はてなキーワード: 薄っぺらとは
国がマスクをするのは自己判断に委ねるって言ってから、半年とちょっとが経ちましたわな。通勤で電車を利用してるんだけど、地域差はあるかもしれないけど体感として過半数は行かないまでも、乗客の3〜4割くらいはノーマスクかなぁって感じじゃん。で、マスクをしてない奴らのブス・ブサイク率が異常に高いような気がするんだ。これって俺の思い過ごしではないと思うから、これを読んでくれた人達の意見を聞いてみたいと思うんだ。
なんつーか、電車でノーマスクの連中ってただのブス・ブサイクではなくて、薄らぼんやりと生きてきました感というか、自分の主義主張は特になく周りに流されて生きてきました感というか、人間的な薄っぺらさが顔に出てる気がすんのよ。もしくは、接客とか営業をやってる人達は共感してくれると思うんだけど、どことなく客として来たら面倒を起こしそうだなってオーラが出てるというか。
20代前半なら、しゃあないかなとは思うのよ。免疫力は高いだろうからノーマスクでも影響はほぼないだろうし。ただ、アラサーだと痛い奴・ヤバイ奴認定されても、文句は言えんよなとは思うんだ。アラフォー以上だと、職場で嫌われまくってて会社に居場所がないんだろうなって邪推してしまったり。
都会disは許されるし、
都心に住もうとすることを薄っぺらいとかキラキラとか言ってdisることも全然許されるのに、
「家庭を持ったことを機に郊外に住むことにした」をdisるのは絶対に許されない。
disるのはよくないから許さないというのはわかるとしても、「個人的にはそういう生き方はしたくない」と表明することすら許されない。
「正しい生き方」を否定する人間は正しくない人間であるという論理によって、人間生活の本質を理解せず表層上のキラキラを追い求めるだけの軽薄な人間という「正しくない人間のステロタイプ」を投影されそこを非難されることになる。そういう理由ではないという弁解は無視される。「必死wwwwww」というやつでだ。
もちろんそうなる背景は理解できる。現実に(自分を含む)大多数の人間はそういう生き方しか選べないからそこを否定されるわけにはいかないということだと思う。
そういう普通の人達の気持ちに最優先で配慮するべきだということもわかる。
わかるんだけど、あまりにもその要求が強すぎねえかって思うんですよねえ。
本当につらいんだろうなって想像するけどさ。
岡田麿里監督の作品は見たことがなかったが、「あの花」が名作であることは知っていたし
チェンソーマンを見てMAPPAに興味を持っていたので、渾身の劇場作品であるこの作品を見に行こうと思った。
とは言えあまりヒットしている雰囲気はなく、ネットをふわっと見る限り絶賛している人はあまりおらず、
見どころはあるが問題も多い、というような感想が多数なのであまり期待はしてなかった。
鑑賞した結果、見どころはあるが問題が多すぎるのであまり乗れないな、という感想を抱いた。
絵作りは全体的に申し分なく、やりたかったこともわかるし作者の持ち味もわかるが、そこに至るまでに問題が多すぎる。
順に思い出しながら問題点を突っ込んでいく。
◾️冒頭いきなりギャグが滑っている
冒頭、中学生男子が狭いこたつに4人入ってワチャワチャと勉強しているというほのぼのシーンから幕を開ける。
4人組の中のお調子者が、こたつの中で屁をこき、大騒ぎしながら窓を開ける、というのが
中学生日記レベルのテンプレギャグであり、中年男性である自分が見てこの4人に親しみを持つことはできないな、と感じたが、
まあギャグが大事な作品ではないのでこんなものだろう。全然許容範囲である。
窓を開けると工場が爆発し世界に異変が起こる。時間が止まり、同じ1日を繰り返す田舎街に閉じ込められることになる。
異変が起こった時に、視聴者と同じ現実世界に生きていたはずの主人公たちがどのようにその異変を認識し受け入れていくか、
という過程を描くことで視聴者も状況を受け入れやすくなるものだが、この作品はいきなり違和感を突きつけてくる。
登場人物たちが異変をすでに受け入れており、諦念に塗れた奇妙な終わらない日常生活を続けているのだ。
徐々に明らかになることだが、時間が止まってから十年以上が経過していたのだ。
かなり挑戦的なストーリーテーリングだが、あまり成功しているとは言えない。
十年以上も外界と隔絶され肉体が変化せず、同じ1日を繰り返しているというのは相当な極限状況である。
田舎町とはいえ数千〜数万人はいるであろう街の人達が、そのような極限状況に置かれているようには見えない。
最初の数年は外界に出ようとしたり、ループから抜け出そうとチャレンジした人達がいて、
彼らが失敗したのを見て人々が諦めて日常を続けることにした、という経緯なのだと思う。
そのような経緯が描かれることはなく、この無茶な状況を説明するのは「自分確認票」とかいうものを人々が
毎日書かされているという設定である。演出的にもこれを毎日書いていることがかなり重要になってくる。
「いつの日か時間が再び動き出した時に、自分が変化し過ぎていると不具合が起こるかもしれないので、自分が昨日と変わっていないことを毎日確認しましょう」
ということらしいのだが、その根拠はなんとなく事情がわかっている風の言動をしている変わり者の神主がそう言ってるから、
この映画の問題点の半分ぐらいはこいつの責任であると言えるだろう。予告編を見るだけで違和感を覚えると思うが、
映画のリアリティラインにそぐわない、いかにもアニメ的なエキセントリックなキャラである。
この突飛なキャラを映画に馴染ませるために、妙にリアルな小物感を感じさせる演技が端々に入るところは面白い。
「こんな奴が現実にいたら絶対に近寄りたくないな」と思わせてくれる。
芝居がかった大仰な喋り方をした後にボソボソと独り言を言ったりするところがやばい奴感のリアリティを高めている。
最大の問題は、街の中でも変わり者として爪弾きにされていたこの男が、世界設定の根幹を握っていることである。
背後にある神道的な神秘設定の描写が非常に薄く、単なる変人の妄言が街を支配しているように見えてしまう。
小物感がリアルに強調されればされるほど、世界観が薄っぺらく見えるという問題。
こいつが単なる変人ではなく、世界の鍵を握るだけの力を持っている描写がもう少し必要だったのではないか。
十年以上自分が変わらないように毎日確認票を書かされている20代中盤の主人公たちの気持ちに感情移入するのは難しい。
街から出られないとはいえ人生経験は十数年分重ねていて、車の運転などもできるようになっているのだ。
肉体が変わらないからなのかメンタルは中学生のままで、意味もなく高い所から飛び降りたり首締めごっこをしたり、
上履きを隠したり、パンチラやブルマー姿を見て喜んだり、わざとパンツを見せてからかったり、みずみずしく痛々しい恋をしたり、
いかにも中学生な行為を続けている。どういう精神状態なのか想像がつかず、共感できない。
物語上の都合のいいところだけ成長して、中学生として見せたい部分は成長しない。随分とご都合主義の設定である。
作者の見せたい都合に引き込む演出の力量が足りていない。
女の子みたいに見える主人公。女みたいと言われるのは嫌いじゃないが男が好きなわけじゃない。
なかなか魅力的な設定だが、そこがそれ以上掘り下げられることはない。そのほかにもフェティッシュの要素がいくつも
散りばめられているがただ作者がやりたかっただけでキャラの魅力につながっていかないことは残念である。
肝試しに地味な女の子と一緒にトンネルに入ったらいきなり告白される、というシーンはこの映画で唯一笑えたシーンだったのだが、
からかわれて傷ついた女の子は心にヒビが入り、そのまま消滅してしまうという全く笑えない結末になってしまう。
実は時間が止まっているというのは神主らが仕組んだ嘘で、主人公たちは聖なる山と工場が生み出した幻だったのだ!
様々な設定の綻びも、不可解な登場人物の心理も、幻だったのなら仕方がない。すべて作者の胸先三寸である。
世界観のペラペラ感がティッシュぐらいの厚みになってしまう。絵的にも、あちこちがひび割れて今にも砕け散りそうになっている。
そこで唯一興味を繋ぎ止めてくれるのが、幻の世界で唯一実在の存在である、未来から迷い込んできた主人公たちの娘である。
濃厚なファーストキスを実の娘に偶然見られるという気まずいだけのシーンを経て、
この娘を現実界に送り返すというミッションが確定してから物語は俄かに力を取り戻し、
監督の確かな力量によって大きな盛り上がりが描かれる。
しかし、そこに至るまでのキャラと世界観の積み上げが非常に脆弱であるために、自分は置いていかれている感がしてまるで乗れなかった。
バックトゥザ・フューチャー的なカーアクションで無茶なアクションを繰り広げるものの、
まあ危なそうに見えるけど所詮は幻だし、どーにでもなるだろ・・・と思うとあんまりハラハラしない。
「幻だって生きているんだ!今を楽しんでもいいんだ!」と言われても、「・・はあ。」としか思わないのである。
最後まで出てこないので調べてみたところ、この話の原型になった、監督が以前作ろうとしていた物語に出てくる嘘つき少女と狼少女の名前らしい。
つまり睦実と五実のことを指している。監督の内部の問題でしかないので心底どうでもいい。
五実が10年間言語すら教えられずに育ったのも、「狼に育てられた少女」をやりたかった名残というだけで、設定的に特に意味はないということだけはわかった。
いや無理あるでしょその設定・・・
◾️どうすればよかったか
いやどうしようもなくね?「実は全部幻でした!」というオチに物語として説得力持たせるのは無理だよ!と最初は思ったが、
閉じ込めれた幻としての主人公たちをメタファーとして捉えるなら、共感を誘うような中学生あるある描写は抑え、
閉じ込められた違和感、脱出しようと足掻く姿を押し出した方が良かったのではないか。
「狼に育てられた少女」をやりたいのなら、五実と神機狼の関わりをもっと描くべきだった。
神機狼と佐上の関わりも、もっと神秘的に描いていれば世界観に厚みが出たと思う。
神道っぽい儀式をやるシーンが新海誠作品によくあるけど、ああいうの大事だよね。
突然失踪して終盤急に日記が発見される父親もその辺りの設定に絡められたのでは。
佐上の周囲に腰巾着みたいな面白キャラを配置して浮きすぎた佐上のクッションにするのもいいかもしれない。
鬱野はイキリやれやれ系とっちゃん坊やだから薄っぺらいコスパ意識でいつも頭がいっぱいなんだよ。
だから美味くもないラーメンを食うために外で700円とか払うはずがないんだよね。
そういう所でメシ食ってる連中を見下しながら200円のカップヌードルや400円の完全食カレーメシを食うわけ。
「通常のカレーメシの倍の値段で、『完全食』という謳い文句を食っている」
「栄養成分を見ても良くわからない……カロリーメイトと実際には大差ないのではないか?」
「じゃあ俺はカレーメシ一個分損をしている?食塩摂取量を考えればこっちの方が健康に良いのだろうか?」
「結局他の食事でカロリーを補填すれば同じだけの食塩を取ってしまう気がする(カップヌードルにお湯をジョボジョボしつつ)」
「やってしまった……つい腹が減って本当に追加の食事を取ってしまった」
「完全な塩分過多……1食の値段も外食ラーメンと同じぐらいだ……」
「だが……栄養価はきっとこっちの方が高い……完全食という謳い文句に救われた」
「俺は情報を食ってる「完全」という情報を……外でラーメンを食うときは「外食」という情報を食っているんだろう……」
「ゲフー 正直、食べすぎたな……完全に余計だった……」
みたいな感じが鬱野だろ!
鬱野は「美味くもないラーメン屋」にわざわざ行かない!美味いラーメン屋には行っても、美味くもないラーメン屋に行くぐらいならカップ麺を食べる!
作者は鬱野の解像度が低すぎる!
深夜の翳りに身を晒し、今やっと眼を覚ました。これは魂の夜ふかし、そう呼ぶべきでしょう。
さて、私は時折、American Mathematical Society(以下、AMS)の書籍を求める運命にある。特にStudent Mathematical Libraryというシリーズは、その薄っぺらい体裁ながら、研究の奥深さを体感できるとても理想的なものであり、よく手に取ることとなる。しかし、その紙一重の薄さの背後に隠された内容は、従って、大学院の学生にのみ耐えうるものとなっている。昔、あまりの熱意から何冊か買い求め、積読の山を築いたこともあるが。
その山に埋もれる中、一つの書を読み尽くしたことがある。それは、数理モデリングの書であった。数理モデリング、これは往々にして、ラグランジュの未定乗数法などのよく知られた方法論に頼る傾向がある。しかしながら、AMSの書籍はそのくだらない枠組みにとらわれず、多彩な事例を探求していた。とはいえ、フレンケル教授が言うように、数理モデリングと言っても、ついには「ペンキ塗りの数学」である。
私は数学の最前線を垣間見るようになり、調和解析と数論の奇跡的な交差、フェルマーの最終定理、ガロア群、保型関数など、その深遠さに驚嘆する日々である。最近は、経済学に数学を結びつけることに強い興味を抱いており、mean fieldのような奥深い謎が私を惹きつける。
学びたいことが山ほどあり、私の能力と時間には限りがある。何を学ぶべきか、と悩むのはやむを得ない。しかし、コスパを重視し過ぎると、ついにはペンキ塗りの典型に陥ってしまうだろう。複数の数学の領域を結びつけることは、即座に実用性が見えるものと、その応用が果たしてどこに行くのか見当もつかないものがある。伊藤清が指摘するように、「実用を考慮しなければ、数学で遊ぶことは限りない」。この観点から見れば、私が探求すべき分野は、確率論の領域にあるのは明らかだろう。確率微分方程式とゲーム理論の交わる地点は、実用性との調和によって成り立つ、その方向へと進む決意を固める。
hash: c94da2af8ee4dd6e6ead4da0676b2b97
ジャニーズ事務所所属のタレントのオタクとして、今、いろんなものが消えてしまうことを怖れてビクビクしている。ジャニーズという概念もそうだしユーチューブのコンテンツやCDやDVDとかも消えるかもしれない。
事件の発端は最低最悪な性犯罪によるものだけど、オタクたちの不安は、それを見て見ぬふりしてきた人たち、特にメディアのせいって部分も大きくない?と思ってしまう。間違ってる?オタクはメディアに、なんでもっと早く追及しなかったんだって怒っていいと思うんだけど、違う?
こんなことを書くのも、バッシングされそうで怖い。でも少し考えてみてほしいし、反論もしてほしい。
メディアは、自分たちがお金を稼ぐために、めっちゃ間違ったもの(ジャニーズ事務所)を作り上げる手助けをしたくせに、その間違ったものを受け取った側がそれを大事にして奪われるのに文句言ったら、黙ってろって言われる。
若いオタク個人は、昔の告発のことなんか知らないよ。新聞社や出版社はそれを知って、ジャニーズのエンタメを一緒に作り上げてたんだよ。
コンクリートに砂を混ぜた人がいて、その疑いがあることを知っていてそれを使ってマンションを建てた会社があって、そのマンションが壊れて、マンションに住んでた人が怒ったら、会社も混ぜた人に対して一緒になって怒ってるっていうイメージは間違ってる?マンションに住んでた人には疑いを知ってた人も知らない人もいるけど、知ってたとしても、そこに立派な会社が介在していたから、疑いを重視しなかったんじゃない?
メディアは、ジャニー喜多川やジャニーズ事務所を大いに追及すべきだけど、同時にオタクに謝罪すべきなんじゃないかってのは、間違ってる?世間に「私たちは間違ってました」って薄っぺらい謝罪文を公表するだけなのは違うんじゃない?
ジャニー喜多川が最悪なのは分かってるから黙っててね。これはメディアとオタクの関係の話。あと百回くらい書いとくべきかな。ジャニー喜多川が諸悪の根源なのは分かってるからね。
他の見方、考え方をしてみる思考実験とでも言いましょうか、他の人の意見をきいたり調べたり別人になりきって視野とか思考を変えることで対処してますね。
言及のあった性的にマイノリティであることをセールスポイントにして人前に立っている人でいえば、同じ性的マイノリティ当事者の中には勇気づけられている人がいるかもしれない。性的マイノリティをカミングアウトされたマジョリティ側の親御さんの中には、テレビで見る性的マイノリティのコメンテーターを見て、理解の入り口に立つこともあるかもしれない。薄っぺらいと思う自分はそのままに、もしかしたらこういう有用性があるかもと考えたりしますね。
また、セールスポイントに好き好んでしてるかは当事者でないとわからないものです。LGBTQを啓蒙するために尊厳に関わる大切な指向・志向を曝け出し、身を削る思いで、まだ見ぬ仲間のためにカメラの前に立っているかもしれない、とか自分でしたら考えます。
自分の意見、感性に合わないものを差別だと自覚しながら距離をとるというのは、もちろんそうした方がいい手合いは多いですが、一方で柔軟性を失わせて視野を狭くしますので、なるべく他の視点、立場、見方をして、迎合はせずとも切り捨てはせず、受け流したいものだと日々過ごしています。
三度寝した後、昼ごはんに彼氏にもらったノワールを食べる。それから、図書館へ向かう途中でコンビニに寄り、からあげクンとだしおにぎりを買う。
図書館の前のベンチで買った二つを食べる。からあげクンは、期間限定フレーバーなんて買わずに、素直にホットを買えばよかったな、と後悔するも、だしおにぎりは、値段の割に美味しかった。
軽くお手洗いを済ませて、なんとなく、クリスタルを読む。登場人物の暮らしぶりや、横文字の固有名詞がたくさん出てきて、高度経済成長期直後の70年代後半から80年代の一般市民にも余裕が出てきたイケイケな日本の雰囲気がよく伝わった。特に私が気に入ったのは、生まれてきてから苦労や不安といった暗い感情とは無縁な若者の浅はかさや薄っぺらさがよく現れている点だ。小説を読んでいて、やけに注釈が多く、無視して読んでいたが、思ったよりも早く読み終わったので読む。これがなかなか面白い。例えば、
エルメス …馬具商からスタートしましたのに、今や超高級ブランドになりまして
モデル …大した顔でもないのに、自己顕示欲の塊で、モデルをやっている女子大生もいます
サマセット・モーム…なんたって、由利(主人公)は一応、英文科ですもの
もはや筆者の皮肉混じりの感想となっているものが、ほとんどだった笑 また、最後に暗に少子化時代へと進む事を示しているであろう日本の出生率を示したデータが唐突に現れる。これは、10年後もシャネルを着たモデルをやっていたい主人公の、将来もモノに囲まれた裕福な生活が送れると思っている主人公の行く末でも表しているのかと思った。オシャレで裕福な生活を送っている若者たちの生活→筆者の彼らの暮らしに出てくるモノに込めた皮肉混じりの注釈→日本の出生率からそんなに長くは続かないであろう今の生活、という一連の流れは、実に見事だった。
くそー、また落ちたのか。。
これだけやってもダメなのか、という感じです。
今回の仕事はプロマネ的な立場を任されてて、それなりに実感を持ってプロジェクトを引っ張って成功に導き、これとは別にアサインされていた対外的な活動にも並行してとりくみ、そのせいで目が回るくらい忙しくて残業だって月100時間以上も耐えていままでの自分の会社人生の中で一番じゃないかってくらい頑張ったのに。
面談の時期もちょうど仕事が一段落した時期で、面談の準備もめずらしく抜かりなく進めることができたのに。
これだけチャンスが揃うことなんてもう金輪際ないかもしれないのに、それでいて全力をぶつけたつもりなのに、それでも落ちるのか。
これでダメならもうどうすりゃいいんだ。打つ手がない、お手上げです。
いや、わかってるんだ。
なんで上がれないのかはわかっちゃってるんだ。
うまく言語化できないけど、根本的に、本質的に人より劣ってるんだろうな。
会社の飲み会とかでみんなの話を聞いていると、自分が如何に仕事への解像度が低いというか、薄っぺらいかということをいつも痛感させられる。
みんな飲み会で仕事の話をすると、幹部の考え方、仕事に対する姿勢・ポリシー、仕事の理想は何なのか、なぜ理想どおりにならないのか、個人の裏事情、制度とシステムの欠陥、etc
マシンガンみたいにとめどなくしゃべる。
自分はそれを聞いてもいまいちピンとこない。「さもありなん」という感じ。
でもみんなはそれが刺さるようで嬉しそうに次から次から話題が湧いてくる。
同じ仕事をやってるはずなのに、なんてみんなこんな流暢に語れるんだろう。
物事を表層しかみれてないんだろう。奥行きを理解できない人間。
だから飲み会は苦痛です。終わった後イヤな気分になるんだもん。
まぁ、自分はそんな人間なのでこのコミュニティからすれば蹴落とされるのも当然なんだろうな。
でももう5年くらいずーっと落とされ続けてるんだよなー。