はてなキーワード: 甘ったれとは
家にテレビが無いから、社員食堂で垂れ流されているワイドショーだけが情報源なんだけど
去年の春 桜が満開の駅で、ピカピカの新卒だった俺はうずくまっていた
新生活を始めたくなくて、新しく暮らす街の駅に着いた途端動けなくなったのだ
本当はこんなはずじゃなかったのに
俺は当時 内定をもらった中で、一番有名でデカくてCMもよくやってる所に就職した
デカけりゃ潰れる事も無いだろう
一通のメールが届いた
詳細は割愛するが「数日間山奥で合宿」「携帯使用禁止」「外部には漏らさない事」
ネットでよく見るブラック企業研修 そのままの内容で一瞬頭がクラクラした
だけどもう卒業も目前に迫っているし
就職活動できる時期でもない
それに、山奥ってだけで内容は普通のビジネスマナーとか そういうものかもしれないし...そう誤魔化すうちに合宿の日はやってきた
「社会人としての心構えを作るために」新入社員は数日間山奥で叫び続け(特定出来ないよう詳細は省く)毎日毎日繰り返し訓練を続けた
夜は2人1組で宿泊部屋が与えられて、俺は真面目な眼鏡の男と同室だった
携帯禁止だろうが 外の世界の情報がないと気が狂いそうになったので俺は夜中いつも携帯を触っていた
付近にバス停は無かったが(独自のバスでここまで連れて来られた)4時間歩けば 交通機関にたどり着けるようだ
当初 眼鏡は気さくなやつだったのに、もう完全に笑顔が無くなっていたし、真面目な性格が災いしたのか 合宿の訓練での失敗を真剣に悩んで寝言で「すいません、すいません」と謝るほど病んでいて可哀想だと思ったのだ
俺の脱出計画を聞くと 眼鏡はすっくと立ち上がり部屋を出て行った
は????
俺が呆然としていたら 眼鏡はすぐに戻ってきた 後ろに指導教官を連れて
謀反者の俺をチクったのだ
俺は滅茶苦茶にしばかれた
肉体的にも精神的にもきつかったが
罵倒の言葉や行為より この状況にいる自分が惨めで ただ親に申し訳ないとそればかり考えていた
事が終わる頃にはもう日が暮れていた
一人で冷めた弁当を食った
合宿に行く前、家族は就職を祝って俺の大好物のすき焼きを作ってくれた
「よかったなぁ よかったなぁ」
「お前の良い所を見つけてくれる会社が絶対あるって 言っただろう?」
「立派な会社に入って 自慢の息子だ」
弁当に少しだけ入っていた肉を食って そんな事を思い出してしまい 俺は急に怖くなった
この合宿が終わったら俺はどんな顔で家に帰ればいいんだろう?家族はきっと笑顔で「どうだった?」って聞いてくるだろう
本当の事を話したらきっと悲しませる
ちゃんと嘘つけるだろうか
それが一番怖かった
耐えて耐えて 合宿最終日を迎えた
今までの俺たちを認める言葉を沢山投げかけて、もう20歳もすぎているのに 子供みたいに同期は皆泣いていた
久々に暖かくてうまい飯も出た
帰りのバスで「いい経験になったね」と口々に語り合う同期達の隣で 俺はぼんやりと外の景色を眺めていた
来た時には積もっていたはずの雪が すっかり溶けて無くなっていた
ようやく一人になって家に帰るまでの間
俺はずっと迷っていた
本当の事を話して就職を蹴るか
家族の顔を見た瞬間 きっと許してもらえると
そう思って 合宿の全てを話した
けれど俺の予想に反して 家族には認めてもらえなかった
そういうのは良くある話で、社会人とはそういうもので、多少の辛いことは乗り越えるべき せっかく大きな会社に入ったんだから、頑張りなさい そうやって励まされて励まされて
俺はやめる勇気もなくて、ただ鬱々とした気持ちばかりが大きくなって 入社日を迎えた
入社式では チラホラと空席を見かけた
俺のほかにも辞めたいと思った奴 やっぱりいるよなと安心した一方で、こんなにも(ほぼ全員)が辞めずに入社式に出ている事も異常だと思った
続きは後日書きます
医学部を中退した。というかさせられる事になった。理由は何しろ頭が悪いからである。自分でもなんでこれっぽっちの量のものが覚えられないんだ?と思うけど覚えられなかった。
一般試験で合格して入ったわけだけれど物理選択だったこともあり暗記事項はほぼ通らずに来たのでもしかしたら自分は病的に暗記が出来ないんじゃなかろうか、そもそも。(だけど好きなアニメやゲームについては良く覚えていられるのに。何故。)
・医学部再入学試験受ける(もしそれに受かったところでまた同じ事になる可能性は否めない)
・元の大学の復学試験受ける(もしそれに受かったところで就職できるのか?)
・高卒になる(親に医学部時代の学費を完済するだけで人生終わる)
という三つの道がある。医療人を目指すための高い志なんてものがあったわけではなく、単に時間には困れど金にはさほど困らない暮らしがしたかっただけなのに逆に詰んでしまった。
まず定量化できないものだから簡単に比較できないし、私はこの言葉が嫌い。
私は子供のころ、ピアノとクラシックバレエと乗馬、フルートと書道を習っていた。
教育熱心な親だ。
ピアノは大嫌いだった。先生が異常に厳しいのだ。最初はみんなでおなじ曲を弾いていたけど、私が少し弾けるようになると、先生は母親を呼び出して、個人レッスンを勧めた。
私が褒められたと感じた母は、嬉しそうにそれを快諾した。
最初は楽しかったピアノがどんどん苦痛になってきた。家での練習もさぼり気味になり、そうするとレッスンにどんどん行けなくなる。
運指、とか、フットペダルをどう踏むかとか、スラーがどうとか、楽典がどうとか(まあ、楽典は面白かったけど)、そういうのが私は本当に苦手だった。聴いた音楽をなんとなく弾くことは人より得意だったけど、それだけ。
「どうしてちゃんとやらないの?」と先生に何度も聞かれた。そのたびに答えられなかった。
「才能があるかもしれないのに!」と先生は言った。それを聞いた母も同じようなことを言った。
私には姉がいて、同じ習いごとをしていたが、確かに姉に比べると少しだけ私の方がなにごとも得意だった。
でも、それは才能があるということとは関係ないと、子供ながらに思っていた。
姉は、ひたむきに努力できる人だった。思い通りに弾けない時、怒った母が「もうやめなさい!こんなこと!」と言ってピアノ教本を窓から放り投げた時も、
庭から泥だらけになった教本を拾ってきて、泣きながら「ママ、私頑張るから、やらせてください」と言っていた。
これが才能でなくてなんだというのだろうか。私は姉がうらやましかった。
捨てられても、泣いても、縋りつけるくらい執着の持てることが私にはなかったから。
クラシックバレエ。これは結構好きだった。ピアノは生演奏で、ジュニアクラスの先生は優しくて、バレエの日は姉と一緒に髪をお団子にして手をつないでバスに乗った。
小学校高学年になり、そろそろ中学受験のためにバレエを辞めるという話をしたとき、先生が母に意外なことを言った。
「この子はバレエに向いています。辞めさせるのは勿体ないです」
そんなこと、先生からも一度も聞いたことがなかった。母は少し悩んでいるようだった。
中学受験とバレエの両立は、できなくもなかった。ただ、バレエというのはなかなか厄介なもので、休むと取り戻すのがすごーく大変なのだ。
「あんたがやりたいなら、両方やってみなさい」と母は言った。
もう暗くなったバレエスタジオで、いつもニコニコの先生が真面目な目で私を見ていた。
やれない、と私は家に帰ってから母に伝えた。
「そうよね、あんたに才能があるとは思えないし。それに努力もできないでしょ」と母は言った。
その時すでにピアノ教室を不登校気味になっていた私に、その言葉はストレートにぐさっときた。
乗馬は、私が最も才能がある習い事だったと思うし、私がいちばん好きな習い事でもあった。もともと動物が好きで、通うのが楽しみで仕方なかった。
早く上のクラスに行きたくて、先生の言うことを真面目に聞いて、雨の日も、寒い日も通っていた。
大した怪我ではなかったけど、それを機に兄弟全員が乗馬クラブを辞めさせられた。
私は泣いて泣いて懇願した。こんなに何かをお願いしたことはないんじゃないかというくらい。
私は馬から落ちたりしないから、落ちても怪我しないから、怪我しても勉強はするから、と、土下座もしたけど、「危ないから」の一言で全部なしになってしまった。
まあ、仕方ない。決めるのは親だ。
さて、長々と書いたのには理由がある。
相変わらずやりたいことも見つからず、器用貧乏な私に、ちょっとしたチャンスが舞い込んできた。
「とってもやりたい!」というほどのことではない。
「へえ、できたら楽しそうだな」くらいの感覚だが、興味はあった。
その話を持ち掛けてくれたのは、綺麗な女の人で、もともとその業界にいた人だった。
淡々と話を聞く私を、その人はじっと見ていた。
「やりたいってことでいいの?」、と聞かれ、
「そうですね、やってみたいです」と私は答えた。
その女の人はため息をついた。怒っているんだなと思った。
「あのね、やってみたいとかじゃないの。本当にやりたいのかどうかを聞いてるの」
出た、と私は思った。久々だなこの感じ。
「私はね、あなたが本気でやりたいと思うなら応援するし、なれると思う。才能があると思うから」と、その人は言って、すごく綺麗な目で私をじっと見ていた。
「でもね、才能だけじゃダメなの。努力しないと。本人がやる気ないのにお膳立てはできないの。」
「それはわかります」
「全然わかってない。この仕事はね、やりたいっていう人がたくさんたくさんいるの。努力して努力して、ほんの一握りの人が成功するのよ。今みたいにノホホンとしたまんまじゃダメなの。頑張れるでしょ?本当にやりたいのなら」
そこではい!と即答できるほど私はできた人間ではない。好きな映画である「花とアリス」をなんとなく思い浮かべながら、曖昧な笑みを浮かべて、ひたすらこの「努力と才能の嵐」が過ぎ去るのを待った。
結局、私がどうしたいのかは自分で決めなければいけない、と言われた。
私は迷っている。なんで才能があると思われたのかも正直わからないし、そんなにすぐやりたいと思えるようになる自信もない。
普通に大学を卒業して、就職するんだろうなと思っていたが、就職したくないなら、そっちの道に行くのもいいだろう。
でもきっとその世界では、みんながああいう目をしているんだろうな。
やりたくて選んだ道なんだからって、すぐ言われるんだろうな。
努力家の姉は、夢を叶え、ものすごく狭き門をくぐりぬけ、やりたい仕事をしている。
ピアノはたまに弾く。お遊びのようなものだけど、好きな曲を弾いていると落ち着く。
バレエは、大学に入ってから再開した。もちろん本格的にではないけど、姿勢がいいと褒められることはある。
やってきたことはたぶん無駄ではなかったけど、でも結局、努力する才能は得られなかった。
私はきっとあの綺麗な女の人に、「できません」と言うだろう。
私は甘ったれた子供だから、すぐに弱音を吐いてしまうし、それを許してほしいと思ってしまうのだ。
才能があるとかないとか、そういうのはたぶん他人が決めることではない。
本人がそう思えない限り、才能は「ない」のだ。
甘えと言われても、何と言われても、あんなこわい目に晒されて生きていくことは、私にはできない。
自分の携帯から「最近の弱音」というタイトルのメモを見つけた。懐かしい。この時 苦しかったなぁ。
最近の弱音
・外が暑い。家が狭い。散らかってる。
・床の生活し過ぎて尻が擦り切れた。悲しい。膝こすれて汚くなった。
・外で乳を飲まないのは私への嫌がらせか?と本気で思うことがある。そんなわけないが。
・外出するとなにかとお金がかかる。お金を貯めなきゃという気持ちが強すぎて何となく贅沢できない。外食でも食べたいもの我慢してる。
・家が欲しいと言う割には外食ガンガンするなと呆れている。光熱費とかの小言を言う前にお金が何に出て行ってるのかちゃんと把握しろ夫。
・なんでかぜひいてるんだよーーーーー!こっちは子供の世話で手一杯だよーーー。
・退屈を解消しようと外出するとそれだけで疲れて、夜の愚図りやら授乳に耐えられない。結局 最終的に面倒を見るのは私で、助けてくれる人がいないので 体力温存が第一優先事項になり、積極的に変化を求めて試すことができない。悪循環。
・家にいると苦しいけど、外に出ても苦しい。結局 どこ行ったって母親はやめられない。代わりがいない。
・私の代わりができる人がいない。私が具合悪くなったら終わりだ。私が愛情注いでやらなきゃ終わりだ。私が気づかなきゃ終わりだ。プレッシャーすごい。
・毎日 授乳辛い。眠い。おいお前 いつまでしゃぶっているんだよ これは私の乳首だぞ と0歳児に対して思うことが多々ある。
・授乳だって、乳出すために人より水分と炭水化物多めにとって、できるだけ疲れすぎないよう努力してるんだ。勝手に出てくるもんじゃないんだよ。
・そもそもこいつ(子)は私のことおっぱいぐらいにしか思ってねぇんじゃねぇか。
・(夫の)女友達ってなんだよ。一度死んで出直してこい。産んでやる。
・私を見れば泣き止むのは分かるが、風呂場で着替えてる時にまで連れて来られると 腹が立つ。わたしにはパンツを履く時間も無いのか。
・携帯ばかり見ていて、この人は私の味方なんだろうかと不信感がすごい。2人しかいない中で、片方が相手してないってことは、残った片方が子供の面倒見てるんだぞ。分かってるのか。大人は2人しかいないんだぞ。
・鏡を見るとがっかりすることが多い。ブスになったなと感じる。悲しい。何着てもパッとしない。ヒール履けない。目の下のクマが取れない。体が痛い。禿げた。自信が無くなった。
・特に髪の毛がべとっとしていて、何やっても気分が上がらない。
・風呂に落ち着いて入れないから、後回しになり、結果 頭が洗えず痒いし、ボサボサになるし、鏡を見てガッカリする悪循環に陥ってる。
・美容室行きたいが、いけないよな、と思う。したいけど、子供のこと考えるとできない、ということが多い。美容室・歯医者・病院・ショッピング等々。
・夫とうまくいかない。優しくなれない。
・いや、夫はまだ大丈夫だろとか思ってるんだろうが、私の中で沸々と恨み辛みが溜まってきている。なんでこんなに私が大変なのに、こいつは良いところだけ取っていくんだ、何も変わらずに過ごせるんだと、何かにつけて思ってしまう。自己嫌悪すごい。一緒にいると苦しい。できれば仲良くやって行きたいし、優しくしてあげたいけれど、そこまでの余裕がない。毎日子供のことで必死だ。
・やりたいことの多くが子供の「構ってくれ!」で中断させられ、その度にイライラする。
・離乳食 食わない。大きくなれるんだろうか。アレルギーは大丈夫だろうか。食べさせてるものが偏っていないだろうか、不安が尽きない。
・こういうことを考えずに可愛い可愛い言ってる夫に腹が立つ。その可愛さが維持されているのは私の努力あってだぞ。たくさん構って、気配りして、愛情と時間をたっぷり注がれた結果 順調に育ってるんだぞ。分かってんのか。子供に可愛いという100分の1でいいから私にも構え。託児所の人だって、幼稚園の先生だって、もう少し感謝されとるわ。言葉かけてもらってるわ。母親だから子供の面倒見て当たり前じゃないんだぞ。苦しいことの方が多いんだぞ。なんとか毎日、一日一日をどうにか過ごしてるんだぞ。
・おっぱい吸われるの辛い。どっと疲れる。身体中の水分が失われる。アスファルトのミミズかよ。
・子供の要望に応えてやりたいが、パワーが出ない時がある。ダメな母親で申し訳ない気持ちになる。
・当たり前だけど、思い通りに進まないことが多い。
・相手が自分よりも遥かに弱い分、自分で自分の気持ちをコントロールしなければならない。なんとか抑え込んでいる。(安心しろ。子供を傷つけるぐらいなら私が死ぬ。)
・私が注意を逸らすとすぐに不満の声を出してくる。分かっているが、応えてやりたいが、腹が立つ。腹が立つが仕方ないので相手をする。この絶望感。
・私には「(私じゃ)ダメみたい」って言って任せられる人がいない。全部が全部 母親だからできると思われたら死にたくなる。
・父親って何をしてくれるんだ一体?
・とにかくすごく苦しい。
・そのくせ誰かに預けるのは不安だ。子供が悲しい思いするのは目に見えている。
・私に休日は無いのか?
・甘ったれの何が悪いんだよ。自分が好かれないからって子供のせいにすんな。
・太ももベタベタ触るんじゃねぇよ。私が頑張って産んで育てた子だぞ。女の子だぞ。何考えてるんだ糞爺。
・よく頑張ってるわ。そもそもここまで持ったのが奇跡。十分いい母親だよ。誰も言ってくれないのは誰の目から見ても明らかだからだよ。
・お金はカードで支払うことにして、あまり考えないようにしよう。(その代わり娯楽出費は気をつける)
・もう少し 夫以外の人と話したり接する時間を作ろう。支援センター。
・外食で気を使うのやめよう。好きなもの食べよう。子と一緒に牛タン食べに行くか。
・先のことはあまり考えないようにしよう。
・外出が辛いなら家で遊べるようオモチャをたくさん用意しよう。ガンガン買おう。金に糸目をつけるな!
・保育園に預けるまでは大きな怪我なく育てきる、を目標にやっていこう。
以下 我が家の詳細
・実家 遠い
・妻育休中 夫からは育休は断られた
・保育園 落ちた…
・元気いっぱい(これは本当にありがたい)
・夫 変則勤務
以下 久しぶりに見た感想。
今は少し大きくなって、これまでできなかったことができるようになったり、また新しい我慢が増えたり。
夫婦仲は一度思いの丈を手加減せずにぶつけたら(発狂レベルだった。夫可哀想。)何かしら伝わったらしく動いてくれるようになった。言うって大事。爆発も悪くない。うちの夫は小出しに穏やかに伝えていたら何も伝わっていなかったことが後々判明。まぁ、人によるよね。うちの夫は残念なのかもしれない。伝え方が拙い私も残念なのかもしれない。こればっかりは残念者同士 頑張っていくしかない。
生まれてきてくれただけで幸せだと思いつつも、この大変さに見合う何かがこの先やってくるんだろうか、なんて随分勝手なこと考えたりしてる。(いや、元気でいてくれたら十分。でも、ちょっとくらい良いことが、例えば「ママ大好き」とか1回くらいは聞きたい。言ってくれ頼む。一度でいいんだ。)
子よ、母はこれからも頑張るぞ。(多分 父も頑張っているはずだ!多分!)
毒親の話を読んで似た人がいて吐き出したくなって誰にも言えないからここに書く。
父親が妹を自分の顔に似ていると赤ん坊の頃から毛嫌いした。年子の長女の私の事は猫可愛がりし私の赤ん坊の頃はほとんど父親がかまっていたと聞いた。
物心つくと母は父親に甘える私に、お父さんは嫌いと言いなさい、じゃないとあんたの事嫌いになるよと言った。私は父親より母のことが好きだったので泣いてすがった。妹は構われずいつのまにか立っていたとのちに母は言った。
私は母の言う通り、あんたなんて嫌いと言いお父さんと呼ばなくなった。
父親は妹を泣かせて遊んだ。妹はこの世の終わりのような声で泣いた。泣き叫ぶ事を妹は中学生までやめることができなかった。母はそれを疎ましがって疎まれるのが怖くて私は声をあげて泣くことはなかった。
父親が妹をいじめて母と険悪になると私に母は産むんじゃなかったと言った。そう言われるのが怖くて私が父親に抗議する立場となった。そうすると母は父親の機嫌を損ねなくてすむから。
父親が妹を意味もなく小突いたり、私だけを甘やかそうとすることを口汚く罵りながら、して欲しいことがある時は甘えてコントロールすることが私の役割だった。いくら私が、お前なんか嫌い、きちがい、と言っても父親は私にだけ甘かった。
妹の泣き叫ぶ声を私も疎ましく感じていた。母に父親とあのこさえいなければと言われ真に受けていた。ある日泣く妹を母は玄関から閉め出した。私は母を、もういいでしょ、と説得してからでないと鍵をあけることができなかった。私はくずだった。
小学低学年になり、すかしっぺをくらわすふりをするという遊びが流行った。まだ嫌いと言いつつ自分にやさしい父親に甘ったれた感情が残っていた私は嫌がらせもこめてその遊びをとった。父親はニヤニヤと、してはいけない事だ、お母さんに嫌われるよ、と言った。母に嫌われることが何より嫌だった私は、ごめんなさいもうしません内緒にしてくださいと父親に謝った。父親は内緒にして欲しがったら乳首をなめてと言って私はした。
中学年になると妹はストレスで学校で問題をおこすようになった。家のお金や私の物を盗み、怒るとお姉ちゃんがと泣き叫ぶ。住宅密集地だったため丸聞こえで近所の人に挨拶をすると無視されるようになった。
大人に指図して生きているのがわかるのか私は先生に好かれない子供だった。授業中に睨むなと叱られ母に相談すると、あんたは大人を馬鹿にしていると言われた。
父方の祖父母にも生意気で可愛くないと言われいると母から聞いた。母方の祖母もあんたがなつかないから引っ越したと言われた。妹も私も味方の大人はいなかった。
中学生になると妹は荒れ似た家庭の友達の家に入り浸るようになった。親の寝室にはアダルドビデオの山があった。私はかまってくる男子に学生が拉致されて犯されるビデオを貸した。父親も発情した男子も馬鹿にしていた。その男子に好意をよせ胸を触らせてあげる女子などがいたが私が媚びないからそんな態度だと犯かすぞと言われた。ああ男はそうできるのかと肌身に感じた。
そんな中母が入院することになった。あまり帰ってこない妹と風呂場やトイレを間違えたふりしてあけようとしたり股関を見せてくる父親と過ごすことにノイローゼになった。
私は気が狂っていたんだと思うがお風呂の湯船に浸かり麺棒を股に刺した。自分で自分を守った気がした。食欲もなく母が退院すると私が病院につれていかれ栄養失調だと怒られた。
卒業間近に父に愛人ができ、借金でも虐待でも別れなかった母は離婚を決意した。
その頃にはもう妹は我慢の限界で父親に反抗し物を壊し私や母に殴りかかるようになっていた。当然だ。母の兄が妹をなだめようと受け止めなんてできやしないのに近づき、妹が暴れると妹を罵った。母にその日の夜、あの子らはいらないだろうと児相に預けるように言われたが断ったよと伝えられた。
小学生の時の帰り道けんかをして妹を泣かせてしまった。それを見た知らないおばさんが私を嫌な子だと非難すると、お姉ちゃんをいじめるなとこんな姉妹関係なのに怒ってくれるやさしい子なのを知らないくせに助ける気なんかないくせに妹を馬鹿にした。今でもあの親戚たちが死んだら笑うくらいには憎い。
妹は社交的で可愛く人好きのする人間になった。でもいまだに心に爆弾を抱えているし、私に対して愛憎の入り交じった感情をもっているのがわかる。
私は妹が好きだ。お姉ちゃんは好きだと言ってくれる妹に罪悪感が消えることはないと思う。
なんだろう、そいつら本当に「他人への投資」とか「起業のアドバイス」とかやったこと、考えたことあるのだろうか?
いささか好意的に見すぎやしないか?僕は会社員を社畜呼ばわりしてあおってる時点で、「不安をあおって金が尽きるまで依存させる商売」だと思ったが。
まあ、あいつらが本当に起業支援というものを甘く見すぎてるのかもしれん。
起業なんか「俺はこれがいけると思う!」という思い上がったプライドの高いやつがやるもの。というか、自信がなかったら起業なんか考えもしない。
確実にうまくいく仮説をだれか持ってきてくれないかみたいな甘ったれた糞が何で起業なんか考えんの?というのが1番目
「俺はこれが儲かる」という「仮説」に全力で体をゆだねるもの。仮説を実現するのが簡単か難しいかは仮説と本人の経験、能力次第。
だけど、仮説は思っているだけではどこまで行っても仮説。実際作ってフィットさせてみないとならない。
俺が考えたのは世界一ぃぃぃみたいな、謙虚に修正してみたいなのに向かないやつが起業をやるというのが2番目。
ー追記ー
成人式の時や大学の卒業式の時に自立を意識した。しかし意識するだけの甘ちゃんだった。
なぜ今感じたのか、それは祖父母の介護で疲れている両親の姿を見たからだ。
人が自立するための一番のカンフル剤は、今まで自分を守っていた存在が衰えるのを見ることかもしれない。
高校や大学、サッカークラブなど私が不自由なくキャリアを選べるように金銭面で準備してくれていた両親。
高校も大学も私立。予備校にも通った。公立高校からストレートに国立大学に行った人より1.5〜2倍程度学費がかかってるのではないか。
冷凍食品の時もあったが家に帰れば必ず晩御飯を出してくれた母。
休日にサッカーの試合のためにほぼ毎週車で送迎し、応援してくれた父。
親は強くていつも子供を助けてくれると思っていた。
親は強いなんて呑気すぎる。びっくりするぐらいの親不孝者だ。
そんな親不孝者が先日帰省をした。両親の白髪がとても増えていた。
衝撃だった。
学生時代から一人暮らしをしている友人たちは既にこんな気持ちがすさむ体験を何度もしているのだろうか。
結婚記念日にに贈ったFire TV Stickも忙しくて使う暇がないらしい。
帰省した時はとにかく会話を盛り上げた。会社なら滑るようなネタも価値観が同じ家族なら盛り上がる。私が話して両親が笑顔になるのならいくらでも話した。今まで隠していた彼女の話した。遠回しに自分が今の生活に不満がない事をアピールした。これ以上両親の悩みを増やしたくなかった。
休日2日間を祖父母の介護センターで費やした母は私の食生活を気にしていた。
先程まで自分の両親の介護をして今度は子どもの心配をしている。少しは自分の体の心配をしてほしい。
おそらく今でも私が助けを求めたら両親は全力でサポートしてくれるだろう。毎日ご飯を出してくれたように。毎週サッカーの応援をしてくれたように。
でもそんな甘ったれた事は言ってられない。
自分で生きなければ。
両親を安心させなければ。
思うままに描き殴ったら900字になってしまった。
この書きなぐった思いもいつか薄れてしまう人間の記憶の構造が恨めしい。
少しでもこの思いを持ち続けるためにここに記す。