はてなキーワード: ニュートンとは
世紀 | ||
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3 | ||
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7 | ||
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9 | ||
10 | フェルドウスィー(934・『シャー・ナーメ』著者) イブン・ハイサム(965・光学の父) イブン・スィーナー(980・アラビア医学を体系化) | |
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13 | トマス・アクィナス(1225・『神学大全』著者) ダンテ(1265・イタリア最大の詩人) ジョット(1267・西洋絵画の父) | |
14 | 羅貫中(?・『三国志演義』『水滸伝』編者』) イブン・ハルドゥーン(1332・『歴史序説』著者) ティムール(1336・ティムール朝の建国者) ヤン・ジシュカ(1374・マスケット銃を使用) グーテンベルク(1398・活版印刷の発明者) | |
15 | ジャンヌ・ダルク(1412・百年戦争の聖女) コロンブス(1451・アメリカの再発見者) ダ・ヴィンチ(1452・万能の天才) ヴァスコ・ダ・ガマ(1460・インド航路の開拓者) マキャヴェッリ(1469・『君主論』著者) ミケランジェロ(1475・芸術家) マルティン・ルター(1483・宗教改革) スレイマン1世(1494・オスマン帝国最盛期の皇帝) | |
16 | エリザベス1世(1533・アルマダ海戦に勝利) セルバンテス(1547・『ドン・キホーテ』著者) ガリレオ(1564・科学革命の中心人物) シェイクスピア(1564・イギリス最高の詩人、劇作家) グスタフ・アドルフ(1594・三兵戦術を確立) デカルト(1596・合理主義哲学の父) | |
17 | ルイ14世(1638・絶対王政最盛期の王) ジョン・ロック(1632・イギリス経験論の父) ニュートン(1642・科学革命の中心人物) 康熙帝(1654・清の第4代皇帝) バッハ(1685・音楽の父) | |
18 | オイラー(1707・数学者) 曹雪芹(1715・『紅楼夢』著者) アダム・スミス(1723・経済学の父) カント(1724・哲学者) ワシントン(1732・アメリカ初代大統領) ワット(1736・蒸気機関の改良) ラボアジェ(1743・近代化学の父) モーツァルト(1756・音楽家) ナポレオン(1769・初代フランス皇帝) ベートーヴェン(1770・音楽家) ガウス(1777・数学者) クラウゼヴィッツ(1780・『戦争論』著者) スチーブンソン(1781・鉄道の父) ファラデー(1791・電磁気学の父) バベッジ(1791・コンピュータの父) | |
19 | ダーウィン(1809・進化論を提唱) ポー(1809・ミステリの父) マルクス(1818・共産主義を提唱) ヴィクトリア女王(1819・帝国主義最盛期の女王) パスツール(1822・近代細菌学の父) ヴェルヌ(1828・SFの父) モネ(1840・印象派の祖) ロダン(1840・近代彫刻の父) エジソン(1847・発明王) フォード(1863・自動車の大量生産) ライト兄弟(1867・飛行機の発明) アインシュタイン(1879・相対性理論を発表) ピカソ(1881・画家) ケインズ(1883・マクロ経済学を確立) グデーリアン(1888・電撃戦を確立) ヒトラー(1889・ナチス指導者) |
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短期秋山気清さん(のど自慢の鐘の人違う)にはまったのでここに書く予定
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だからどの物理法則?重力は使わないんだよね?地球固定にして惑星のあの動きを再現することを考えるんだよ?
あのね、繰り返すけど現在の物理法則、単純にケプラーの法則から天体の動きを記述することが出来るのはいいよね?
それが重力のような広がりを持つ引力を要する2体間の運動として記述できる、と。
だから、これは同じよ言うな磁力で引きあうような場合も同じ式で記述できる、と。
で、その場合、座標軸はどこでもいいよ?例えば太陽中心でも地球中心でも。
地動説は、これがさらに太陽と小さな惑星の引力によるもので、太陽が異常にでかく、他の惑星が小さいので、結果的に太陽と各惑星の間の2体運動の様に近似できて、
太陽の周りを惑星が回っているような記述に出来る、と説明できる。
この記述の場合でも、ただ座標をずらせば地球中心になるけど、それがそのまま天動説になるわけではないよ?
天動説と言った場合には、まず、太陽や、遠くの恒星はなどは地球を周回するような記述を行う。
これに対し、惑星はそれぞれ特有な特別な性質を別に加えてやる必要がある。これは、上で書いた、"地球中心にした"場合に出てくるものと全くべつの話。
それくらいは分かりますよね?相対的な話ではないの。
本当に地動説天動説の経緯を理解してたら「惑星の動きを説明できないから天動説から地動説に変わった」なんてでたらめは書かんと思うが
なんで自分の思い込みにそこまで自信を持てるのやら
天動説、地動説自体は単なるモデルで、昔からあったものだろう?で、天動説の方が記述や考えが単純なのと(惑星などを特別にするのは別としても)、
そもそも地球中心の方が宗教的にも都合が良いこともあって、天動説が優勢になっていったわけでしょ?
地動説のほうがよりシンプルな論拠だけから示せる様な兆候は昔からあったけど、やはり最終的に全てを記述しようとすると複雑になるので、単純な観測と比べるには天動説のほうがやりやすかったわけで。
そこから観測技術が発達して、コペルニクス辺りからはっきりと強い証拠を示せる様になって、論拠もしっかりとしてきて、一方、天動説はほころびが出始めた。
更に進み、重力などの理解が深まり、物理的な意味を加えていった所、地動説の考え、つまり、地球が固定されてない、と言う事の強い後押しになっている。
物理的根拠とやらが俺様定義っぽいので何が言いたいのかわからんがニュートンの根拠は引力の法則だろうとしてケプラーの与えた物理的根拠って何?
これに関しては、例えば重力だけでなく、他の力も同じように記述出来て、観測を非常によく表している。
つまり、モデルとして、より広く適用でき、より多くのものを正しく記述できる。
重力の記述というシンプルなものからスタートして、天体の動きを記述出来る。それが現在強く支持されている根拠。
一方、天動説でモデルを作る事も勿論可能だが、その根底にくる物理的法則が無い。単にモデルとして記述できた、と言っても何も意味が無い。
よりシンプルなモデルから、天動説で言われた惑星の動きなども記述できる様であれば、再び天動説が優勢になると思うが、今のところそんなものはない。
あるんですか?
地球を固定した場合、現在知られてる物理法則では記述することは出来ません。勿論、それだけのために"モデル"を作ることは可能です。数学的に書くことも。
現在知られてる物理法則をもとに地球固定の数学的モデルをつくることは可能
本当に相対性を理解してるしてるなら「記述できない」とか書かんと思うが
本当に地動説天動説の経緯を理解してたら「惑星の動きを説明できないから天動説から地動説に変わった」なんてでたらめは書かんと思うが
なんで自分の思い込みにそこまで自信を持てるのやら
物理的根拠とやらが俺様定義っぽいので何が言いたいのかわからんがニュートンの根拠は引力の法則だろうとしてケプラーの与えた物理的根拠って何?
こういう数学モデル(ケプラーの法則)で惑星の動きが予測できるということなら天動説だって予測できるモデルは作られてたわけだが
???
空間における基準の取り方が複数(というかいくらでも)ありえるってだけで。
太陽を基準に取れば地動説だし、地球を基準に取れば天動説で間違ってない。
天動説「のみが」正しいっていうとそれは間違いだけどね。
速度の相対性を勉強するとわかるけど、時速60キロの車で移動しているとき、実は車は移動していなくて、車以外のものが時速60キロで流れていると考えてもいいっていう。
天動説とはどの様なことを言ってるのでしょうか?地球を固定した場合、現在知られてる物理法則では記述することは出来ません。勿論、それだけのために"モデル"を作ることは可能です。数学的に書くことも。
また、天動説、地動説は、基準の取り方に基点するものではありません。実際に、地球固定で天体の動きを記述するか、太陽や他のものを固定して記述するか、で、
それらが論議になった時代には、天動説としては、実際に地球が止まっている、と言うことが重要で、基準の取り方どうこうの話だけではありません。
あなたはとりあえzう、上にもあるような車がどうこうが相対論の話だと思ってるようですが、それは違います。
また、地動説、と言うのは、もともと単なるモデルからスタートしてます。
ケプラーやニュートンが出てきて、それらに物理的根拠を与えたわけです。その辺りはご理解いただいてるのですよね?
人気のある映画でありながら、同時に「見たけどよく分からなかった」という感想が多い。
ホッテントリにもなった岡田斗司夫の解説(http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html)を私なりに要約(ややネタバレあり)するなら、
その内容は「戦争をはじめとした外界の醜い現実には興味を持たず、飛行機のような美しい世界を追い求めた人の物語」、
という事になるのだろうけど、そこまで読み取れずに「よく分からなかった」となってしまう。
(敬称略。私自身も説明されて、はじめて「ああ、確かにそういう話だ」と思った。)
こんな感じで視聴者にあまり理解されない作品になってしまった理由について、自分なりに考えてみた。
それを説明する為に、まず、私がこの映画を見たときに思った不満について述べる。
(後述するように、実はこの不満が、映画が理解されない理由と直結する。)
その不満とは、技術系の研究者の映画であるにもかかわらず、研究者がうまく描けていない事だ。
私は技術系の研究職を生業としているのだが、そんな職業であるためか、この映画を見て、
いかにも技術に詳しくない素人が想像したリアリティの無い研究者像が描かれていると
思ってしまったのだ。
そう思ったシーンはいくつもあるのだが、特に気になったのが、サバの骨から飛行機に関するアイデアを思いつくシーンだ。
このシーンで気になった点はいくつかあった。
例えばサバの骨の曲線がどんな数式で表されるのか分からなけりゃ飛行機の設計に生かせるはずないんじゃないかとか、
飛行機に関して膨大な知識と経験を持つはずの主人公がいまさらサバの骨くらいで何かを思いつくのは考えにくいとか。
(例えて言うなら、小学生のちょっとした一言で大学受験の数学の難問が解けてしまったような荒唐無稽さを感じたのだ。
ちなみにニュートンのリンゴも事実かどうかかなり微妙らしい。)
しかしこのシーンでもっとも気になったのは、(技術系)研究者が描けていない事だ。
研究者が本当になにか重要な事を思いついたのなら、突然場の雰囲気や目つきがガラリと変わるだろう。
さすがにその場で研究のためにサバの骨をいじくり倒したりはしないかもしれないが、
少なくとも心の中ではそうしたいと思っている事を隠しきれないはずだ。
だって思いついたばかりの感覚的なアイデアをその場で言語化できるかたちに落とし込まなければ、
あとで考え直したときに感覚が失われてアイデアが何だったか分からなくなってしまう危険があるから。
だから本音を言うと、私はこのシーンを見て、本当に飛行機を作りたいと思ってるのか?と感じてしまった。
さて、本論に入ろう。なぜ「風立ちぬ」はあまり理解されなかったのか。
岡田斗司夫の解説が正しいとすれば、この映画は芥川龍之介の「地獄変」や映画「アマデウス」の宮崎駿版だという事になる。
しかし「地獄変」や「アマデウス」に対しては「分からない」という声はあまり聞かれないのに、
なぜか。それは前述の研究者が描けていない事と関係しているのだと思うのだ。
「地獄変」や「アマデウス」は、小説家や映画監督という「芸術家」が「芸術家」を描いたものだ。
だから鬼気迫るシーンや天才故の生き辛さが印象的な形で活写される。
しかし宮崎駿は軍用機を見る方のマニアではあっても軍用機を作る研究者ではない。
もちろん、ただ技術系研究者を活写すればよいだけなら、簡単にできる。
例えば先ほどのサバのシーンで、周囲に目もくれずサバの骨をいじりつづけ、「おいおい君大丈夫か?」と
周囲に言われてしまう、なんてのを付け加えればいい。
しかしそれをやってしまうと、ほとんどギャグになってしまい、作品の雰囲気をぶち壊してしまう。
つまり、宮崎駿は作品の雰囲気と研究者を活写する事を両立できなかったのではないか?
岡田斗司夫によれば本作の主人公=宮崎駿であるが、なら素直に芸術家を主人公にすれば良かったのに、(軍用機を描きたいから)そうしなかった。
結果として研究者でない宮崎駿が雰囲気を壊さずに研究者を描くという相当困難な作業が必要になった。
だから本作の主題であるはずの「周囲を無視して飛行機を追い求める」という部分が説得力をもって描けず、
結果として「分からない」という感想のでる物語になってしまったのではないかと思うのだ。
追記:
「風立ちぬ」が理解されないのは「物語」がないからじゃないかという、とても的確なトラバがついた。
『「ファインマンが理論物理学を否定している」と、』は、どこにも書いていませんよ。ファインマンも実験結果を元に、理論を構築していたと言う指摘をしたまでです。
ノーベル賞物理学者のファインマンも、再掲すると以下のように言っている。
いつもながら理論物理の教授なんぞというものは、目のつけどころを人から教わらなくてはならないもので、できることといえばただ自分の知識をひねくって、実験屋たちの観察したことを理論的に説明するだけの話なのだ!(P.198) - 困ります、ファインマンさん
あなたの感覚や解釈がおかしい。「ファインマンが理論物理学を否定している」と、白を黒とこじつけて解釈するような感覚の人と、この先少なくとも科学の分野で感覚が合うとは思えん。正直、あれで「こりゃダメだ」と思った(苦笑)。
物流某社の筆記で出たフェルミ推定とかいう奴だけど、数字に弱いからあんまり巧く書けなかったな。
フェルミって、理系の専門分野だろ?文系は本とかしっかり読み込んでないとヤバいし読み込んでても分からん事があるよ。
言換えれば文系は理学的数学的問題を解く力を要さない。ま、必要ないからさ。
当り前だ、文系はそういった数的根拠に基づく実証実験を放棄してるんだから、授業カリキュラムからも余裕の除外。
大学から、あるいは高校・中学入試から数学的な計算問題に慣れ親しんでいない文系学生にしてみたら、一般常識ほど
一般的でないと感じる事が多いよね。事実、ニュートン算とか鶴亀算っていうのは文系コースでは絶対習わないものですから。
こういう矛盾があるのにも関わらず、企業っていうのはこんな、文系にしてみれば難解な問題が一般常識として出題されるのですから
如何ともし難いわけですよ。
じゃあ何?スイカの種っていうのは、フェルミ推定っていうのは理系向けかというと、要は考え方なんだろうね。
でも、それは果たして正解なんだろうかしら?
数字的な解答が正解なら、仮に文系的に根拠立てて「・・・と仮定するとスイカの種の数は〇〇だ」と結論付けても不正解という可能性だってあるわけで。
要はフェルミ推定が出ると、こちとらお手上げ状態なんですわ。
選んだコースが文系だっただけで、理系問題が解けないだなんてあんまりですわ。
ベートーヴェンやバッハは素晴らしい。多くの聴衆がそう評価する。
なぜ、彼らは素晴らしいのか。
それは彼らが音楽の形式や作曲法に関して歴史的に多大な影響を与えたから、だと私は思っている。
決してメロディーや聴き心地などという主観的なモノで学術的な評価がされているわけではない。
つまり彼らの価値は、音楽理論と音楽史が分かっていないと評価できない。
科学で言うところの、微分方程式やニュートン力学を発見したニュートンのような存在だと私は認識している。
当然、それらは高校程度の物理や数学を学んでいないと価値はわからない。
クラシック音楽を素晴らしいと言うことは、物理偏差値40にも満たない高校生が中二病をこじらせて、
波動方程式がどーのこーの、言ってるようにしか思えないのだが。
「バッハのシャコンヌは人生そのもの」とドヤ顔で語ることは、「クラナドは人生」と言うことと同じだよ。
多くの聴衆にとってミスチルもモーツァルトも変わらんよ。
サークルの新カンコンパで俺は焦っていた。隣の席に座っていた男が、漫研とかいうオタサークルに入りたがってる癖に、酒を飲んではウェーイ、飯が来ればウェーイ、箸が転べばウェーイみたいなよく分からん軽いノリの男で、おまけに声がでかい。むかつく。だけど今日、この居酒屋では間違いなくその男が中心であって、人気者になりたいけど大声が出せず、さしたるネタもない俺は、爪を噛みながら寺とか釘とか藁人形のことを考えて一人癒されるしかなかった。
そんな時、便意がやってきた。人を押しのけてトイレに立つ。ここで意味も無くケータイと財布を持っていったことが命取りになった。財布はいい。ただケータイを持っていった意味は今考えるとよく分からない。誰も盗まんて。便器に腰掛ける前に、ケータイと財布を洋式便器の後ろについてる謎のボックス、便器のタイプによってはそこで手を洗える奴、に置いた。そのボックスが命取りになった。
このボックスとかいう糞野郎はなんか意味もなく微妙に傾斜してやがるんだよ。それも置くときには気づかないぐらいの微妙な角度で!しかもよりによって便器側のほうに傾いてるわけ!だからここにものを配置すると重力に従ってニュートン的に確実にそのもの自身の重みによって便器サイドへとずりおちるのは自明の理なわけ。もうコーラを飲んだらゲップが出るってぐらい確実だァッ!なわけ。間違いなく一種のトラップだった。あるいは店主の小粋なサービス精神の表れかもしれない。財布は皮製だったから摩擦が強くて助かったが、ケータイはつるつるしてたのでドボンした。美事に。一瞬リアクションがとれなかった。刹那、自分でもびっくりするぐらい何のためらいもなくケータイを掴んでいた。超びっくりだよ!いやそれほどトイレが綺麗に見えたんだけどね。多分汚いトイレだったらそ知らぬ顔して流していたかもしれない。瞬間にして雑菌まみれになった手でケータイを握り締めながら、それでも不思議なことにケータイの画面は普通にしばらく点灯していた。やった!ソフトバンクの防水性超やべえじゃん!とか喜んでるといきなりチカチカし始めて、やがて完全にブラックアウトしてしまった。
気分は沈んだ。確かに気分は沈んだ。何十時間かはやったぷよぷよ+コラムズとかいう神アプリ、作品のアイディアメモ、さっき聞いたばっかの漫研同期の連絡先、全部消えてしまった。だが、俺はここに来て一つの光明を得たように思った。遂に、遂にネタができた…!これ漫研の連中に喋ったら絶対ドッカンドッカンくるじゃねえか!?便器にケータイ落としてぶっ壊すとか、多分ケータイの面白い壊れ方としては相当上位に来るのではないか。見知らぬメールアドレスから毎日赤錆びた包丁の画像が送られてくるようになってから三ヵ月後電源が入らなくなったとかの方がもっと面白い気はするけど。で、便器液で汚れたケータイを綺麗にするためにもう一度水で洗ったりなんかして、ケータイぶち壊したのにも関わらず完全にるんるん気分で宴に戻った。自分もあの声のでかい男のようにウケてみたかった。それだけの出来心でしかなかったはずなのに。笑い話ってのはただ素材をごろんと提供しただけではダメで、それを面白くするためには面白く聞こえるように話さなきゃならないとは長く感じていたことだけど、そのことを深く考える心の余裕は、超ホットなネタに出会ったばかりの俺にはなかった。
声デカ男に話しかける。「やべえよ、さっきさ」「ん?」「ケータイ便器に落として壊しちゃった」みんなからの視線が集まる。「え?マジで?」そうだよね、冗談だって思うよね。「いやマジで。これケータイ」「え、点かないの…?ちょっと貸してみ?」「ほい」渡してから、あ、でもそれさっきまで便器に入ってた奴だけどなと付け加える。「うっわきたねえ!マジかよはははは」やっとウケた!「えー、どういう風に落ちたの?」「便器の後ろの方の台に置いといたらずるって」「ははは」あれ…なんか笑いが足りないな…っていうかみんな既に他の話始めつつあるし…「もー何やってんだよー」「やっちまった、はは」…………あれ!?これだけしかウケずに終わり!?ケータイ一個使うほど体張っておいて!?い、いや、ネタは万全なものだったはずだ…た、多分、俺の話を盛り上げてくれなかった声デカ男が悪いんだよ!声デカ男許すまじ。殺すリスト入れたからな。このようにして、自分の大学生活は始まったのであった。
それは、「ニュートンがリンゴの落ちるのを見て引力を発見したのだから、リンゴの話をすべきだ」と言っているのと同じでは?
その例えを用いるなら、元増田は「リンゴが落ちたのは、リンゴが落ちたかったからだ」という話をしているんですよ。
着想を得て発見をしているわけでなく「リンゴは落ちることになっている。それが意志や目的だ」と話している。
冒頭で細かにジェンダー用語を解説しているのは、社会学的に話を展開する前提だと思われても仕方ないでしょう。
「僕はこう思う」の持論なら「持論です」と言えばいいんですよ。
でも元増田は、正しくない理論で「男はこういうものです」「だから女はこうなります」と言い切っている。
就職試験に必ずといっていいほど出題されやすい算数問題がどうしても解けない文系大卒生だ。
恐らくこれだけで殆どの受験生の皆さんは察して頂けたと思うけど、私は算数を小学校までしか知らない。
中学校は義務教育で算数から学問の算数に切り替わったのを契機に躓き始めて苦手意識を持った。
その状態で高校入試に臨むわけだけど、今もどこかしこでやられてる文系分けと理系分けで私は迷わず文系を選択し、選択型試験では古文・公民・地理を受験した。
大学試験はセンターを利用せず算数の無い文系の一般入試を受験し今に至る。
文系大学生にとっては未知の学問である算数。何も自分だけが特別ではない。文系大学生は等しく幼少から算数をやって来なかった者たちだ。
昨今の就職試験では中学校でも教えない仕事算やニュートン算といったどこぞの教則ビデオや進研ゼミ等通信教育を受けないと得られないような、今まで算数に拒否反応を起こしてやってきた文系大生にはとても辛い問題をいじわるく出題してくる。
算数なんて実社会に全く必要とされない学問なのに何故か多くの企業では採用される矛盾。
計算式なんてレジや電卓などコンピュータが算出してくれるというのに自力で解かせようなんて市販の卵を温めて孵化させろといってるようなものだ。
また一般常識問題集というのがあって、これをやれば就職試験も難なく通過できるという謳い文句で企業試験に臨む大学生たちの殆ど全員が当たり前のように購入するけど、
一般常識で現代社会や国語、公民、歴史、環境問題は生活上や会社の同僚や上司とコミュニケーションを取るための道具としてこれからも使えると思う。推理論証、アルゴリズムもまあ使えん所はないとは思うが、その中で総ページ数の多くを占める算数は必要あるのかというと、お金や数字を常に扱う販売職ですら計算式は足し算掛け算と小学生程度の知識があればできるものばかりだし、帳簿作りのためにレジ任せだというのが現状だ。
つまり算数は一般常識としながらも実際に使う機会は全くといっていいほど無い。これを一般常識として出題するのはいかがだろう?
まして学校教育の段階で文系理系と分けておきながら企業にそんな事理由にならないとばかりに共通試験として出題するのだから、この教育システムおよび就職というのは一線を画したものだろう。
子どもに選ぶ権利を与えながら大人になると選ぶ権利がないなんて理不尽な事、一般常識で算数を出すというのなら、いっそその問題を中学高校大学で教えておけと言いたい。
企業中でも一般常識として算数を扱うべきかどうか賛否両論だというのに、学生なら知ってて当然だよねと言わんばかりに出題するのは間違ってる。
学生ですら文系理系に振り分けられて学校生活を送ったはずだ。そうなると、企業側は彼ら学生にある背景を汲むべきじゃないのか。
少なくとも文系大卒生で就職出来てない全体の3人に1人はその理不尽さに気付いてる。
なら、算数のある一般常識問題を採用する全企業は皆理系しか採らない事を公言してくれた方が時間と金の浪費がなくて建設的じゃないか。
いや、過去何ぼもやってて、そして、黒しか売れないって知ってるよ。売れても白だろ。
で、話は逆で、コスト競争でSAMSUNGに勝てないし、そもそも海外で勝ててないのはマーケットやブランドイメージからSAMSUNGにはまけとるって報道されてたよ。
現地の売込みが弱いって。SONYがブランドイメージですらSAMSUNGに負けてるって、そら挑戦してないって言われるんじゃない?
確かに、カラバリはコスト高で売れないことは良くわかってる。でもiPhoneだって、ニュートンから10年も20年も挑戦し続けてるんだぞ。
あれが、どんだけバカにされたとおもってるんだ。
泥をすすって、首になって、それでも、挑戦した男が作ったのがiPhoneだよ。
だめでも、あたらなくても、「細々とは」挑戦し続けるしかないだろ。挑戦をやめたらiPhoneは生まれないんだよ。
俺らは、駄目だなんていってないんだよ。細々とだけど、そういうニーズもある。でも、コスト的には見合わないだろう。それは知ってる。でも、提案だから、捨ててもいいけど聞いてくれってそういう話だ。
ブコメで「科学こそ適正手続きが大事だ!」って吠えてるのが湧いてるが、こいつら単に「ニュートン」読んだり早野tweet見て科学してる気になってるだけだろ。
「何を」検証するか抜きに手続きが第一って、おかしいだろ。まるで手続きから物理法則が生まれるかのような。もちろん、科学の「器」を作っているのはその手続きだが、「料理」にあたる本体部分は物理法則であって、「神様のノート」(エルデシュ -- 数学は科学とは言えないかもだが)だろう。器はとても重要だし、器抜きの料理はどうしようもない。だが、この「器」は形を整えたり、棄却されるべき仮説を削ぎ落したり、正しさを共有するための指標としたりするためのものであって、こねくり回されるべき「科学」そのものじゃない。仮に(その時点の)適性手続きを上まわる科学的正しさがあったら、理論だけじゃなくて適性手続きのほうも変えないといけない(パラダイムシフト)。
「適性手続き」の執行はできるが、ロクに仮説を立てることも思考実験もできない学者の集団ってのがいたとして、何か科学的なことができるか考えてみるといい。または、ニュートン力学の時代やピタゴラスの時代は「適性手続き」なるものが今とはかなり異っていたが、そこに「科学」が存在しえなかったのか、考えてみるといい。
あるいは、「仮に検証されなくとも正しい法則は最初から正しい。ただ人間が理解できないだけだ。」と言いかえてもいい。まぁ、その正しさも人間の理解力の限界のせいで、前提を置いた上で「現状ではこれよりも現象をよくあらわす仮説は知られていない」あるいは「(ある前提条件において)この法則に反する現象は知られていない」というところがせいぜいだけど。