はてなキーワード: 身分差別とは
年齢差別|
能力やポテンシャルと関係なく年次や年齢で処遇が決まる。能力があっても若ければダメだったり、ポテンシャルがあっても年食ってたらダメだったりする。また、年金問題に代表されるように世代間の不公平がシャレにならないレベルに達している。寿命が近い老人の延命のために法外な費用を国は肩代わりし続けているが、その一方でこれから生まれる子供、その子供をつくる男女、生まれてきた子供のための費用を出すことには渋る渋る。
どのルートから入ってきたかで、その後のルートの大部分が最初から決まっている。同じ能力の人間でも新卒時に正社員で入社するか、既卒で派遣社員から入社するかで天と地ほどの待遇の差がある。そして、その差を入社後に解消するチャンスは乏しく、基本的に差は一層開いていく。そういうキャリアパスが初めから敷かれている。
身分差別|
解雇規制があるため、無能な正社員がのうのうと茶をすすりながら高給を食んでいる傍らで、有能な非正規社員が馬車馬のように働いていたりする。最近ではこれに外国人差別が加わった。
技能実習生に代表されるが、非熟練労働の外国の人たちを奴隷扱い。彼ら彼女らも人である。まず同一労働同一賃金であるべきだ。それから、外国から来た人も数年日本に住めばコミュニティも作るし子供も作る。一時的な労働力のつもりであっても、いったん受け入れたなら、相応の福祉を提供して融和しなければ必ず将来に禍根を残すのだが。
能力のある人間に相応の報いを与えない。人より成果を出しても給料は同じ。ポジションも変わらない。最近では転職が昔ほど異常視されなくなったので、能力や成果に報いない企業からは人材が流出するようになりつつあるが、それは正社員の話。年齢差別、入口差別、身分差別、外国人差別とのコンボで割を食っている人間が日本にはごまんといる。
男女差別|医学部入試の件が記憶に新しい。あれは男女差別と年齢差別のダブルパンチで、日本の醜さを煮詰めたような事件だ。根本的な問題は医学部の定員を増やさないことにあるが、そこを解決しないまま上っ面かつ非倫理的な解決策に飛びつく怠慢が問題を深刻化させている。
他にも何かある?
「おんな城主直虎」を見ているんだけど、ポリコレ的に正しくない表現が多すぎる。
↑これらを美しく、しかも肯定的に描いているドラマだった。放送禁止にしろとは言わないが、時間帯を深夜にするなど、ゾーニングをしなくていいのだろうか。
浜松駅に立ち寄ってみたとき、ポスターがたくさん貼ってあった。ファン同士で楽しむのは否定しないけれど、街中に広めるのはちょっと自粛してほしい。
そういえば昨年のドラマ「真田丸」にも、最終回には、主人公の真田信繁がヒロイン(きり)にキスをするシーンがあった。
内容はと言うと、男が女に唐突に抱きついて、女はそのことに驚いて固まってしまう。男はそれに無理やりキスをしたのである。これって性暴力だよね?
もし現実だとすれば、男女がキスをするときは、たとえ口頭で許可を得ないとしても、まずは体を寄り添わせたり、相手の気持ちを確認するためのステップを踏む。いきなり抱きついたり、強引なキスをするのは性暴力だろう。
ドラマのストーリーでは、事後承諾でこれを相手が受けいれてくれたからよかったものの、子供とか、一部のバカな大人がこのマネをしたらどうするんだろうか? 当時、私はこのシーンを問題視していなかったが、先般に少年ジャンプの「ゆらぎ荘の幽奈さん」という漫画が炎上していたのを見て、ハッとした。子供も見るようなTV番組では、性暴力を肯定的に描写することを許してはいけなかったのだ。
私はかつての不見識を反省するとともに、NHKの配慮のなさが許せなくなってきた。
こういうものを平然と受容しているドラマ視聴者のことも許せない。漫画のように叩きやすいものだけに目くじらを立てる、インターネットのリベラル勢力に対しても怒りがわいた。
言うまでもなく、ポリコレに反しているものであっても、表現の自由はある。だからゾーニングすればいいのだが、それが十分に行われているとは言いがたい。
私はリベラル勢力にすこしは良識があると信じていたが、大河ドラマのような大衆文化に対しては、彼ら・彼女らもロクに反応を見せないようだった。これが日本の現状だ。
私は憤懣やる方なくて、頭がおかしくなりそうだ。
「ポリコレなんか知ったことじゃねーよw」「フィクションだから自由だろw」という態度で、まっとうな人権感覚を捨てないかぎり、この世界で娯楽作品を楽しむことは難しい。そして、それができる普通の人たちがうらやましい。
↑これの続き。
少年ジャンプの漫画『ゆらぎ荘の幽奈さん』が炎上しているのを見て、私はハイヒール・化粧を滅ぼすべきだという気持ちを新たにした。
この件に関して、リベラル側の主張は、「セクハラを肯定的に描いた漫画を子供に見せるべきではない」というものだった。
私もこれに賛成である。もちろん表現の自由があるので、ああいう有害表現のある漫画を発禁にしてよいとは思わないが、ゾーニングをして子供の目が届かない場所に置くという配慮が必要だろう。
そして、これは化粧・ハイヒールについても同様のことが言える。
私は化粧・ハイヒールのような有害物をゾーニングするべきだと思っている。
「女は化粧・ハイヒールを好むのが自然だ」「化粧・ハイヒールを使えば美しくなれる」というイメージを子供に植え付けることは、大変に有害だ。子供にそういうものを見せるべきではないし、もし見せるとすれば何らかの教育的配慮が必要だ。
女性の中には、たしかに自分で好んでハイヒール・化粧を選ぶ人たちも多い。
一方で、それを女性のスタンダードだとして強制する空気もある。
仮にハイヒール・化粧そのものには罪がないとしても、それが同調圧力となっていて、すでに実際の人権侵害が起こっているのである。このファッションの愛好者たちには、社会的責任を取らせるべきだろう。
もっとも、化粧・ハイヒールを楽しむことは、一応は表現の自由や幸福追求権に含まれるのであって、その権利を奪ってはいけない。
しかし、なぜ子供が見ている場所でそれをやってみせる必要があるのか? なぜ女性たちを縛りつける同調圧力を作ってまで、公共の場所でそのファッションをする必要があるのか? 私はこの不正義に怒っている。
どうしてもやりたければ、愛好者だけが集まる場所を作って、そこで存分にハイヒール・化粧を楽しめばいい。なにも完全に規制しろというのではなく、時と場所をわきまえてくれというのが私の主張だ。
リベラルの何がクソなのかというと、あいつらはラディカルな左翼とは違って、やっていることが世俗的すぎるし、大衆の味方をしすぎている。
例えば彼らが主張している「ポリティカル・コレクトネス」は、あくまで現代の大衆が受け入れられる程度の正しさである。
それは大衆の好みを忖度しまくった上で構築された概念であり、本当の意味での正しさではない。
例えば先日のニュースで、アメリカのディズニーランドの『カリブの海賊』のアトラクションで、花嫁オークション(人身売買)のシーンが女性差別だとして中止になったという報道があった。
はてなやTwitterで反応を調べてみると、案の定、リベラルはこれを好意的に受け止めたようである。
言うまでもなく、女性差別をエンターテイメントとして消費するのはポリコレに反するから、ディズニーランドの今回の判断は進歩だと見なすことができる。しかし、本気で正しさを追及するつもりがあるならば、「差別から目をそむけるな。差別について学習する機会を奪うべきではない」という意見になるはずだ。
「ディズニーランドは娯楽施設であって、差別を学ぶための学習施設ではない」
「エンターテイメントなんだから、正しさを過度に求めてはいけない」
これはまるで、表現の自由戦士のオタクどもが必死になって、有害でおぞましいアニメ・漫画を正当化するときに使っているロジックそのものである。
つまり、リベラルにとっては、オタクのような異端者は弾圧してよいが、ディズニーランドを楽しむのは大衆の権利だから擁護しなければならないというわけだ。この恣意的な基準によって構築されているのが「ポリコレ」だ。
リベラルが言うところのポリコレとは、大衆の好みを反映し、せいぜい大衆の利益を損なわない程度に追求すればよいものであるらしい。だから、ディズニーランドを廃園に追いこめ、廃園しなくていいが年齢制限を設けろ、というような話には絶対にならないのである。
なお、ディズニーによくある「お姫様(プリンセス)」を美化する物語も、私は有害だと思っている。こういう物語は身分差別を正当化しているし、労働者や庶民を軽んじすぎていて、そのことが民主主義の妨げになりうる。
これは子供に悪影響を及ぼすだろう。リベラルはこの点に関して甘いので、私のようにこれを有害表現だと断罪してみせることはない。それどころか、恥知らずにも『アナと雪の女王』を絶賛している始末である。
このことからも、リベラルの唱えるポリコレというのが本当の正しさを求めているのではなく、普通の大衆が受け入れられる程度の保守的な道徳観に基づいていることが分かる。
大衆は、例えばオタクのような異端者が腐臭を放っていることを我慢できないくせに、自分たちがいかに腐臭を放っているかに無自覚だ。リベラルはこの大衆を代弁している政治勢力なのである。ゆえに、リベラルは、大衆に過度の負担を強いるほど厳格なやり方で正しさを追求することには耐えられず、「ハイヒール・化粧を規制しろ」という私の主張には反発するのである。
リベラルがLGBTの権利を擁護するときの姿勢を見ても、このことは一目瞭然だ。
彼らは「同性婚を認めるべきだ」とは言うが、「結婚制度を粉砕しろ」とは言わない。
結婚などというのは、個人主義を抑圧している封建主義の産物であるが、リベラルはあくまでも大衆の利益であるところの結婚制度を維持しようとする。その上で、そこに同性愛者を取り込もうとしているのである。
これはまさしく、大衆の利益を損なわない範囲内で正しさを追求していることの証左だ。大衆には過度の負担をさせないという原則、リベラルにとってこれが一番重要なことなのだろう。
ゆえに彼らがやろうとしているポリコレの追求とやらも、ことごとくこの原則を基盤にしたものになっており、ひどく不徹底なのである。
追記。
ちょうどホットエントリの増田があったので、私もそれにかこつけて追記を書きました。
武家は、統治のために中国の儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教は社会構造を維持するための宗教だ。日本史の教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教は社会の本質を担う物凄く重要なものだった。
そして例えば、長幼の序(年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制が典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。
さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教の教義を信奉している当人に儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人は無宗教」という言説が定説になっている。
日中戦争や太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教は身分差別・階級差別の宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本が東アジアの盟主(親分)たらんとしたものだ。
日本では、少なくとも戦時中までは公然とアイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人や中国人は未だに事実上の差別を受けている。戦前の政府は日本社会のシステムを押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本の論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人と同化せざるをえなくなった。
「国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別、階級差別の宗教だ。
日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争を反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから、謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人や韓国人も儒教徒だから、問題の本質が解決する可能性がない。
(参照:豚猫大好きぶーにゃんの社会的弱者研究所http://sgtyamabuunyan2nd.hatenadiary.jp/entry/2017/03/06/173930)
当時の就職企業説明会がどのようなものだったかが記されており、就職氷河期に中小企業でさえ就職するのがいかに難しかったか理解できるかと思います。
私は就職氷河期世代なのですが、病気療養のため同世代と同じ時期に就職活動することができませんでした。
ですので、自分自身は就職氷河期の就職活動を経験したことがありません。
しかし、ときどき体調の良い時に大学に行って就職課の求人を見ることがありました。
例年なら満杯になっているはずの掲示板に半分くらいしか求人情報が張っておらず、給与も正社員でありながら手取り15万円にも満たないものが多かったことを記憶しています。
また、同年代の知り合いからは、いわゆる“カラ求人”も多かったと聞いています。
聞くところによると、一斉に企業が採用をやめたので求人倍率が低くなり、あまりの厳しい数字に厚労省が「これはまずい」と思って、“採用しなくてもいいので求人を出して欲しい”と企業にお願いしたことがあるとか、ないとか…。
企業が求人を出して、さんざん面接をやって、結局1人も採用しなかった…なんて話も聞いたことがある時期でした。
今世間で知られている就職氷河期の求人倍率も、このような“カラ求人”の分を除けば、もっと低かったんじゃないか、という意見も聞きます。
さて、そんな就職氷河期世代、または団塊ジュニア世代ももう40代~30代後半。
もう、企業も受け入れが難しい年齢ですし、私は「このまま我々の世代は見捨てられていくんだなぁ」と悲しい気持ちでいました。
ところが最近、八代尚宏先生などの本を読んでいて、「あれ?もしかして就職氷河期世代は見捨てられるどころか、これから影響力が強くなるんじゃないか?」と思うことがありました。
なぜか。
去年から“シルバー民主主義”や“シルバーデモクラシー”という言葉が取り上げられるようになりました。
これは、相対的に数が多い高齢者世代が自分たちの都合の良い政策を実行する党に投票するあまり、若年世代にとって不利益が多い社会になってしまう…というものだったと思います。
この代表格がいわゆる団塊世代であったわけですが、彼らも近年続々と75歳以上という後期高齢者に突入しています。
いろいろ指摘されているように、団塊世代の人も75歳以上になると健康的な問題で投票に行けないことが多くなり、徐々に彼らの政治的影響力は弱まってくると考えられるのです。
「そんなことにわかには信じられない」と思われる方も多いでしょう。
しかし、医療機関で働いていると、75歳を境にしていかに人間が弱くなるかが良くわかるのです。
人間は75歳も過ぎると、大きな病気にかかるとなかなか回復しません。
ちょっとの病気ですぐに足腰が弱くなるので、外出も少なくなります。
また、認知症にもかかりやすくなり、認知症の影響で自力での健康管理ができなくなると、体調が崩れやすくなり、あっという間に亡くなる方もいらっしゃいます。
(そもそも認知症になったら、判断能力が低下するので投票できなくなると思われます)
そういうことを考えながら、人口ピラミッドを見ると、否応にも団塊ジュニア、いわゆる就職氷河期世代の数の多さに目が行きます。
八代先生などによると、年代が上がるにつれて投票率も上昇するそうです。
つまり、これから団塊世代の政治的影響力が弱まると同時に、団塊ジュニア、つまり就職氷河期世代の政治的影響力が強まってくると考えられるのです。
しかし、他の方がさんざん書かれているように、この世代は社会に出てこのかた、ちっとも良い思いをしていません。
新卒で就職活動した時は、不況の影響でどんなにがんばっても正社員として就職できませんでした。
就職してもブラック企業で、過労死したり、精神的疾患を患って退職を余儀なくされる人も多かったです。
仕方なく非正規雇用で働いても、“非正規”という身分差別のため正社員と同じ仕事をしているにも関わらず、給料は少ないままほとんど変わりませんでした。
社会保険にも入れてもらえず、老後の貯蓄もできず、がんばっているにも関わらず「甘えている」「自己責任」と言われる始末です。
一昔前であれば、過去の政治的出来事は時とともに忘れ去られることが多かったと思います。
でも、今はネットに就職氷河期のドキュメンタリー映像や当時の政策の記録が残っています。
こうした状況を考える時、「これから就職氷河期世代がどういう投票行動を取るのか、どのような政治的影響力を及ぼすのかわからないな」と思うのです。
昨年、与党はにわかに就職氷河期世代の支援策を打ち出し始めました。
この背景には減り続ける社会保険収入や税収を増やし、生活保護受給者を減らす目的があるんじゃないかと思っていました。
しかし、団塊世代の次に票をたくさん持っている年代を考えた時、団塊ジュニア世代、つまり就職氷河期世代に注目が集まったのではないかとも考えられるのです。
就職氷河期世代は企業にとって魅力のない年齢になったのかもしれません。
彼らは少なくとも、あと30年間は投票に行けるのです。
今後、就職氷河期世代は政治的にどのような選択をするのでしょうか…。
もし、本当に就職氷河期世代の復讐があるのとすれば、“揺るぎない絶大な投票数”という形で現れることもあるのかもしれない、と思った次第です。
スタジオジブリ「かぐや姫の物語」のストーリー批判については既に玖足氏が記されているゆえ、ここにおいては多言はしない。
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20150316/1426441543
僕がここで記したいのは、高畑氏のあまりに32年テーゼに縛られたかの如き貧弱な反天皇観である。
例えば、高畑氏の擁護をするツイートまとめとして以下のようなものがある。
この中でCDB氏は「帝の性暴力と女性性の収奪」を描いたと言っている。しかしそれは高畑氏の平板な反天皇観をあげつらうことでしかない。
天皇は決して収奪や暴力に結び付けられて語られる存在ではなかった。天皇もまた征旅に行くことはあったが、軍の最高司令官として赴くことはなかった(「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」という軍人勅諭の出だしは山県閥の西周が西洋の歴史に準じた擬制に過ぎない)。例えば斉明天皇が百済救援のために親征の途上、崩じられても軍はそのまま百済へ上陸している。天皇はむしろ巡狩(みそなはし、視察のこと)して各地を平定したのであり、軍隊は中大兄皇子や武内宿禰のような皇子・臣下に統率されて敵を討ったのである。天皇が自ら軍を指揮することは東洋古制の兵学から見ても邪道であった。東洋において軍の戦略を決定する軍師は軍司令官の任免もできるゆえに、天皇がそのような地位に就かれることはあり得ないのである。
では天皇とは何であるか。それは何よりも「社稷を祀る」存在である。具体的にいえば、五穀の豊穣を祈り天照大御神が宣らされた「斎庭の神勅」を奉じることであった。それゆえ自らは何も所有されないのが天皇の原則であった(詳しくは保田與重郎の『述史新論』『鳥見のひかり』『方聞記』などを参照せよ)。作中で「御門」は支那趣味(侮蔑の意味を込めて使うのではない)の俗な人物として描かれているが、これなぞは共産党仕込みの「収奪する権力者」の図式に無理やり天皇をあてはめたものに過ぎない。何も所有されない天皇だからこそ、天神地祇を祀り権力者を束ね日本を統らすことができるのである。権力といえば外交権を一手に握った大宰府の方がよほど強く、「遠の朝廷」と呼ばれたほどだった。聖武天皇が大宰府へ下る節度使たちに下された御製の長歌の冒頭「食す国の 遠の朝廷に 汝らが かく罷りなば 平らけく 我は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ」は権力や所有とはほど遠い天皇本来のあり方を示している。
明らかに反差別思想を有しているだろう高畑氏が「御門」の顔をわざと崩してかぐや姫に生理的な嫌悪感を催させ、それが月からの使者が来る原因となっているのも氏の醜悪な思想が垣間見える。氏は容姿差別は良くて身分差別は悪とでも思っているのだろうか。先に述べたように、天皇は五穀の豊穣を祈る点で国民とつながっていたし、今もなおつながっている。明治大帝は「子等はみな 軍のにはにいではてて 翁やひとり 山田もるらむ」と詠まれているし、昭和帝と香淳皇后は戦後まもなくの国内を行幸啓されて国民の暮らしぶりをみそなわした。今上陛下が東日本大震災で津波を被った田を心配されたのも記憶に新しい。天皇は宮闕の奥深くに居ましても農土を、漁場を、金山を離れてはいないのである。高畑氏の浅薄な思想はこの国史上の事実にどう応えるのか。