はてなキーワード: 普遍性とは
乳揺れと統一教会に揺れるはてな界隈の皆様、いかがおすごしでしょうか。
マライ・メントライン(ドイツ人 女性 テレビプロデューサー)が
「意外と惜しみなく出た私の入浴シーンはいかがだったでしょうか?」といささか
挑発的なつぶやき(注1)をするのも、この意識の延長線だろう。
となれば、おっぱい星人はドイツに行って温泉に入り、生おっぱいを見るべきだと思う。
そこで少年の心を持ち続けるおっぱい星人たちは、新たな発見を目にすることだろう。
かって、ブイブイいわせ、栄耀栄華を誇った「量産型おっぱい」が
加齢と重力にはあらがえず、「長物(ながもの)」と化していることを。
夢崩れたおっぱい星人たちは、ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」の歌詞にも
寂寥感を得たおっぱい星人は、今まで女性(の胸)に向けていた毒々しい視線が
おっパイは手に入れられないが、安パイの称号は手に入れたのだ。
※もっとも「サンマは目黒に限る、おっぱいは二次元に限る」(注5)とメタモルフォーゼしてしまう少年兵もいるかもしれないが。
(注1)https://twitter.com/marei_de_pon/status/1046400072223588353?s=20
(注3)もちろん、モライスは(こんな美しい娘と付き合うことはできず)、おっぱい星人は(生おっぱいをたくさん見たのに)という補完の違いはあるが。
(注5)https://kotobank.jp/word/%E7%9B%AE%E9%BB%92%E3%81%AE%E7%A7%8B%E5%88%80%E9%AD%9A-643655
また擬似相関がTogetterで上がっていたりしたので書いておく。
各自ググれ (ttps://minna-shigaku.com/category18/entry31.html ttp://jspt.japanpt.or.jp/ebpt_glossary/causation.html ttps://www.kansai-td.co.jp/corporate/energy/electromagnetic-wave/research/epidemiological-research/evaluation-criteria.html ttps://jeaweb.jp/glossary/glossary015.html など)
" 因果関係を判定する条件として,米国公衆衛生局長諮問委員会の5基準(1964)が提唱されています.
1.Consistency(一致性):異なる地域・時代・状況でも同一のことが起こる
2.Strength(強固性):原因と結果の関連が強い
3.Specificity(特異性):原因と結果の間に特定の対応関係がある(原因が変われば結果も変わる)
4.Temporality(時間性):原因が結果よりも時間的に先行する
5.Coherence(整合性):既知の知識体系と矛盾しない
"
"
関連の密接性
関連が強いほど因果関係がある。曝露が多いほど疾病の発生率が高い。
関連の普遍性
関連の特異性
疾病があれば曝露があり、曝露があれば予測される率でその疾病が発生すること。
関連の時間性
関連の論理性
もちろん提唱されているだけであり、これが因果関係の判断基準のすべてではない。
”Bradford Hillの判定基準(1965)もあります.
6.Biological gradient(生物学的用量反応勾配):定量的な反応が起こる(量-反応関係)
7.Plausibility(尤もらしさ):生物学的に矛盾なく説明できる
8.Experiment(実験的証拠):関連を支持する実験的研究が存在する
9.Analogy(類似性):既存の類似した関連により裏付けられる”
というわけで次、エビデンス
ttps://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/about/press/page_00042.html
新型コロナウイルスの空気伝播に対するマスクの防御効果 東京大学医科学研究所(このページ発表年月日が明記されていない。多分2020年10月)
や
ttps://academic.oup.com/cid/article/71/16/2139/5848814
Surgical Mask Partition Reduces the Risk of Noncontact Transmission in a Golden Syrian Hamster Model for Coronavirus Disease 2019 (COVID-19)
「を以て”新型コロナの対処法のうちマスクにはエビデンスがある”からマスクしないやつは非国民と言っている」輩はいるか?いないよな?
RCTされていないからじゃないぜ。
なぜならエビデンスは基本的に人間に関するデータである必要があるからだ。
つまり、森永のミルクを飲んだら病気になる、チッソの廃液が流されている水俣の海でとれた魚を食べると病気になる
ミルクに何の毒が入っているか確定されていない、は治療・対策を推奨するエビデンスを止める理由にはならない。
ヘリコバクターピロリに感染していると胃がんになる、ヘリコバクターピロリを除菌すると胃がんにならない>だから除菌をしよう
ピロリ菌を感染させた動物の粘膜細胞にがん遺伝子が発現するのが証明されていない>ピロリ菌除菌療法を進めない
東大のマネキン実験も、ハムスターの実験も 「患者データに基づかない」論文でしかない。
それをもって推奨する対策はその時点では 最低ランクのレベルⅥ 専門委員会や専門家個人の意見。
密でない屋外でウレタンマスクをしている人をエビデンスガーで警察できる代物じゃないってことだ。
全くエビデンスがないわけではない
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20200723-00189530
忽那医師のこれは
エビデンスに結びつく症例報告(クラスV?)とハムスター実験、ex vivo実験を並べている。
注意深く読めばハムスター実験がエビデンスであるとは述べていない。
著者はわかっているが読者が解っていないと思わず無造作に書いてしまっているか、読者を騙そうとして書いているかどちらかだろう(多分前者)。
”8.Experiment(実験的証拠):関連を支持する実験的研究が存在する”
として因果関係の判定に寄与する貴重な実験ではあるが、【エビデンス】ではない
ちなみに忽那医師らが当初、マスクは推奨しないといっていた、そして今でも限定的な言い方でしかマスク装着推奨をしないのは
”5.Coherence(整合性):既知の知識体系と矛盾しない”
”インフルエンザにマスクは有効ではない” という既知の知識体系を援用した結果であり、今でもなおその既知の知識体系に寄り添っている。
ファウチが初期にマスクを推奨しなかったのが「真に必要な医療現場にマスクが不足しそうだからそれを避けるため」というのは完全に信用する気にはならないんだよな。
ひどい部分だけが出回ってるけどいい話もあるし
石川さゆりとジザメリの下敷きのエピソードなんてすごくいいよね
ポリコレ的に正しい接し方ではなかったけど、
そのあたりの両義性を見せたかったんだろうけど、
今の時代のコードには適合しなかった、普遍性をもたせられなかったんだな
根元敬は特殊漫画家という立ち位置だから許されているだけであって、
お金持ちに生まれて私立の学校に行ってオシャレなミュージシャンとして成功した人間が
でもやっぱり俺はとても小山田を責める気にはなれないな
小山田が存在しなかったらSとMの人生が良くなっていたとは思えないし
健常者のクソガキの群れに放り込まれた知的ボーダーの変わり者と
いじめの現場を笑いながら傍観し、いじめのアイデアを提供したエピソードが
ロッキング・オンとクイックジャパンの語り口は間違ってしまった。
でもよくよく読んでみるとそうした過激ないじめのエピソードというのは、
加減を知らない先輩がやらかしてるのを傍観してて俺は引いてたっていう話なんだよね
そこに反省の視点がなく笑い話にしてしまってるのは事実なんだけど、
高校生になって友達が少なかった小山田がSと隣の席になってSのファンになり、面白がりながら
観察し問いかけを続け、結果的に誰よりもSとコミュニケーションを取るようになっていった
年賀状を笑いながら晒したのも最悪なんだけど、Sからしてみれば小山田は積極的に話しかけてくれる
一番の友だちだったのだろう
Sが卒業後に症状が悪化してしまったのも、小山田との関係がなくなり、小山田のように
件の共同声明について、女性フェミニストに対して是非を問うたり、踏み絵のように利用する事には抵抗が有る、
何故ならやはり女性は現在進行形で強く抑圧を受けている被害者であり(無論、そうした「男性」対「女性」の様な単純な二元論は当の声明で批判されていることは重々承知であるものの)
しかし、男性の場合はその様な遠慮は当然働かない。あの声明に対してどう考えるのか、フェミニストとして応答責任があるとさえ思う。
まず件の声明は「フェミニズムではなくヒューマニズム」との批判も受けているが、男性がフェミニストになる場合は女性と異なり、ヒューマニズムを経由する場合が殆どである。
理由は単純で、そもそも男性フェミニストは女性ではない以上、「何故ほかのどれでもなく、女性(差別)なのか?」という問いに応え得ない。
つまり女性ではない男性が女性差別を問題視する動機は、「そもそも差別は駄目だ」というヒューマニズムを経由せずにはほとんど成立しえないのだ。
だとすれば男性フェミニストは件の声明がヒューマニズムであったとしても、それ故にこそ声明の語る内容を拒否しえない。
ヒューマニズムを根拠に自己と異なる属性の人々(女性やLGBT、障碍者、貧困者、セックスワーカー等)へ共感を寄せ、それらの人々が受ける差別や苦難に反対する事は間違いなく正当だ。
しかしだとすればそれらの人々の間に優劣を付ける事は欺瞞ないしグロテスクな加害にさえなり得る、
例えば女性差別に反対する事は間違いなく正当だが、「女性を優先していない」事を理由に件の声明を拒否するなら、それはLGBTやセックスワーカー等をヒューマニズムの対象に含めないという極端にグロテスクな差別主義という事になる。
この事情故に、男性フェミニストにとってのあの声明は、女性フェミニストにとってのそれと取るべき対応がかなり異なる。
「女性を優先する」タイプのフェミニストを自任する場合、女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者という構図を採用する事が多いだろうが、そのような単純な二元論を棄却しないならば同時にLGBTやセックスワーカーに対しても強者・加害者とならざるを得ない自己の責任を果たさねばならないし、だとすれば声明を拒否しえないのだ。
「あの声明の内容に問題は無いが、フェミニストの名を冠するのは不当だ」という批判もあるが、これも適当ではないと私は思う。
件の声明が「再確認を呼びかける」ものである事に着目すべきだろう。文脈上、ほぼ確実にあの声明はそもそも「フェミニスト・フェミニズムの名の下にLGBTやセックスワーカーへの差別や偏見が蔓延している」現状を前提とし、
そうした現状を憂慮するが故に「再確認を呼びかけ」ている。そうである以上、あの声明は「フェミニスト・フェミニズム」に対して呼びかけなければ意味がないし、その必然性がある。
また声明の構成は「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」等のタイトルで区分けされ、その前に「フェミニストの原則の再確認:」と書かれている。
これは声明に書かれたすべてが「原則」なのではなく、「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」「❸拷問、非人間的な扱い、医学的虐待からの解放」といったタイトルが「原則」であり、そのあとに付される文章はその原則の「応用」「実事例への適用」と読むべきだろう。
LGBTやセックスワーカー等への言及はこの「応用」「実事例への適用」に当たり、原則そのものにはLGBTやセックスワーカー等への言及は含まれていない。
つまり「LGBTやセックスワーカー等への言及ばかりだからこれはフェミニズムではない」というのは声明の構成に対する誤読だと私は解釈する。
あくまでそれらは「原則」から導いた応用に過ぎないのだ。そして各タイトルはフェミニズムの原則として違和感のあるものではない。
また、それらが「あまりに一般的すぎる」事は、論理的に考えてフェミニズムという思想に対する強い信頼の反映だと考える。
つまり「あまりに一般的な」普遍的な人権に関する原則とフェミニズムはほぼイコールなのであり、普遍的な原則からフェミニズムは自明に導けるのだ、という強い主張である。
例えばフェミニズムが「女権拡大」の為のもので、女性を優先した原則を掲げなければフェミニズムではないと考えた場合、そのような思想は「女権を拡大すべき」「女性を優先すべき」という命題に同意する人にとってしか重要ではないし、従う理由もない。
けれども普遍的な人権に関する命題からフェミニズムが導けるならば、普遍的な人権に同意するあらゆる人はフェミニズムに同意しなければ矛盾を抱えていることになる。
つまり原則が「あまりに一般的すぎる」事はフェミニズムの普遍性を支持しているのであってその逆ではない。逆にフェミニズムを普遍的な人権と切り離してしまう人は、フェミニズムを自ら小さい、意味の無いものにしてしまっている(こうした論理的な関係は気付きにくいものなので、そこに気付かないことに特別過失が有るとは思わないが・・・)
こうした事について男性フェミニストや男性リベラルは真面目に考えることが出来ているのか、声明に応答できるのか、という事は注視すべきことであろう。(勿論私自身を含めて)
大坂なおみが休場した。
終わったな。僕はそう思った。
僕は大坂なおみの「マスコミの在り方について」の投げかけは、方法は少し間違っていたかもしれないが、正当性が全くないとは思っていない。
政治家にスポーツ選手に、タレント、被害者を含む事件の関係者にに投げかけられるマスコミの質問の中にはマジでアホで下世話で品性のかけらもないような下劣なものも少なくない。「自社の記者に話した」という絵面のためだけに何回も同じ質問をしたりもするし、自分が欲しい回答が出てくるまで延々と誘導尋問する記者も普通に存在する。
はっきり言ってこの状況は異常だ。
勝って気分がいい時ならともかく、負けて落ち込んでいるときにアホの相手なんかやってられんというのは心情的に理解できる。
この台風は大坂なおみが何故か同僚を敵に回したり、主催者との対話を放棄して大荒れ模様になってしまった部分はあったが、続けていればもう少し何らかの展開が見られた可能性もなくはなかった。
そのことで大坂なおみを責める論調は一変した。だが、それは決して大坂なおみが望んだ方向にはいっていないはずだ。
病人だったらしょうがないよね。病人をイジメるのはよくないよね。
そりゃそうだけど、そりゃそうだけどさ。だったら健常者をいじめるのはいいのか。スポーツ選手は強者の立場だからバカなマスコミのクソ質問をいつまでも甘んじて受けなければならないのか。うつ病の診断書を出せば記者会見は回避できます。それでいいのか。
本来は記者会見の在り方、すべてのマスコミとすべての選手の関係性、そういった話をしないといけなかったのに、大坂なおみがうつ病者という「特別」な存在になってしまったことで、今回の件は「特例に対してどう対応するか」という問題にすり替わってしまった。
もちろん、一部マスコミではこれまでのマスコミの在り方について自省的な報道を行っているところがあるのも知っている。だが、いまだに多くのマスコミは「大坂なおみさんは病気だったのに責めてごめんね」といった論調が主流だ。
大坂なおみの乱は、大坂なおみが欠場理由をうつ病としたことで終わってしまった。
この件で思い出したのはM・ナイト・シャマラン監督の2004年の映画「ヴィレッジ」だ。
もう17年前の映画なのでネタバレしてしまうが、ヴィレッジは「犯罪被害者だけで集まって二度と犯罪が起きないように鉄の掟で守られた『犯罪が存在しない』はずの集落で殺人事件が起こってしまう」という話だ。
結局、犯人は集落で暮らす精神障害持ちの若者だったんだけど、僕はこれに心底がっかりしてしまった。
犯罪被害者が集まって、犯罪が起きそうな要素を細部にわたって取り除いてその中で犯罪を知らない世代を育てていく。その中ですら犯罪が起きてしまう。秩序を守ろうとしすぎるあまり秩序にゆがみが生じている描写もあった。
僕はこれを「人類において犯罪というものはどれだけ避けようとしても起きてしまう原罪なのか」という問いだと考えていた。「悪意というものはどれだけ排除しようとしても生まれてしまうものなのか」
でも実際には精神病患者という「特別」な人間による犯行だった。
しょうもな。なんなら「どれだけ犯罪が起こらないようにしていても、制御不能な精神病患者は犯罪者になる可能性がありますよ」まである。はっきり言って害悪だ。アホか。
「普通の人間」がそうなっちゃうから主題が活きるんじゃないのか。特別な人間だけがそうなっちゃうならそいつを排除すりゃいいだけじゃんか。今後は精神病患者が出たらそいつを村から追い出せば、「悪意を人工的に取り去った」村では永久に犯罪は起きません。そうか?本当にそうか?
対象が「特別な何か」になってしまった時点で、普遍性が失われてしまう。
問題の根本は「精神的に弱った人間」だけの問題では決してなかったはずだ。
非常に残念である。
これ何か特定のものを念頭に置いて揶揄しているのだろうと思うけど、
難しくて理解が難しいものを簡単に説明することのできる人は人気があるけど、それって不正確なんだよね。少し前問題になった某YouTube大学()の歴史の話とか。
いや、一理あるけどさ・・・。でも砂はねーだろ。ってなるでしょ。
難しいものは難しいんだよ。
それを難しく複雑なまま理解しようとするだけの謙虚さ、時間と心の余裕、といったものがないと理解ができない。でも一般人にそれを強いるのも酷なんだが、でも、その難しくも重要なものを理解してもらわないことには社会がヤバイ・・・。
ITオンチ人間が民間はおろか政府にまで多すぎて辟易することとか、何度も引き起こされるアパマンショック事件とか、いや可燃性ガスの性質とかいう化学の基礎くらい覚えて????って思うんゴねぇ・・・。
3.11から10年以上経っても放射性物質の基礎知識がない人間がいまだにいるとか(勉強しろよ)、1年以上経ってもいまだにCOVID-19の基礎知識がない人間がいまだにいることと重なって見える。
こういうランキングは「偉大」だとか「名盤」とかいったフワッとした基準で選ぶから良くない。だからどうやっても、独断と偏見が混じった「好きなアルバムランキング」になってしまう。
このような類のアルバムランキングに独断と偏見が混じってしまう理由は、ランキングを作る上で必要な音楽やそのバックグラウンドにまつわる教養が、作成者に不足しているからだと思われる。
特に、元増田のような自称音楽好き素人ランキングではその傾向が顕著である。元増田は色々と御託を並べてはいるものの、
・度々「影響力」という言葉が出てくるが、それは具体的に何を指し、どのように測っているのか
などといった点で不明瞭で、これでは選考が理にかなったものであるか第三者は判断できない。
「日本音楽史上の最も偉大なアルバム20」と銘打つのならば、同じ選考基準で誰が選んでも同じ結果になるような普遍性を持つランキングを目指すべきである。しかし、そういった配慮が一切なされていない元増田のランキングは、所詮「独断と偏見で選んだ好きなアルバムランキング」である。
元増田は『日本人は音楽センスが乏しく、既存のランキングには問題がある』と論じている。しかし、このランキングも個人的なフィーリングで選んでいるにすぎず、元増田は自身が見下す「音楽センスの乏しい連中」と同類であると言わざるをえないのは、何とも皮肉なものである。
もし、アルバムランキングのような試みをしたいのであれば、「数百年後、数千年後に残したいアルバムリスト100選」とかにしたらどうだろう。何百年後の学者たちが、今の時代の文化、歴史などを研究する上で有益となるアルバムをリストアップする。より具体的な理由づけがしやすくなるし、リストにすることで偏見が入る余地を狭くすることができるだろう。