はてなキーワード: 迫害とは
・東京に引越してきた関西人の小学生がいた。クラスで関西弁を話すのは彼だけで、それが原因で苛烈ないじめにあった。標準語を話すことを強制されたりもした。
・そんなある日、学校の発表会でお笑いをやることに。お笑いは関西弁の方が情緒が伝わってそれっぽくて便利だ、ということで、クラスの発表では関西弁を使うことにした。
・ただし発表で使われるのは関東在住者が話すエセ関西弁である。ネイティブ関西弁へのリスペクトはなく、単に発表をそれっぽくするためのツールとして使う。
・「いや、それは関西弁じゃないよ。エセ関西弁を話すのはやめてほしい」とクラスのメンバーへ伝えると「はぁ?俺たちがせっかく関西弁に興味を持ってやったというのに何いってんだ。あーあ関西のやつはめんどくさいな」と逆ギレされた。
A:いやぁクラスのみんなが関西弁に興味を持ってくれてよかったよかった
手話が数十年前まで迫害対象で殺人まで起きていたこと、ろうあ者が使う手話と聴者の使う手話は全く異なり関西弁とエセ関西弁/日本語とルー語のような関係にあること、炎上した小学校の件は手話教育が目的ではなく「コロナの状況で給食を配るときに手話が便利だから」というツールとしての利用だったことを踏まえると、「文化の盗用」って指摘もあながち間違いじゃないと思った。
「言語それ自体が話者のアイデンティティを構成しており、それ故に道具としてぞんざいに扱われるとイラッとする」あたりも手話と関西弁って共通している部分があるし。
オタク趣味(アニメ、漫画、ゲーム)によって集まっているわけではなく、スポーツ愛好趣味(プロ野球観戦)によって集まっている緩やかなグループだから間違ってないぞ。かつてネットはオタクの居場所だったが、人口増加とともに体育会系が増え、今ではネットでもオタクが体育会系に迫害されているということだな。
・聞こえる人に使いやすく聞こえない人に使いにくい方言が生まれてそれが主流になると困る。
・極端な例を出すと、中国政府がウイグル語を「便利!」って使い始めたらすごいいらつく。
さすがに聞こえない人がそこまでの目に遭ったことはないだろうが(追記:殺害・断種・不妊を含む迫害も時代・場所によってあったようなので撤回)立場は弱く、聾学校で手話が禁止されるなどの差別的な待遇も昔あったらしい。
このあたりが反発の根拠だが、個人的には正直この反発が仮に不合理で身勝手な嫌悪だったとしても、聞こえない人の多くが嫌がるならやめた方がいいのではないかと思う。
この反発を古参が新規ファンを嫌がることに喩える人が多くいたが、この場合聞こえない人は普通の古参と違って去っていくことができない、嫌なら見るなが言えないからだ。
どうもそれを世間では認めないというか、見ないふりをする。
世の中、ケーキを三等分にできない人間がいる。これをバカだの不良だのといっては迫害してきた。
しかし、人間体が大きい小さいがあるように、知能にも個体差が確実にある。
見えないだけだ。
これを見ないふりをして、人間だからできるはずだと義務を押し付けては失望して、冷遇し不良少年を作り出してきた。
そして、それは反社へ流れていく。
知能に差があることは認められるべきなんじゃないだろうか。
軽い障害者だ。
障害者に手当てがつくように、バカはバカと認定して、バカ手当てをつけるべきなんじゃないだろうか。
差別が起こる?そこは知的障害者をバカにしてはいけないという社会通念があるように、バカにも同じように差別は良くないと啓蒙すればいい。
しばらくは受け入れられないだろうが、徐々に浸透して、理解が広まるだろう。
バカはバカとしてちゃんと存在を認めてあげたほうが、不良少年化しないし、犯罪しか生きるすべを知らない人間にはならないんじゃないかと思うんだよね。
たとえばユダヤ人とか迫害されてて金融しかできなかったんだけど金融やってたので金持ちになったんだよ。そしたら白人さんがブチ切れてユダヤ人迫害したんだ。中国人も同じような感じでな、中国出ていった華僑さん、行った先では少数派で貿易しかさせてもらえんかったんよ。でも貿易してたから金持ちになっちゃったんだよ。そんで独立して国作ったのがシンガポールや。
私自身アセクシャルなので、「多様性」の思想に守られていることも少なくないだろう。
社会の「多様性」、人種の「多様性」、いずれにしても主語は「私」や「あなた」ではない。「多様性」という言葉を使った時、ミクロな個人の存在は全く無視されてしまう。
でも私や、私のようなマイノリティ達は、別に人類の「多様性」とやらを担保するために生きているわけではない。私のような存在が、「人類の進歩のために必要だから」許されているのだとしたら、それは形を変えた優生思想とどう違うのだろう?
実際、「多様性」を謳う人々が、「人類の進歩に不要」な諸々を迫害する現実が、様々な場面で顕在化している。
「負の性欲」とかいう言葉が馬鹿馬鹿しいのは「KKO」とかと同じで、内輪の造語で思考停止する目的が透けて見えるからなんだけど。それはそれとして、アセクシャルの私としても、マジョリティ女性が男性の性的視線とやらを忌避するのも所詮は性欲の裏返しでしょ?という感覚はある。
もちろん、アセクシャルとそれ以外の間はスペクトラムで、境界なんてないんだけどね。
何が正しい・間違っている、とは別に、当事者の素朴な感情としてそういう部分はある。
自分としては、このような感情は、同性愛者が両性愛者を迫害するような、褒められたものではないと認識しているけどね。
私としても「フェミニストでありたい」とは思っているけど、マジョリティ女性が無邪気に「アセクシャルは私たちの味方」という認識で近づいて来られると、「それで、あなた方は私たちの味方になってくれるの?」と警戒してしまう。
海外のSJW(ポリコレ大好き野郎)の中で、アメリカ人が開発した日本の対馬が舞台のゲーム「Ghost of Tsushima」は文化盗用だと盛り上がってるらしい。
しかし文化盗用という概念が日本人にはイマイチ理解できないので、GOTを批判する日本人はほとんど見かけない。
なのでなぜ海外のリベラルが文化盗用に対して敏感なのか簡単に説明する。
アメリカでマイノリティである日系(アジア系)アメリカ人の文化や歴史を使ったコンテンツを白人が利用することは、マイノリティの権利を迫害していることになるのだ。
なのでアメリカでマイノリティのアジア系アメリカ人+SJWが怒っているのである。
マイノリティの文化を使ってイイネを稼ぐことはマイノリティのもらえるイイネを横取りしていると見られてしまう。
ただ、日系アメリカ人は白人のアメリカ文化に同化している傾向が強いので、GOT問題でも主に騒いでるのは民族アイデンティティを強く持つ中国/韓国系アメリカ人などだが。
アメリカが多文化融合主義の国だったら文化盗用なんて言葉は生まれてなかったかもしれない。
しかしアメリカは人種の坩堝ではなく、サラダボール。いわば多文化"分断"社会なのでこのようなことが起きるのである。
アメリカのリベラルは日本人はGOTに対してもっと怒るべきだと騒いでいるが、日本人はアジア系アメリカ人ではないので彼らの言っていることは全く響かない。
おおむね、ポリコレ的にアウトとかポリコレ的にセーフみたいな話をするときには、その定義の範囲を正確に捉えた方が良いと思う。
元増田が例示しているムスリムの例は大変示唆に富んでいて、「宗教的正しさ」を理由にした運動だったら、たぶんもう少し考える人が増えると思う。
ここでは「BLはポリコレ的にアウトなのは事実」というのが、明らかでは無いと説明してみる。
「宗教的な正しさ」とすると、アウトかセーフかは宗教ごとの教義によるだろう。
「自民党的な正しさ」とすると、(自民党の言う)日本の伝統的な家族観からはアウトかもしれない。
「民主主義の政治的な正しさ」とすると、多様性の観点からはむしろセーフとして守られるべき対象かもしれない。
「(いまTwitterで話題になっている)ポリコレ」とすると、自分はアウトだと思うが、全員が同意するかは疑問だ。
何言ってんだ?と思うかもしれないが、いま「ポリコレ」とは「ある差別が存在したとして、それを追認もしくは強化、一方的な見方を助長するときには、積極的に止めるべきだ」という運動だと定義できるからだ。これがポリコレ棒などと揶揄される運動だ。
(いまの「ポリコレ」は、政治的に正しい言葉を、公文書を作成する際に使うべきだ、政治家が発言する際には利用すべきだ、という運動では無い)
民主主義の正しさが世界を覆いつくすのが、本当に正しいのかは、大いに疑問が残る。
例えばこれが「ある宗教にとっての正しさ」を広げる運動であれば、かなりの人が眉に唾を付けて、そのうえで取捨選択するはずだ。
いまの「ポリコレ」は「ある文化圏にとっての正しさ」を立ち止まることなく広げ続けているように見える。これは大変怖いことだ。
はてブ受けする人物で言うならアラン・チューリングは、当時彼が所属する法治国家で違法とされている行為で逮捕されている。
そう、同性愛だ。少なくとも1952年のイギリスでは、同性愛は違法だった。
違法なのだから、それは(当時のイギリスの)政治的には正しくない行為だ。
いや、例えば今まさに黒人が迫害され、白人と同じことをしているだけで突然射殺されるのは間違っているだろう!と思うかもしれない。
自分もそう思う。
もちろん軽重は違うだろうが、日本の技能実習生は問題だと思うし、サウジアラビアで同性愛が違法とされている現状も個人的には痛ましいと思う。
「人種や肌の色によって差別することを許容しない」とするなら、
同じように「BLを正しくない表現方法」とすべきだ、とするのは、とても乱暴で、あいまいな境界をもとに表現規制を行っていると思う。
少し話題が逸れるが、個人的には「表現は規制されるべきだ」という認識を持っている。
「表現規制があった方が良い」と「表現規制は無い方が良い」という話のときにスッポリ抜け落ちがちな視点として、表現は普通に規制されているという点がある。
例えば、マッツ・ミケルセンの出ていたドラマのハンニバルといえば良いだろうか。アートの観点から、美しい肉体を持つ人間を殺して紐で括り付けて芸術作品に仕上げる、というのは一般的には許容されないし、日本で発覚すれば普通に犯罪だろう。そういった表現方法は規制されている。
きっと美しいだろうからと金閣寺に火を放っても捕まるだろうし、神々しいまでに美しいと言ったところで男子小学生のヌードを撮影すれば犯罪だろう。既にしてある種の表現は規制されている。
当たり前だろうと思うなかれ、同性愛が普通に犯罪だった国は多いし、現在進行形で違法の国もまだある。
(自分の息子の上半身裸の写真撮影が規制されるべきかどうか、日本において自明ではないだろう)
だから、思想は自由だとしても、それを表に出す、現実世界に影響を及ぼす際の表現方法は規制されて当然だ。
ただし、どこまで何を根拠に規制されるかは、その時々の社会情勢によって影響を受ける。
(だから規制して欲しい派がロビー活動を行うのも正しいし、規制して欲しくない派がロビー活動を行うのも正しいだろう)
義を見てせざるは勇無きなり。
だから、自分の信じる正義のために活動することは、(その当人にとっては)正しいことだ。
自分の信じる正義が、たまたまTwitter上のポリコレ運動と一致しているなら、それをもとに活動することもまた、(その当人にとって)正しい。
ただ、その「Twitter上のポリコレ」が人類普遍の正しさかどうかは、一度立ち止まる必要があると思う。
「ポリコレ」としか呼びようのない運動について共感したとしても
「政治的に正しい」振る舞いが、どの国のどの政治なのかは意識すべき時期が来ていると思う。
無自覚に「これは正しいことだ!」とすると、まったく同じ理路で突然自分が否定されることもまたあり得る。
(別に矛盾のない聖人君主だけが住まう国でもないので、あちらとこちらで一貫性がなくてもまた人間的だとは思うが、どこかで折り合いはつけるべきだとは思う)
そして同じように、みそもくそも大雑把にくくったうえで、「だからコレはクソだ」として無視するのもまた、誤っていると思う。
純粋に善意で、自分の規範を教えなくては!という熱意を持った人はわりと自分の周囲にも多い。
そういう時、(相手が話を聞いてくれるときには)「その”正しさ”を、”正義”に置き換えても、まだ薦められる?」と聞くことにしている。
「ポリコレ的にアウト」ではなく、「自分の信じる正義に則ってアウト」と言えるかどうかが、たぶんアクションに起こせることだ。
もしくはもっと広く「日本国民が信じるだろう正義に則ってアウト」でも「民主主義の正義に則ってアウト」でも良い。
だから、元増田はひねくれているとは個人的には思うけれども、「自分の信じる正義としてBLはセーフ」「Twitterで言われるポリコレ的にアウトというのは、自分の信じる正義とは違う」と言い切って良いと思う。
私は「自分の信じる正義に則ってアウト」という言葉を「ポリコレ的にアウト」と言い換える途中にゴッソリと抜け落ちた部分が怖い。
「(自分の信じる正義であり、世界不変の正義でもある)ポリコレ的にアウト」と考えているとすると、とても怖い。
その世界には、自分のようなマイノリティの席はお情けで確保されているにすぎないと思っているからだ。
ぜひ、自分の信じる正義が、どの世界やどの政治体制の正義と同じだと思っているか、自問して欲しい。
そして、もし違う正義を信じる者がいたとして、彼ら彼女らにどう接するべきか、自問して欲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20200709170615
これの考察に「実は友達側が書いている」という考察があったけど、なくはないかなと思う。
私はこういう友達のことを5ch同人板のとあるスレに愚痴ったことがあった。
数年前にとあるジャンルで知り合ったおそらく40代(30代の私や他の人が年齢を明かしても頑なに言いたがらないので)の人がやばかった。
ツイッターで相互になってイベントで初対面の時に正直うわっと思った。
肌が汚い。皮脂でギトギト。毛穴パカパカ。イチゴ鼻ブツブツ。だけどまぶたに変な色のシャドウ乗せてる。眉毛は描いてない。唇はガサガサ。
髪ボサボサ。そのボサボサの髪でリボン編み込み。変なバレッタもついてる。
どこのキッズバレエの発表会ですかみたいな大きく広がったチュチュみたいなスカートのフリルたっぷりワンピ。
あとごめん、デブ。
正直アフターに行くのに一緒に歩くのも一緒に店に入るのも恥ずかしかった。
話してみたら、自分はジャンル最古参なのに同じく最古参で今や大手になっているあの人やこの人からいつの間にか
ハブられるようになってアンソロにも呼ばれないとか色々聞かされたけど、最古参大手の中心人物が有名企業に勤めていて
そこのHPに「先輩からのメッセージ」的な顔出しで出ているイケイケOL風な人だったし、子供おばさんはまず
やばい見た目が原因で一緒に行動することを避けられて弾かれたんじゃないかと思ってしまう。
人を見た目で判断するなんて云々、何を着ようが本人の自由云々。
同じ立場になってみたらいかにきついか分かると思うんだけど、そういう友達がいない幸せな人なのか自分がそうだから目を背けたいのか
こんなことを書いている私のことも「自分のことを棚に上げているんだろう」とか「オタクに見えないと思っているのは自分だけ」とか
色々言う人はいるだろうけど、それも実際どうなのかは増田を読んでいるだけの人には分からない。
自分ではだいぶ老け込んだと思っているものの、たまに仕事絡みの人から言われる「若く見える」がお世辞ならいいけれど、
宮崎勤の事件があったりして、とにかくオタクは迫害対象であるという事実を突きつけられながら育った世代なので
ある程度の年齢以上になってからはいかに一般人に偽装するか、せめて見た目でオタク認定されないようにと思って生活してきた。
「オタクに見えない」と言われるのが一種の安心材料というかステータスというか。
ちなみに私は自分のお金の使い方は決して褒められたものではないと思う。
ソシャゲは飽きてグッズもランダム商法には乗らなくなったけど、別に独身で一人暮らしだから子供のための貯蓄とか必要ないし…と
「物より思い出」「推しは推せる時に推せ」の語感の良さに乗っかって作品の公式イベントは遠征も辞さず参加しているし、
聖地巡礼旅行でお金を使ったりしているので、ランダムグッズを買いまくっていた頃と出費は変わらない。
経済的には誰の世話にもなっていないし、年の収支はプラスで今のところは生活に困らない範囲なのでまあ、といったところ。
あと、定期的に会うような友達はいない。こんな時期に飲み会やカラオケの写真をツイッターに上げている都会の相互を内心蔑んでいる、そんな感じ。
未だに「なろう小説の流行りは異世界転生」なんて思ってるやつはいないかな?
そもそも16年間という長大ななろうの歴史において異世界転生が流行っていた時期なんて半分くらいしかない。
本当はすごい力や才能を持っている主人公が周囲に認められずに、解雇されたり裏切られたり迫害されたりして、その状態から成りあがるというテンプレだ。
異世界転生じゃなくて、最初から純正異世界生まれの主人公がそういう目にあう。
どうして今、こういう流行りになっているのか。少し長いけど、サイトの初めから歴史を追ってみようと思う。
「小説家になろう」において最初にやってきた流行はVRMMOだった。そう、異世界転生じゃないんだ。
この時期は、なろうに限らずネット小説界全体で、このテーマが流行っていた。SAOとか。(元はネット小説だったって知ってる?)
なろうでは、ゲームの中と思ってたら本当の異世界だった、みたいなパターンも多かったように思う。
「最近のVRMMOは凄すぎだろ」とか、好きだった。
にちゃんねるのSSスレなどで、エヴァ・ひぐらし・なのは・Fateなどを経由して育てられゼロ魔によって爆発した二次創作の手法の諸々。
それが、なろうのグループサイトである二次創作専門投稿サイト「にじファン」を通ってなろうに流入した。
特にゼロ魔SSの人気と書きやすさが凄まじく、そのタイミングでの「にじファン」の閉鎖があって、一次創作へゼロ魔SSの手法が完全に浸食。
この時、なろうがもともと有していたVRMMOブームのノウハウと合体して、ゲーム的異世界へのチート付き転生というテンプレが爆誕してしまった。
これが驚くほど書きやすさ・読みやすさ・とっつきやすさがあり、ランキングは異世界転移一色になった。
最初はまだ転移の方が優勢だったのだが、より書きやすいのか、あとから転生が多くなる。
なろうの作家たちは、あまりに書きやすいテンプレに沿った話づくりと、捨てられない創作者としてのプライドとの板挟みにあい、結果、能力面などで一点突破のオリジナリティを追い求めるわりと修羅の国になった。
なろう認識が異世界転生で止まっている人は、ここから先は知らないかもしれない。
実は小説家になろうでは、余りにもランキングを異世界転移/転生が独占している状態が続いたため、これらの要素を持つ小説が別ランキングへ隔離されることになった。
(ちょうど異世界転生を批判するエッセイとかが量産されていた時期だった。個人的にはああいう方法での主張はダサいと思うが。)
異世界転移/転生はサイトの見やすい位置に表示されることがなくなり、作者たちは新たなブームを探った。
その結果見出されたのが、ハイファンタジーとローファンタジー。
小説家になろう内の定義では、最初から最後まで話が異世界の中だけで完結するのがハイファンタジー。現実モデルの世界でのファンタジーや、現実と異世界を行き来するものがローファンタジーとなっている。
一見相反するように見えるこれらのジャンルだが、ほぼ同時に、ほぼ似たような形で流行ることとなる。つまり、異世界転移/転生の代替としての流行だ。
たとえば一般的な異世界転生のテンプレにおいて、転生するところを削ったらそのままハイファンタジーになり、ランキングに乗る。
また、現実世界から異世界に転移する部分だけを、逆に現実世界が突然異世界化してしまうような導入に変えれば、ローファンタジーとなってランキングに乗る。
しばらくは従来のテンプレそのままみたいなのが流行っていたが、面白いことにこれらのジャンルには先住民がいて、昔から綺麗な恋愛関係などに主眼をおいた小説が流行っていた。
それらと従来テンプレが合体し、ハーレムではない純愛をメインとした、でも結局チート転生風な感じの、新たなテンプレが流行るようになった。
そして、今に至る。なんでここへきて追放系なんだろうね。いちおう異世界転移の頃から萌芽はあった。盾の勇者とかまさに追放系だし。
どうも、前述の純愛風チート転生風not転生ハイ(ロー)ファンタジーの、各要素の食い合わせが意外と悪く、どこかでガタが来たんだと思う。
主人公がそんなに強くて魅力的だと一人のヒロインとの純愛は書きにくい感じなのかな。
ただ、異世界転生の頃に流行っていたようなチートハーレムは、あれはあれでヒロインの数を増やすのが正直面倒。
その結果、一番書きやすかったのが、盾の勇者などで既に見られていた、自分の能力を理解してくれない周囲/それを見出して受け入れてくれるヒロイン、の構造だったのかもしれない。
とにかく、今ランキングを見に行くと、異世界ブームの頃とは結構様変わりしていて面白いと思うので、一度訪れてみてください。
【追記】
悪役令嬢ブームについては敢えてオミットした。というのも自分が男性向け界隈しか追ってきていないので、書けるほどの情報量が無いからだ。
悪役令嬢は男性向け異世界転生であるRPG風チート転生ハーレムが流行っていた時期に突如として登場した女性向け界隈の情報チート型の異世界転生だ。
男性向けとはパラレルに、枝分かれする形で流行していた。総合ランキングにも入ってきてびっくりした記憶はある。
だがどうも今回のブコメ等を追っていると、この男性向けと女性向けの枝分かれはハイファンブームの頃に合流していて、それが追放系の下地を作ったらしい?
ネットの愚痴は単なる愚痴で済まずに、そう受け取らなかった同意見の人々により迫害世論を形成する(=自由を脅かす)一端となりえるので個人的には「その愚痴(?)、ネットで言う必要ある?」と思うね。まあ増田は他のSNSと比べたらバズ力が弱いとはいえだよ。デマを流す自由の是非と本質的は同じよ。悪意をもって大衆を扇動する発言の自由を認めるなら、大衆が十分に賢い高リテラシー社会でないと、自由は自滅する。だから自由主義国家といえども、本当にヤバい扇動の類は犯罪として規定されるし、ネットの他愛ないように見える書き込みも、グラデーションであるだけで十分危険な域に達する場合もあるだろう。個々人の節度に委ねられているわけよ。慎みをもたないと。