私自身アセクシャルなので、「多様性」の思想に守られていることも少なくないだろう。
社会の「多様性」、人種の「多様性」、いずれにしても主語は「私」や「あなた」ではない。「多様性」という言葉を使った時、ミクロな個人の存在は全く無視されてしまう。
でも私や、私のようなマイノリティ達は、別に人類の「多様性」とやらを担保するために生きているわけではない。私のような存在が、「人類の進歩のために必要だから」許されているのだとしたら、それは形を変えた優生思想とどう違うのだろう?
実際、「多様性」を謳う人々が、「人類の進歩に不要」な諸々を迫害する現実が、様々な場面で顕在化している。
私のような存在が、「人類の進歩のために必要だから」許されているのだとしたら ↑そんな理由じゃないよ。 制度設計上、人権にいちいち適用除外規定設定するのはコストフルで意味...