はてなキーワード: ケプラーの法則とは
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もし購入者が本当に「宇宙」を意識して買ってるのだとしたら、ちょっと詐欺がかってる気がする。
はじめに名乗っておくと、私は天文学でPh.Dを取得して、現在宇宙関連機関で働いている者です。
ケプラーの法則とは何か?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
第1法則(楕円軌道の法則) 惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。[3] 第2法則(面積速度一定の法則) 惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である(面積速度一定)。 第3法則(調和の法則) 惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。
昔々、太陽系の惑星がどうやって太陽の周りをまわっているのか(公転)が分からない時代に、
地球や水星、火星のまわり方を調べて法則化したという歴史的経緯がある。
議題の時計はただの円運動なので、ケプラーの法則とは全く関係がない。自転と公転でググる程度で一般の方にも理解してもらえると思う。
モノは言いようだが、ただの円なので、特別なことはなにもなく、宇宙とは一切関係がないのだ。
3層の同心円状ディスク・システムにより時計の針が不要、回転するディスクから秒、分、時間を垂直に読み取ります。
とのこと。
だがしかし、これは針が回転する代わりに、赤い印の位置が通常と反対方向に回っていると見なすのと同じことである。
分針が1回転したら、時針が1/12回転する通常の時計と同様に、分円盤が回転したら時円盤が1/12回転するだけである。
美しいとは思うが、ただの円だし、いままでもよく見られた時計に過ぎない。
この時計を持って、飲みの席で「惑星軌道と同じ動きをする腕時計なんだぜ」と言ってみてほしい。
一般常識を持っている人なら鼻で笑うだろう。
支援者は、少し考えを巡らせてみてほしい。
だからどの物理法則?重力は使わないんだよね?地球固定にして惑星のあの動きを再現することを考えるんだよ?
あのね、繰り返すけど現在の物理法則、単純にケプラーの法則から天体の動きを記述することが出来るのはいいよね?
それが重力のような広がりを持つ引力を要する2体間の運動として記述できる、と。
だから、これは同じよ言うな磁力で引きあうような場合も同じ式で記述できる、と。
で、その場合、座標軸はどこでもいいよ?例えば太陽中心でも地球中心でも。
地動説は、これがさらに太陽と小さな惑星の引力によるもので、太陽が異常にでかく、他の惑星が小さいので、結果的に太陽と各惑星の間の2体運動の様に近似できて、
太陽の周りを惑星が回っているような記述に出来る、と説明できる。
この記述の場合でも、ただ座標をずらせば地球中心になるけど、それがそのまま天動説になるわけではないよ?
天動説と言った場合には、まず、太陽や、遠くの恒星はなどは地球を周回するような記述を行う。
これに対し、惑星はそれぞれ特有な特別な性質を別に加えてやる必要がある。これは、上で書いた、"地球中心にした"場合に出てくるものと全くべつの話。
それくらいは分かりますよね?相対的な話ではないの。
本当に地動説天動説の経緯を理解してたら「惑星の動きを説明できないから天動説から地動説に変わった」なんてでたらめは書かんと思うが
なんで自分の思い込みにそこまで自信を持てるのやら
天動説、地動説自体は単なるモデルで、昔からあったものだろう?で、天動説の方が記述や考えが単純なのと(惑星などを特別にするのは別としても)、
そもそも地球中心の方が宗教的にも都合が良いこともあって、天動説が優勢になっていったわけでしょ?
地動説のほうがよりシンプルな論拠だけから示せる様な兆候は昔からあったけど、やはり最終的に全てを記述しようとすると複雑になるので、単純な観測と比べるには天動説のほうがやりやすかったわけで。
そこから観測技術が発達して、コペルニクス辺りからはっきりと強い証拠を示せる様になって、論拠もしっかりとしてきて、一方、天動説はほころびが出始めた。
更に進み、重力などの理解が深まり、物理的な意味を加えていった所、地動説の考え、つまり、地球が固定されてない、と言う事の強い後押しになっている。
物理的根拠とやらが俺様定義っぽいので何が言いたいのかわからんがニュートンの根拠は引力の法則だろうとしてケプラーの与えた物理的根拠って何?
これに関しては、例えば重力だけでなく、他の力も同じように記述出来て、観測を非常によく表している。
つまり、モデルとして、より広く適用でき、より多くのものを正しく記述できる。
重力の記述というシンプルなものからスタートして、天体の動きを記述出来る。それが現在強く支持されている根拠。
一方、天動説でモデルを作る事も勿論可能だが、その根底にくる物理的法則が無い。単にモデルとして記述できた、と言っても何も意味が無い。
よりシンプルなモデルから、天動説で言われた惑星の動きなども記述できる様であれば、再び天動説が優勢になると思うが、今のところそんなものはない。
あるんですか?
地球を固定した場合、現在知られてる物理法則では記述することは出来ません。勿論、それだけのために"モデル"を作ることは可能です。数学的に書くことも。
現在知られてる物理法則をもとに地球固定の数学的モデルをつくることは可能
本当に相対性を理解してるしてるなら「記述できない」とか書かんと思うが
本当に地動説天動説の経緯を理解してたら「惑星の動きを説明できないから天動説から地動説に変わった」なんてでたらめは書かんと思うが
なんで自分の思い込みにそこまで自信を持てるのやら
物理的根拠とやらが俺様定義っぽいので何が言いたいのかわからんがニュートンの根拠は引力の法則だろうとしてケプラーの与えた物理的根拠って何?
こういう数学モデル(ケプラーの法則)で惑星の動きが予測できるということなら天動説だって予測できるモデルは作られてたわけだが
別にケプラーの法則が、万物すべてを記述する、なんて言ってないでしょうが。そのくらい分かってて、もう突っ込みようがないから変なツッコミいれてるんですよね???
いやこっちも天動説ですべてを記述するなんて言ってないという皮肉なんだが
なんでモーターやエンジンの動作記述するのにケプラーの法則土台にするの?
別にケプラーの法則が、万物すべてを記述する、なんて言ってないでしょうが。そのくらい分かってて、もう突っ込みようがないから変なツッコミいれてるんですよね???
この場合の数学的記述は、地球を中心にするか、他を中心にするかではないのも理解してますよね?
単純に座標中心変えただけで?
それでも、そこで書かれる式は同じものですよ?単に座標変換されるだけで?
一方、天動説、地動説と言った場合は数学モデル自体が根本的に変わります。そういった、相対的な話ではありません。
後、「相対論」は、あたたの考えてるような、単純な話ではありません。それは導入時に分かりやすいイメージとしてまず挟む与太話の様なレベルの話です。
その他の物理現象は地球を中心にするかどうか関係ないので天動説地動説持ち出す必要ないはずだが
モーターやエンジンの動作記述するのにケプラーの法則土台にするか?
ウィキペディア持ち出したのは別の人だし何から逃げてるのかわからん
そっちが質問してるから数学的には地球中心で記述できるって答えただけなんだが
それに相対論理解してるならどこを中心にしようが数学的に記述できるってのはわかりきった話では?
一体何に疑問を持ってるのか不満を持ってるのかわからん
まじめに話し合おうとしているのか、中2病の大学生が二日酔を慰めようとしているのかによって対応は違うから。なんにせよ、元増田がゲーデルを知らないことはよく分かった。以下読み物。
数学の歴史は長いが、ユークリッドやピタゴラス以降、恐ろしく長い空白があった。その後、ニュートン、ライプニッツあたりから突如急角度の上昇が始まる。この後、オイラー、ガウスといった大天才がヨーロッパに続けざまに現れて17世紀から19世紀くらいまでは数学の黄金期と言って良い。こんな急激な進歩があったのは、数学、物理学、工学がかみ合って足並みをそろえて進歩を始めたことに原因がある。当初、数学は本当に純粋学問だったが、微分積分が物体の運動を予言できることからにわかに風向きが変わり始めた。
「反証可能性」「未知の事象の予測」「知られている事象との一致」といった厳しい原則に基づく科学的アプローチは天動説に反する観測的事実が蓄積し始めたことに端を発するといってよい。太陽を中心とする円形軌道に地球を諸惑星を置いたコペルニクスのモデルは、当時の精密化した天動説と大差ない誤差を持っていたが、太陽を焦点とする楕円軌道を提唱したケプラーは、きわめて精密に観測結果に一致した。
その後、ニュートンが現れ、ケプラーの法則を万有引力の法則と微積分で説明することに成功した。
このように近代数学と近代科学は足並みをそろえて歩き始めたのだが、この二つには大きな差がある。自然科学(いわゆる科学)は自然の事物を理解するための仮説の集合であるのに対して、数学とは最初に提示された公理とその操作方法に基づく演繹された知識の体系であるということ。つまり、数学は自然に根ざしていない。これは強調してもしすぎることはない点で、しばしば数学者はこの数学の自立性を以って自然科学を見下すことがある。
数学は公理とその操作からなる演繹的な体系と書いたが、もちろんはじめはそうではなかった。最初はものの数を数えるところから始まり、距離を測り、面積を測り、重さを量り、時間を計るためのツールだった。つまり自然に根ざしていた。が、19世紀後半に精密化が進んだ後、いったん数学は崩壊の危機に面した。それを救うために公理系を整理し、再出発して網羅的に数学の完全性、無矛盾性を証明しようとする動きがあらわれた。だが、最後にはゲーデルが現れ、完全且つ無矛盾な公理系はないと証明して、公理主義者たちをがっかりさせた。
数学は出発点こそ自然科学に密着していたが、今では(失敗したものの)公理に基づく独立した体系と考えて良い。そうしたところで、数学の出す答えが変わるわけではない。が、じっくりと考えたときに、自然現象がこうもうまく数学に従うという点については少し気味の悪さを感じざるを得ない。たとえば、速度を積分すると距離を算出できるというのは、科学的な仮説である。この仮説は徹底的に検証されているので安心して利用できる。だが、速度ときょりという自然現象がなぜ数学的概念である微分積分にこうも厳密に従うのか。突き詰めて考えると、それは時空間の線形性、時普遍性に支えられているが、それ自身がなぜそうなのか、誰にも分からない。
微分積分というのは公理から出発して導き出された数学の体系のひとつである。それ自身は自然科学的アプローチで反証する必要ない。なぜなら、数学の証明は自然科学の実験による「証明」とはまったく異質の厳密な証明だからだ。一方、自然科学の実験による「証明」は確からしさを積み上げることでしかない。