2020-07-31

多様性」という言葉にそこはかとない恐怖を感じる

多様性」は大事。言いたいことはわかる。

私自アセクシャルなので、「多様性」の思想に守られていることも少なくないだろう。

しかし、「多様性」とは何だろうか?

社会の「多様性」、人種の「多様性」、いずれにしても主語は「私」や「あなた」ではない。「多様性」という言葉を使った時、ミクロ個人存在は全く無視されてしまう。

でも私や、私のようなマイノリティ達は、別に人類の「多様性」とやらを担保するために生きているわけではない。私のような存在が、「人類進歩のために必要から」許されているのだとしたら、それは形を変えた優生思想とどう違うのだろう?

実際、「多様性」を謳う人々が、「人類進歩不要」な諸々を迫害する現実が、様々な場面で顕在化している。

「いろいろな人がいてもいい」というシンプル思想を、わざわざ「多様性」と言い換える必要があるのだろうか?

個性」という言葉時代遅れになったのだろうか?

個性」の方が「多様性」なんかよりもよほど身近で大切な理念だと、私は思うのだが。

  • 私のような存在が、「人類の進歩のために必要だから」許されているのだとしたら ↑そんな理由じゃないよ。 制度設計上、人権にいちいち適用除外規定設定するのはコストフルで意味...

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