はてなキーワード: クレーマーとは
供給側も需要側もってさも全員が気を使った結果みたいに言っているけど、きちんと読めば見る側、つまり需要側の要望しか叶えてないし、めちゃくちゃ疲弊している供給側多そう
冷静に考えれば、昨今のフェミニストやリベラル、自称反差別(しばき隊)はいわゆる”無敵の人”だ。
一般的に過激な言動、差別発言、名誉毀損、一般人への嫌がらせ、クレーマー行為、ヘイトスピーチなどを執拗に行えば、その人物の社会的評価は地に落ち社会からキャンセルされる。
しかしながら、弱者や弱者の味方を自称し社会正義を騙る彼ら、彼女らの異常言動は、過激になれば過激になるほど仲間内からは称賛され、逆に評価が上がっていく。
何故ならノイジーマイノリティファシストの間では、敵対者とされた人間達に対しファシスト仕草をする事が「良き人間」のモデルとなる異常なバグがあるからである。
批判はすべて「アンチでオタクでネトウヨでミソジニーの差別主義者」としてシャットアウトしてしまう。
少なくとも社会的地位が下がる事は無い。寧ろ上がっていく。弱者のふりをした強者達が好き放題やっている。
そんな連中には一般人は対抗出来ない。社会的地位がある人間ほど、様々な手段、リーガルハラスメントで追い詰められ、社会からキャンセルされる危険性がある。
生活が破綻し、新たな仕事も出来ず、最悪命を失う可能性すらある。だから出来ない。
暇空みたいな、資金力はあるが失う社会的地位は無いという、社会のバグみたいな人間にしか強力に抵抗出来ないのだ。
社会正義が自分達の様な一般市民の手から強奪されてしまっている。
後から来たとか先にあったとか関係なく、騒音には規制がありその範囲内であれば受忍限度内として判断される。(住宅と公園のどちらがが先だったかを重視する人も多いが、住環境に対して騒音が受忍限度を越えた問題を与えるかが争点であり、どちらが先かは意味のない議論。)
そして長野の件については弁護士の見解としては受忍限度内であるとしている。施設の開設当初は受忍限度を越えていたという主張もある(これについて定量的な根拠はなく、クレームを入れたのが1件だけだった)が、少なくとも現状の利用についても問題ない範囲であると読み取れる。またクレームを入れた老人は利用している児童に対して叱責を行っている旨も報告されており、これについては行き過ぎた対応だと言わざるをえない。
これらを総合して判断すると、公園を廃止して問題ない範囲の利用についてまで不可能にするのは行政側の行き過ぎた対応であるように思えるし、それを求めるクレーマー側の主張も行き過ぎた主張である。過去の受忍限度を越えた騒音や踏み荒らしについてはその分の損害賠償を請求すれば良いし、その後については受忍限度内であれば甘受すべきという話でしか無い。
問題を大袈裟にして老人を擁護する向きもあるが、現状を整理すると過大な要求をしているのは主に老人側であり公園の廃止に対してそれを決めた行政または過度なクレームを入れた老人に批判が集中するのはある程度仕方のない事象とも思える
というエントリで
じゃあもうお互い「戦争?受けて立ちますよ」でいいだろ/長野の件が騒がれてるのだって珍しいから。本当に社会全体で殴り合いを始めりゃ白黒付く/そんで十中八九施設側が勝つよ、結局お前らは社会的合意を得られない
っていうブコメを書いたんだが、なんかフワッとした言論で反対してくる奴がいたので当エントリに対する俺の考えを引用しつつまとめたいと思う。
話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題に子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁の一種である。
子どもを抜きで考えた場合、騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに「騒音を我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である。
この文の後に「子供のことを考えろ主義」がいかに詭弁であるかのよくわからん例が続くわけだが、あえて言わせてもらう。
同dBの騒音問題でも原因が子供となれば途端に寛容を押し付けられる事。
もちろんお前は納得しないだろう。
「子供はそういうもんだから」とか「子供に優しい社会を作るためだから」とか言われてもお前はきっと首を傾げたままだと思う。
結局大手を振ってお前に我慢を強いることができるのは「そういう論が社会的合意を得ているから」というだけ。
もしこれに納得が行かないならお前なりの理屈を引っ提げて堂々と殴り合えばいい。
そうすりゃ「子供のためにこのくらい我慢すべきだよね」ってラインが引き下がるかもしれん。
別にお前が例に示した通り、子供がいりゃ親の行動が何でも許される訳でも無いわけだしな。
来るならかかってこい。
実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである。
文章の中盤では「自分は子供と戦っているのではない。子供は悪くない。大人が問題なのだ。」という論に移行するため上記のような例を挙げつつ、例の長野の件を交えながら論理展開を行っている。
行政や施設の対応に関してはどこまで行うのがヨシとされるか、それは各々に基準があり曖昧なモノだろう。
しかし騒音トラブルから派生して嫌がらせまで発生したら流石に擁護できない。
なんか中盤から「騒音トラブルが発生すると子供を盾にして親が無茶苦茶やりだす」ことが前提であるかのように論理が展開されている。
長野の件もそうだが「子供が密集する施設において発生せざるを得ない騒音」以外は社会的合意は取れておらず、現に100台近くの車が送迎しアイドリングしっぱなしだった件は擁護する声もほぼ無い。
「騒音問題から派生することがあるインシデント」として紹介したおかげでそれらしい論になっているが、
その実「配慮に欠けた行為(嫌がらせとか)はよくないよね」というだけで、何の意味も為していないパートだ。
そこは別に非難されるべき点として否定しようがなく、それっぽく文章を彩るミスリードにしかなっていない。
そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子どもの騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。
話の組み立てとして引用する文が前後しているが、この部分も疑問がある。
それは「適切な対応とは何か」ということだ。
①でさんざん語ったが、こちらとしては理屈抜きで「いやなんか色々言ってるけど子供なんだから我慢しろよ」としか思っていないし、それで突っ切るだけだ。
まぁクレーマーとして黒い噂が立ち込むようなら②で言った通りやり返し過ぎだろうが、対応の無さにキレ散らかすようであれば同情するのも厳しい。
『子供の声がうるさくてうるさくてノイローゼになりそうなんです!』って社会にアピールするしかない。
そして残念ながら、今の社会に解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。
でももしそうなったとしたら、自分もあなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなたを理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。
どうもコレが結論らしい。
まぁ書いた本人はセンチに浸っているんだろうから仕方ないが、この文章に同意した方々に聞きたい。
ちょっと冷静に考えてみて欲しい
もしお前が戸建ての家を建ててその横に幼稚園ができちゃったとしよう
そんな中ふとこのエントリを思い出す…
「あぁ…あの人も大変だったんだ…」そう思い、心の荒みが緩和………
まぁされたとしても一瞬でかき消されるだろ。騒音問題解決してねーんだから。
最終的には「こんなボクにも配慮して欲しいんだなぁ〜」って感じのボヤっとした主張で終わってるからだ。
ハッキリと権利を主張できない理由、それこそ「社会的な合意を得られない」と尻込みしているからだろ。
バカ!そうじゃないだろ!
「世界にそういう人はたくさんいる」んだろ!だったらそいつ等引き連れて社会に訴えろよ!
「『我々』と戦争することになる」じゃねぇよ!戦争しろよ!今から!!!
それでも負ける気は全くしねぇけどな!
来いよ!!!
当方娘。何年も前から向き合っているが母親を止められず、母が死ぬまで私が尻拭いをすると思うと先が暗い。
迷惑をかけてしまっている医療従事者の方やサービス業に携わる方にも申し訳ない。
どうか、同じような父母を持つ増田さんにご助言を賜りたい。繋がれる福祉サービスなどはないだろうか。
登場人物の要約:気性が激しく感情的な振る舞いを抑えきれない母、逃げた父、診断済ASD・複雑性PTSDで親元を離れたばかりの一人娘。
以下に詳細を記す。
50代の母は情報リテラシーが低く、リスクの高い行動に流されてしまいやすい。
生配信サイトのツイキャスで反ワクチンの陰謀論に触れてからはワクチンは打たず、手を洗わず、マスクはせず、咳は手で抑わない。職場では我慢してマスクをしているようだ。
御多分に洩れず水素水も買った。ホメオパシーにも感化されレメディも、EM菌の商品も。
50代の方でインターネットを利用して信頼できる情報を探り当てることが困難な方がいることは当然だ。ある程度こういうものが生活に混じってくることは仕方がない。問題が起きそうな時に止めてくれる誰かが周りにいれば良い。しかし私はその「誰か」にはなれそうになかった。
父は母と私から逃げて暮らし、離婚を考えているそうだ。母の姉妹や両親は母と離れて暮らす。母の周りにお節介な友人もいない。誰も「誰か」にはなれない。
加えて、母の感情的な衝動性は隣にいても止められるものではない。その一面はクレーマー気質にも表れる。
商品やサービスに少しでも気になることがあると、感情に任せて店やコールセンターに電話をかけてしまう。怒鳴りつけて終わることもあれば、店員を家まで呼んで謝罪させたり、返品なしで返金させたりするまで止まらないこともある。
何か気になることがあると我慢ができない。特に買い物は我慢ができない。母のクレジットカード明細に、膨れ上がったリボ払いの金額が記されていたこともある。
私は嫌な予感がするたびに母に向き合ってきた。
私は科学的根拠や実在する士師業を信頼し、自分には困難なサービス業に勤める方や医療従事者を尊敬している。(これが必ずしも正しい考え方かどうかは、今は語らない。)
母が視聴した生配信を観て、根拠の薄い話・医学的に否定されている話は情報源を併記し説明した。
母は長い文章や口頭での長い説明が苦手なため、平易な言葉遣いで最低限の情報を心がけつつ、危険な情報源からは距離を置くように説得した。
介護に携わる方の体験談などを参考にしつつ、プライドを傷つけないような言い方も研究した。(仕事から離れ療養中で、時間はあった。)
しかしまるで相手にされない。幼い子どもの話をいなすように、今朝見た夢の話を聞くときのように、生返事をしてそっぽを向いてしまう。幸運にも聞いてもらえたとして、その助言は3日保たない。母の怒りに触れれば不機嫌になり、感情的に私や物に当たることもある。私一人ではこれ以上は対処のしようがなかった。
クレームをつけることについては、それ自体は大切なことだ。行き過ぎているところを私が確認できれば、都度宥めた。間に入り伝える役を担ってみたこともあった。どれもほぼ効果を成さなかった。
そもそも、大の大人の行動を一人で全て確認し制限するのは人権的にも無理だ。
私が精神的に衰弱していれば、前述の行動も全てできない。その上母が不機嫌な気配がすると、それだけで身体が強張り、次の日は寝込んでしまう。どうしようもない。
そのうち私が全く外出できない程に弱ったので、福祉と投薬に大きく頼り、数百km離れた土地に引っ越さざるを得なかった。今は障害年金と軽い労働でなんとかやっている。
母はといえば孤独にしてしまったので、以前よりも歯止めが効かなくなっているかもしれない。精神科で私を担当してくださった医師の方が、母親との連絡を避けるよう念を押したため、詳しい状況は確かめる気がない。
ところで、話の都合上ここまで母ができないことの話ばかりしてしまったのだが、母は決して最低な人間ではないのだ。長く同じ仕事を勤め、遅刻欠勤はしたことがない。手先が器用で私にはできないことがたくさんできる。私にはできないクレームの電話もできる(私はクレームの電話を入れようとするといたたまれなさで泣いてしまうことすらある)。私より容姿に気を遣うし、私がコミュニケーションに問題を抱えるASDでありながら服飾や化粧の知識を得て親戚付き合いのマナーを最低限身につけられたのも、母のおかげだ。多分、母とは他人として出会っていれば、素敵な先輩だと純粋に尊敬できたはずだ。以上のように、私の母のことをいわゆる毒親に分類することに対しては差し当たっては懐疑的な立場なので、そちらの文脈には吸収しないでいただきたい。
新しい土地で生計を立ててようやく、自分が放棄してしまった役割への自覚を持った。食事が美味しく、娯楽が楽しいと思える感覚を取り戻し、この生活を守りたいと思ってしまった。こうなると、いずれ面倒を見なければならない母のことが恐ろしい。いちいち詳細を書くことはしなかったが、母に対しては未だに許せないこともあり、いずれ生活が母に脅かされる想像をするだけで怒りが湧いてくる。身分不相応の欲だと知りつつも。
私の生活は、苦しい生活の中で納税し年金を払っている方々と、この趨勢の中で医療に携わっている方々、サービス業の方々、福祉の方々など、素晴らしいみなさまのおかげで成り立っている。既に贅沢をさせていただいているのに、父のように母を見捨てて楽になっていいはずがない。せめて母を福祉や医療に繋ぐところまでやるべきなのだ。母の「誰か」になってくれる相手へ。
畏ろうとして武士のような文章になってしまった上に、話題が前後する読みにくくなったこと、失礼した。父の詳細など書いていないこともあるが、文字数が気がかりなのでこの辺りで切り上げさせていただく。
ネットで見る限り、増田がいう所の「子供を盾にする親」が集団で個人をリンチしてるようにしか見えないんだよねあの件。
何十人もの子供に対して拡声器だの送迎車100台路駐だのボール投げ込む植栽踏み荒らすボール禁止しても従わないだのと言った
子盾親側が世間から庇って貰えなさそうな案件は隠して「子供の声を騒音と言ってる」一点だけ強調してネットで集団リンチ。
そういう風潮の方が怖いわ。
そもそも「子供がボール禁止の所でボール遊びしてたから叱られた」案件を「キチガイクレーマーがうちの子に危害を!」と受け取る時点で頭おかしくない?
そもそも普通の住宅地の道に100台路駐ってのもそれが当たり前になってる時点でどんな地域だよ。それが当たり前と思ってる親が100人いるって事だよな。
子持ち側にとって話はめちゃくちゃシンプルなんですけど、他人のやることに強制力を働かせたいならお気持ちじゃなくて根拠となる法令やらルール、つまりは基準をもってこいって話なんですよね。例えばベビーカーの利用に関しても公共交通機関は大抵ベビーカーの利用をルール化していて、折りたたまずに乗れることになってるんですよね(元増田は乗ること自体は良いといっているが、トラブルにあう例は未だにある)。スタバだって公に子連れ歓迎していて子供用のドリンクも用意されてるのに、なんで子連れでスタバを選ぶんだとかネットで言われている。基本的に世の中の基準は子供、子持ちに対して優しい方向に変わってきているのに、世の中の流れについていけないクレーマーがお気持ちで嫌がらせしてるっていう現状をまずは正しく認識したほうが良いんじゃないの?
その上でクレームを入れる人について「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」とは思わないし子供の声がストレスな人にとっては辛いんだろうけど、子供の声が騒音規制法の対象になってない以上はお気持ちでしかないわけで、クレームを受けた側の対応としても可能な範囲の対応(長野県の例で言えば、入口や遊具の場所を変更、植樹)にしかならないのは当たり前だよね。自動車騒音に関して騒音が一定限度を超えるのであれば規制の対象になり得るが、1車線に面している場合に65dBが基準なのでアイドリング音程度では厳しく、こちらも可能な範囲の対応(利用者へのお願い)にしかなり得ないだろう。
元増田の主張は「元々個人と個人の正義(権利)の戦いであってそこに絶対的な善悪はなかったのに、子供を盾にすることで善悪の関係がうまれてしまった」的なことなんだろうけど、そもそもクレーマー側の主張が世間の基準を超えるお気持ちベースのお願いでしかなく、子持ちや行政側にとってはお願いに対応すればするほど本来定められている基準よりもクレーマー側が有利になっていくっていう前提条件を意図的にか馬鹿だから気づいてないのかはわからないけれども無視してますよね。
もちろん基準はあくまで基準なのでトラブルを避ける目的でも実態に合わせて配慮することはよくある(電車は出来るだけ混雑時を避ける、子供の多そうな店舗を選ぶ、奇声などを上げ始めたら諫める)けど、別にそれって人に強制されてやることではないし、少なくとも現状の社会は一定範囲の騒音については各人の努力で許容することを前提に成り立っているのでそこに対してお気持ちクレーム入れるならもう立法やらの方向で、子供の騒音を法規制しようみたいな運動をされたほうが筋が良いんじゃないですか?賛同を得られるとは思わないですけど。
https://www.news-postseven.com/archives/20221206_1819893.html?DETAIL
https://news.yahoo.co.jp/articles/d923efc82684335fa581c6cf0cea03e7d8c31ba6
この「廃止に至る経緯」には《1日100台の車がお迎えに来る》とも記されており、苦情を申し入れた住民はこうした状況に18年間悩まされてきたという。
いっぽう「利用者の声」の項目には、《子供を遊ばせることで、●●からの叱責や注意が子供に与える影響を考えると、今の状況では児童センターの児童は遊園地を利用できない》とも記されている。そして「廃止の考え方」の項目には、《ある意味、皆が被害者。この状況を終わらせる必要がある》との一文があった。
この資料を読んだユーザーからは、《公園廃止の説明文読んだら印象違うんだが》《これ自分の家だったら耐えられるか自信ない...》《「クレーマーを追い出せ」みたいなこと言ってる人は、落ち着いて、思いとどまってほしい》との声も上がっている。
追記: 1日経ってスマートフォンで読み直してみたら非常に読みにくい文章(1文1文が長く、文脈を掴みにくい)になっていたため、可能ならPCで読んでもらえるとありがたいです。また、節もつけて多少読みやすくしました。文章自体は改めていません。簡単に趣旨を要約すると「騒音問題での近隣トラブルは戦争になることもあり、それは自分が直面する可能性もある(※騒音問題のトラブルが必ず戦争になるというわけではない)」です。
長野市の遊園地の問題で近隣トラブルになっていて、どうやらじいさんがクレーマーだとして叩かれているらしい。
自分は長野市の住民でもなんでもないが、昔の激怒していた自分を思い出して体中が震えだしてしまったのでここに吐露して発散していく。長野市の件については、その裏にある事情は知らないので、自分はそれが良いとも悪いとも見当もつかないが、外野が好き勝手に述べてじいさんを罵倒したり「クソ自治体」みたいな発言をしているのがとにかく気に食わないのでここで色々と述べていこうと思う。また、自分はじいさんの擁護者ではない。
まず子どもが集う施設というのは、NIMBY(我が家の裏には御免)というカテゴリに属する施設である。これは誰がなんと言おうが、子どもが集う施設というのはもうそういうものである。NIMBYとは、社会全体には利益を与えるが、その近隣住民には損害を与える施設のことだ。こういうものはたくさんある。基本的には「社会全体のためにお前が我慢しろ」という施設になっている。また、補償がないことも多い。子どもが集う施設に関する補償は特になにもない。「子どもの声」を「損害」扱いという部分で怒りを抑えられなくなる人もいるだろうが、いったんそういう考え方の人がいると思って飲み込んでほしい。「騒ぐ子どもの声量は大きい」と「大きい音に耐えられない人もいる」という2点については、誰しもそれぞれ同意できるはずであり、「世の中には、騒ぐ子どもの声量に耐えられない人もいて、そういう人は損害だと感じていそうだ」というふうに、客観的な視点で読み進めてほしい。実際そういう人は存在している。
話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題に子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁の一種である。
子どもを抜きで考えた場合、騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに「騒音を我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である。
子どもは当然守られるべき存在だが、「子どものことを考えろ主義」をその親が使ってくると非常に厄介である。簡単に例えよう。
あなたが限定品が欲しくて、あるお店でその限定品のために並んでいたとする。あなたは限定品を無事手に入れることができたが、その後ろに並んでいた親が急に「それはうちの子どもが手にするべきものだ」「お前が大人のくせに限定品を得ようとしたために、子どもはひどい目に遭う。子どもが可哀想だ。全部お前のせいだ」と強硬に主張してくる状態のようなものである。(あくまで例えであって、騒音問題と同等の主張であると言いたいわけではない)
別の例で例えると、ベビーカーで子どもを載せて電車に乗る行為は問題ないが、ベビーカーを振り回して席取りをしようとしている親だったり、「ベビーカーを持っているのでそこに座らせてもらっていいですか?」というように尋ね、断ると「子どもがいるんですけど……非常識ですね……」と言ってくるような、子どもを使って権利を主張してくる大人たちがいるということだ。彼ら彼女らは「我々は少子化に対抗する戦士であり、それに抵抗する存在は邪悪である」という信念を持っている。
こういう行動を起こす人々は「子持ちの人」というカテゴリで括られるべき存在ではない。彼らは容易に「子持ち全体に対する挑戦をされた」というように論理をすげ替えようとする。そして「子どもがいるのに酷い」「こうやって少子化が広がっていくんだ」という論理を使っていく。ミサンドリストがフェミニストと名乗るようなものである。普段は人を攻撃するが、都合が悪いと子供を盾にして自らを守り被害者になろうとするという、文字通り子どもを盾にするのである。彼らにとっては、子どもとは、自分に利益をもたらす便利なツール・グッズ・免罪符でしかない。
誤って解釈してほしくないが、子どもは大切なものである。「子どもを排除せよ」と言っているわけではない。容易に論理を捻じ曲げられるので注意しなければならない。小さい子どもに罪などは一切ない。子どもではなく、その親と戦っているのだ。
そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子どもの騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。『「子どもが出している騒音」にクレームを出すクレーマー vs (可哀想な子ども+それを守る善良な大人たち)』という構図そのものが、騒音を出している側のロジックによる考え方であり、これがこの構造のまま大衆化されると、非常にテキトーな扱いになる。「子どもの騒音に端を発する問題」という形で、その周辺の問題も含めて、すべての問題の焦点が「子ども」になっていく。しかし、子どもが悪いわけではない。子どもが悪いわけではないというのは、何度でも言っておく。その親が悪いのだ。ここは間違えてほしくない。本当に簡単にすり替えてくるからだ。
実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである。長野市で言えば多くの車の長時間のアイドリングや、盆栽の踏み荒らしなども発生していたらしい。こうなってくると、もはや子どもの騒音というのは問題ではなく、大人 vs 大人の、れっきとした権力闘争の構図であると思う。(※注意: 長野市の問題については自分は意見を持たず、どちらの側にも立たない。じーさん側に問題がないとは言っていないし、子どもが可哀想であるのはそのとおりだと思う)
子どもを盾にする人側のロジックでは、「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」という観念を抱えているため、対話は不可能である。そもそも最初は当然対話をしようとしている。(また、クレーマー側でも意味不明なクレームを入れている場合も多くあるはずであり、自分は常にクレーマーを擁護したいわけでもない)
「子どもを育ててるだけなのに、クレームを入れてきて迷惑だ」vs「ふつうに暮らしているだけなのに、騒音を解決しようともせず、当然のように我慢を強いてきて迷惑だ」という状態になってしまうと大変面倒なことになる。どちらも正義だと思っている。これは戦争である。
これについて、刑事でも民事でも事件化はできず、自治体も警察も非常に難しい対応を迫られる。「対応」とはいうが、実質何もできないのである。ただ「犯罪がないかどうか」「合法かどうか」しか見れないのだ。よって、合法下での自力救済しかない。法はあなたを守ってくれはしない。誰もあなたを守ってくれはしない。あなた自身の力か、金の力しかない。日本では、騒音問題は「それは運が悪かったですね。我慢してください。それが法ですから」ということになっている。社会とはそういうものだ。
「そんなところを選んだお前が悪い」「引っ越せ」という、思慮に欠けた意見も散見される。当然そういう場合もあるだろう。ただし、こういうのは事前にわかるものではないし、引っ越すには尋常ではないお金がかかる。持ち家であれば尚更で、下手すると数千万円単位で金が変わってくる。つまり、人生の中でもかなりの上位に上がってくる最強最悪のトラブルである。嫌いなやつのためだけに数千万円は普通は払えない。数千万円は言い過ぎかもしれないが、ただ引っ越すだけでも、引っ越しというものは50万円だったり100万円かかるものだ。月に2万ずつ貯めていたとしよう。4年の努力を捧げることになる。嫌いなやつのために。普通は我慢ならないだろう。
そして、トラブルが悪化すると、人生で最も嫌いな存在が自分のすぐ近くに住んでいるという状態になる。「考えないようにする」ということができなくなる。騒音で存在をすぐに思い出し、精神が持っていかれる。「殺す」か「殺さない」か、そういう考え方が頭にのぼってくる。これはジョークや笑い事ではない。精神が奥深くまでやられる。絶えず戦闘モードになる。戦時下という気持ちだ。あとはもうやるかやられるかだ。どちらも異常になる。人はいとも簡単に狂う。自分だけではない。相手が『「自分が死んでくれればいい」と思っている』と思うようになる。
「死ね!!!!」と絶えず言い合っているのに離れられない関係というのは、歪んだ親子か、近隣住民以外には人生においてそれほどない。会社なら簡単ではなくても辞められる。家は簡単には辞められないのだ。
もし少子化対策のためというならば、社会全体でなんとかしなければいけない。「ミクロな個人単位の我慢で解決すべき」という結論は誤っている。それは子育てする側からみてもそうであると思う。ここでは、「子育て側の方が悪」のように見えてしまう論理展開をしているが、子育てしている親は窮屈な思いを抱えているはずであり、れっきとした社会問題であると捉えるべきだと思う。しかし、現実的には、社会はそう簡単に変われるものではないため、個々で見れば自衛するしかない。
「近隣トラブルが戦争」というのが理解できない人や、「結局子育てする側が我慢しろってこと?」という理解になってしまう人は、せめて平和に家で暮らすことができているという幸運を噛みしめるべきであり、自分の子どもの周りでそういった話を聞かないという場合は、人知れずして我慢している人がいるのかもしれないことを知っておくべきだと思う。「静寂」「平和」は贅沢品である。いい人は、同じ目にあっても「まあ子どもだからしょうがないですよ」「いやいや!子どもは騒ぐのが仕事ですよ」と言えるのだろう。それはたいへん立派なことだと思う。ただしそれは余裕があっての論理や、他人事であるからそう言えるだけであることを忘れてはいけないし、強制できるものではない。全員が聖人君子になれるわけではない。
これはアンモラルがどうのとかそういう話ではない。あなたもそうなればわかるかもしれない。
ただ、そうなってから気付いても遅いのだ。「そんなところを選んだお前が悪い」のだから。
そして残念ながら、今の社会に解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。
でももしそうなったとしたら、自分もあなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなたを理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。
ただこの話は、伝えたい人には伝わらない話でもあると思う。この話を見て「自分や自分の子どもが他人にそんな思いをさせてるかもしれない……大丈夫かな」とすぐに心を痛めた人に心を痛めてほしいわけではない。そういう人たちには、ただ「子育てを頑張ってください」とだけ伝えたい。この話は「はあ?身勝手。黙ってろ。うるせえな」と、気にもとめない「子盾の親」たちに伝えたい話である。伝わらないだろうけど。
つまり、運が悪ければ、そういう人と戦争することになる、ということだ。そしてそういう人たちもまた、「我々」と戦争することになる。
都の税金がどう使われようが知ったこっちゃないが、自治体の至る所でこの手のまともに監督してない給料泥棒がいるので、補助金が食い物にされてないか情報公開を進める必要があるね。クレーマーさんの出番だな。
つーか道狭い普通の住宅地に遠くから車で来て路駐する奴続出する公園作ったって時点で嫌がられるの当たり前じゃなかろうか…
恐らく路駐などの交通問題が本丸なのに、子供の声を騒音とするクレーマーガーって言い出すのも前もどっかで見たわ