ブコメで「科学こそ適正手続きが大事だ!」って吠えてるのが湧いてるが、こいつら単に「ニュートン」読んだり早野tweet見て科学してる気になってるだけだろ。
「何を」検証するか抜きに手続きが第一って、おかしいだろ。まるで手続きから物理法則が生まれるかのような。もちろん、科学の「器」を作っているのはその手続きだが、「料理」にあたる本体部分は物理法則であって、「神様のノート」(エルデシュ -- 数学は科学とは言えないかもだが)だろう。器はとても重要だし、器抜きの料理はどうしようもない。だが、この「器」は形を整えたり、棄却されるべき仮説を削ぎ落したり、正しさを共有するための指標としたりするためのものであって、こねくり回されるべき「科学」そのものじゃない。仮に(その時点の)適性手続きを上まわる科学的正しさがあったら、理論だけじゃなくて適性手続きのほうも変えないといけない(パラダイムシフト)。
「適性手続き」の執行はできるが、ロクに仮説を立てることも思考実験もできない学者の集団ってのがいたとして、何か科学的なことができるか考えてみるといい。または、ニュートン力学の時代やピタゴラスの時代は「適性手続き」なるものが今とはかなり異っていたが、そこに「科学」が存在しえなかったのか、考えてみるといい。
あるいは、「仮に検証されなくとも正しい法則は最初から正しい。ただ人間が理解できないだけだ。」と言いかえてもいい。まぁ、その正しさも人間の理解力の限界のせいで、前提を置いた上で「現状ではこれよりも現象をよくあらわす仮説は知られていない」あるいは「(ある前提条件において)この法則に反する現象は知られていない」というところがせいぜいだけど。
"適性手続きを上まわる科学的正しさ"なんていうセンテンスが出てくる時点で何も理解できてないことが伺える。 「何を」見るにしても、適性手続きを通じなければ、我々は目の前で起...
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「何を」見るにしても、適性手続きを通じなければ、我々は目の前で起きている現象を正確に認識することすらできない。 となるとうまく理解できない。 あー、これはクレバー...