はてなキーワード: ニセ科学とは
私の姉はニセ科学を信じているというか、疑わない。
例えばホメオパシーで有名なバッチフラワーレメディを盲信している。
自然科学で修士までいった自分からすると、それは信じているというよりも疑わないように見える。
自然科学の場合、疑うとまでいかなくても、本当にそうなのかなぁ?という疑問を積み重ねて、やっぱりそうなのかなぁ?くらいだと思う。ホメオパシーのようなニセ科学の場合はやっぱりそうなのかなぁ?まで行かないので科学的ではないと判断するだろう。
姉の場合はそもそも本当にそうなのかなぁ?という疑問をまず持たない。
なぜ疑問に思わないのかなぁという気がするけれど、きっと信じたいのだろう。私が”そこ気にならない?”みたいなことを指摘しても暖簾に腕押し、何を言っているのか理解出来ない様子。
私にはホメオパシーみたいなものを信じる理由がわからないし、向こうはどうして疑問を持つのかわからないのだろう。
科学的に考えればわかるはず、と考えるかもしれないけれど、人間は常に合理的な判断をしていないこともまた科学的に調べて結論が出ている。
放射線科医PKA氏がこんなツイートをしているのを見かけて、おもわず逆上した。
https://twitter.com/PKAnzug/status/966542288368287745
「リア充」の訳語に「normie(普通の人)」を充ててるのが興味深い。日本では「中道から上を見て言う言葉」なのが、英語では「下から中道を見て言う言葉」になってて、この言葉を使うオタク(ナード)の社会的立ち位置が日本と英語圏で違うことが伺える。
中道の使い方がなんだかへんてこだけどまあ「普通の人」くらいの意味だとそこは深くとわずにおいて。
リア充はネットにしか居場所が見つからないようなオタクが、「普通の人」のやることをバカにしたり嫉妬したりするときに使う単語だろ?
リア充って、普通に休日は友達と外へ遊びに行ったり、学食にたむろってたり、普通に彼女がいて街を歩いてたり、そういう人を指す言葉だったと思うんだが。
まごうことなく、下、っていうかこの言葉をネットで使ってた人間として言うと「底辺」から、「普通」を見て言う言葉だったはず。
Wikipediaの説明を引き合いにだすのもなんだけど。少なくとも発生段階のころについては、PKA氏よりもまともなことを描いているように見える。大学生活板はちょっとしか見たことないけど(まだ犬学じゃなかった頃か?)、まあそういう板だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%85%85
概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。その後2007年夏頃からブログやtwitterでも流行した。未来検索ブラジルの主催するユーザ(2ちゃんねらー)投票企画「ネット流行語大賞」では2007年に21位となった。2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に選ばれるまでに成長し、ギャル語として確固たる地位を獲得するに至った。
当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。当時は友達が1人でもいればリア充とされた。その後、このニュアンスは、従来のネット文化に(触れずにいた事から)染まっていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。
もっとも俺も無知ではあった。10年代には女子中高生に広まって、ネットに広まってない利用者によって意味を変質させられているのだそうだ。それは知らんかった。
なるほどPKA氏が念頭においてるのはこっちなのかも…… って、やっぱりオタク関係ないところで変質してんじゃねえか!
たんに、話者が底辺にいるオタクから、中位層などの非オタク層に移り変わっただけだ。オタクの階層分析の違いになんて使えたものじゃない。
あきれますよ。あんだけ、放射線デマについて強く批判し、なにかというとメディアのどこかにアラをみつけては形相変えて「マスコミ叩き」にいそしむ放射線科医は、マスコミ以下のエビデンスで歴史をでっちあげていた、って。
この放射線科医のツイートはですね、要するに日本のオタクをよいように語ってるようにみえるけど、実際はそうじゃないわけですよ。むしろ、北原みのりなんかの100倍、オタクのことをバカにしているといってよい。なにしろ10年くらい前までは主流だった(と思う)オタクを、存在ごとなかったことにしている。トロツキーが消されてる写真もびっくりだ。
エロゲにどっぷりはまって本田透を読みふけり、週刊少年漫画の楽しみな連載は早売りをろだに上げてもらって読む、個人ニュースサイト巡りしながら非モテ文化を語る、というより実在女性への怨みを吐く、まあそこまでステレオタイプにどっぷりな人は意外と少ないかもしれないけど、そういうオタクがいたわけですよ。当時は。俺は当時恋愛障害者2級でした。あなたは何級でしたか。
それはぶっちゃけロクなもんじゃなかったですよ。でも、当時のオタク文化というか、ネットのオタク文化はそういうものだった。
今はそうじゃない。オタクといってもいろいろだけど、今どきの一般人のインドア側端くらいの意味しか持たなくなりつつある。あんまり悪いイメージもなくなりつつある。でも、昔のオタクの名残は、あるにはある。その典型例がリア充、なる言い回しなのかもしれないわけだ。
だからこう邪推したい。「オタク」、それは今のカジュアルなオタクじゃなくてどろどろとしたオタクのことだけども、それを粛清しないと、何か都合悪いことでもあるんですかね? このトンデモ放射線科医。
二度と人にエビデンスなど求めずに、隅っこでデマと偏見だけ食ってかろうじて生きていってほしい。
でもこのツイート、今の段階で4200越えのイイネと2600越えのRTがされている。この人たちには、修正された歴史が本当のもの、なんだろうね。
よかったですね、「非リア」の営みを「リア充」どもの手で簒奪出来て。
クソが。
夫の仕事関係の知り合いのご夫婦と一緒に食事をした。ご主人は開業医で社会的に成功してるとても裕福な人。奥さんご自身もなんかビジネスしてて、セレブな雰囲気の人
2人とも有名大卒で、知的だし話題も豊富だし、人柄も良い方々。そんな方々と訳あってお食事することになったド庶民の私、最近出産したばかり
ご主人にタイトル通りのことを熱く語られて、私の子供には、予防接種打たせるなって言われてしまった
医者であるご主人いわく、インフルエンザワクチンは製薬会社の陰謀だから全く効果がない
子宮頚がんワクチンは日本中で恐ろしい副作用をもたらしているから絶対に接種してはならない、等々
ネットで反ワクチン派みたいな人たちがいるのは知っていたけど、実際会ったのは初めてだったからほんとにいるんだ…ってビックリしたし、前述通りすごく知的で人柄の良い人たちで、何よりお医者さんで、当たり前だけど私なんかより遥かに専門知識を持った人から、面と向かって真剣に予防接種は陰謀だって言われると、どうにも不安になってグラグラしてしまって、今すごく辛い。
子供を産んだ時に、子供のことだからワクチンのことは一生懸命しらべた。今も、知らない副作用が発見されてたりしたら怖いから、ワクチン関連のニュースは見かけたら必ず目を通してる。ただし恥ずかしながら学がないから、色々読んでみて、多くの専門家が共通して言ってることは正しそう、みたいな判断をしてる。
それで、私が今のところ理解してるのは以下の通り
●インフルエンザワクチンは接種してもインフルエンザ感染を100パーセント防ぐものではない。でも6歳未満の子では発病を20〜30%防げて、さらに重症化を防ぐ効果がある。高齢者なら45%発病を防いで、死亡率は80%防げる。https://www.childneuro.jp/modules/general/index.php?content_id=64
●インフルエンザワクチンの小学生の集団予防接種を94年にとりやめたところ、高齢者の死亡者数が増えてしまった。集団接種をすることは、集団の中の弱い個体(高齢者や乳幼児)を守る効果がある。http://m.huffingtonpost.jp/2018/01/26/infuruenzacommunity_a_23344626/
●子宮頚がんワクチンの副作用は、そもそもワクチンとの因果関係を裏付けるとされていた研究結果に不正が見つかった。http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou28/tp161124.html
●副作用とみられる症状は、子宮頚がんワクチンを接種していない同様に起きている。http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000147016.pdf
●日本小児科学会、産婦人科学会他、関連学会は、子宮頚がんの積極的な接種を推奨する見解を出している。http://www.jsog.or.jp/news/pdf/20170626_HPVkenkai.pdf
●でも厚労省はまだ積極的接種推奨を再開していない。各自治体もそれに倣ってるから、子宮頚がんワクチンの接種率はめちゃ低くなってる。http://www.city.funabashi.lg.jp/kodomo/kenkou/005/p025993_d/fil/sessyu-mae.pdf
私は上記の理解で、インフルエンザワクチンも子宮頚がんワクチンも、子供に接種させるつもりでいる。他のワクチンも打てるやつはみんな打つつもり。
だけど、自分より頭良くて社会的地位も高くて人徳ありそうな人の言うことの方が根拠なく正しそうで困る。ちゃんと調べたんだから大丈夫だって今自分に言い聞かせてるところだけど。
だから、私みたいなのが陰謀論に引っかかるんだよなあ…って自分で自分が心配だ。子供産んだら、そこかしこのニセ科学に引っかからないようにするのが大変。情報を取捨選択する時間もあんまりないし、助産師とか看護師とか医療の専門家も変な人がいるみたいだし。子供のことは不安だから冷静になれない時もあるし。賢くならないとなあ…。
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
文系でも同じですが。研究という営みの本質は文系も理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているから相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系は研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラルな上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系と文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用で理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)
もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。
いや、レビューがオリジナルな研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナルな研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗の論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナルの研究成果だ。博士論文の書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル(典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチのオリジナルな研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナルな研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。
ひょっとして文系の研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)
だから、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人の研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女が政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者で彼女を学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女の雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田は最初「和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わず、レビューしか書いてないなんて研究者とはいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。
いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文は研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PDや東大講師、あるいはテレビの出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大の問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビの問題、言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者のリテラシーの問題でしょ。理系の学位や肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由で開放的な性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。
うんだから、文系の研究者が色んな外国語を勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語とドイツ語の研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代や中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語の地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。
これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語の地位を高めていくべきだ派と、日本のアカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本の文系研究者の多様性は、アメリカやイギリスほどじゃないにせよフランスやドイツやロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史や英文学からアフリカの人類学、オセアニアの少数言語、中央アジアの歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人やフランス人やドイツ人がそうできるように、自分たちの言語でそれらの分野の最先端の研究成果を手にすることができる。東アジアや中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語で博論を書いて自国で教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。
もちろん、日本研究を専門としていない欧米人に日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本の論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたものを翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究が日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。
こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文はアメリカ人が日本語を翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀のフランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語が頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別に昔からずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人が中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文で論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産の動物種の研究だと英語論文に和文論文が引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語が統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。
いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田の感覚はわかるんだよ。というかそれは文系の研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語で積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端の研究成果を自分たちの言語で読めて、どんな地域の研究だって自分たちの言語で遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語が日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマの研究はホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史を研究する上で西洋史で探究されてきた研究モデルや概念が意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国の政治についてなんの情報もなしに、自国の政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツールは必要なんじゃないか? ジャーナリストや政治家が欧州統合やアフリカ経済やアメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本のEU研究者やアフリカ研究者やアメリカ政治研究者がみんな英語で論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。
平安時代にお坊さんをやっていた記憶があるという話についてTwitterでの質問と回答
http://magurojuice.blog.shinobi.jp/Entry/19/
上記のやり取りや内容は特に面白くなかったのだけど、ブコメやツイッターでも評価が真っ二つで面白い。
「BIG FISH」という映画・小説は読んだことあるだろうか。
簡単に言えば「おとぎ話の様な人生はおくれないかもしれないが、人生をおとぎ話の様に語ることはできるよ」ってだけの話で
これが評価が両極端。
主人公は子供の頃から巨人男や狼男や魔女等が出てくる父親の創作話にうんざりしていたのだけど、父親が死にそうになって身辺整理をし始めたら魔女や狼男は出てこないにしても、似た様な人間が周りにたくさんいて父親は案外嘘つきではなかったのかもしれないな、と主人公が思う話。
息子側に感情移入すれば実際大人になった自分や親戚たちに自分のどうでもいい出来事をおとぎ話の様に喋られたら、息子としては「もう勘弁してくれ」と思うだろうし
おとぎ話を話続けた父親側に感情移入すれば、本当は語れる程何もなかった自分の人生を語らなければならない時に少しだけアクセントを加えてちょっとだけ面白くなる様に話をしただけ。
息子と父親、どちらが悪でどちらが善ではない。
父親を「夢ばかり見ていて大人になれなかったクズ」呼ばわりして評価する人もいれば、息子が冷酷すぎて父親がかわいそうだと評価する人もいる。
今回の前世の記憶がどうとかってのを楽しめない・ニセ科学や新興宗教を心配する人はきっと息子側で現実主義者なだけで別に間違ってはいないと思う。
楽しめる人は父親側で、自分の特に波のなかった人生を少しだけでも面白く語れる人なのかもしれない。
内容は違うのに、評価が少し似ているなと思った。