についてはどうでもいいかもしれないけど一分野についてだけ説明しておくね
物理学など他の学問ではどうなるかは面倒くさいので言及しないとして…
数学の研究をする際には歴史については自然と覚えてしまう程度の知識さえあればいいと思う
具体的にはピタゴラスの定理は千年単位のオーダーの大昔に証明されたとか
数百年前には今のような集合論に基づいて数学理論を一から組み立てていく形式は無かった…みたいな基本的な常識があればいいし
それと論文を書く際に論文に関わる狭い分野内で既に何が証明されてるかを把握して説明を出来ればいい
前者は数学の教科書を読んでいる内にいつの間にか知っているし、後者は研究集会に出るだけで自然と把握出来るので
これ以上の勉強が数学者になるための必要条件に入っているかと言うと、全く無い
たとえば線形代数の理論も分からないような人間が数学の研究をするのは極めて難しいが
線形代数の理論がどうやって出来たかの歴史なんて知らなくても一切問題ないし知らない数学者も多いだろう
行列式が行列より先に扱われていた事なんて雑談に使える豆知識にしかならんし
matrixがラテン語の子宮から来てる事はジェンダーの研究者とかの方が知ってると役にたつ事柄なんじゃないかな…
という風に数学者にとっては極めて重要な理論であっても歴史は知らなくても問題ない理論がかなりある訳だ
これは別の分野の研究者でも成り立つ事なのかもしれないが面倒くさいのでここでお終いにする
先日、ラグジュアリー・トラベルをテーマにしたシンポジウムで基調講演を行ってきました。
「量か単価か」でも整理しましたが、ラグジュアリー、富裕層に向けた対応を行うことは労働生産性の向上に寄与し、絶対的な人数を抑えることで、いわゆるオーバーツーリズム問題にも対応できるようになることが期待されます。
でも、現実的には、なかなか、このラグジュアリー対応は現場では進みません。
日本はバブル期まで製造業社会であり、一億総中流とも呼ばれていたことに加え、日本型社会主義と指摘されるように、全体主義的発想、社会の階層化に対する否定的な発想が高く、富裕層に切り込んだ対応をすることは一般的ではなありませんでした。
基本的なマーケティング用語である「差別化」という言葉自体、かつては使うことが憚られたと聞いたこともあります。
今でも、行政や地域レベルでは、ターゲッティングによって、客層を絞り込むことに難色を示されることは少なくありません。端的に言えば、ラグジュアリー市場「にも」なら問題ありませんが、ラグジュアリー市場「に」となると、一気にハードルが上がるわけです。
一方、事業者サイドから見れば、前述のコラムで示したように、ミドル層の市場が膨張しており、ここにミートしていけば売り上げは増えていく訳で、対象市場をアッパー層に向けアップグレードする動機は弱い。
さらに、事業者の立場からみてラグジュアリー市場が「美味しくない」のは、その利益率が低いからです。
単価が高いのに、利益率が低い? とは、理解しがたいことかもしれませんが、論より証拠。世界最大級のホテルチェーン、マリオットのIR情報からセグメント別の単価と利益率を見て見ましょう。
マリオットグループのセグメント別単価及び利益率(IR情報より)
まず、単価を見てみるとラグジュアリー・セグメントではADR(平均1日単価)は$300前後、RevPAR(販売可能部屋数あたりの売り上げ単価)は$200強となっています。その下のフルサービス・セグメントでは、ADRが$170前後、RevPARは$120といったところ。これが、バリュー・クラスとなるアンリミテッドサービス・セグメントではADRが$130、RevPARは$100を割り込むことになります。
一方、利益率について見てみると、アンリミテッド・サービスは20%を超えるのに対して、ラグジュアリー・セグメントと、フルサービス・セグメントを合算した「フルサービス・セグメント」では10%にも届きません。
マリオットグループでは、収益についてはホテルブランド単位では公表しておらず、ラグジュアリーとフルサービスを合算したものしか出していません。
フルサービス・セグメントの利益率は2016年に上昇していますが、このタイミングで、マリオットグループは、スターウッドグループを買収しています。スターウッドグループのホテル(W、シェラトン、ウェスティンなど)が加わったことが原因と考えられます。
Wは数が限られることを考えれば、利益率の上昇に貢献したのは、ミドルクラスとなるシェラトン、ウェスティンであったと考えるのが自然でしょう。
絶対的な売り上げと利益額を見ても、スターウッドグループ買収前の2015年では、売り上げ(Revenues)はフルサービスの方が高いものの、収益(Profits)ではリミテッドサービスの方が高い状態でした。
買収後は、フルサービスの方が収益も高くなりましたが、これは(ミドルクラスである)シェラトン、ウェスティンの貢献でしょう。とは言え、売り上げではフルサービス$14,300ミリオン、リミテッドサービス$4,002ミリオンと3倍近い差があるのに、収益では$1,182ミリオン対$816ミリオンとかなり接近します。
マリオットグループのセグメント別売り上げと収益(IR情報より)
これらの結果は、ラグジュアリー・セグメントは「単価は高いが、儲からない」ということを示しています。単純な儲けだけを考えれば、バリュークラス、アンリミテッドサービス・セグメントに特化した方が良いとも言えます。
グループ全体で採算を合わせる
にも関わらず、なぜ、マリオットグループがJWやリッツ・カールトンといったラグジュアリー・ブランドを展開するのかと言えば、トップを作ることによって、バリュークラスのホテルにまで、そのブランド力を浸透させ、その競争力を高めるためだと言われています。
例えば、稼ぎ頭であるリミテッドサービスのコートヤードは、ADRを見ればわかるように、日本で言えば、一般的なビジネスホテル(北米は、全般的に日本より宿泊料は高い)であり、付加価値での勝負は難しい(=価格競争に陥りやすい)領域です。でも、ここに「バイ マリオット」をつけることで、マリオットグループという価値を持つようになります。本家のマリオットに比べれば、サービスは限定されるものの、マリオットに対してロイヤルティをもつ顧客は選好しやすくなります。また、CRM、ロイヤルティ・プログラムは共通化されているので、いわゆる「ポイント狙い」の人からも選好されることになります。
これは、マリオットのブランド力を高く評価してくれる市場では、特に有効です。例えば、銀座にできたコートヤードは、一泊3万円位で出ています。これは、北米のADRの倍近い金額であり、北米であればJWクラスです。
どういう交渉の結果、こうなったのかわかりませんが、マリオットというブランド力が作用しているのは否定できません。
また、若者であるミレニアムズ(多くは、まだ、富裕層では無い)にブランドの入り口として、バリュークラスのホテルを使ってもらうことで、生涯を通じた顧客になっていってもらうということも狙っていくことができます。星野リゾートが、近年、ビジネスホテル市場に乗り出しているのは、おそらく、これが狙いです。
つまり、ラグジュアリー・ホテルは、それ単体で儲けていくことは難しく、稼ぎ頭となるバリュークラスをグループ内にもち、全体で収益を確保していくということが必要になるわけです。
国内では、こういう取り組みをしているホテルチェーンは限定されているため、外資が入らなければラグジュアリー対応が進まないのは、ある意味、当然の帰結です。
ただ、これはホテル事業者の立場から見た時の話であり、地域としては、やはり、ラグジュアリー市場はとても「美味しい」市場です。
なぜなら、ホテルの売り上げが高いのに、収益が低いということは、その売り上げを立てるために各種の調達をしているということだからです。
端的な例は人件費です。
ラグジュアリー・セグメントでは、対応力の高さが求められますから、より質の高い人材を多く雇用することになります。これは働く側からすれば、自身のレベルを高めれば、キャリアパスが開けるということになります。
また、ラグジュアリー・セグメントでは、食材が「地のものである」「安全なものである」ということは売り上げと顧客満足を高めることに寄与します。これは、ラグジュアリー・セグメントを利用する顧客が「そうした価値観」と「経済力」を持っているからです。そのため、地元の農業者、漁業者は、こだわりを持った良いものをしっかり作った際の販路が広がることになります。
工芸品などについても同様です。部屋の調度品にしても、売店での取扱商品にしても、単価と顧客満足を高めるに、ホテルは、どこにでもあるものを並べるのではなく、できるだけオリジナルであり、ストーリー性を持ったもの(なぜ、ここにそれがあるのかを訴えられるもの)を揃えることが求められます。そうしたホテルの需要に応えていけば、多くの商工業者は、自身のこだわりを経済価値に変えていくことが出来るようになります。
ただし、こうした波及効果は、ラグジュアリー・セグメントのホテルを中心に、富裕層の利用が持続的に行われていくことが必要です。
持続的な取引関係がなければ、人材が自身のキャリアを掴んでいくことも、農業者や商工業者などが、こだわりを持った商品サービスづくりに取り組んでいくことも出来ないからです。
その意味で、単発のラグジュアリー旅行を誘致しても、地域にはほとんど恩恵はありません。瞬間的な売り上げには繋がっても、人材面についても経済的についても効果は極めて限定的だからです。
しかしながら、前述のように、ホテル側としては収益面だけを見れば、サービスを限定し、大量の顧客をさばく方が儲かるわけで、そちらに動こうとする動機が常に存在します。例えば、ラグジュアリー・セグメントであるにも関わらず修学旅行を受け入れる…というのは、そういう選択の結果でもあります。
そういう動きを抑え、ラグジュアリー・トラベルの恩恵を地域が受け取っていくためには、恩恵を受ける地域としても、核となるホテルが収益を確保出来、ブランド力を高められることが必要条件です。
例えば、富裕層は環境問題や健康問題に対する意識も高い傾向にあります。そうした価値観に合わせ、地域全体で環境負荷の高い製品(例:プラスチック製のストロー)を使わないようにしたり、ジョギングが出来るトレイルを整備したりといったことが考えられます。
地域とホテルが、適切なパートナーシップを組んで一緒に取り組むことで、富裕層が滞在したいと思うデスティネーションになることが出来るということを認識しておきたいところです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい
https://note.com/fromdusktildawn/n/n0781ea1ca467
なる記事を読んで少し思うところがあったので、メモしておこうと思う。
大学時代、もう10年以上前になるが、幼児教育で修士号を取得し、保育園で働くという異彩を放つ友人と二人で酒を飲んだことがある。
なんの話をしていたか忘れたが、その際、その友人が「なぜ人を殺してはいけないのか、子供たちに説明ができないじゃないか。」と言ったことを覚えている。
とかく人は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、道徳だとか、哲学だとかに答えを求めがちだが、少し現実をみて、「人を殺しても良い世界」を想像してみたらどうだろうか。
罪なくそのようなことが許される世界であったなら、私は家の扉の外には出ないし、家族も作らないだろう。
自分に少しでも不都合であったり、不愉快である人間は、殺してしまえば全て問題が解決してしまう。
そんな世界に一歩でも足を踏み出すと、いつもふとしたことで殺されるリスクがあるからだ。
そう、「人を殺してはいけない」は社会、いや、主観的な判断では”SOCIETY”が最も意味としては近いと感じる、を成立させるのに”必要条件”なのだ。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書によると、人類発展の大きな理由の一つがこの”SOCIETY”の形成だったと書いている。
とかく利口と言われるチンパンジーにおいても、そのグループ構成は多くて100頭程度。他の動物も同程度だろう。グループ間のコミュニケーションネットワークも限られている。
一方、人類は国家でいうと10億人規模のコミュティ形成。会社においても数万規模のコミュニティが形成でき、そのネットワークはチンパンジーのようなアフリカの一地域限定ではなく、世界中、いや、宇宙にまで広がっている。
言わずもがな、コミュニティはコミュニケーションによって成立し、相互の信頼も必要となってくる。「嘘をつかない」、「話や言語が通じる」、「互いの利益を考える」等、信頼を獲得するのに必要な条件は多くあるが、最低条件が「私を殺さない」ではないだろうか。
だから、もし「なぜ人を殺してはいけないのか。」と人に聞かれることがあれば、私は即座に、「社会が成立しなくなるからだよ。」と答えるだろう。
ついで聞かれる質問はおそらく「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」であったり、「死刑はいいの?」とかだろう。
結論から言うと、私は「社会に必要ない人と判断された人」=「死刑となった人」と考えている。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」と言う問いに対しては、「そうだろう。だが、殺していい人は厳密に決める必要がある。」と考える。
誰もが主観で「社会に必要ない人だから殺そう」と実行していては、客観的にみて誤った判断による殺人が発生し、やはりコミュニティ形成に問題が発生する。
ルールが必要だ。人間のコミュニティはその規模が大きくなるにつれ、約束事から掟、そして法律とルールを形成していった。
「社会に必要ない人は殺してもいいのでは?」という判断をするのが、日本で言うところの刑法なのだろう。
もっとグループが小さい、例えば国家形成前のTRIBEであったり、VILLAGE規模であれば、殺人については知見者(長老とか?)の判断により、その殺人の是非が決められただろう。だがそれは各々がお互いをよく知っているような小規模集団だから成立していたものであって、国家規模の、知らない人間が大多数のグループでは成立しない。
そう考えると自然と「人を殺してはいけない」ことがわかってくる。
一部、「特権階級は人を殺しても良い」という社会。例えば現状のタリバン政権等が挙げられるが、いずれも後進国であり、そのルールによって、社会の発展を妨げ、結果、国の発展が滞っている。
「人を殺してはいけない」はSOCIETY(家族、親戚、集団、会社、社会、政府、国等)の発展には基本的に必要不可欠な、最低限の決まりごとなのだ。
友人に対しては、酒を飲みながら、上記のようなことを滔々と語った記憶がある(無論、その頃ユヴァル・ノア・ハラリは本を書いていなかっただろうが)。その時の友人の反応をあまり覚えていないが、この答えに対する反論はなかったと記憶している。
あの友人は今、子供の人格形成に大きな影響をもたらすであろう、幼稚園教育に力を注いでいると思う。
どんな教育をしているのか、今度聞いてみよう。
足りない頭でつらつらと書いた本投稿に、いろいろとコメントを書いてくれた人たちにまずはお礼と感謝を。
まず、最初に。小生、正直哲学は全然履修していないし、もうちょっと言うとニーチェなんててんで興味がない。
最初にニーチェの記事を引用したのは「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマを聞いて本稿に書いた友人との問答を思い出したためである(友人はニーチェとか好きそうだけど)。
哲学は…なんというか主観的なんだよね。「まあ、そう言う解釈もあるよね」で終わってしまいそうな問答がいつも並べられている印象。
コメントとかで気になった内容については以下に私見を書いていく。
まず、”社会”より”SOCIETY”が感覚的に近く感じた理由は
一方で
”社会”はもっと大多数の人間で構成されるイメージがあるから。とっても主観的だから、以下は”社会”でまとめる。
君が住んでいる家、来ている服、食べている食べ物は全て”社会”の産物である。
「社会を必要としない人」なんてものが存在するのであれば、どこか孤島で、自給自足で孤独に生きる人になるだろうから、自然と殺人は発生しないかも。
哲学を語っていたわけではなく、社会の必然性を語っていたつもり。
そこに権力が集中している場所(権限が大きい?)はあるかもしれないけれど、それも社会の構成要素の一つ。
だから、「社会を維持するために社会の権力に逆らってはいけない」とか、強制されて行うものではなく自発的に「社会を維持するために人を殺してはいけない」と考えるべきではないかと思う。
また、社会を維持したり、大きくすることは、その社会を存続させることに必要不可欠なことで、いわゆる生物が子孫を残すことと同様なのではないだろうか。
「なぜ人が殺し合わないように進化・発展してきたか」と「なぜ人を殺してはいけないか」は別の話ではないような。
「人が殺しあわないように進化・発展してきた」(すくなくとも自然淘汰されない程度に)からこそ、現在の社会があり、その社会の維持のために「人を殺してはいけない」というルールが維持されていると考えている。
「なぜ社会を成立させなくてはいけないのか」は別に当為の話ではないと思う。
「社会を成立させ続ける」という社会目的があって、初めて社会は存続してる。それがなくては社会は成立し続けない。だから「社会を成立させ続ける」は我々人間が営みを続ける上で、必要条件なのかと。
そう考えると、「人を殺してはいけない」は社会存続のための必須ミームなのかもしれない。
「人を殺してはいけない」という基本概念は「社会の維持」にとっては必須であり、いうなれば、生きる上で必須の事項なんじゃないかな?
ここまで書いて、ふと、確かに死にたい人間や、破滅を望む人間には「人を殺してはいけない」なんて概念は通用しないと感じちゃった。
そういう人は社会性の欠如から考えると、普通の人より、もっと野蛮で野生的…?、粗野な人種なのかな。
記事の著者です。
一つ目については、そもそも私は「現実での被害を想定して」一連の記事を書いていないので、読解できなくて当然です。桜庭自身が「実在の人物への加害」と「評に文芸として瑕疵がある」=「あらすじに読みを断定で書いたこと」の問題は別だと言っている(https://twitter.com/sakurabakazuki/status/1430846588268670976?s=20)ので、オミットしました。「何が問題なんだ?」と問われたので、現実的な問題にも言及したまでです。「全く次元の違う話」なので「二つの水準で」と書いています。正確に読み解いてもらえて安心しました。ただ、私が両者を区別できていないと主張しているかのように読める文章なので困りますね。
「小説と現実を混同するバカな読者」という点についてですが、「自伝的随想のような(……)中編」にそういうシーンがあるという紹介を受けて、桜庭の人生史にそういうことがあったのかもしれない、と考える読者をバカと呼ぶのは難しいと思います。この小説を読んで「母は」「弱弱介護の密室で」「夫を虐/待」したと読むよりよっぽど合理的な読みだと思います。
また、乱暴な言い方をすれば、「間違いなく現実でこういうことが起きたんだ!」と考えてしまうバカな読者がいたとして、その混同の責任は読者にあると仮定しても、バカも読みうる全国紙の時評欄に「非合理的な読み」を「あらすじとして断定で書いた」批評家には、そのバカの混同によって生じうる現実的な被害について責任があると考えます。
二つ目については、最初の記事で「②解釈が「混同」されたあらすじは悪いのか」として項目を立て「その問題性を示」したつもりなので、「示せていない」と読むのは非合理的です。あるいは論証できていないという意味でしたら、私の文章にどのような論理的瑕疵があるか、具体的に引用などをして教えてください。
「どんな場合も問題がある」と論じたつもりはありませんが、「鴻巣の主張を成立させる上で問題が生じる」ことは示せたと思っています(それで十分なので)。
ちょうどいいのでまとめます。
①読みが合理的でない
②作品に描写されていない、(その合理的でない)読みによって構成した出来事をあらすじとして断定で書いた
まず②にフォーカスして一つ目の記事を書いたのは、桜庭が「誤読か否か」を(①を)別の水準にあるとして、そちらについての判断を避けたからです。②の点だけでも鴻巣友季子の行為は正当でないことを最初の記事「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」で示しました。その後、二本目の記事「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」の「論点整理・集約版」でも別の形で示しました。
一つ目の記事に「誤読か否か」を問題視するコメントが多くあり、また、鴻巣友季子は②を正当化するにあたって「読みが合理的である」ことを必要条件としているので、①についても二つ目の記事で「鴻巣解釈の検討」と項目を設けて示しました。その後、三本目の記事「補・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか:フェアな考察」でも示しました。
「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210829124450)の「鴻巣解釈の検討」の項だが、Twitterで鴻巣自身から、その読み筋についてのツイートは削除したので言及するのはアンフェアだと指摘されたため、これによらない形で検討する。
なお、その後鴻巣は私のアカウントをブロックするアンフェアな挙動に出た。「そういうツイートをしていた」ことは紛れもない事実なので、記事の当該箇所を修正するような対応は取らない。
さて、参照できるのはEvernoteくらいなので、解釈に相当する部分を引用しよう。
ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。(わたしは-筆者註)驚いて声を飲みこんだ。
母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬があるのだなと思いました。
じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろうと。
その後に、主人公の母が父を「いじめ」ていたことを父の亡骸に詫びる場面があります。
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。p43
このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。
父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。
(鴻巣友季子、「8月の朝日新聞文芸時評について。」https://t.co/x7kg81XQPc?amp=1 強調は原文ママ)
①「記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。/不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」。〈わたし〉がここで思い浮かべている「記憶の中の母」が介護中であるか否かという問題。
②単純に母が「覚えてない」と言ったことを理由に、記憶全般があやふやになっていると判断し、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と解釈してよいか、また「じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろう」と解釈してよいかという問題。
①については「鴻巣解釈の検討」の項目で、鴻巣Evernoteが無視している「それから、/「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」/と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。」の記述から否定した。また、ここは母との会話であるから、母も「病気になる前」と「この二十年」は別だと、つまり「不仲だったころ」は「病気になる前」であるという〈わたし〉の前提を共有していると取らなければ非合理的である。無論、実は会話が噛み合っていないのだと読んでもよいが、その読みがテクストを豊かなものにするかよく考えた方がよい。
②についても、母は「母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた」ので、記憶が全く失われてしまっているとは考えにくい。言われれば思い出すのだ。また、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と仮定する(鴻巣は「思いました」としか書いておらず、そう判断する合理性を説明していない)のであれば、父の棺の蓋を閉める際の「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」が介護中を/も指しているとすることは非合理的である。この仮定は、「夫を虐めた記憶」を含め、母のすべての記憶がそもそも偽りかもしれないという、読みの未決定状態をもたらすからである。この仮定のもとでは、「弱弱介護の密室で」「虐/待した」を事実であると確定することは、〈母〉も含めた作中人物の誰にも、テクストを読む誰にもできない。よって、介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉えることは、合理性を欠く、評者の「主観的」な決定行為にすぎない。
鴻巣の読みがいかに非合理的であるかをここまで確認した。私は「非合理的である」ことを示したまでで、「不可能である」とは言っていない。また、「非合理的な読み」は「解釈」と呼ぶに値しないと考える。
なぜ鴻巣の読みが合理的でないと示さねばならなかったかといえば、それが鴻巣の主張が成り立つための必要条件であることを、鴻巣自身が認めているからである。
もちろん、今回の小説で「じつは父は生きていた」などの読解を書評で行うのはおかしいと思います。「合理的な解釈であれば自由ではないか」という意味です、念のため(桜庭さんは当然おわかりと思うので、桜庭さん宛てではなく、これを読む方々に宛てています)。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
鴻巣友季子の読みは合理的ではないと私は考える。桜庭の代弁ではない。私個人の考えである。だが、私の考えは合理的であると考える。
よって鴻巣に自身の読みが合理的であるということを説明してから議論するよう提言したところ、このやりとりを最後に鴻巣にブロックされた。
先程のリプライと重複しますが、フェアであることに拘るのであれば、まずご自身の読みの合理性を説明するべきではないでしょうか。桜庭さんは「覚えてない」「覚えてたのか」の呼応を論拠にご自身の解釈の合理性を説明しているのですから。— 祝辞 (@yugatoh) August 30, 2021
すでにこの件には応答しました。失礼します。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 30, 2021
鴻巣と桜庭の議論はリアルタイムで、公開で、Twitterで行われており、何が自分の主張を正当化するかについてもツイートで宣言している。この「応答」はTwitter上で行われているはずだが、私には確認することができない……わけがないんだから、ブロックなんてしない方が得だと思うんですけどね。
私は、「介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉える」「評者の「主観的」な決定行為」は自由であると認める。
しかし、それを個人の読みとしてではなく、作品の要約(としてどう見ても読める箇所)に断定で書くという行為は別の問題である。