はてなキーワード: Tumblrとは
私はほんとにしょうもないインターネットお絵描きマン程度だけど、
一応絵を描いてる。
友人とかが3桁くらいふぁぼやRTをじゃんじゃんもらってる中、
ハマっているものがマイナーというのもあるのかもしれないけど、私は5rt、5ふぁぼ超えたらいい方で、それだけで大喜びしてたりする。
私は大体一つのジャンルにつくと雑食なのもあっていろんなものをひたすらかきちらしては描くものがなくなり、評価も対してあるわけでもないし、もちろん他のジャンルに行かないでとかとも無縁なのでスッと次のジャンルに移動する。
ただツイッターでの繋がりは大体そのままなので、結構前ジャンルどころか前々ジャンル、前々前ジャンルとかの人とも普通に繋がってたりする。
そんなもんで、「自分でどの絵が気に入ってる?」とかいう話題に便乗して自分の過去絵を漁りまくってあーだこーだいってた時に。
「黙っていたんですけど、実は貴方のこの絵がとっても好きで、保存するくらい好きで、もう、描いてはくれないんでしょうか」
そう言ってリプライを送ってきた絵は3年ほどいた前々ジャンルのほんとにハマりたてすぐ頃に好きだったキャラの絵だった。
自分でRTしたそのツイートは0RT0ふぁぼ。(自分がrtはしてるから1rt0ふぁぼか)
全く誰にも反応してもらえなかった絵だった。
今でもそのキャラは好きだし、そのイラスト自体も今見返しても自分でも気に入ってる絵だったから、よく覚えてる。
よく描けたし、2ふぁぼくらいはつくよね…ってあげた作品だったけど、何も反応が無くて少し落ち込んだ絵だった。
その人のそのツイートをキッカケに、私も、実は私も…と何人かが私のイラストを保存していたことが発覚した。
でもその人達はみんなイラスト自体には全く無言で、RTもふぁぼもリプライもせずひっそりと保存しただけだった。
「私の絵を保存するほど好きになってくれたのか」という喜びもあったが、それ以上に、「何故その時に何も言ってくれなかったのか」と思ってしまった。
当時、何かしら反応がもらえていたならきっともっと描いたと思う。
ジャンルもこんなにあっさり変えはしなかっただろう、もうすこし長くいただろう。もうすこし手の込んだまともな絵も描いただろう。ジャンルも変わり、好きだったキャラへの熱もある程度冷めた、今更、描かないんですかと、なんで言うの…、と。
現在ハマっているジャンルでもちょっとした落書きが海外の方々にTumblrのほうに転載されているのたまたま知った。ちゃんと私のツイッターのリンクとIDを記載されていたので引用というのが正しいのかもしれない。
現ジャンルはもう作品としては20年以上は存在しているタイトルで、大規模ではないが根強いファンも多いし、海外のファンも多い。
神絵師なるものも大勢というわけではないが、10人単位ほどでいる。
案の定ほかのそう言った神絵師さん達のイラストも転載されてた。その間に挟まる私のシャーペンで描いたのをとりこんだだけのイラスト。まぁ当然神絵師さん達の方が圧倒的に評価はされている。当たり前だ。
でも自分の絵も確かに評価されていたのだ。何枚か分けて転載されてたのだが、ツイッターでいうRTとふぁぼ?的なものを併せて総計で500を超えてた。
夢なんじゃないかって思った。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。今までそんなに評価を貰えたことがなかった。
でも同時にすごく悲しく、虚しくもあった。なんで、誰も私に直接言ってくれないんだろう。
その500を超える評価は一つたりとも私のところに届いていない。出来ればその評価を直接私がもらいたかった。
現ジャンルでも、5RT5ふぁぼ貰えたらいい方だ。実はこんなに評価を貰えてるってしらなかったら、きっと自分の中で描き切ってしまって、熱が冷めたらそのまま次のジャンルに行ってしまっただろう。それこそ前ジャンルのように。
絵描きの描きたいって気持ちは火に似てる気がする。それこそ燃え上がるように描き、だんだん下火になっていく。
それに対して応援することは、薪をくべるようなものだと思う。火が絶えないように、薪をくべる。下火になっていても、薪を上手にくべればまた燃え上がるし、火に対して大量の薪をくべればそのまま火は消えてしまう。
もちろん薪をくべられなくても風を受けて勝手にどこまでも燃え上がる人はいるだろうし、逆に薪をくべ続けても消えゆく火はある。
絵が好きならどんどん保存してほしい
ただ無言でいないでほしい。
ふぁぼやRTだけでもいい。
「いいねと少しでも思ってくれてる人がいる」ってことを私に教えてほしい。
【コミッション】SKIMAは初心者にも扱えて親しみやすいという話
https://anond.hatelabo.jp/20181001195910
当記事を読む際、こちらも合わせて読んでいただきたい。SKIMAの良いところを書き記した記事である。
SKIMAという、イラストなどの技術に対して料金を払うクラウドソーシングサイトをご存知だろうか。
coconaraと同じくソーシャルサービスやCDパッケージのイラストを個人に対し発注できる場所で、coconaraのイラスト特化型と言っても良いかもしれない。
もちろんそういうサイトには購入者や出品者の当たり外れ、相性の良し悪しが有る。だが、今回の件は相性の問題ではなく、完全なる黒の話。
SKIMAにごく最近追加された、adoptというコンテンツがある。
adoptとは「出品者が自分のキャラクターを売って、購入者がキャラクターの使用権と著作権を買う」という文化で、キャラクターの養子縁組とも呼ばれている。
最近流行りのバーチャルユーチューバーで例えるなら、イラストレーターが出品者で、購入者が企業または演者という形に近い。
勿論、adoptは版権のキャラクターや他人のキャラクターを無断で売ってはいけない。
小説、イラストなどに少しでも興味を持っている人間ならば、法的に、また倫理的にしてはいけないことであることは、理解できることだ。
だが、これを理解できない出品者がいた。
葉星ヒトミである。
業界ではそこそこ悪名が知れた絵師だそうだが、筆者は今回の件で初めて知ったため、他の悪行については自身で調べて欲しい。
先に葉星ヒトミが何をしたのかについて話しておく。
葉星ヒトミは、個人または企業の依頼で製作したキャラクターを第三者に売ったのである。
まず、個人の依頼についてだが、プレイバイウェブ(PBW)というものについて説明しよう。
PBWは、FF11、TWなどのオンラインロールプレイングゲームをアナログにしたRPGで、自身で完全なる一から登場人物を作り上げてプレイする、大型参加のTRPGのようなものである。(別名人力RPG)
参加者の多くは、イラストレーターに自身のキャラクターのイラストを描いてもらい、ライターに自身のキャラクターの小説を書いてもらう。
pixivで企画に参加したことがある者にはなかなか親しみがあるかもしれない。
葉星ヒトミは当時haboというペンネームで、PBWの大手トミーウォーカーでイラストレーターとして依頼を請け負っていた。
葉星ヒトミは目を惹く色使いと丁寧な仕上がりで参加当時好評の高かったイラストレーターだったそうだが、大量受注の末に納期の延期という失敗をしてしまい評価は降下。更にアカウントを取り直したためにトミーウォーカーから出禁を受けた。
その時に描いたキャラクターが、SKIMAに売られていたのだ。
キャラクターやデザインというものは、具現化した者だけでなくアイデアを出した者にも著作者人格権が与えられる。
更に、PBWのイラストのページでは、
「使用権(非営利目的での使用)は依頼者が、著作権はイラストレーターが、その他の権利はトミーウォーカーが所有する」
「非営利目的での外部サイトの公開は可能ではあるが当作品のものであるとわかるように明記すること」
といったような文章が書かれている。
つまり、葉星ヒトミがそのキャラクターを売ることは完全なる違法なのだ。
商業キャラクターに関しても、大半は該当キャラクターの出るアプリケーションゲームは終了しているが、著作権は帰属しない限りその企業が持つことになる。その点は不明ではあるが、前述のことを考えると、恐らく帰属していないだろう。
以上のことが発覚し、葉星ヒトミの商品を買った被害者たちは葉星ヒトミへの事情説明や返金を要求していた。
しかし、葉星ヒトミ本人は「著作権はこちらが持っている」と豪語し、被害者達を無視しツイッターに勤しむ。罪を認めたのはトミーウォーカーが動いてからだった。
その後も謝罪と言いながら、「睡眠障害とうつ病を患っていたので許してください」といった類の言い訳をしてした。
主な活動拠点としているツイッターには事の次第を表明することはなく、返金が済み次第消す予定のSKIMAに謝罪文と言う名の言い訳を公開し、Tumblrにはそれと全く同じ文章を公開。事件の全貌には触れることはなく、事の次第を巧妙に隠している。
「なんだか怒らせてしまってすみません」「療養の機会が来たとポジティブに考えます。購入者様を恨みはしません」など、相手のことを全く気遣いしない文章で被害者の神経を逆撫でしつつ、剰え自分が罪を犯したのにも関わらず「イラスト界隈から干される」などと、犯罪の自覚はまるでなく、自分が被害者のように振る舞うことに徹する。
ツイッターで検索をしても、葉星ヒトミに添削を頼んだ方が「●枚中2枚しか添削されてないのにそれ以降連絡がこない」と嘆いていたり、「そもそも返金のメール自体こない」と呟いている方が何人か見受けられるのにだ。
その上、「リプライは不具合で通知が来ない場合があるため連絡はDMで」と、表面上での対応を徹底的に避けている。大量にリプライが来ているならまだしも、そのようにピンポイントで不具合が起きるとは考えにくい。そもそも、それが事実ならば運営に問い合わせるべきである。
しかも、謝罪(という名の言い訳)をしているのはSKIMAの利用者にだけである。
キャラクターを勝手に売られたPBWプレイヤー達について言及することは一切なく今なお隠蔽を図っている。
葉星ヒトミはトミーウォーカーから弾かれているため連絡手段がないと言われるかもしれないが、葉星ヒトミはツイッターをやっている。ツイッターという広大な湖で、PBWプレイヤーを見つけることは容易かと思われる。
見つけて謝罪をしなくても、それこそTumblrやツイッターで触れておくべきではないだろうか。
昨今、精神の病に対する理解が少しずつ改善されていっている中で、たとえ疾患が本当であったとしても、それを盾に自身を守ろうとすることは、睡眠障害者やうつ病患者に風評被害極まりないものである。
今回の事件は、イラストの価値が正常に戻りつつある時期に、コミッションという文化自体を廃れさせかねないものだ。
自身も拙作ながらコミッションをやっている身として、葉星ヒトミのような怪物が二度と現れないことを祈るばかりである。
SNSを見るに葉星ヒトミの神経は本人が思っているよりも随分と図太いため、すぐにも違うペンネームで活動しそうだが、「葉星ヒトミに依頼をしたら自身のキャラクターを奪われるかもしれない」ということは、重々心の中にとどめておきたい。
ある一人の出品者が犯した罪の話は一区切りできたので、あとは購入者、プレイヤー、その他被害者などに任せたい。
実はこの話には続きがある。
(追記:これより先はSKIMAの話になるが、SKIMAについては上記の記事と合わせて読んでいただきたく思う)
SKIMAがずさんだったという話だ。
今回のadoptというコンテンツにおいて、他人の既存キャラクターやマイナーな版権キャラクターを投稿されることは容易に想像できた。
なのに、SKIMAは検閲を行うことなく葉星ヒトミによる大量の転売を見逃していた。
この事件が発覚したのは、葉星ヒトミのadoptへの連続投稿を不審に思った数人が画像の出典先について調べたからだった。
購入者がSKIMAに対応を促すが、SKIMAは「葉星ヒトミが著作権は自分にあると発言している」と一蹴。
直接トミーウォーカーに通報し、トミーウォーカーからのSKIMAへの勧告で漸く返金まで漕ぎ着けたのだ。
その後も被害者達への積極的な協力はなく、被害に気付いている購入者がいくらいるのかはわからない。
事件について責任は一切感じていないようで、公式でしっかりとした内容を記したアナウンスなどもしていない。
今回の特異な例を除いても、クラウドソーシングサイトにおけるトラブルは、大なり小なり免れないことである。
それを運営が円満に解決するために仲介料というものは存在するのだが、仲介料の意味が完全に形骸化している事実が露見された。
「安い仲介料で何を言っているんだ」と思われるかもしれないが、SKIMAの仲介料は20%である。10000円の依頼があったとしても、出品者には8000円しか入らず、2000円がSKIMAに取られるのである。
2000円もあれば鳥のモモ肉450gパックは4個は買えるはずだし、牛の切り落とし300gは5個は買えるはずだし、豚のロース100gは10枚は買えるはず。
ペンタブの替え芯をワンセット買えるし、SAIが買えるし、2000円を20回貯めれば安い液タブが買える。
上記に具体例を記した通り、出品者には決して安くはないのだ。
調べてみると、「今後SKIMAで活動するのは控えようか」「adoptの件もあったし購入は控えようか」と、SKIMAを離れる気の方や、何も言わずにもう離れている方がいるのがわかる。筆者もその一人だ。
イラスト特化型ということもあってとっつき易かったが、人口は少ないが発展するかもしれない場所はいくつかあるし、今度の10月にも創作者のための新しいクラウドソーシングサービスは始まるようだ。
自称ではなく、正真正銘のイラスト特化型の元祖として、SKIMAの運営が改善されることを願う。
(SKIMA公式がアナウンスを正式に入れたため、SKIMA公式のDMは一部外させていただいた)
http://tw4.jp/gallery/master/?master_id=02499
https://m.imgur.com/a/KvdLUOY(※被害者はブロックしていないため、葉星ヒトミが被害者をブロックしている可能性がある)
「ネットマナー守って」の難しさ 今のSNSが生きづらいワケ (3/3)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1808/16/news024_3.html
私が理解できていないのか、なんなのか。
前半は同意できるが、後半の各自でフィルタリングという論は同意できない。
自分が本当にその話題に触れる必要があるかという判断力と自己フィルタリングが大事というのは分かる。
しかし、下記までいくと言い過ぎではあると思う。
SNSにおける最も無粋な発言は「私が不快だからあなたのその発言やめてもらえませんか?」だと思ってます。マイクロブログサービスTumblrで見た受け売りですが「アウトプットはどんどんやるべし、フィルタリングは各自でやるべし」がインターネットの世界においては正しいと思っています。
ローカルマナーが通用しない世界だからこそ、「アウトプットはどんどんやるべし、フィルタリングは各自でやるべし」が通用ないこともあると思う。
且つ
あれって海外で使ってる人が多いのかしら?
それはさておき、
でも私の好きな海外のアーティストさんが使っているので私も使ってるの。
主にその人のことを発信してて、
ライブ行ったとか!アルバム聴いたよ!とかそんな内容だけどね。
で、
こないだ本人からファボられて、
その通知画面をキャプしてお守りにしてます!ってだけの話なんだけど。
やっぱりエゴサーチする人はしてるのかな?と
なんか嬉しくもありなんだかちょっと切なくもあり
一体どう付けたらいいのかしらね?って思ったわ。
まあそうしてザブングル加藤さんの悔しいですの嬉しい版ね。
奏して、
逆にさ
それもそれで超謎だわ。
軽くすませるわ。
パッケージに書いてある適量では薄かったので
井森美幸さん枠ばりに倍の量使ってみることにするわ。
私思い出せないんだけど、
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
広告でポルノをたまたま見てしまって、ポルノ画像を探すようになったのは小学生高学年の頃。クラスの男子が有料アダルトサイトの名前を口にしてはクスクス笑っているのを見て、何も知らない顔をしていた。多分、アダルトサイトの名前なんだろうなとは思っていた。
目に見える刺激よりも官能小説に傾倒したのは中学生の頃。今よりも個人サイトというものが多く存在しており、一次二次問わず何でも読んだ。
動画に手を出し始めたのは高校生の頃。Tumblrを使うことを覚え、どんどんGIF動画をリプログしていった。経由してゲイビデオを観るようになる。その頃は二次ではBLにハマっていたので。今はゲイビはあんまり観ない。
自慰を覚えたのは高校生の頃。綿棒から始まり、そのうちペンを膣に入れるようになる。ペンが楽に入るようになったら、指でするようになった。大学に入り、一人暮らしを始めたタイミングで大人の玩具を通販で購入。ディルドのSサイズと電マを買い、暇があれば自慰をするようになる。そのうちディルドはLサイズを購入した。
大学で初の彼氏が出来る。年単位の交際にはならず割とすぐ別れてしまったけど、セックスをする仲になってからは会うたびにセックスしてた。何これと思った。当たり前だけど、1人でするのと全然違う。肌が触れると皮膚が泡立つってこういうことか、会話や挙動が興奮の材料になるのもすごい。もちろん好きな相手だからというのも大きかっただろうけど、生身の人間ってすごい。彼氏がいる間は自慰はほとんどしなかった。
今は誰とも付き合ってないので、自慰生活に逆戻り。大学入学で一人暮らしを始めた頃よりペースは落ちたけど、少しでもムラムラしたら自慰をするのは変わらない。が、全然満たされなくてビックリする。満足できない。
セックスするのが一番だろうとは思うけど、誰彼問わずしたいわけじゃないので出会いも求めずに日々アホ面でぼーっとしている。性を覚えたての10代の頃ならまだしも、流石に性欲が強すぎるんじゃと思って「性依存症」で検索したんだけど、なんか結構当てはまる。ポルノへの執着はそこそこだし、自慰の回数も多い。日常で何かを見たときにすぐいやらしい妄想をしてしまうのもそう。でもなー、彼氏がいて自慰をほとんどしない時期はあったけど、数回じゃ満足できなくて少し引かれた記憶もあるんだよな。向こうもそこそこ性欲強かったはずなんだけど。
結局、ただ性欲が強いだけなのかもしれない。既婚者の同僚が「子供は欲しいけど、セックスするのはあまり好きじゃない」と言ってるのを聞いて驚愕したことがある。話には聞いてたけど、セックス好きじゃない人もいるのか…… 余程疲れてるのなら別だけど、少し眠いくらいなら毎日でもしたい。体力は無い方だけど、性欲は強い。
結構親に放って置かれて育ったから、人肌への執着もすごい。寂しかった時期に無くしたものを取り戻したい気持ちがあるのかもしれない。セックスがすごく好きかというと、普通に触れ合ってイチャイチャしたり長いことキスをする時間の方がずっと好きな気がする。セックスだと、本当にイこうとしたら朝までコースになることもあったし。こういう風に何かが足りないと思ってるから性欲強いのかもしれないとは思うけど、それがわからないからひたすら性欲を満たそうとするばかりだよね。前述したように誰彼問わずとは言わないが、やっぱりセックスしたいし。
次に付き合う人が出来るなら趣向が似てる人がいいな。スカほどアブノーマルなことはできないけど、それなりに性に貪欲な方がこっちも嬉しいから。頭では似たようなことを考えながらも日常の中では、子どもとか考えたことないけど、もしできるなら結婚もしたいなとか言ってる人もいると思うんだよね。ヤリ目の人とはお近づきになりたくないんだけど、好きな相手との触れ合いとかセックスは本当に好きだから早く好きな人に触りたいな。性依存症かもしれないと思いつつ書き始めたけど、当てはまる部分はあっても自制できてるからいい気がしてきた。
朝食を摂りに一階まで降りてみたところ、いつものようにリビングのテレビが意味もなく流れていた。
よく聞いていなかったから誰が死んだのかは知らないし、仮によく聞いていても社会不適合者の私は誰だか分からないだろう。
例えば私は阿藤快が死んだというのは知っているが、それを知ったのは今月のことだ。しかもTumblrで流れてきたからで、その偶然が無ければ私は阿藤快が死んだ事を向こう3年、いや5年知らなかったかもしれない。付け加えれば、阿藤快がいかなる人物であるのかについて私は何も知らない。失礼ながら、名前を少し入れ替えれば加藤愛とかいう人になるという系列のアレでしかお目にかかったことがないし、もっと言うとその加藤愛とかいうのが誰なのかについても勿論分からない。下の名前からして女性だろういう事はいくら私でも分かる。
まあ阿藤快のことはどうでもいいんだけど、さておき、Vtuberは全員合成音声でなければならないと思った。
想像してみて欲しい。何十年か後、我々がすっかりボケ老人と化して全国の介護施設でハルヒやらきすたやけいおんが延々流れている未来。「おじいちゃん、チョココロネの頭がどっちなのかの話はもう見たでしょう」「チョココロネ……横から食うか……下から食うか……」「はいはい」なんて会話がお茶の間で繰り広げられる地獄のいつかにおいて、ある日突然キズナアイの中の人が死ぬ。
アナウンサーが伝える。電脳少女シロの中の人が死にました、電脳少女少女シロの中の人が死にました。死亡者の中に日本人がいました。業界人がコメントする。「月ノ美兎の中の人は当時のVtuber界において非常に貢献をした人物で……」我々老人達はその訃報に、一瞬だけふっと脳内に電流が走り正気を取り戻し、樋口楓、ああ若かりし頃に追っていたアイドルだった、そう思いながら涙を流す。でも頭がボケているから実はそれも30回目の事だったりする。
このまま誰も何もしないのなら、これがVtuberに待っている未来だ。だけど良いのか。お前それでいいのか?私の中のブロントさんがそう告げる。
お前らVtuberは電脳少女だ。死んではいけない。老いてもいけない。老いるのも死ぬのも人間がする事だ。有機生命体であり定命の者である我々がする事だ。こんな哀しい業を背負うのは我々人間だけで良い。代わりにお前らは何十年経とうと何百年経とうと電子の海を漂っていなければならない──インターネットか、あるいは何らかの電磁的記憶媒体がそこに存在する限り。そして保存された動画の中でしか動かない「死んだ」存在ではなく、誰一人見ていなくとも永遠に自律的に動き続ける存在として。そう、私がかつて管理人だったサイトで未だに喋り続けている人工無脳のように。
中の人は死んではいけない。とりあえず中の人は死んではいけない。というか、そもそも中の人なんて存在してはいけない。中の人などいない。
「Vtuberに中の人がいるべきではない」というのは相当数のVtuberファンの楽しみ方を否定するような思想だろうし、実際私も1人のVtuberファンとして中の人はいた方が楽しいと思っている。しかしながら、キズナアイに代表されるように、もしあるVtuberが「私AIですよ」という路線を執ったのなら、彼か彼女かに中の人がいてはならない。中の人はいつか死ぬからだ。中の人初代が存命だろうと死んでいようと秘伝のタレの如く人材を継ぎ足し継ぎ足しして別人に切り替えても誰にも分からないようにしなければならない。永久に回り続けるシステムにしなければならない。Vtuberは全ての属人性を剥奪されその存在を維持するためだけに人間の集団を使役するマザーコンピュータに成り果てる。いつか本物の人工知能が出来るまで。
これを実現するのに何が必要か。
とりあえず肉声があってはいけない。
ナマモノの声はいつか老い、あるいは死に、代替が効かなくなり、それは同時にVirtualにして永劫不滅であるはずのアバターの死をも意味するからだ。
声の死を回避するために声真似を利用するという手は、なくもない。たしかに声真似が得意な人間、というより、出せる声幅の広い人間というのはいるし、特に山寺宏一や水橋かおりみたいな人間に練習されたら概ね常人には区別がつかなくなるだろうし、「水橋かおりが半年かけて練習したキズナアイと本物のキズナアイ、どっちがお高い方でしょう!」なんてクイズを出されたら自信を持って正解出来る人間はほとんど居ないだろう。いやギャラがお高いのは水橋かおりの方なんだが。そして何故水橋かおりの話をしてるかって言えば私は水橋かおりくらいしか声優の名前を知らないからなんだが。ヘィ!ルゥク!リッスン!あと裏名義はやめろ。誰とは言わないけど裏名義はやめろ。裏名義は良くない。裏名義は良くないぞ。話が逸れた。
いずれにしても声真似というのは極めて限られた専門的技術者にだけ為せる事であり、出来る人間の数は限られている。それに、声質が特徴的な一部のVtuberは本人以外誰にも出せない声を発しているという事もあるだろう。話し方やトークの問題だってある。どうモノマネを試みても僅かに違いが出たりして、そして我々人間はその塵のような違いにさえ敏感だから、「キャラクターの声がイメージと違う」と思ってしまった瞬間に「中の人が死んで交代しているのでは?」と疑わざるを得なくなる。先天的に首が締まっていたりするのもVirtualの世界ではにはよくあることだし今年のエイプリルフールにアレはキズナアイではないとすぐに気付いた人間が殆どのはずだ。あとコラボおめでとう。
他にも芸風の問題とか趣味の方向性とか知識量とか課題は山積みだけれども、とりあえず「生声でやっている」という事実ただそれ一つを以てすら、我々は必ず何十年か後に「微糖カイジの中の人が死にました」という話を聞かざるを得なくなる。あるいは数年もしない内に、中の人が誰か交通事故で死ぬかもしれない。いや微糖カイジについては中の人より先に微糖カイジが死んだんだけど。
生声Vtuberは未来永劫にVirtualな電子生命体ではないのだ。それがなんとなく今朝思ったこと。誰も読みやしない、誰かの日記。のらきゃっとやげんげんみたいな存在がVtuberとしては一番正しいのかもしれない。私はちゆ12歳様を応援しています。
いわゆる”後で読む”系のサービスでPocketを愛用してたんだけど、
Instapaperに本格的に切り替えることにした。
①いちいちウェブ画面に切り替えがいらない
PocketではデイリーポータルZとか某2chまとめブログとかはいちいち、
ウェブ画面にして読まないといけなくて、圏外中結構ストレスになってたけど、
Instapaperだと構文解析があってるらしく全ページ記事ビューで読めるのがいい。
これで圏外中でも読めないストレスがかなり減った。
IFTTTを使って、pocketでFAVしたの→Tumblrでポストして記録をしてたんだけど、
タイトルとリンクとれてなくて、せっかくのがともやもやしてたんだけど、
Instapaperを使ってみたら、アプリ上でお気に入り→Tumblr でできようになって、
記事内容がそのまま飛ぶようになっている。
ーーー
いまのところpocket でできて Instapaperが不便な所は見当たらないので、そのまま本格移行するつもり。
有名どころのSNSのIDは一通り持っているけど、正直上手く使い分けができていない。インスタとかは他のSNSとの連携機能が充実してて、一回投稿すれば他のSNSにも同じ内容が投稿できるけど、たとえばFBとインスタで同じ人とつながってて、両方に同じ内容の投稿をされると、結局2ケ所で同じモノを見ることになるわけで、それなら片方だけでつながっていれば十分な気がする。
自分としてはTumblrとインスタは公開モードでいろんな人に見てほしくて、FBはある程度自分のことを知っている人限定で見てほしい。Twitterも現状アカウントに鍵をかけているので相互フォローの人にしか見えない状況だけど、結構趣味の合いそうな人は面識なくてもかなりフォローしちゃっているので不特定多数に公開しているのとあまり違わない気がする。単に多少過激なこととか愚痴とか書きたいときに、見せる範囲を限定しておくと炎上対策になるかなという程度。
まぁ内容やら友達によって、スルーされまくりの時とか、義理で「イイネ!」してくれてると思う時とかいろいろあって、SNSごときにいろいろ気を遣ったり努力してもしょうがないのかなと思うこともある。たまにせっかく別々のサービスなんだから投稿する内容変えなきゃ…と頑張ってみることもあるけど、まぁそんなに彩りのある生活をしているわけではないので、一つの場所に写真を撮りに行ったら、サービスごとに違う写真を投稿してみるとか、その程度の差の付け方しかできない。
自由業とかで自己PRのための営業ツールとしていろんなSNSにIDを持っている人は同じIDで同じ内容でもあっちゃこっちゃに投稿して誰とでもつながれるようにしとくのがいいんだろうなと思うけど、普通のサラリーマンやOLがそこまでやる必要があるのか疑問だ。私は気分が盛り上がるとやたら頻繁に投稿したり、長文書いたりしがちなんだけど、そんなに面白いことを書けるわけではないので、むしろ自主規制して少なめにする方が良いのかなと思っている。
時々毎週のようにどこかにお出かけして美しい写真を投稿してくる人とかもいるけど、あまり頻度が高いと「はいはい、また出かけたの。キレイだね。」と義務のように「イイネ!」を押すこともある。インスタとかもあまりにも投稿頻度が高いとちょっとめんどくさい。これがいわゆるSNS疲れというやつだろうか。たぶん疲れたらあまり見ないようにするのが一番なんだろうけど、何となく人さまの投稿をチェックしておかないと落ち着かない。こういうのをやっていると読書をしなくなるし、他にもいろいろなエンタメ鑑賞をしなくなって貴重な時間を浪費している気がする。でもすっぱり全部SNSの類を止めるのも怖いんだよな。あまり負担にならないほどほどの付き合い方はどのくらいなのか考えたい。