はてなキーワード: 特質とは
この地に「アダム」と「イブ」がやってきたのは,名誉な理由によるものではなかった。気候が厳しく食料に乏しいこの地に好き好んで定住しようとする人は居なかったのである。
事情はともあれアダムとイブはこの地に暮らす他無く,移住者が来ることも期待できないから,自然,彼らはこの地に子を成した。
やがて彼らの子も子を作る歳になり,兄妹で子を成した。
これはアダムとイブにとって神に背く行いであったが,彼らはこの地に暮らす他無く,移住者が来ることも期待できないから,アダムとイブは子が兄妹で子を成すことを許したのである。
やがて3代目も子を作る歳になった。彼らは兄妹間に産まれた子であるが故に,兄妹間での姦淫を何ら禁忌と考えなかった。のみならず,およそ近親相姦を禁忌と考えなかった。これは,子に兄妹間の姦淫を許したアダムとイブにとってすら,さらに罪深く思われる行為であった。
かくして3代目にも子が産まれた。必ずしも両親ともに3代目である者のみではないが,ともあれ便宜的に彼らを4代目と呼ぶことをお許し頂きたい。
偶然であろうか,4代目の全員が,アダムとイブの期待に沿わない特質を備えていた。手指の多少や体毛の異常も,盲や聾に比べれば良い物に思われ,満足に歩けない子は見捨てざるを得なかった。
アダムとイブは,これを神罰と思った。しかし,神に救いを求めても何も起こらなかった。
やがて4代目が身籠り,子を産んだ。当初はそれが子であるとも思われなかった。ヒトの子と言うにはあまりに小さく,また,肉塊に口が付いたような外観はあまりに異形であった。
この5代目の容姿は,多少の異形に寛容な彼らをして恐怖を抱かせ,5代目はあわや殺されるところであった。
しかし,母の本能か,はたまた異形を目で見ないためか,母親はその子を育てることにした。首から回した布でその子を乳首付近に保持し,子の保護と授乳を行った。
しばらくすると,子はその2本の足で大地に立つことができるようになった。歩くことはできなかったが,替わりに飛び跳ねることで親たちよりも早く動くことができた。全身を覆う体毛は親たちよりもよく寒い夜に耐え,頑強な歯は親たちよりもよくこの地の植物を食べた。
異形の5代目が自分たちよりもこの地に馴染んでいるのを見て,老齢のアダムとイブは神に感謝した。彼らの信じていたところによれば,神は,乗り越えられない試練を与えない。近親相姦は避けられなかった。そうであれば,近親相姦のために神罰が下るはずがないのである。アダムとイブは,神の恩寵に敬意表し,この子に「跳ぶ者」の名を与えた。
やがて次々と5代目が誕生し,その幾らかは最初の「跳ぶ者」と同じ特徴を備えていたから,いつしか「跳ぶ者」はこうした者達の総称となった。
仕事の中で「こりゃムリだ」って結論が出ちゃったので
そのピッタリくるテンプレートをよく理解して、
その上で身の振り方を決めなきゃダメってだけかと。
自分が本当にADHDかどうかなんてどーだっていいんですよ、大事なのは身の振り方ですから。
それに対して、診断っていうのは一つの示唆と僅かな対策を与えてくれるだけです。
発達障害の診断なんて、自分の可能性に見切りをつける程度の役にしかたちませんよ。
どういうことをやると、際立って社会に迷惑をかけてしまうのか知っておくことは重要かと。
うっかり経理にADHD雇いたくないでしょ?
ADHDだってうっかり経理職には就きたくない。僕はそれをやらかした。
親学がらみでまた名が出てきてるけど、はてならしい小バカにしきったものばかり。それ以前に彼の親学について触れたもの読んでも分らない。
3.11の義捐金の送り先の一つに「あしなが育英会」も含めた結果、『NEW あしながファミリー 号外』というのが送られてくるようになった。その、直近2号に「編集長特別インタビュー」として下村博文文部科学大臣が大々的に取り上げられている。(さらに、少なくとももう1号は続く)
このインタビューが興味深い。
肩書きが文科相のほか、「あしなが育英会前副会長・高校奨学生第一期生」。たしかに、途中までは交通遺児として苦労しながら……という話。鈴木宗男さんを何となく連想した。
とある通り、ディスクレシア(識字障害)の子についての対処や思いが、けっこうな分量を占める。
注目すべきなのは、これを読む限り、下村氏の対処は全然間違っていないように見えること。もちろん気づくまでは「手を上げたこともあります」というようなものなのだが、ひとたび障害が分ってからは、この分野での先進国であったイギリスに留学させるなど(これはそれだけの余裕がないとできないが)頑張っている。
おかしな療法に手を出して結果オーライからのめり込む、なんてのとは全く無縁だ。紙面での言葉ももっともに思える。というより立派だ。
ということで、読んでの疑問。これ、高橋史朗氏の言う「親学」と両立できるの?
いや、高橋氏どころか、自分が別のとこで言ってることと整合性取れるの?
問題:次の文 発達障害を予防する伝統的子育てとは | 下村博文 を読んで作者の真意を答えなさい。
正答:学習障害の子を持つ親として、長所を伸ばす、どのような子どもも受け入れる多様性を持った教育をすすめようという願い。
私はブログのほうは、(政策秘書などの)別人が書いている可能性も疑っている。そもそも文体が冷たすぎて、こちらのインタビューと全然肌合いが違う。
まあ、いずれにしてももう少し詳しく、下村氏と「親学」の関わりについて知りたい。小バカにするだけではなしに。自民党の特質の一つとして、「ぬえ」みたいな性格挙げることができると思うけど、それが「親学」というものにも当て嵌まるのではないか?
『NEW あしながファミリー 号外』、あしながから送ってもらってる人、ここにははもちろんたくさんいると思うから、細かいインタビューの内容は誰かが補足してくれるでしょう。それから著書もあるので、それを使うのが一番なのかもしれません。では
■水晶の成長速度
この水晶の成長速度には諸説あり、
1mm100年、1mm1000年、1mm1万年、1mm10万年、1mm100万年…と、まあ様々。
定説というのはありません。
なぜなら、天然の状態において水晶の成長を観察した人はいませんから。
一概に「水晶は○○○年に1mm成長するんだ!」とも言い切れないんですね。
成長が速いケースも遅いケースも有り得るわけで。
主に工業製品として売られている人工水晶は、製造に約1年かかってる、ということですね。
■人工石とは?
どれも天然石では高価だったり希少なために、
安価で大量に供給するための手段として古くから考えられてきました。
・吸着/含浸…多孔質の石など、色素を吸着させて色味を良くしたり、油脂で磨いたり樹脂を浸透させたもの。
ターコイズやラピスラズリにおいて、古くからよくあるものです。
この二種はそういう処理をしないと、短期間で変色したり割れたりしやすいというのもあります。
加熱の代表は、アメジスト(紫水晶)を加熱してシトリン(黄水晶)。タイガーアイを加熱して色味を変える。
放射線照射の代表は、スモーキークリスタルに放射線照射して色味を濃くしたり整える。
…ここまでのは人工石というよりも加工。宝飾品業界では普通にやっていることです。
・再構築…売り物としては高値にならない石を破砕して粉末状にし固めたもの。
・溶解ガラス…石の成分の粉末を溶解し冷やし固めて、不純物を取り除いたもの。
安い水晶玉や、水晶ビーズでも彫刻してあるものは、これです(練水晶、石英ガラス)。
結晶化していませんから、クリスタルとは呼べず、特質や性質も全く異なります。
・工業的結晶…石の成分を、温度や圧力を管理したオートクレーブ内で結晶化したもの。
代表的なものは、人工水晶(主にクオーツ時計の発振子として用いられる)。
また、日本の京セラがつくるクレサンベール(R)、京都オパール(R)も有名です。
ハッキリいって、これらは高価で、宝飾店でなければ売れませんw
人工石とは全く違うもので、偽物、または勘違いというのもあります。
キュービックジルコニアは模造ダイヤといわれてますが、組成が違う全くの別物。
レモンクオーツは発色成分として硫黄が混じって黄色いので、シトリンとは発色成分が全く違うもの。
つまり、わかっていてやっていたとしたなら、嘘であり詐欺ってやつですね。
よくあるパターンは…
・有名なヒーラーが効果を説く→ファンが信じる→広く流布。
ちなみに、昔と今では、意味が違ってる石なんていうのもあります。
だから、私は、大事なのは【呪い】がかかっているかどうか、だというわけです。
多くの人々が信じているからこそ、その【呪い】は有効である、と。
そもそも、石のパワーってなんなのか?ってことですよ。
ある石を入手したからといって、それで望みが叶うなんて絶対にない。
石ができることは、貴方の望みを確認することだけです。
たとえば、恋愛運向上のためにローズクオーツを入手したとします。
ローズクオーツの意味であるところの恋愛運向上を信じているから入手したわけですね。
ということは、ローズクオーツを目にするたびに、「恋愛運向上」を意識するわけです。
ローズクオーツの恋愛運向上を信じる、ローズクオーツで恋愛を意識する、これが【呪い】です。
その意識が、日常の行動に影響を与え、なんらかの変化を及ぼす。
大地のパワーといった有り難みがある、という呪い。
■レンガはパワーストーンになるか?
【呪い】が成立していれば、レンガだろうとコンクリだろうとパワーストーンになるはずですが…
レンガには、建築資材という【呪い】がすでに成立しているのが厄介なんです。
ホームセンターで売ってるレンガを手にして、100円の大量生産品という事実を無視して、
純粋に【呪い】をかけることができるならば、パワーストーンになります。
これも大量生産品ですが、その模様を信じるから【呪い】は成立しているわけです。
「じゃあ、レンガにもその模様を書けばいいじゃないか」というのは、屁理屈というやつでございますw
最初からお守りを作る意識で作られたものであると、買う方も信じているからお守りになるんです。
建築資材に屁理屈として模様や文様をつけたのでは、お守りとして信じられないでしょ?
「俺は信じられるぞ」という方は、素晴らしく純粋な方でございます。
どうぞ、レンガをパワーストーンにしてご活用くださいませ…としか言いようがありません。
最初に人工石の説明をしたのも同じことです。
人工石だと知っていても、純粋に【呪い】を受け入れられるなら、別に問題はないのです。
じゃあ、なぜ、前回、ビーズをボロカスに貶したのか? …それはビーズの値付けが悪質だからです。
ただ、難しいもので、安いと効力がないんじゃないか?と思う人も多いんですよねw
高く値付けすることによって、信じられる人がいるかぎり、適正価格にはならないので、
「パワーストーンなんか信じない」という人は、パワーストーンなんか不要です。
以上ですw
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。
まじで、その通り。
一種のゲームなんだよね。
「虚構新聞」は新聞という形式で嘘をもっともらしく語る面白さが売りのネタのゲーム。そこにツッコミを入れて遊ぶゲーム。
「また釣られたw」感を楽しむゲーム、あるいはそれに釣られる奴を馬鹿にして遊ぶゲーム。
そして、このゲームは釣りタイトルというルールを用いるゲームだった。
そして、この「釣りタイトル」はアクセス数アップにつながるものだ。
これをまとめサイトが大っぴらに用いるようになった。
まとめサイトがやってるゲームは「虚構新聞」とは違うゲームだ。
単純に、人目のつくようなタイトルをつけてアクセス数を稼ぐゲーム。
まじかよ、と思ってクリックする奴をおびき寄せるゲーム。そして、それが釣りタイトルでしたともネタバレしないゲーム。
しょーもない奴らが同じルールを用いるようになったことで、すでに「虚構新聞」がやってるゲームの正当性は棄損されていたことが、政治ネタに触れて明るみになっただけ。
釣りタイトルのネタ元、虚構新聞のネタ元は「東スポ」だが、なぜ「東スポ」は釣りタイトルをやめろという抗議行動が起きないのか。
あるいは起きても止めずにすんでいるのか。なぜ東スポは「東スポだからなー」で済んで、「虚構新聞」はネタでは済まされないのか。
「東スポ」と同じゲームにもっと悪質な形で参入してくる奴がもっといれば、「東スポだからなー」では済まされなくなっているだろう。
だが、新聞という形でこのゲームに参加するにはかなりの参入障壁がある。だから東スポだからなー、で済まされている。
しかし、インターネットは参入障壁ゼロだ。「U-1速報」というまとめサイトが現れたとき、ある種の衝撃を俺は覚えたが、もっとひどいサイトはいくらでもある。
インターネットにおいて、そのネタをネタとして遊ぶ場を守る障壁はゼロに近い。
それはインターネットそのものの特質でもあるし、最近のインターネット利用者、広告利益の変化によるものでもある。
簡単に言えば「バカが参入しはじめたら、そのゲームは終わり」とも言えるだろう。そして、そういう環境にインターネットはなってしまったということだ。
その障壁をインターネット上に設けるとしたら、閉鎖したSNSでゲームを行うか、一定のリテラシーや用語が必要なゲームを行うかしかないだろう。
ある種のゲームが楽しまれ、そしてネタで済まされたものは、同じルールを悪質に用いるものが現れた時に破壊される。
これはコンプガチャやその他のゲームにも当てはまることかもしれない。
ここで言う「ゲーム」とはこの世の中すべてのことだ。
アイドルファンもある種のゲームを行なっている。AKBの盛り上がりの根底にあるルールというものは数多の評論家が指摘している通りだ。
ファンやユーザーが自発的にルールを設定、あるいは読み込み行うゲームもあれば、仕掛け人がネタとして楽しめるゲームを提示し、ルールを設定するゲームもあれば、その両方もあるだろう。
しかし、このルールを行なってもっと悪質でもっと過激なアイドルゲームが行われ、そこに陳腐化や悲劇が起こったとき、AKBを始めとするアイドルゲームは毀損されるだろう。
過激すぎると話題になっていたAKBのドキュメンタリーをDVDで見たのだが、俺は2パックの悲劇を思い出さざるを得なかった。
「"DIS"って"ネタだけどリアル感はある"ってゲームじゃなかったのかよ....」と通じるものが、確実にある。
AKBとヒップホップシーンを(肯定的に)比較する評論がすでにネット上にあって、やはりなと思ったのだが、そこには肯定的にしろ否定的にしろ共通するものがある。
というか「ハイコンテクストな場を楽しむ」というゲームはどうしたってそういったものを含むのだ。
そして、ゲームは続いていく。
あと、ここまで書いて思ったが、「Web 1.0」的な虚構新聞がCGMに殺られた、あるいはネット上のゲームの変化を読み損なったとかいう話もできると思った(小並感)
http://anond.hatelabo.jp/20120514122336
http://anond.hatelabo.jp/20120516163256
http://anond.hatelabo.jp/20120515220559
http://anond.hatelabo.jp/20110606225523
すごくよくわかる、気がする。勘違いかもしれないけど。そして周りの人がこれを理解出来ないこともわかる。
僕ははじめて女の子と付き合うのは遅かったけど、それまで何度か告白されたことはあって、そのどれも振ったけど、「僕とは釣り合わないよね」と言うのが最大の理由だった。釣り合わないってバカにしてるように見えるかもしれないけどそんなかっこいいもんじゃない。その人とお付き合いして二人で歩いてる時に、周りの人から見て釣り合ってるカップルだなあと思われるかどうか、が重要。バカにしてたっていうよりむしろビクビクしてた感じ。ほんとに、好きか嫌いかじゃなく釣り合っているかどうかが第一で絶対重要なことだった。それで、この人の言うことはすごくよくわかる。そしてそのような女の子たちに僕が思った感情は、「ごめんなさい」だった。本当に。嘲笑とかまったくない。バカにしてもいない。キモイとも思わなかったのはこの人とは違うのかもしんない。でも、周りの人はこれを読むと、それは本質的には嘲笑しているんだとか言うんじゃないかと思う。それは理解できる。でも本当にそういう気持ちじゃなかったと言うしかない。
他の人が釣り合わない恋愛をしようというとき、この人はすごい憎しみを感じるのに対して、ぼくはそういうふうに動くことができるのはうらやましいと思うので、そこはちょっと違うけど、本質的な違いじゃないと思う。本質的に違う人は、そもそも釣り合わないとかなに?って人。これが気になる人はみんなそれなりに似たところあるでしょ。
今僕は結果的にすごい美人さん(と我思う)と付き合っているけど、いまだに釣り合いの悪い自分が横にいることが時に耐えられなくなる。多分この人みたいな人は「釣り合わねー」と思うんじゃないかな。・・・というふうに思う。そんなふうにして自分が自信を失っているとき、彼女は不機嫌になっていることもわかる。女性はやっぱ自分に自信を持った男性が好きだと思うので。という僕も、彼氏彼女関係ではなく仕事をしているときには自信満々であるっぽく、そういうところを好きになってくれたのだろうと理解しようと努力する。そうするともやもやは少し解消する。釣り合いが取れてない?いや、そんなに釣り合いが取れてないと向こうが思ってるなら向こうも付きあおうとしないだろうし。もしかすると僕のことをものすごく勘違いしているのかもしれない。そして、本当に釣り合いが取れてないことが向こうに判明したなら、向こうから別れを切りだしてくるはず。気楽にいこう。というのが今の気持ち。と言ってもこの段の冒頭にいつも逆戻りしてる。そのたびに彼女は不機嫌になる。
これまでの彼女は自分的には自分と釣り合い取れた彼女で、精神的ストレスもほとんどなかった。今の彼女に釣り合いストレスを感じるけど、同時に、釣り合い思考からだんだん脱して行ってるようにも思う。それをさせたのは努力。それしかないや。
こんなような僕の感情の動きの中に、彼女を愛してるって気持ちはどれだけあるんだろう。自分でもときに自問する。いや愛してると思うんだけど。結局、相変わらず釣り合ってるかどうかが一番優先されているのかも?そうなのかも。みんな簡単にブコメつけてるけどね、釣り合い重視の人が人を愛して周囲を一切気にしないで誰かを愛せるようになるって言うのは、高校時代ひきこもりのキモオタが大学デビューして合コン三昧のリア充になっちゃうくらいの確率でしかないのじゃないかと思う。適当だけど、つまりすごく難しいってこと。
結局こういう気持ちがどうして起こるかというのは、日本社会の同調圧力のもとで、自分で自分にプレッシャーをかける日本人の体質的なものだろうし、それはいくつかある冷静なブコメが指摘してること。過剰な労働も、自殺も、無能なトップも、みーんなこれが原因だ(そして現代の日本社会を生み出した、世界一優秀な中産階級も)。日本社会同調圧力のもとで、いろんな環境が作用して、それぞれの方向に行くんだと思う。それは日本社会の根本的な問題なので、それに対する解決策があるんなら苦労しない。日本は今みたいに停滞してないと思う。
それでも彼女は救いを求めてるようなので、自分がもしあなたと似たような人間だとして、経験上いちばん有効なのは海外に行くことだ!マジこれしかない。だって原因は日本社会なんだもん。特に西欧文化圏は本当にオープンで、ていうか、オープンであろうと努力してる人間社会なんだ。だいたい白人とアジア人のカップルなんて釣り合うと思うかね。誰も思わねーよ。でもね、そもそも、「釣り合い」なんていう概念がない、なくそうとしてる社会だったら・・・もちろんゼロではない。でも超金持ちさんザッカーバーグの彼女が中国人だったりとかそういうこともある。語学はまずつけてから行ってね。あと人種差別にはめげないように。しょうがねっす。強く生きてる華僑とか見ると少し勇気づけられる。日本みたいに、そもそも生活レベルが欧米より上(これはマジです)っていうことすらないのにね。
そしてまた、海外に行くと、日本社会のそれはそれは素晴らしい特質もすごくよくみえてくると思う。それで、海外で釣り合い意識から脱したら日本に帰ってもいいんじゃね。それか、超気に入ったんならそのまま海外に住んでもいいんじゃね。自由に行こうよ。もちろん苦労も多いだろうけど、こんなふうに自由にできる時代なんて、人間の長い歴史の中でそんなにないんだぜ。太平洋戦争前にアメリカに移住してた僕らのご先祖さまは、強制収容所にぶちこまれたんだぜ。それに比べたらどんだけ楽なことか。
あと病院行けって言ってる人はなーんもわかってね。社会や人生をあまり知らない人っぽいや。こんな人山ほどいるべよ。統失と躁鬱と小児精神病以外は、精神科なんて本人が行きたきゃ行けばいいし行きたくなきゃ行かなきゃいいさ、病院なんて(ボケはまず神経内科行け)。行きたくてたまらない人はもちろん効果ある。でも行きたくてたまらない様になっている時点で精神的にはかなり参ってる。この増田はそんなんじゃないよ、多分。
理屈バカの俺がまったくの初心者がとっつきやすい本を紹介するぞ。
調理に入る前に気分を高める本
現存する料理の原型から考察することで、個々の調理工程の化学的な本質が見えてくる。
たとえばシチューやカレーの"ルー"とはどういう必要性で、どういう技術革新によって、どういう世界で生まれどう発展したのか、という感じの書き方。
これは文化論的なエッセイ。日本人にとって、という視点が強い。
右手に包丁はほとんど読み物だが、これはずいぶんと理屈っぽい。
・大使閣下の料理人 (モーニングKC)西村 ミツル, かわすみ ひろし
技術編
家庭科の実習書あたり。
食品成分表をあわせて読むこと。
応用編
・割合で覚える和の基本 村田 吉弘
割合で味付けを決めてしまうからかなり乱暴だが、味見しなくともそこそこ美味しい味付けになる。
・大好きな炒めもの ウー ウェン
日本人の陰湿なところ
1.良いものが評価されるんじゃなくて、みんなが評価しようと決めたものが評価されるところ
2.演奏動画で顔出てたら毎回顔の評価をしなければ気が済まないところ
3.自分のこと棚に上げて中国・韓国ネタで盛り上がっちゃうところ
4.とりあえず否定しようと思ってそれから手段考えちゃうところ
…略
ハードルを力いっぱい下げて例えば、
君が述べた1~4のうち、
「日本人はみんなそうする」だとか
「日本人以外はそうしない」だとか
君に証明できる項目が1つでもあるだろうか?
無理だ。
君が述べたような曖昧かつ断定的な「日本民族の傾向」のようなことは
日本人を広く把握し、更に世界中の国と地域の人々のことを深く理解しないと言えないことだ。
では君が述べた論、論とは呼べないから、君が吐いた感情、これは何かというと
つまり君一人の脳の中のメランコリーに過ぎない。
ここ数日健康状態が優れないだとか
ここ数日寒くて嫌だとか
そんなことだ。
不潔な思考パターンに入りかけているので優しくない言葉を掛ける。
「そうだ、日本人は良くない、君の憂鬱はあいつらのせいだ」と優しくするのは簡単だが
今そうすると君は緩慢に死においやられるから。
君のように、自分個人の卑小なメランコリーの原因を景気よく拡大して求めて行くと
非常に不潔な思想のサイクルに足をとられてあっという間に首まで埋まる。
君がはまりかけている思考パターンは大義名分としての思想を求めるが
こんな空疎なお題目と自分の実人生を引き換えにした馬鹿が膨大に居る。
流行りが変わればネオナチみたいにもなるだろうが、土台の思考パターンは一緒だ。
ちゃんと寝るだとか、
ちゃんと食べるだとか、
余暇を充実させるだとか。
自分のメランコリーを自分だけの問題として向き合って生活するというのは、
「死ぬまで毎朝ラジオ体操をしないといけない」ぐらいには地味に辛い事だが、
http://anond.hatelabo.jp/20100808145121
女のことをよく分かっていないどころか、そもそも男のことも自分のこともよく分かっていないヤツが、「あまり語られない男の真実」とか偉そうに説教すんなよw
だいたい、女のことを「マスコミに踊らされているスイーツ(笑)」とか思ってる男に限って、マスコミが取り上げる女しか知らない。現実の女と交流持ってないか、たとえ交流があったとしても対人洞察力0だから、マスコミで取り上げられる女像でしか女を語れない。
マスコミに流されない女も沢山いるが、そんな女はあまりマスコミには取り上げられない。なぜならマスコミにとって面白くないからだ。これに関しては男も女も一緒。
あと、草食系をえらく高く評価してる時点で、増田が自分のことを草食系だと思っているのはわかるwww
これは全然違う。草食系は男友達も女友達もそれなりにいる。というか、男であれ女であれ、付き合いは基本「友達」なのが草食系の特徴。友達となる人の幅が広く、恋愛対象となる人の幅が狭いので、あまり恋愛にがっつかない。草食系にとっては恋人も大事だが友達も大事。よってセックス抜きの女友達との付き合いにも価値を感じている。
これは、マイペースかつ女のことを対等の相手として見なしているからで、増田のように女のことを見下しまくっていて、「真に価値があるのは男同士の付き合いであり、女との付き合いの価値はセックスだけ。女友達(ヤらせてくれない女)という関係には価値が無い。」と考えている、女友達どころか男友達さえいなさそうな男は、断じて草食系ではなく、「パターン5:弱い肉食系(DQN非モテ)」に分類される。
女にがっつきたい欲望はあるものの、女を落とすだけの腕前は無いに等しく、常に飢えて悶々としている。
劣等感から臆病になって自分からアプローチできないか、アプローチしたとしてもガツガツしたオーラが出てしまい、女に敬遠される。
女を手に入れられない不満から、女を逆恨みしたり、女と付き合っている男や男と付き合う女を敵視し罵倒する一方で、自分を全面的に受け入れてくれる理想の女像を渇望するあまり処女厨になったりする。
女から見捨てられることを極度に恐れるあまり、自分から女を見捨てることで予防線を張る。自分が女から選ばれないのを、自分に見合う女がいないからだと自己正当化する。そのため、女を見下し、女は自分に気に入られるように努力するべきだというような、分不相応の非常に高圧的な態度を取ることもある。
『野獣系』とは丁度コインの裏表であり、臆病さと劣等感から野獣系になれないだけで、野獣系の欲望を持っている。そのため、何かの拍子に女を手に入れると野獣系に変貌する。
あと、増田は終始「俺が」と言うべきところを「男が」と言っているが、自分個人の特質を男性性の特質だとして自己正当化するのは、まさしくDV男の特徴。
最後に、男にモテる為にはどうすればいいか?
感情をあまり表にださず、欲望をセーブし、プライドを捨て、どんなに親しい関係にあっても礼儀を忘れず、お互い少し距離を置き、物事を合理的に考え、自分が得ることよりも相手に与える事を主として、スキンシップを大切にし、好きな人の為に自分を着飾る。
よって、女は増田に好かれる努力をするのではなく、増田のような男を避ける努力をするべき。というか、その様子じゃ、既に増田の周囲の女は増田を避ける努力をしているのだろうな。
増田は、「女は『男に』好かれる行動をしない馬鹿。なぜなら、世間の女が思う『男像』があまりにも的外れだから」と思っているのだろうが、「女は『増田に』好かれる行動をしない。なぜなら、世間の女が思う『増田像』があまりにも的を射ているから」というのが正しい。
化粧姿はマナー違反?見なければいい:日経ビジネスオンライン
これを読んで久しぶりに腹が立った。
はじめに言っておくが私は女だ。何に腹立ったかというと、こういう非論理的な語り方をするから、「これだから女は(笑)」「30代女性(笑)」とかいつまでたっても馬鹿にされるんだ。そんなこともわからないのか。
このエントリでは読者からの質問に対して、タレント・エッセイストの筆者(有名なの?)が答えるものだ。
このエントリの流れ、及び筆者の主張は、概ね以下のようなものだ。
まぁこんなところだろう。
つっこみどころ満載でもはや釣りとして思えないが、全力で釣られてあげよう。主なところだけ話すと以下のような感じだ。
もっともストレスなのはまるで自分の部屋のようにのびのび存在する男性だ。もちろん、圧倒的多数の男性はマナーを守って乗っている。だが、車両にたった数人配慮に欠ける男性がいるだけで、そのストレスたるや半端ではない。
ここで、『もっともストレスなのはまるで自分の部屋のようにのびのび存在する男性だ』と言っているが、自分の部屋のようにのびのびする女性に対してはむかつかないのか。
私はむかつく。
筆者は大股広げて座ってるオヤジや、いびきやクシャミ、咳払いがうるさい男性がムカつくと言っているが、これは男性に限った話ではない。女性だってドデーンと座ってたり、荷物広げて座ってたり、咳払いがうるさかったりするし、いびきもかくし、おばちゃんとかは大声で話す。私は老若男女を問わずこういうことをする人はウザイと思う。靴下が臭いとかもはやイチャモンにしか聞こえないが、女性だってストッキングが蒸れて臭うこともあるし、なにより香水や化粧道具はかなり臭う。私も女だが、女性専用車両には極力乗りたくない。その最大の理由があの化粧臭さだ。
つまりここで言っている、やれスペースとり過ぎだとか、やれうるさいだとか、臭うだとか言うのは男性特有のものではなく、同じぐらい女性だって迷惑振りまいてることなのだ。それを男性女性に切り分けて議論することがそもそもナンセンスだ。
もちろん、圧倒的多数の男性はマナーを守って乗っている。だが、~~
(中略)
このように、一応文章の初めで断りを入れているが、『だが』で続けて話せばそれは男性批判の文章でしかない。
この問題は、男性女性の問題ではなく、人が多い(密閉された)場所において自分の動的振る舞い(スペースを取る乗り方をするとか迷惑音を発するとかいった電車内での行為)・あるいは静的振る舞い(体臭や化粧が臭いなど電車外からの問題)が、どの程度他人に迷惑をかけているかを推測する能力がない人がいるという問題と、それがあっても他人に迷惑をかけることをなんとも思わない道徳感のない人間がいるという問題だ。
それを男性女性という切り口で話してしまっては、『たいていの男性は行儀いいですよ。でも一部の男性が~~~』という論調になり、結局それは男性そのものを批判する文章にもなる。この文章を読んだ『たいていの男性』がどのような印象を持つか、筆者はわかっているのだろうか。
しかし、私はそもそも電車内での迷惑行為についていちいち文句をいうことそのものがナンセンスだと思っている。
それは次のような考えからだ。
そりゃ私だって満員電車嫌いだし、満員じゃなくても嫌な客と乗り合わせることもしばしばあるから電車そのものがあんまり好きじゃない。
しかし、電車というのは、性別・年齢・国籍・職業などがまったく違う人間同士を1つの箱に詰め込んでまとめて運ぶ代わりに、格安で移動できる旅客サービスだ。
これだけ多種多様な人々が乗るんだから、それらの人々の価値観が違うのは当然で、相容れない場合もある。だから「電車の中で化粧するな」とか「携帯がうるさい」とか「スペース取り過ぎだ、痩せろデブ」といったような文句が出てくるのは当然だ。
こういう不快感やトラブルに見舞われる代わりに数十キロ~数百キロの距離を、数百円から高くても数万数円ぐらいの値段で移動できるわけで、この不快感に耐えられない人はタクシー、や(運転手付きの)自家用車など自分独自の空間を形成できる乗り物に乗る。金持ちは電車に乗らずに、運転手付きの自家用車、あるいはプライベートジェットを持つというイメージが生まれる理由はこういう背景があると思っている。
そりゃ、電車ってのがそういうサービスだから鉄道会社は何もしなくていいわけではない。鉄道会社はたいてい腰が重いが、女性専用車両の導入をはじめ、ダイヤの調性・改正、あるいは複々線化などを通して混雑解消を試みており、つまりは価値観の違う人間と乗り合わせる確率を減らす努力をしている。
一部の鉄道会社のあの横暴な態度や、顧客満足度を高める努力不足については私も不満を覚えるが、世界一の鉄道網と言われるように、日本の鉄道会社は頑張っていると思う。でなけりゃ数百円の運賃しか払ってないのに、高々5分遅れただけで顧客の文句をいちいち聞いて、証明書付きでヘコヘコ謝ってくれたりはしないだろう。
この筆者、『咳払いをする男性がうるさいから新幹線にも女性専用車両を導入しろ』とか言っているが、このままいくと『男性のイビキやクシャミがうるさいから飛行機のエコノミークラスにも女性専用スペースを設けろ』とか言い出すんじゃないかと心配している。
私も今のままの運賃とサービスを維持しながらそういったことができるなら別にやってみてもいいと思うが、大人数をまとめて運ぶサービスを提供する会社側から言えば、一般的に『〇〇専用』という空間は乗客率(乗客キャパ)を下げる要因でしかなく、コスト的には厳しくなる。この筆者のように、新幹線にも、バスにも、飛行機にも導入しろとか、あるいは女性専用車両の数を増やせとか言い出す女性が増えて、その圧力に負けて企業型がその要望をのみ、結果コスト増大に結びつき、それが消費者に価格として跳ね返ってきたら私はイヤだ。
そんな事態になるなら今のまま数十分~数時間の不満を我慢する代わりに安い運賃で移動できたほうがいいし、なにより「女のせいで運賃が上がった」とか文句言われるのはもっとイヤだ。電車や飛行機が今の価格で乗れるのは、多くの男性ビジネス客が多額の運賃を払っているからだ。筆者も仕事でよく新幹線を使っているようなので、その点ではこういった側面に貢献していると思うが、数で言えば圧倒的に男性のほうが多く、男性が今より電車にのらなくなったら価格は間違いなく上がる。それを承知した上でこの筆者は、仕事で疲れて新幹線に乗りイビキをかいて寝ている男性に文句を言ってるんだろうか?
この筆者、記事のタイトルにもある通り『女性はいつでも化粧したいものなんだから、化粧する女性に文句言うなら見るな。それは男性の理論の押し付けだ!』と言っているが、私は同じようなことをこの筆者に対して思う。
そういうことで文句言われたくないなら電車にのるな。
電車に乗る以上、迷惑と感じる人(価値観の会わない人)と乗り合わせ、時にはトラブルにもなるが、これはどうしようもないし、それが嫌なら電車に乗らないですむ生活を実現できる努力をするか、電車などより低価格で満足度の高い新しい旅客サービス(技術)を提供して下さい。
アメリカでは空飛ぶ車が実現したんだから、そう遠くない未来に電車に変わる交通手段が出てきてもおかしくないと思っている。もしそれが実現できるなら私は全力であなたの提供するそのサービスの顧客になりますから。
私だって大股広げてグーグーいびきかいて寝てる中年デブオヤジのせいで、隣に座ってる女性が肩身狭そうに座ってる姿とか見るとほんと腹立つし、痴漢はもっと許せない。でも男性だって化粧が濃くて香水くさいギャルとかオバサンには嫌気がさしてるだろうし、痴漢冤罪なんかたまったもんじゃないだろう。やはり電車という旅客サービスの特質上、こういったお互い様の不満や犯罪の数は減りこそすれ、なくなることは無いだろう。
だから私は、将来電車に極力乗らない生活を実現するための努力を今している。筆者にもこういう努力をしてほしい。
しかし努力もしないで「女性への気遣いをもっとしろ」とか言って、その結果サービスの質低下や運賃引き上げとなって文句だけは一人前に言うんだったら、それは今の民主党政権に甘やかされて文句だけは一人前に言う生活保護受給者と本質的にはなんら変わらない。民主主義の社会に生きている以上、文句があるなら自分でどうにかしてほしい。
しかしこの記事、そもそも質問者の疑問に答えてるとは思えない。質問者がどういう状況でああいった質問をしたのかわからないので、男女論かどうかわからないが、これだけ見ると、「男ってイヤですわねー」「そうですわねー」と女性が男性のグチを言い合って、そのことに納得している文章でしかないと思う。
というかこの筆者、男性そのものを敵視しているようにしか見えない。男性経験で何かトラウマでもあったのだろうか?
あと、個人的な感覚なのだが、電車内で化粧する女性でかわいいと思える人にはほとんどめぐり合わない。
この筆者も当然、私の好みの顔ではなかった。
現首相と前首相は理系であるが、支持率、在任期間という観点から見ると無能といわざるをえない。前首相の在任期間は短く、現首相も早々に退陣する可能性が高い。この政治家としての無能さの原因について考えていたのだが、現首相と前首相個人が無能というより理系が政治家として無能なのではなかろうかと思い至った。理系の特徴であると考えられる真理の重視と本質の重視が支持率低下の遠因になったと考えられるからだ。
支持率低下の一因として党内の不一致による民主党の迷走がある。前首相は普天間基地の移設、現首相は消費税を巡って党内に混乱をもたらした。これにより民主党に対する信頼が失われ、支持が低下したと考えられる。この民主党の混乱は党内の調整不足が原因だが、それをもたらしたのが真理の重視という理系の傾向ではないのか。理系の人は真理の重視を重視する傾向にある。これはいうまでもない。この真理の重視はいってみれば「正しいことが重要」という考えであるが、政治的には「正しいことをすれば、周りがついてきてくれる」と楽観につながったのではないか。そのため党内の調整が軽視され、党内の混乱を招き最終的に支持率低下につながったのではないか。
また理系的特質である本質の重視も支持率低下の一因になったのではないか。現首相と前首相ともに口が軽い。前首相は普天間問題に関してアメリカ大統領に確証もなく「trust me」といった。現首相も軽々しく「消費税を上げる」ことを口にした。しかし結果あるいは行動は全く伴わず、首相個人に対する信頼を低下させ支持率の低下につながった。この口の軽さは本質の重視という理系的な性質がもたらしたのではないだろうか。理系の人々は本質を重視する傾向にあるのは異論がないところだろう。この本質の重視が「自分の考えが誤解されても、後で誤解を解けばいい」という考えにつながり、言葉を軽視する結果になり最終的に支持率低下につながったのではなかろうか。この本質の重視は現首相と前首相のマスコミに対する責任転嫁にもみてとることができる。「マスコミが俺の考え(=本質)を理解しようとせず、言葉尻だけをとらえて誤解を広めるのが悪い」というわけだ。
理系の政治家が理系ゆえに無能であるとすると理系の給与が海外に比べ低いという事実も説明できる。日本企業は研究者としてだけでなく、組織の一員として様々な人と行動することが求められる傾向にある。しかしながら真理の重視、本質の重視という傾向から様々な人と行動することがあまり上手ではない。特に現首相、前首相のようにリーダーシップを発揮するのは得意ではない。そのため日本企業からの評価が低くなり、給与も低くなってしまう。一方海外では組織の一員として行動することは求められず、研究の結果を出すことが重視される。そのため日本企業に比べ評価が高くなり、給与が高くなる。このように理系の政治家が無能であるとすると理系の給与が海外に比べ低いという事実も一応説明がつく。
以上の考察から現首相と前首相は理系であるがゆえ無能であった側面があったのではないかという仮説を作った。
というかね現首相が政治家として無能すぎる。前首相は民主党に与党経験がなくノウハウがないということで許せた。でも現首相はどうよ。前首相が党内の調整不足や口の軽さで失敗してるのになんでその失敗を繰り返すのか理解できない。なぜ学ばない。なぜ馬鹿みたく同じ失敗を繰り返すのか考えてみると共通点である理系という点が浮かび上がってくるわけで、それに基づいて考えたら意外としっくりきたんだよな。
英語学習の方が敷居が低いと思う。
本気で言ってる?特に、韓国語の方が中国語より難しいと思っているあたり、それだけはあり得ない。
そもそもハングルというのは表音文字であって、音韻記号の組み合わせで表音節文字を作るという極めて合理的な構造になっており、ラテン文字よりもずっと合理的だ。こんなに簡単に覚えられる文字はないぞ。実際、俺は一度大韓航空を使ってヨーロッパに行ったとき、関空から仁川までの機内でハングルを覚えてしまい、トランジット中に有効に活用した。ましてここでは「韓国語が世界共通語」と仮定しているから、その場合は現実世界でラテン文字がありふれているのと同じ水準でハングルは世界中にありふれているはずで、「文字が読めない」という敷居は問題にもならない。
中国語は確かに簡単ではない。しかし、中国人にとって日本語の方が、たとえばアラビア語よりずっと簡単なことは明らかであり、逆もまた真だ。そして、日本や中国から見て、英語よりもアラビア語の方が学習に有利である点は全くない。
君は何か勘違いしていると思うが、英語という言語は世界共通語としては非常に不利な特質を兼ね備えている。まず語彙体系が、ゲルマン祖語の他にギリシャ語・ラテン語(フランス語経由含む)・アラビア語など過去の先進文化圏の影響を強く受けており、最低限のことを言い表すのに必要な語彙が非常に多い(このことは日本語でも同じ)。次に、発音体系が極めて特殊である(スペイン語やイタリア語の発音体系が日本語と近いのは偶然ではない。日本語の五十音+αで近似できる発音体系は世界に広くみられるものである)。正直なところ俺は無敵艦隊が敗れたことをかなり恨んでいる。世界共通語がスペイン語であれば、英語よりも余程楽だったはずなのだ。文法こそ単純だが、ロマンス語と比べれば誤差の範囲である。日本人から見て、英語以上に難しい言語を探す方が難しいのではないか。ロマンス語を一つでも学んでみれば、英語より圧倒的に簡単なことに感激するはずだ。
いったい何を以て「英語学習の方が敷居が低いと思う」と言えるのか、さっぱりわからない。
それで自分が天才だと思い込むのはまだ早い。それは飲み込みが早いだけだ。
いずれにせよ、どういう人を天才と呼ぶかというのはともかく、本当に能力の高い人は現在の君のようなタイプではない。どういうことかというと、そういう人は例外なくとんでもない量の努力を若いときからしてきている。それだけやっていればそれだけできて当然と納得させられるものだ。超一流の域に達した人で、努力をしていない人なんて存在しない。もしかすると、本人はそれを努力として自覚していないなんていう場合はあるかもしれないけれど。
その点、君は間違いなくまだまだだ。
それからもう一つ、高校までは飲み込みの早さだけで何も勉強せずに大抵のことを理解してしまうことはできるかも知れないが、大学以降はまず無理だ。少なくとも純粋数学なんかでそういうことができるということは考えがたい。嘘だと思うなら大学レベルの数学の本(例えば古典的なのだと高木貞治「解析概論」とか)を借りてきて読んでみるといい。そういうものを斜め読みで理解できる人というのはまずいないだろう(別に数学である必要はない。興味のある分野があれば今からでも試しに取りかかってみるといい。学校の勉強が退屈ならいい刺激になるだろう)。
大学という段階ではだいたい誰もがその壁にぶちあたる。今まで勉強で苦労したことなかった人が、必死で勉強してやっと食らいついていけるかというほど勉強の質と量が多くなるのだ。少なくとも、旧帝大とかそういうレベルの大学ならそうなる。
今まで飲み込みが早かっただけの人間が、努力のやり方を知らずに、そこで脱落してしまう例がかなり多いのだ。
ついでに言うと、早熟だったり飲み込みが早かったりすることは、何かを成し遂げる上で有利になる特質ではあるが、必要条件でも十分条件でもない。ここを見誤って簡単に自分を諦めてしまったり、逆に過信して何もできなかったりする奴がとても多いのだ。
所詮、「天才」だとかいうのは凡人が作り上げた虚像に過ぎない。実際に何かを成し遂げるということは持って生まれた天分や後天的な努力だとか、そういう簡単な要素だけで語って片付けられるような単純なものではない。何を「天才」と呼ぶかなんていうのは後付けみたいなもんだ。自分のことを天才だとかなんだとかいうのは、まずそこを乗り越えてみてからにするんだな。
中二病・大二病は、日本人の特性なんじゃない?だから、多くの日本人は、大二病。もちろん俺も。
下記のエントリーをみて、改めてそう思った。
http://anond.hatelabo.jp/20090924092317
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/7eaba4bbf3409d6bf7151d9501304ff2
http://anond.hatelabo.jp/20090924093733
要約すると、八ッ場ダム建設問題において、建設派と建設中止派の両陣営とも、「マスコミは自分の陣営が不利になるような情報ばかり伝える。その情報は誤り、もしくはごく少数派の意見である。このような情報を垂れ流すのは、報道ではなくプロパガンダだ。」みたいなこと言ってる。実際は、この問題に対する報道は、一つの記事・番組内では多少偏りがあるものの、すべてのTV局・新聞がどちらか一方の味方をしているという状況ではない(と思う俺もTV・新聞をすべてチェックしてるわけじゃないが)。
しかし、建設派と建設中止派の両陣営とも、プロパガンダに感じてしまう。なぜか?それは、両陣営とも大二病だから。
両陣営とも、その人の"常識的に考えて"(通称jk)圧倒的に自分の陣営の主張が正しい、もしくは圧倒的多数派だと考えてる。そのため、相手陣営に有利な報道が少しでもされると、プロパガンダに感じる。マスコミという、見えない敵(悪い組織)と戦ってしまう。両陣営とも大二病である。
原因は、「"常識的に考えて"圧倒的に自分の陣営の主張が正しい、もしくは圧倒的多数派だと考えている」ことにある。一般的に、このような両陣営が長年もめてる問題で、圧倒的に片側の陣営が正しいということはない(少ない)。大抵の場合は、いい意味でも悪い意味でもお互い様だ。しかし、"常識的に考えると"圧倒的に自分の陣営の主張が正しいと感じる。そして、自分と異なる主張をするやつは、常識がない人や情報が足りない人(情弱)、悪の組織だと考え、それらの人や組織に説教したり、戦いを挑んでしまう。大二病の発病だ。
さらに原因を掘り下げると、"常識的に考えて"*が、原因なのがわかる。もっというと、人々が異なった常識
【常識】
(1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/93867/m0u/%E5%B8%B8%E8%AD%98/
をもっていることが原因である。当然、皆が日本社会に属していている。しかし、同時に、東京都や群馬県などの地域社会、医者・SE・科学者などの専門領域(社会)に属している。異なった社会で身につけるので、異なった常識(知識や判断力)を持つ。それを日本社会の常識と考えるから、大二病が発症する。
先日の選挙も、多くの日本人が、自民党・民主党・公務員・マスコミという見えない敵(その組織の誰が悪いとはわからなし、全員が悪いわけじゃないが、その組織の中にいる悪)と戦っていた。多くの日本人が大二病なのかもしれない。いや、大二病は、日本人の特質なのかもしれない。
大二病を治すにはどうしたらいいか?大二病発病中の俺は、以下の方法で闘病していくつもりである。自分を常識的な人間だと考えるのをやめて、なんらかの専門家だと考える(ある意味、高二病の発病)。同時に、他人もなんらかの専門家だと考える。悪と戦うのではなく、異なる分野の専門家と議論すると考える。具体的には、異なる分野の専門家(知識労働者)が社会の中心となっていく的な本、「プロフェッショナルの条件」 P・F・ドラッカーでも読み直し、洗脳されてみようと思ってる。
http://blog.tatsuru.com/2009/07/16_1121.php
これを呼んで流石にひどいだろと思ったので。
そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。
その場合、「平和主義者になる」というのはひとつの選択肢である。
世界的な政治単位に帰属することについては要求される資格は何もない。
そして、世界市民という巨大な集団に帰属する代償として、平和主義者に求められるものは何もないのである。
ゼロ。
平和主義者にはどのような義務もない。
好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、平和主義者になることができる。
私は平和主義者だ。私は世界市民だ。私は人類全体の利益をあらゆるものに優先させる。人類の利益を脅かすもの、無辜の市民の平和な生活を踏みにじるものを私は許さない。
などということをぺらぺら言い立てることができる。
その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。
真正の平和主義者であることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。
平和主義者は国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領の名前を知らなくてもノープロブレムである)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることは平和主義者の名乗りにいささかも抵触しない。
むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなり平和主義者」でありうることの動機の純正さが尊ばれる。
一方、平和主義者はしばしば「自分が信じる規範」は「すべての日本人が当然に共有せねばならないこと」であるという不当前提を採用しているので、論争においてほとんど無敵である。
彼らの論争術上のきわだった特徴は、論理的な帰結を無視して自分の個人的理想を現実における施策に直結させることである(「ダメなものはダメ」とか「人殺しは悪いことでしょ」「誠意を持って話し合えばどんな人とでも理解し合える」とか)。
そして、「はぁ、そうですか」と応じると、「だから憲法第9条は守らなくちゃいけない」「日本に軍隊なんか要らない」「無防備都市宣言に賛成してくれるわよね」という結論にいきなり導かれるのである。
これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるので、好む人が多いが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。
もう一つ大きな特徴は、平和主義者にはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。
家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的な行動によって集団に貢献することが要求されるが、平和主義者は「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。
平和主義者は「人類皆兄弟」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、具体的に誰も彼に仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。
だから、平和主義者は誰からも文句を言われない。
というように、平和主義者であることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ない。
商品交換のスキームで社会的行動の特質を考量する人たちが「権利が多く、義務が少ない」平和主義者・オプションを選好するのは怪しむに足りないのである。
グローバル資本主義の爛熟の中で、平和主義者の若者が組織的に生まれるのはそのような理路による。
現実主義者というのは、その逆の行程をたどる。
現実主義者は自分が今在る状況を理解し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。
そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのが現実主義者である。
若い人たちにはできることなら現実主義者をめざしていただきたいものだと思う。
政治的なものであれ学術的なものであれ、何かの主張をすれば何らかの集団に帰属することになるのは当然です(本人が望むと望まざるとにかかわらず)。そして、それを「奴はほかに居場所がないんだ」とレッテルを張ることは実に簡単です。特に、ナショナリストといった「幻想的な集団」にレッテルを張る場合、そのレッテルの正しさはほとんど問題になりません(ナショナリストの具体例たる1個人を想像できないため)。
論争術についていえば、それぞれの政治的主張と議論の巧拙に相関がないというのは自明だと思うのですが。
学者とか評論家とかオタクとか、およそ何かを論ずる人々の大半に適用可能な優れたテンプレートとして、末永く保存されるべきだと思います。