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はてなキーワード: 轢死とは

2020-08-14

例のアレ読んで

ひとりでいいやって人は、死んだ後の「後片付け」を誰かに押し付けることになるよね。死んだ本人は後のことなんてどうでもいいかもしれないけど。飛び込み自殺轢死よろしく

犬猫みたいにカプセルや爪にチップ埋め込んで、死んだら、ここの会社に整理を頼む契約をしています契約番号〇〇。みたいに管理する会社起こしたらなかなか需要ありそうじゃん。価値のあるものリストにして譲渡指定したりしてさ。相続権のある人がいると揉めそうだけど。

2020-07-17

追記百合好きが野郎キャラヘテロババアお気持ち表明

続き

https://anond.hatelabo.jp/20200817181345

最近腐女子の方々がお気持ち表明してるので、便乗して百合好きの自分お気持ち表明する。

某小さい女の子向けアイドルアニメが好きだ。

初期はスキンシップが激しい。軽率に抱き合うので距離が近い、心も体も。そりゃ百合花咲いちゃいます自分の中に。これは友情だが、それに百合見出してもいいよね…定義なんてないんだし…。

それが100話以上ある。凄い。三桁もある。普通に視聴してたユーザーも「あれ、これそういう作品…?」ってなっちゃう、かもしれない。

ただ自分が本作品見出し百合あくまで"友情"なので別に付き合ったりキスしたりしないでもいい。お互いが笑っていてくれればそれでいい。またこの楽しみ方はあくま副産物であり本編を一番楽しみにしてた。ベース面白くないと意味ないし、メインに目を向けなきゃ作品に失礼だ。百合目当てで見てたわけじゃない。

問題は三期の情報が出てから起こった。

男が出る。

まぁそれはいい。今までもサブで何人かいた。

・歳が近い

主人公の持ちブランドデザイナー

これはいけない。

何がいけないって、

そういう関係になりうる可能性が十分にある。

ふざけるなよ。

なんで野郎なんだよ女でいいだろ今までもそうだっただろ野郎デザイナーもいるけど分別ある大人だっただろなんでそれを歳の近い野郎にしやがった舐めてんのかどこ需要だプ〇〇ズR〇の男子スタァがヒットしたからかそうなのかお前ほんとそういうところだぞ他所で受けた要素を軽率パクるんだからそういうとこだぞ余計なとこはパクんなくていいんだよいらねぇよ失せろタコバランス考えろ。

出した時点でアウトなんだよ。

可能性ある野郎を出すんじゃねぇよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

これはな、調子に乗るぞ。

ヘテロババア大手を振って押し寄せてくるぞ。

大義名分を得たり!的な感じで飢えてた野獣が即売会に、Twitterに、Pixivにと大暴れするぞ。帰れや。

当然出たよ。

なにが出たかって。

ヘテロ同人が出た。

やめろや!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!なんで出す!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!なんで描く!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

お前……その娘にはもっとピッタリのパートナーがいんのに!!!!!!!!!!!!!!!!!なんで!!!!!!!!!!!!!!!!!!なんで野郎とくっ付けるんですか!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?おかしないですか!?!?!??!!?!?!??!?!??????アニメ見とる??????????????????????????????????????????

いやおかしくない。自分女の子同士を見て幸せになるようにヘテロババアも男女を見て幸せになるんだ。

それは分かる…分かるんだが……巣(この場合の巣とはジャンル島でなくテメーの脳内)から出てこないでくれ頼む~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!即売会ポスター掲げてるの見て吐きそうになったよ。もうあの島行けないよ自分自衛だよ自衛自衛するしかない。見たくなけりゃ見なきゃいいんだから…けど見えない範囲でそういう同人誌が出てる事実を受け入れられない。焚き書してくれ。冬はそれで暖をとれ。それでも流れてくる場合しょうがいかブロックなりするしかねぇ。

というかアンタ等どこいたの?急に湧いてきてない???気のせい?

あんなんがこの世に存在している事実が許せない。

自分の知ってるあいつはあんないけすかんすかしたヤロー好意は持たねぇ。ざけんな。

そういうヘテロCP求めてるんならお隣の作品を見ろ。あっちはそういうので溢れかえってるぞ。自分も好きだぞ大好きだ。頼むから出てってください。

四期に入り、恐れていた事態が起こった。

その回をざっくり説明すると「野郎デザイナー風邪引いたんで主人公が看病しに行く」話。

もうこの時点で気持ちが沈む。次回予告で映像付きでお出しされた時死刑宣告をされたような錯覚に陥った。放送までの一週間仕事が手につかなかった。この回見るのやめようかなぁ……。

…見たよ。Bパートマジで見てられなかったので音声だけ聞いてたよ。映像は無理だわ。円盤買ったけどいまだに見返せないし当時の録画はその回だけ消した。

まぁこれだけならいいよ。いやよくないけど、公式からこういうのお出しされるのは何度かあったから。

ただ自分が許せねぇのはよりにもよって公式側の人間がこんなツイートしやがったこと。

一言で内容説明するなら…い ち ゃ い ち ゃ し ま す !! !! !! お楽しみに」

は?

?????????????????????????????????????????????????????????????????????

え待って意味分かんないんだが?は??は?????????????????イチャイチャ?????????????????????????????????

え、なに君はそういう目で見ろって推奨してんの???????????????????????????????????

少なくとも、

素人ではない、

公式の、

製作側が、

スタッフが、

この作品おまんま食ってる側の人間が、

そういう発言するんですか??????????????????????????????????????????????????????????????????????????

もうバチ切れたよね。明日の朝刊載ったゾテメー!!って感じですよ。なに半角スペース使って強調してんだよ時代考えろやWindows95出てから何年後の世界だと思ってんだよ薄ら寒いんじゃボケカス

お前それどこぞの素人ヘテロババアが言うのとはわけがうからな。立場考えろよマジで

ヒのbioに「全てのツイートは一個人の発現であり公式とは一切関係ありません」なんて書いてても、そんな免罪符通用しねーからな。公式様が煽るんじゃねーよ!!!!!!!!!!なぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

なんでだ。なんでこの作品でそれをやるんだ。意味が分からない。なんでだ。

最初からそういう作品だと分かっていればこうは言わないよ。「こういうもん」で納得してたよ。1話おでこキスぐらいしてくれたらしゃーないで済んでたし多分そういう目で見てないよ。

違うじゃん。この作品そんな空気出してなかったじゃん。女の子同士が時に切磋琢磨時にキャッキャウフフし合ってた作品じゃん。

全然違うじゃん!!!!!!!!!!!!!なんだよこれは!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!描写がなければいいって話じゃないの!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!可能性を生み出した時点でアウトなの!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

・歳が近い

主人公の持ちブランドデザイナー

イケメン

・新キャラ

これで無害なわけないじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!ヘテロババア大喜びじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!誰だよGOサイン出した奴は!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!っざけんなよマジで!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

何度も言うがこの作品はそういう要素ほぼほぼなしのアイドル同士の友情を今まで描いてきたんだよ。

周りが見えなくなってた幼馴染がいれば抱き締めてやるし、最初は印象最悪でもだんだんとお互いのことが分かってきて認め合えるし、友達が困っていれば手を差し伸べる。嬉しいことがあれば抱き合うしファンに見つかったら手を引いて街中を掛ける。

違うじゃん!!!!!!全然!!!!!!!!!なんなんだよこれは!!!!!!!!!!!!!!

いきなり野郎を出していい雰囲気作られたらキレるわこんなん!!!!!!!!ヘテロババア勝手ちょっとのラブをミックスするしさぁ!!!!!!!!!!!!!!!いらねってんだよ(ベヨネッタ)。

改めてソース確認するために件のツイート見たら腸煮えくりかえりそうになった。当時の怒りというか悲しみというかなんというかぐっちゃぐちゃになった感情が蘇ってきた。調子こいてんなぁ…随分嬉しそうですね。だが…そいつ百合を奪われた俺たちにとって屈辱なんだ(コウ・ウラキ)。お前はマジで許さんからな。

これがな、女だったらいいんだよ。同性だったらなんも言わんしむしろ推奨だわ。いい仕事するし。好きだよ、お前のデザインしたドレス。それは本心

けど好きなとこが仕事ぐらいなんだよな。キャラデも性格も好きじゃねぇ。なんだお前その狩り上げた襟足は、天山ぐらい伸ばせや。性格もスカしてるし最近はこういうのが人気なんですか?なに考えてんのかよー分かんねぇよ。人間味がねぇ。自分は男なんでこういうキャラどーにも好きになれん。スクライド劉鳳とまでは行かんけどもうちょっと自分を出してくれよ。お前といるとつまんねぇよ。リアイベにお前が出るってんでアフレコで例の回やらねぇかマジで心臓バックバクだったわ。やられてたら多分メッセ救急車5000台呼んでた。

まぁつまりだなお前が"男"って、ただその一点だけで全てが許せねンだわ。性別を間違えた時点で忌むべき存在になったの。ごめんな。

お気持ち表明したいもの

・今までそういう雰囲気なかった作品に置いて、歳の近いそういう関係になりうる立ち位置野郎キャラ(続編では明確に候補になる野郎キャラ出したけど扱いきれてなかったな。なら最初から出すんじゃねぇよ)

ヘテロババア(どっから湧いてきたんだよプ〇テ〇ー〇ズ〇を見てください)

・採寸してる二次創作したゴミカス野郎(お前みたいなのが出てくるから嫌だったんだ消えろくたばれ他界しろ

・いちゃいちゃします!とツイートしたタコスタッフ(ほんとやめてくれ頼むから)

…これはお気持ち表明というより自分が許せねぇことをつらつら書いてるだけですね。お気持ち表明ってなんなんですかね…。

あと件のツイートでバチ切れたやつな、あれと似てるんだが販売元が一時期公式垢で百合妄想垂れ流してたんだよな。

自分百合好きなので笑ってたけど、ヘテロババア的には殺意高まってたんだろうか…。

最後からついでに書くけど年齢制限本描いてる人間の屑は俺に迷惑かけていいから週5ペースで東西線に飛び込んで轢死しろ

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2019-12-24

anond:20191224155517

車道に猫の轢死体があった時に包んで端に除けてあげられるように車に新聞紙を積んでいる。

実際に何度かそれで除けたことがあるけど、周りからは僕が轢いたように思われたかもなー。

2019-12-13

anond:20191213171510

そう、飛び出し坊やは、死んでいった方々の怨念と、そういう遺族の方々の慰霊の念で生まれました・・・

ようしらんけどな

(やが、かつてダンプカー轢死する子供らが多かったんはホンマやで)

2019-08-04

慰安婦像→まちがい

政府米装甲車女子中学生轢死事件追悼碑→せいか

像のモデル2002年6月13日友達誕生会に向かう途中で54tの米軍装甲車に轢かれ即死した二人の少女の内の一人であるシム・ミソンさん(当時14歳)

もう一人の被害者の遺族の許可下りなかったので隣は空席

要は我が娘を慰安婦像モデルとして売ってしまった悲しい親の物語

まさに「表現不自由あいちトリエンナーレ2019」にぴったりな展示物だな

2019-04-24

幽霊の出現年齢

漫画ドラマ創作物などででてくる幽霊について。

なんで死ぬ直前の姿ででないの?

病死なら死相でてボロボロ病人の顔とか轢死体のら肉片のみとか

ジジババのかっこでこいよ

若いかっこいい姿や美人でもてた綺麗な頃の姿ででてこないのは

こだわり?

年齢操作で年ごまかしてもつまんない

2019-03-22

もしあの車にHonda SENSINGが搭載されていたら、あの人は轢死することはなかったのだろうか??

2019-01-27

女は本当に周りを見ずにフラフラ自分の手元や足元だけ見て歩いてる奴が多すぎる

お前がフラフラ歩いてれば周りが避けてくれるのか?死ね。ぶつかってくるおじさん

出会って線路に突き落とされて轢死しろちゃんと前見て歩け。自分大事しろ馬鹿

2019-01-02

福島原発事故の本当の爪あと

国民の知能低下



突然死する若者の増加



異常犯罪の増加

2018-02-15

狂犬、それはマッドドッグ

いつも出勤時に乗る電車にいつもいるおじさんがいる。

いつもよだれをたらしながら、「う"ーう"ー」と唸っているので、

みんなからは「マッドドッグ」と呼ばれていた。

マッドドッグは誰かと接触することを特に嫌うようで、

肩と肩がふれると「がるぅううう」と喉をうならせる。

夏の暑い時期に、夏休みっぽい学生さん御一行がぶつかった時は、

「(ぐぉおおお)」と声こそ口にでていなかったが、低唸り声が車内に響いていた。

そんなマッドドッグが今年に入ってから姿を見せなくなった。

なんでも、踏切で立ち往生していた老人を助けようとして、

マッドドッグも老人も轢死したそうだ。

2017-12-21

anond:20161213085212

あーそれはあるよ。

私この間用事があって娘達(幼稚園児と3歳児)連れて小学校まで歩いてったんだよね。三時頃で丁度下校時刻にかぶってたんだけど、女子の9割が挨拶しない。

こっちからこんにちはって言うと、こちらにガンくれて集団でヒソりながら通りすぎて行く。うちの娘達が女子達に挨拶したら、「おっ、偉ぇなこの子だって。そんで私の事は睨みつけながら通りすぎて行く。

逆に男子の半数位は礼儀正しく挨拶していく。たぶん野球サッカー水泳でもやってるんだろうなって感じのよく日に焼けた男子達が特にキハキしている。

私が子供の頃は、男子の中には通りすがり女性に「キモいんだよババァ死ねよ」とか「おいこっち向けよゴリラメス!この行き遅れ!」などと罵声を浴びせて石投げるような奴らがいたけど、そういうのは見かけなかった。

女子達が通行人無礼な態度取ってても放置かむしろそれ推奨って、犯罪防止っていってもなんか悲しくなるね。うちの娘達もそうさせなきゃいけないのだろうかって思って暗い気分になった。

【追記1】

私が今住んでるのは故郷とはべつの所なんで単純に比較はできないんだけど、治安の良し悪しについては、十数年前に引っ越して来た頃はこちらの方が格段に治安が悪かったんだけど、ここ十年くらいで急速に良くなりつつあった。

が、十年前に置かれた痴漢パトロールがこの春に経費節減のためとかいって廃止されて、かわりに防犯カメラがあちこちに設置されたんだけど、そのせいかなんか今年は自治体のお知らせメール痴漢出没の注意喚起が多かったような気がするんだけど、去年と比較はしてないので気のせいかもしれない。

故郷はド田舎だった。今は知らないけど私が子供だった時分は大人子供達の行動にあまり興味なかったのかもしれない。登下校の時間帯は通勤自動車が往来するくらいで人目があまりなく、子供達はやりたい放題だった。

上級生が轢死したイタチの死骸を登校旗に引っ掛けて下級生を追い回す、知的障害者の子ランドセル泥団子をぶつけまくってどろどろにして泣かせる、等々、誰も見てないからってとんでもない悪行三昧だったのだ。

でも農繁期田畑に人がいるときはそんな事しないんだから治安問題というよりは誰か見てる人がいるかどうかという問題だと思う。

【追記2】

似た文体の人がいるけど同じ人?って訊かれたけどそれは私ではないよ。その質問に「違う人ですねー」っていうトラバも私じゃないよ。

【追記3】

いや私は上記の悪行の数々を男は普通にやるとは思ってないよ。ただ子供に歪な価値観だけ刷り込んで放置するとこれだけの事をやらかすのだということで。女子も多少はやらかしものだけど、やはり大人想像の斜め上の事をやってのけるのはおもに男子だったが。

でも今現在男子達の様子を見れば教育次第で男子はこうも変わるというのがよくわかる。

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