はてなキーワード: ラサとは
1.チャゲアンドシャブの大ヒット曲「YAH YAH YAH」
織田裕二主演の大ヒットドラマ『振り返ればヤスがいる』の主題歌として起用され
「YAH YAH YAH」は1993年発売の31枚目のシングルと遅咲きのアーティストだった
2.ビートルズの「A Hard Day's Night」の邦題「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」
なお、あまりに不評だったため、現在では「ハード・デイズ・ナイト」と改題されている。
映画はめちゃくちゃチキって長編未経験監督に低予算でモノクロで作らせたが無事大ヒットした。
邦題を付けたのは当時ユナイト映画の広報を担当していた水野晴郎氏。
のちに映画評論家、シベリア超特急の監督となる人物であり、日本アカデミー賞の発案者でもある。
3.アメリカ出身のパンクバンドThe Offspringの代表曲の一つ「ALL I WANT」
これまでインディーズで活動(アルバム1400万枚売る)してきた彼らの記念すべきファーストシングル。
日本ではFLASH黄金時代に「ドラサイト(後にオラサイト)」にて発表された
「DoRaeMooooooooooooN!!!!」の大ヒットで一躍ネットの一部での知名度を得る。
この記事を読んで最初に考えた『カップは胸の大きとイコールではない』ということだ。
元増田が言いたいこととはややズレるかもしれないが最終的につながるはずなので許して欲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20221008200247
おっぱいの大きさというのは、容積と高さや形状のバランスなどで成り立っているわけだ。
いわゆる「ブラのカップ」でいえば
である。
だから、CカップかFカップかというのは、おっぱいの大きさを表しているのではない。
アンダー、胴体部分の細さ/太さに対してのおっぱいの高さがどのようになっているかによってカップが変わるのである。
同じアンダー(胴体の細さ)であればカップが大きくなるにつれ、おっぱいが高くなっても受け止められるブラのサイズになる。
逆に、同じカップであってもアンダー、つまりおっぱいの山の裾野の大きさ側に影響される。
なぜ、こんなことを書くのかというと「俺はFカップが好み」みたいな発言は無意味であり、具体的なおっぱいのサイズを表していないという常識ができれば、カップで語ることを無効化できると思うからだ。
ワールドトリガーのキャラ紹介でカップが書かれるのも、この悪しきカップサイズの無知からくるものである。
増田が不快に感じているカップ表記も、この無知がなくなることで「このキャラはDカップ」みたいなもの表現が減るのではないかと考えている。
もちろん「C65」とか書かれる可能性もあるのだが、女性の胸の大きさは複雑なものであり、無知で気軽に描かれるものではないという知識が一般化するだけでも状況は変わるのではないかと増田(私)は考えている。
ちなみにいえば、アンダーだけではなく、上半身におけるおっばいの高さやバージスライン(左右の位置関係)などでもカップは変わる場合があるし、繊細だ。
最後にまとめとして言うが、「カップというのはブラのサイズでしかなくおっぱいのサイズとイコールではない」のだから、気軽に扱うな。
増田(私)は男でブラを身に着けたことはないが、カップというものを気軽に扱ってほしくないと願う者である。
男女問わず、カップやブラサイズに対してもっと知識を持つべきである。女性は合わないサイズのブラをつけている人も多いので、どうか専門性のあるお店などで自分に合うブラを見つけて欲しい。
そしてワールドトリガーのキャラ紹介はもちろん、世界のいたるところで気軽に「Fカップ好き」とかそういう雑なおっぱいの扱いが減ることを願っている。おっぱいおっぱい。
ただしスタンドアロンのアプリを書いてる人については特に問題ない。
要はシステム構成がWindowsPC1台orスマホ1台のみで済むとか、組み込みとかね。
それからITゼネコンの末端で、詳細設計をコードに翻訳するライン工もどきみたいな立場の人も別に知らなくていいけど、それもうプログラマーじゃなくて単なるコーダーだよね。
こういうこと書くと
とか言い出すやつが絶対にいるんだけど、今やクラサバモデルのシステムは開発のメインボリュームで、かなりの数の開発者に関係する話じゃねーの?って思うから言ってるわけで。
あと、Linuxというか本当はUNIXなんだけど、現状サーバ用途のUNIX系OSがほぼLinuxで占められているので。
なんでLinuxが使えないと問題かというと、実際にサーバを運用しているエンジニアとまともにコミュニケーションが取れないから。
それが回り回って開発と運用が対立する、あるいは何かあったときに適切に連携できなくなる遠因になる。
本当は開発側がサーバ側の運用設計まで書いて、運用するSEに承認してもらうまでが仕事。
そのためには自分が作るシステムの動作環境の構築は自力でできなきゃダメだし、そのためにはLinuxの基本的な使い方を知っている必要があるわけで。
それにネットワークプログラミングなのだからある程度のネットワークの知識は必須で、Linuxも扱えない人がそういう専門家になれるとは到底思えない。
まあ流石にスイッチ・アプライアンス・ストレージみたいな話になると、カネ払ってベンダーのセミナーを受講しないとわからないと思うので正直厳しい。
その場合でも、Linuxに触れることで身につけたネットワークの知識が不要ではないどころか、
「今こちらのサーバでこういうコマンドを実行した結果がこうで・・・」
みたいな話をインフラエンジニア相手にできるとできないでは大きな差がある。
最近の流れで、そこらへんを全部クラウドにお任せするにしても、サーバとは一体何者か?レベルは体験的に知っておいたほうがよさそうだし。
あるゲームを中心とした仲間がいるんだけど、大抵がそのゲームから離れているんだよね
だけどTelegramとかのチャットネームとかはそのゲーム由来の名前を入れていたりするし、そのゲームのチーム同士の交流ってのは今でもある
ただ、たまのそのゲームのこというときは決まって「某なんちゃら」「インなんとか」って風に自分の黒歴史として披露したり、アカラサマな恨みつらみを泥水のような匂いを出して吐き出している。正直、もう興味もないならさっさと未練を断ち切ってしまえばいいんだよ。さるものは追わないからさ。だけどそのおじさん達はそのゲームにだいぶ固執していたからなのか、とにかく呪詛を吐かないと気がすまないらしい。
ようは構ってほしいんだろうね。そんで似たような恨みを持ってる人にチヤホヤされて浮かれているというわけだ。人として最低だ。酒が入ったら特にその傾向があるので、今度マジでド正論をホワイトボード使って唱えてあげたいな。
>呉座電話出演、シラスの姫発言は東が総会で春木にそう言ったのでゲンロン界隈ではその様な文脈があると思って自分も使った
”2022/06/10 01:25 東浩紀×辻田真佐憲-呉座勇一-古谷経衡「最近のシラスについて語る」(国威発揚チャンネル)
https://shirasu.io/t/tsujita/c/beobachter/p/2022061001
今後は綱紀を粛正する。深夜に及ぶイベントや放送は視聴者が望むからサービスでやっているのだ
優秀なエンジニアで上場企業の役員でもある方々が心意気でコミットしてくれているシラスという場があの様に乱れると彼らに迷惑がかかる
古谷を責める訳でも戦犯を探す訳でもなく、ユーザー含めて全体で気をつけていこうという趣旨の番組(辻田)
古谷電話出演、一般女性にも抱きついて君は恐らく「セックスしたい」とか暴言を吐いていたとの報告があった(東)
春木の番組で春木に3Pを持ちかけてたという報告もある(東)あれはジョークだった(古谷)そうは受け取らない視聴者もいる(辻田)
呉座電話出演、シラスの姫発言は東が総会で春木にそう言ったのでゲンロン界隈ではその様な文脈があると思って自分も使った
春木を囲む飲み会がシラサーによって企画されている事(6/15 シラサー大集合番組)をキャッチしていて、社内で「シラサーの姫」問題として認識されていた(東)
姫の何があかんねん(春木コメント)シラスに姫的な存在が居る事でシラサーに対する参入障壁を上げてしまうのでそれを容認できない(東)
浴衣の場合自装だと思うけど、夏場でもあるし、そこまで普通は強い補正しないんだよ。
普通の胸サイズで尻もでかくなければ、寄せ上げなしの和装ブラで胸下に汗取り兼用の薄いタオル入れるぐらいで十分だし、動画とか本とかもそこまでの巨乳は想定してない。
むしろ浴衣なのにガチガチに補正するのは野暮よねって意見もあり、知らずにそのまま着ると胸が帯にのっかる萌え絵着付になっちゃう人もいると思う。
あと、この件でみんな誤解してるけど、胸を強調すると下品だから補正するのではなく、「着崩れてくる」って物理的な問題があるんだよね。
着物ってストレッチが効いてるわけでもなくダーツがあるわけでもなく、直線裁ちの布を体に巻きつけて帯で固定するって構造になってる。だから、体に凹凸があるとどんどんグズグズに気崩れてくる。
江戸時代とか明治初期ぐらいまではグズグズに着てる人もいたらしいけど、それは下層民というか「半尻出してるギャル」とか「ノーブラで出歩くババア」みたいな立ち位置だしね。
というか昔はブラジャーがないので、胸の肉は脇とかにどんどん流れて「巨乳」にはならない。浮世絵なんかでもお椀型の大きい胸っていないと思う。ここ数十年で日本人の平均のブラサイズは飛躍的に大きくなってるのだけど、これは、栄養状態が良くなったのとまともなブラジャーする習慣がついたのとが大きい。
平沢進のツイートひとつひとつに、少なくとも50件以上のリプライが必ず付いてるのが不思議でたまらない。その多くがひとつひとつのツイートに相槌を打つだけの、ヒラサワとその人だけの会話をするかのようなリプライだ。挨拶を返しているだけならまだわかる。なんでもない、小噺のような空を掴んだ話になんとか同意を示そうとしてるリプライを見るたび、なんでこの人たちは飽きもせずリプライをし続けるんだろうと思わずにいられない。
そもそもヒラサワのツイートは(説話とも啓示とも言えるような話が増えてきた今にしてみても)Twitter上に溢れる有象無象とコミュニケーションを取ろうとするものではない。俺個人の解釈ではあれは小粋な江戸っ子の小噺か、作詞の練習でしかない。ほぼ毎日21:00〜22:00、もう10年もずっとツイートを続けているのは単にTwitter中毒だからではないはずだ。というよりも90年代にはすでにネットでの活動を始めていたぐらいの人間だし、そもそもずっと前から著名人と言っても良い活動をしている。そんな御方が飽きもせずネットに入り浸るだけのオッサンとは言わせない。あんなに中身の無いリプライを一身に受けながらもリプライに制限をかけないのは、その方法を知らないからではないはずだ。
思うに、ヒラサワはあの有象無象のリプライから何かを検証しているのではないか。特にここ一年は、ヒラサワ自身のものの見方や考え方を公にするツイートが多くなっているように感じている。そのツイートにすら、要領を得てないようなリプライは後を絶たない。でも、中には恐らく、これまで世の中のジョーシキやアタリマエに囚われ自分で自分を苦しめていた人がヒラサワの言葉により世界を再認識するようなリプライもあるのだろう。別にヒラサワは自分を崇めてほしいわけでも同意を求めてるわけでもないだろう。でもきっとそういう事象を含めて、自分に対する反応を伺うためにリプライ制限をかけずにいるのではないか?
俺自身も、ヒラサワのものの見方に影響を受けた一人だ。別にヒラサワの思想そのものに共感しているわけじゃない。あれはあれでどうかと思うところもある。でもそもそもヒラサワはヒラサワの人生を経た結果ヒラサワとして存在しているのであり、俺は俺だ。だから思想の相違が起こり得るのは自然だ。が、それはそれとして、俺はヒラサワの考え方にはかなり影響を受けていると思う。何処がとかそういう話はしない。ヒラサワの考え方を語るのはヒラサワ自身だけで良い。知識も無く解釈を垂れるのは無粋と言う他ない。他人がヒラサワを解釈する行為自体を否定はしないが、少なくとも俺がそれをするのは無粋だと思っている。それだけだ。
ヒラサワはアイドルでも教祖でもなんでもない。ヒラサワはヒラサワ以外の何者でもなく、単なるファンやフォロワーである有象無象とコミュニケーションを取ろうとはしていない。ヒラサワはあなたの人生に対する答えを持っていない。俺が思うに、ヒラサワはただ問いかけているのだ。有象無象が手指に傷を付けて断崖絶壁を登る中、ヒラサワは崖に垂直に立って歩くことが出来る……そんな感じの謎かけを通して、ヒラサワは問いかけている。興味を持つも持たないも、参考にするもしないも、すべてはあなたが為すべき思考だ。
ここまで読んで俺のことをヒラサワの信者と断定するならそれで良い。俺もそれ以上の理解は求めない。それだけだ。
それはそれとして、だ。そろそろヒラサワのツイートに対し、毎日毎日無理やり肯定を示した空虚なリプライを飛ばすのはやめにしないか?
コロナ関連のコールセンター派遣で思ったよりも実入りがあり、漫画家になるための準備金として友人に借ていた100万を返済し始めることにした。
ゆうちょの振込で名前を入れる段になり、なにか巫山戯なきゃと思いヒラサワ_ユイと入力した(ダテナオトと入れようとも思ったが流石に失礼すぎるので止めている)。
名乗ってみるとその気になるもので、なんだか自分が唯になったような気がして、その日は漫画を描く作業中に放課後ティータイムの楽曲を流した。
何曲が聴いて「このアニメ見てたとき大学生だったな」などと当時を思い返していたが、Utauyo!!MIRACLEが掛かって脳がブッ飛ぶような衝撃を受ける。
この曲こんなに良かったか?他の曲と同様にフレーズは頭に残っていたが、こんなに圧倒されるような青さと迫力を持った曲だっただろうか。
意味がギリギリつながるような短い単語を羅列した歌詞に声優さん扮する平沢唯の上ずった歌声が乗り、まさに高校生バンドの1作といった風情でアニメOPとしてもキャラクターソングとしても良く出来ている。
いやよく出来過ぎだ。平沢唯の歌声はあまりにもカリスマに満ちていた。
この曲は進行していくにつれ感情のボルテージがぐんぐん上がり唯の声も上ずっていき、声が出なくなるのが先か感極まって泣き出してしまうのが先か、と聴いているだけでそう心配してしまうくらいの危うさを孕んでいる。
おそらく平沢唯というキャラクターはそのようなことを無自覚に、同時に自らの振る舞いを理解して、自身の音楽とはそういうものだと割り切って受け手に提供している。
こういうやつを天才と呼ぶのだろうと思った。
しかしここまで考えてとても困った事に気がついた。平沢唯は実在しない。
急に応援していたアイドルを取り上げられたような気持ちになった。一人で感極まっておいて身勝手な話だ。
しかしこう思うのは本当に俺だけだろうか。ここで蛸壺屋のけいおん二次創作同人誌を思い出してほしい。
かのサークルの二次創作は平沢唯が和製ジミヘンとして絶大な人気を得、またそのあだ名をなぞるように薬物で早世するという内容だった。残された者たちの群像劇が高い評価を得ていたことは記憶に新しい。
読んだ当時は変な本だとばかり思っていたが、この作者は『平沢唯の不在への気づき=平沢唯の死没』と置き換え鬱積した悲しみを昇華しようとしていたのではないだろうか。
蛸壺屋の同人誌では平沢唯の妹・憂が姉に扮して興奮したりバンドに潜り込んだりしている。
まるで俺じゃないか。
何ということだ、勝手に平沢唯を名乗った俺は唯ではなく憂だった。
蛸壺屋の同人誌では平沢唯亡き後周りの人間が歪み・あるいは折り合いを付けた様が描かれている。
違う。この程度のひずみは誰しも備えている(じゃなきゃ二次創作エロ同人買わない)。
この唯なき放課後ティータイムこそ俺たちだ。誰もが皆、諦めと悲しみの夜を越えてここにいる。
@kis (id:nowokay) さんの以下の記事についてです。
https://nowokay.hatenablog.com/entry/2021/09/25/042831
ブコメにもあるようにちょっと内容が雑というかわかりにくいせいで賛否両論になってしまっていて、もしかしたら近いうちにアンサー記事が出るかもしれませんが、自分自身の理解を助けるためにも言わんとしていることを推測しつつ、自分の認識もまとめておこうと思い書くことにしました。明らかに誤読してそうな箇所があれば、指摘してください。
まずは前提を書いておかないと論点がぼやけると思うのでいちおう。
その他の前提:
2000年代に入って関数型プログラミングが脚光を浴び始めたのは、コンピュータ資源が潤沢になりパフォーマンスをそれほど気にしなくってよくなったことが大きな理由ではないか、という認識があります。
関数型プログラミング言語の内部実装を読んだことがないので推測ですが、データを不変にするということはその都度メモリ領域を新たに割り当てることになり、そのオーバーヘッドがプログラムのパフォーマンスに影響を与えるので、パフォーマンス要件がをシビアな場合、どうしてもメモリ割り当てや計算効率を考えるとミュータブルにせざるをえないと思います。が、ウェブアプリケーションに限っていえば、データベースアクセスやネットワークアクセスのレイテンシが大きいので、そうした相対的に細かいオーバーヘッドを無視しても(大抵の場合は)問題にならなくなった、というのが「時代」の流れなんだという認識です。
いっぽうで別の観点もあって、REST API や FaaS が一般化して、関数単位で処理を分割し、アプリケーション外部に配置することが当たり前になってきた現状があり、マイクロサービスのようにアプリケーション自体もモジュールの一単位として考えると、アプリケーション内部のモジュール同士でも関数ベースでやりとりする形になっても不自然ではないと考えられます。
元記事にもありますが、RPC の派生(実装?)として生まれた Java の CORBA や Microsoft の DCOM みたいな振る舞い付きのオブジェクト(コンポーネント)を共有しようという世界観は廃れ、REST API のような単一の振る舞い(エンドポイント)とそれにひもづく JSON のようなデータ構造のみを受け渡すやり方が一般的になったアプリケーション間通信の潮流と、計算機資源が潤沢になって再度脚光を浴びた関数型プログラミングが、レイヤーの違いを飛び越えてひとつになろうとしているのではないか、と。
つまり、元記事に書かれている「時代に合ってない」というのは、「データ構造と振る舞いが一体となったオブジェクト」のような「なにか」は、そうした背景があるために、どこにも存在する必要がなくなってきているのではないか、と解釈しました。
なので、以下のコメントはちょっと論点がずれてると思いました。
はあ?「再利用する方法としてはWeb APIが主流」って、その中身をオブジェクト指向で設計することは、全く矛盾しません。 部品化の単位は、慣習や柵などで大きく変わります。オブジェクト指向とはほぼ無関係です。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708813645995359202/comment/suikyojin
なんでサービスとして外とやり取りする話とサービスの内部設計の話をごっちゃにしてんだ。なんか理解度が怪しくない
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708813645995359202/comment/ssssschang
たしかに、アプリケーション単位とアプリケーション内部のモジュール単位とでその表現形式を合わせる必要はないんですが、元記事の言わんとしていることはこの一文に端的に表れていると思います。
ソフトウェアの記述をまとめるという視点では主にステートレスな関数を分類できれば充分で、データと振る舞いをまとめたオブジェクトというのは大きすぎる、システムを分割して管理しやすくするという視点ではオブジェクトというのはライフサイクルやリソース管理の視点が足りず小さすぎる、ということで、オブジェクト指向の粒度でのソフトウェア管理は出番がなくなっているのではないか、と思います。
「オブジェクト指向でなぜつくるのか」という本がありますが、「え、いまどきオブジェクト指向でつくらなくない?」っていつも思います。内容的には、もうほとんどはオブジェクト指向関係ないソフトウェア工学の紹介になっていますね。
当該書籍は読んだので後半はまぁわかるんですが、前半は「え、いまでもオブジェクト指向でつくるのが主流じゃないの?」って思ってしまいます(オブジェクト指向の定義が「データ構造と振る舞いが一体となったオブジェクトの集まりとしてソフトウェアを組織化すること」なのであれば)。
Joe Armstrong が "Why OO Sucks" を書いたのが2000年とのことなのですが、そろそろこうした議論は収束に向かってほしいと個人的には思います(とっくに収束していると感じている方もいらっしゃるでしょうけど)。
ZZまで見たのでぜひ語ってください。
百式とかMk-2とかZで活躍した期待がZZ後半でも活躍してて嬉しい反面、主人公側に新しい機体が出てこないのって当時としてはどうだったんだろう?と思った。
ただ、主人公の中ではジュドーに対してとても好意的な印象を持った。ジュドーって女性キャラクターを性的対象として扱わなかったように思う。
ラサラとかサラサみたいなキレイな女性って立ち位置の女性を目の前にしても、キャラにおっぱい押し付けられても鼻の下伸ばしたりしないし(ビーチャとかモンドは鼻の下伸ばしてる系)、Zに比べて子供向けな印象も強いからそういう部分は主人公から遠ざけてたんだろうか。
エルから明らかに好意を持たれてたけどたぶん気づいてないし、ルーともどちらかというとバディに近い感じで清々しいなあという印象。
カミーユなんかはファのバスタオル1枚の姿とかロザミーの裸とか見て鼻の下伸ばしてたから。
カミーユやアムロは最低限の教育は受けてるものの親がアレで機能不全家庭で育ってるけど生活に困る感じではない
対してジュドーたちはもうスラムの子ども状態。なんとかなるさ精神でカミーユやアムロみたいなジメジメした部分がないんだけど常に生活がかかってるからそんなことしてる暇がないし、
笑い飛ばして生きていかないとやっていけないという背景はあったんだろうなと思う。
次は0083とかを見よう。
【追記】
今更コメントついてたので過去に書いてたZZについて思うことをコピペしておきます。↑に書いてることとややだぶるけど。
ジュドーたちを見ているとアムロ、カミーユと比べてやっぱ育ちの違いを感じる。
アムロもカミーユも家柄自体は悪くなくて(家庭環境に問題はある、ネグレクト、機能不全など)、学校教育も受けているんだけど不器用さ、繊細さが目立つのに対して
ジュドーたちシャングリラの子どもたちは学校はサボって働いて、何事も笑顔で笑い飛ばしてて人生をサバイブしていく力は長けてるように思う。
あのシャングリラの中で親が出稼ぎで帰ってこず周りも同様半ばスラムの中みたいな環境だともう色々悲観してるのも馬鹿らしくなって笑い飛ばして生きていかざるを得ないのかもしれない、と今見てると思う。
コードギアスのスピンオフの亡国のアキトでも同じような子どもたち(アヤノ、リョウ、ユキヤ)がいて
2章だったかな、貴族育ちのレイラが山でキャンプというかサバイバルみたいな状況になったときにアヤノたちは器用になんでもこなせるのに自分は料理も洗濯もまともにできないって落ち込むんだけど
アキト(主人公)は「あいつらが器用なのは育ちが悪いからだ」って言う、器用さ、何ごとにも適応する能力がないと生きていけなかったから結果としてそうなっただけ、ということを言っていて
という話をしたいのに今ZZ見て語れる人が周りに誰もいないのでここに書きました。