はてなキーワード: 帰着とは
5割削減、職種によっては7、8割実務削減に成功したとこもあるかもしれない
削れるところはもう削り終わり、増やせるところは増やし終わって
見えないところで幾重も押されるデジタルハンコを増やしていくぐらいしかやることがない
その投資期待に応えるべくやれることといったら
金を払うのも消費するのも物理空間で質量をもつ生身の人間に帰着する以上は
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
朝起きた時の、湿度計の値が徐々に上がってきた。もうすぐ梅雨がやってくる。毎年のこととはいえ、よくまぁこんなにジメジメするものだと驚き呆れる、日本の風物詩。本棚の本がいつもよりうねっているのが気に入らない。
本棚の漫画を見てふと思ったのは、ジョジョの奇妙な冒険第四部は、なんとも梅雨にぴったりだということ。
第四部はじめての敵は、水分を操るスタンド使いアンジェロ。こいつは主人公の家を狙い、雨と共に襲ってくる。家の中で水気と湿気を活用して、主人公を追い詰める。
そもそも第四部は、第三部からのコントラストで発想されている。宿敵を倒すため、エジプトの砂漠での闘いが繰り広げられる第三部と、愛する町を守るため、襲いくる敵と闘う第四部。カラッとした海外の風景から、湿り気のある日常の風景へ。
アンジェロの能力が水分なのも、当然の帰着だ。それは日本の家の中に潜む、感情的な湿度、抑圧された攻撃性の暗示でもある。これを発展させた敵が、吉良吉影だった。
電磁気学の回路の問題とか、受験の問題設定程珍妙な構造の回路の電流やら電気容量やら解く場面には遭遇しないにしても、それにそれなりに近い回路を扱うというときには、自分が解いてきた問題の設定を単純化すればいいんだから、より複雑な問題を解いてる経験があるなら、それより単純な問題も解けるって点で、安心感が出るんだよな。大学以上の理論をいくら勉強してもそこまでくるともはや単純化しても目の前の問題の状況に帰着できない、別質なものになっちゃってるっていうか、やっぱ高校のを完璧にしないと大学のをいくらやっても埋められない、問題の解決能力のギャップってあるような気がする。
下手なたとえだが、小学校中学校の勉強一切すっとばして高校の勉強からはじめてパズル感覚で方程式もベクトルも微積分も解けるようになったということになっても、それをいくら単純化しても時計の読み方にはたどりつかないでしょみたいな。
自らのリソース(特に時間)をある目的を達成するために費やすこと
この定義に従えば努力は所詮は手段であり、目的を達成することが重要。その目的の達成自体に価値がない、あるいはリソースを費やす必要なく目的が達成可能であれば努力の必要はない。従って、努力は全てのものに対して必要なものではない。
では、何故、人は努力するのか。
入学試験、入社試験、同業他社との競争、給与アップ等、理想的な共産主義社会でもない限り、あるいは全ての人に十分な資源が割り当てられる理想的に豊かな社会でない限り、限られた何かの奪い合いは必然的に発生する。それら限られた何かを捨てることができるか、努力なしに手に入れることができれば前述の通り努力は必要ない。でも多くの人にとって、限られた何か(多くの場合はお金に帰着する)はあって困らないし欲しいもの。その競争を避けることは経済的な豊かさを諦めるに等しい。
残念なことに、人間は平等には生まれてこない。人それぞれ受け継いでいる遺伝子も環境も異なる。ほんの少しの努力(リソース投入)で他人に勝つことができる人もいれば多くの努力が必要な人もいる。
ただし、競争の種類は一つではないから、肉体的な強さで競争することもあれば、頭脳で競争することもあれば、容姿で競争することもある。人の才能のパラメータはそれぞれの競争に対して持ち、その値は神様だけが知っている。
小学校や中学校の義務教育や、高校という高等教育の入口の段階で努力が重要視されるのは、競争から逃げることが経済的脱落に直結するので慣れて免疫をつける必要がある点と、神様しか知らないそのパラメータを自分で知る時期であることだからだ。
伸ばせば伸びる隠れた才能を食わず嫌いで眠らせたまま死んでしまうのは勿体ないし、苦手と得意なものを知っておくことで、得意なもので勝負することが可能になるのだから、時間があり余っている子供の頃にいろんなことに自分の時間を振ってみて伸びるもの、伸びないもの、自分の限界を知ることはすごく価値のあること。そしてその中で勝つためのコツを掴んだ者が社会に出てからの競争を格段に有利に進めていく。
増田のように悪い思い出しかない者もいるだろう。ただし、それに費やした時間によって知ったことは努力なしでは得られなかったものだからそれは決して無駄なことではない。運が悪かったのかも知れないがたまたま才能のないことの確認に費やした努力が多かったのだろう。
競争に勝つことに価値を見出さないのであれば努力ではなくゲームや余暇に自分のリソースを費やせばよい。それは個人の自由で批判されるべきではない。ただそれによってギブアップする経済的な豊かさを求めたりするのは虫が良すぎる。競争に参加しないことによって手に入らないものを社会に求めることさえしなければ努力する、しないは自由に選べばよい。それだけ。
書き換えたブコメと内容被るので身元ばれるだろうけどかなり感動した。大学受験のみならず、大学に入ってからもある種の積分をやるのにt=tanαとおいて置換するとうまくいくって習った人多いと思う。通常はピタゴラスの定理から出るcos^2θ+sin^2θ=1を用いてcos2α=(1-t^2)/(1+t^2)、sin2α=2t/(1+t^2)を証明するんだけど、今回の若い人たちは逆にこうなること(cos2α、sin2αがtを用いて書けること)を別口で証明して、あとは単に計算すりゃ確かにcos^2+sin^2=1ですなあ、でQ.E.D.ってお話。なお、誰でも気づくと思うが、この証明法は元が直角二等辺三角形の場合破綻するので、それから逆に従来の方法とは異なる、と推測できる。なお、無限級数の和は1+r+r^2+...=xと置けば1+rx=xからxが求められることと同じになり、それを図形で表せば単なる相似問題に帰着するのでこれが美しくないと思う人はそうするだけでよい。
引用のサイトの図でいうAがその結果2tc/(1-t^2)(この段階では分母が1-t^2なのがまた憎い)であることが純粋な相似図形による比例計算(この部分が無限級数バイパス)から示せ、C=tA=2t^2c/(1-t^2)がわかる。証明者に従ってC+1を計算する(!!!)と、C+1=(1+t^2)c/(1-t^2)、よってsin2α=A/(1+C)=2t/(1+t^2)、cos2α=c/(1+C)=(1-t^2)/(1+t^2)、と懐かしい形に。ちょうびっくり!!!!!!!!
私は数学愛好家であって生まれ持ったセンスがあるわけではない(悲しいけど)ので、今回の証明法がそれなりに新しい発展をもたらすのかどうかは全然わからないが、素直にビビるほど感動した。
布団の中でスマホをいじってSNSで世相を斬っている限り、『正しい』アカウントでいられるでしょう。また、フォロワーが影響を受け、『正しい』認識を身に着けるようになるという点では、社会に対して良い影響力をもたらすこともあるでしょう。しかし、かねてより左翼が多いとされる『はてな』のユーザーであれば共感できるかもしれませんが、ここ15~20年の、個人発信の環境がブログやSNSと変遷してきた状況において、左翼の課題は『現場にどうつなげるか』や『運動をどう継続していくか』ということに結局帰着します。
社会運動を組織し、地方議員とのつながりを築き、多様な生活困窮者と接触するようになると、原則論だけではどうにもならない場面が出てくることや、運動内マイノリティ問題が発生し、運動が疲弊していくことがあります。それでも、原則を参照して進むしかないのですが、このような困難はかなり重たいものです。実際に、メンタルとフィジカル両面の健康を害し、リソースをSNSでの『論争』にまで割けなくなり、SNSではほとんど沈黙するようになった友人を数多く知っています。回復のためには『布団の中』まで退却する場面があっても、『SNSだけの正義の人でいいや』というところまで後退しないだけの、尊敬すべき精神を持っているがゆえの沈黙であるとも言えるかもしれません。
こうしたもどかしさをここ数年感じていたところで、『布団の中から蜂起せよ』が華々しく刊行されました。一読させていただきましたが、このSNS時代に『正しい』とされる在り方がことごとく踏まえられており、見事に『正しい』本でした。SNS左翼がこのように『純化』されつつある気配は感じていたのですが、こんな題名は単なる開き直りであり、一種の自死のように思えて受け入れがたいものです。SNSを見渡し、『正しい立ち振る舞い』を学んで、布団の中からSNSに発信する限り、ほとんど間違わないでしょう。「運動」「現場」に関わらなければずっと正しくいられるのです。
思えば、反原連は国会前に数万人集めましたが、体制はそれを脅威にもしませんでした。決まった時間に解散するのがわかっていたからです。「蜂起」がもはや布団の中にまで後退した時代となれば、体制は永遠の春を享受することでしょう。
女装おっさんトランスジェンダーが女風呂やら女子トイレに入るのやめよーやということを書いた橋本愛が叩かれて、どうなるんやろって見てたら午後には橋本愛を擁護する集団がTwitterのトレンド入りしてた
読んでるとどうもトランスジェンダー周りの人たちも過激派には反対してますみたいなこと書いてて、やっぱいろんな派閥があるんやねって感じ
俺はトランスジェンダー女装おっさんに関して風貌や行動からも完全にイカれ基地外だと思っていて、あの手の基地外やその支持者は一定数の精神障碍者が自分の精神の発達の遅れからくる違和感をジェンダー問題に帰着させようとしてるだけにしか思えない
でまぁ基地外は基地外で黙っとれとできればいいわけだが、問題はそういう基地外を甘やかして先進的で素晴らしい価値観だとか誉めそやす連中なんだよな
精神の発達が遅れてる障がい者がそこで承認欲求を満たしてしまって、より強固に自分は性的な差別を受けているという被害妄想をこじらせて自分の権利を声高に主張していってしまう そして誰もそれに強くは反対できない
トランスジェンダーにもいろんな人がいて、本当に苦しんでいる人もいるだろうから俺は協力したいと思ってるけど、問題の性質からしてこういう基地外がトランスジェンダーを自称してしまい、それを回りの知恵足らずがやいのやいの祭り上げるから話がとてもややこしくなってる
税控除云々も完全に勘違いだし
これは勘違いなんだろうか 俺は税制とかよく知らないし何かあるんだっけ?というのがちょっと気になってるんだけど
結婚して数か月、今のところあんまり恩恵を受けた記憶なし・・・・一緒に保険に入れるとかそういうのはあるけど別に国からの優遇っていうより単に資格って感じだし・・・
まぁそれを言い出せばほとんどすべての話が政治の話に帰着してしまうわけだが・・・・・
優遇が本当にあるのなら一考に値するというか興味として知りたいんだけど優遇優遇って書かれてるだけで何が優遇なのかわからない
難しそうな話を持ち出さず普通に日本の持続のために子供作れやだけじゃダメだったのだろうか
まともな人が一人は出現して教えてくれることを期待したいところ
肌感覚ではあるが、最近どうも子を持たないような風潮がある気がする。
調べたところ、子を作らずに夫婦共働きをする生き方を、最近は「DINKs」と呼ぶらしい。どのくらい一般的な言葉なのかは馴染みがないため解らないが。
私は40年近く、そのDINKsと呼ばれる生活を続けてきて、つい先日還暦を迎えてしまった。
しかしながら、正直DINKsという道を選んだことを後悔している。
子を持たない選択をした20代の自分の価値観や知見と、実際にそのまま突き進んだ先にいる60代の自分の価値観や知見との間に大きな乖離があった為だ。
平易に言えば、若く経験もない20代の頃に考えていた「合理的な選択肢」は、そこから40年近くの人生経験を積んだ60代になってから見えてきた「真に合理的な選択肢」ではなかったということになる。
2.フルで共働きが可能なので、経済的にも余裕のある生活ができる
・上記の結果として、金銭的・時間的に余裕を持つことができるので、例えば趣味に時間を割くことができるとか、いい家に住めるとか、車を持てるといった形でその恩恵を受け、実生活における充実度は上がるものだと考えていた。
・趣味に打ち込む時間が多い分飽きも早い。たまに打ち込むからこそ長く続く趣味になるのだと、飽きてから気が付いてしまった。
・そもそも60代にもなって増田をしている時点で、どれだけ余暇を持て余しているかは察することができるだろう。
・子供の成長や受験・結婚など、子の人生における成長過程はその1つ1つが親の人生においても大きなイベントになる。
→子を持たなかった結果、そのようなイベントが少なく、起伏の少ない人生を送ることになり、総合的な満足度は低くなると気が付いた。
・最近よく耳にする「コスパ」という概念に当て嵌めるならば、低コストではある一方で低パフォーマンスな人生になり、総合的にはむしろ子を持った方が充実した良い人生を送ることができたと思う。
・2人で働き、子に使う分が浮いた結果手にしたお金の使い道など、精々いい家に住む、家具や車を買う、趣味の道具を揃える程度であった。
→正直お金は余る一方なので、共働きと子なしで収入を増やし支出を減らしたところで仕方なかったと、今になって思う。
・この生活をしていて、周りの人々から「お子さんは?」と訊かれることが非常に多かった。その度に社会通念に反した自らの選択の合理性の説明を強いられる上、結局は価値観の相違に帰着する為、腑に落ちない顔をされるか、「成程」と適当な相槌を打たれて終わるのみである。
特に、親の死に際に「孫が見たかった」と言われたのはかなり精神に応えた。親には子を持たない選択について話していた上、それなりに理解してもらえていたのだと思っていた分、最期に親との隔絶を突き付けられたのは相当に苦しいものがあった。
ただ、これは増田が若かった時の価値観に依る部分があると思うので、今の若い人であればそこまで周りに精神を削られることはないのかもしれない。
・まだ60代で比較的身体は動くと思っているが、これが70代や80代になってもお互いで支え合うのは正直苦しいと思う。
なお、子供を介護要員として捉えるのは利己的に映るかもしれないが、増田自身も親の介護に奔走していた時期がある。
則ち、「親を介護し、子に介護される」というところまでが1つのサイクルなのではないかと最近になって思う。
・子を持つようになると、皆家庭内のことで忙しくなり、暇な私と休日を過ごしてくれることはなくなる。
また、子育てという共通の話題を持たないことによる疎外感は存外大きかった。
・20代、30代の頃は学生時代や職場の友人とこの先も仲良くやっていくことができると考えていたが、実際は友人がどんどんと家庭の時間を重視し、私からは離れていった。
・一番苦しいと感じているのがこの点である。子供を持った方が良かったと、気づいた時にはもう遅いのだ。
・40代も近くなり、身体的に出産が難しくなってから急に結婚や子作りに取り組むようになる人を見たことがあると思う。これも歳を重ねるうちに上記のデメリットの大きさに気付いた人の末路だと考えている。
かくいう私も、40代に差し掛かる頃に妻と最後の話し合いに臨んだことがある。その時点ですでに子を持たない選択をしてから10年以上が経過しており、既に周囲にも十分に喧伝していた手前、自らの選択を撤回できずに進んでしまった。
あの時に柔軟な選択肢を取ることができれば、或いは違った状況だったのだろうか。時すでに遅しと理解しつつも、やはり考えてしまう。
・DINKsに魅力を感じている人はもう一度よく考えて欲しい
→DINKsによる経済的・時間的なメリットは、結局そこまで享受できない。
→一方で、DINKsに踏み切る際に意識していなかったデメリットは40代以降に顕在化し、気が付いてからはもう取り戻すことができない。
・20代での想像と60代になっての実感は相当にギャップがあるということを20代のうちに知っておきたかった
→今これを読んでいる人の中に子を持たない選択をしようとしている人がいれば、考え直して欲しいと強く思う。