はてなキーワード: クルアーンとは
https://twitter.com/hanapuepue/status/678021785414074368
一言でまとめると、「急な欠航でJALに振替搭乗したイスラーム教徒に、JALが豚肉を含む機内食を提供した」。
これに対し、「(髪を隠しており、ジャカルタからの搭乗で)イスラーム教徒と分かる乗客に豚肉を含む機内食を提供する前に本人に確認すべき」
「そもそもイスラーム教徒の多い国発着の便で豚肉を使った機内食を出すべきでない」というのが佐伯氏の主張である。
イスラーム法において許される行為、狭義にはイスラーム教徒が口にできる食材を指す。
対義語の「ハラーム」はしてはならないこと、禁止された行為を指す。
日本人にも馴染みがあるものとしては、豚肉を食すことなどが該当する。
このようなハラームでない食事として、ハラール食が提示される。
確かに、国民のほとんどがイスラーム教徒である国のナショナルフラッグキャリアでは機内食はすべてハラールであり、豚肉等は一切使われない。
インドネシア航空、エミレーツ、エティハドなどがその例である。
今回のケースは、当初予定したキャセイの欠航により急遽JALに振替搭乗した乗客に関して起きた。
(彼らはキャセイに対しハラール食の希望を出していたが、JALにはそれが伝わっていなかった。)
それを考慮するに、今回のようなケースではCAが魚を選んだ乗客に豚肉の伝える配慮があってもよかったのかもしれない。
一口に「イスラーム教徒」と言ってもハラームの捉え方は個人により異なる。
また、クルアーンはやむを得ない場合にハラールでない食事を摂ることを許している。
勿論希望する人すべてにハラール食をいつでも提供できればそれがベストだろう。
ゲームの提案
こんにちは。自分は41歳の鬱病ニートです。一応まだ会社に籍はありますが、風前の灯です。年収は750万ですが、来月の給料は振り込まれないかもしれません。
さて、そんな自分が、有り余る暇と、借りてきた知識と、浅はかな理解を総動員して、以下、改憲について語ってみました。
しかし、しょせん居酒屋の政治談義レベルです。あちこちに穴があろうかと思います。偉そうに語りながら自ら政治的な活動を取ることは絶対にない、実行する立場で考えていない現実性のなさなど、大嫌いな民主党と同じです。立場の違いによって意見が異なる方も大勢いることでしょう。薬を飲んでいて集中力が持たないので、文章も精緻とは言いがたい。
以下の駄文をあなたの立場で好きにブラッシュアップして、トラバにぶら下げてみてほしい。それぞれの記事のブコメの侃々諤々も楽しみたい。それで、改憲についての理解を深めさせてほしい。
国民の基本的人権と国際平和を基準に、国体と国家権力の範囲を規定したものだと捉えています。
集団的自衛権の法整備について、”憲法解釈”で侃々諤々になっています。自分も、今の進め方では法案は違憲だと考えていますが、そもそもの問題は、憲法を不改常典のごとく扱うことだと思っています。
一般論として、人の作った物はなんであれどこかに不備があり、経年劣化も起こし、時代とともに実情に合わなくなっていきます。一神教の啓典の民のみなさんが、聖典と実情の辻褄合わせにいかに苦労しているかは、日々ニュースを見ていれば自明です(聖典を人の作った物とする点、信者ではない愚かな人間の考えですので敬虔な信者の方々はご容赦ください)。”憲法解釈”もまた、穏健派のイスラム法学者がクルアーンほかと現代の実情の辻褄合わせに「解釈」を以て臨むことに似ています。
両者に相通ずるのは、「解釈」とは、変えられない記述に対して現状を容認(その程度は議論によってはかられるものの)することを先ず目的とし、換骨奪胎を試み、不都合な記述の実効性をなくす点です。そのあたりを原典に対する欺瞞(あるいは冒涜)だとして攻撃するのが、イスラムで例えればいわゆる原理主義であり、憲法では護憲派と言われる人たちの一部だと認識しています。
しかし憲法は、一神教の聖典とは異なります。憲法は、自らが国民の意思によって改められることを認めています。不改の聖典ではないことを条文の中で表明しています。古びて時代に合わなくなったところは、十分な議論の下で速やかに更新し、実情に合わせて憲法の合理性を常に維持する。そのことで「解釈」の余地を減らし、国権を制限するという憲法の機能そのものの実効性を維持する。そのような合理性をもともと憲法は備えています。
”憲法解釈”による憲法の死文化と機能喪失を防ぎ、違憲状態の国権発動を防ぐためにこそ、改憲の提案とその議論は常に行われるべきです。それが本当の積極的「護憲」だと考えます。しかし、現在のような、翼賛体制でもない限り超えられないような鉄壁のハードルがあっては、投票(国民一人一人の意思の反映)を前提とした議論は起こり得ず、従って適切な更新も為されません。そして現に今、変えられないなら憲法を死文化してしまえとばかりに、相当無理のある”憲法解釈”が強行されようとしています。
あなたがたが第一に「護」りたいのは、憲法の機能そのものなのか。特定の条文なのか。はじめにそこを整理してほしい。
前者であるなら、上述の通り、改憲は積極的に認めるべきです。繰り返しになりますが、改憲は憲法の中で保障されている国民の権利のひとつです。いかなる思想があろうとも、これを否定することは前者の意味での「護憲」と矛盾すると考えています。
後者であるのなら、その条文の是非を問う投票を通して、国民に白黒はっきりしろと突きつけるべきです。そのための議論の中で、あなたたちの考えを訴えるべきです。条文を護るために改憲手続きそのものを否定し、国民投票をさせないというベクトルは、上述の通り自分の目からは憲法の意志に反すると映るし、主権者たる国民とその権利を軽視するものだと思っています。
さて、そこで提案です。
“解釈”による憲法の無効化を阻むためにも、いまここで、あなた方のサイドから憲法改正を訴えませんか?たとえば、現状の九条から解釈の余地を削り、よりあなたがたの望みに沿う条文にするとか。そして、「改正可能にする」という一点で改憲派と連携し、”解釈”と対峙しませんか?
もちろん、改憲派から出させる対案の中には、あなたがたが受け入れることができないものもあるでしょう。しかし、選ぶのは国民です。憲法がそれを保障しています。
後生大事に特定の条文だけを護っても、憲法そのものの実効性が失われれば無意味です。
護憲にもいろいろあるように、ひとくくりに「改憲派」といってもいろんな考えがあろうと思います。しかし、条文を改めてまで、なお憲法を維持しようとする一点では、護憲的とも言えます。そこについては、上述の通り、護憲派と連携する余地があると思っています。
あなたが改憲の後に実現すべきと考えている政策が、今の政権の”解釈”の末にあるものとたとえ一致したとしても、憲法の箍がはめられているか否かの違いは後の世に対して非常に大きなものがあります。国権を制限する憲法が機能を喪失している状態を容認してしまえば、いまの政権が暴走しなかったとしても(あるいは今の政権なら暴走しても容認できる、とあなたが考えるにしても)、後のあらゆる政権にその選択を許すことになります。
数年前、日本国民は民主党政権を選びました。同じように、後の世がどのような政権を選ぶかは分かりません。今のあなたにはとても支持できないような政権が生まれたとして、そこにも等しく暴走の余地が残されます。暴走する○○党政権(○○にお好みの政党を当ててください)。おそろしい。
政策的に結果オーライではなく、その手続きが法を逸脱することについてはNOを突きつけませんか?数が必要なら、護憲派も引き入れて。
民主主義とは、すなわち手続きでもあります。国民の付託を請けた行政のあらゆる意思決定が手続きを通して公にされ、それを国民が監視することが国民主権の根幹にあります。多少煩わしく、遠回りがあったとしても、それはいわゆる「民主主義のコスト」です。この先も日本が健全な民主主義国家であり続け、国際社会の中で世界に誇れる国であるために必要なことだと思います。
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
真実 (アル・ハーッカ)本章名は,1節の語にちなみ名付けられる。マッカ中期の初めころの啓示であある。真理は破れることなく,必ず勝利を収める。それで現世の生活において,外見の偽りに惑わされてはならないことが,来世に関する論議により教えられる。慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。 確かな真実,{1} 確かな真実とは何か。{2} 確かな真実が何であるかを,あなたに理解させるものは何か。{3} サムードとアード(の民)は,突然来る災厄を虚偽であるとした。{4} それでサムードは雷雲の嵐によって滅ぼされた。{5} またアードは,唸り狂う風によって滅ぼされた。{6} 7夜8日にわたり,かれらに対し絶え間なく(嵐が)襲い,それで朽ちたナツメヤシの木のように,(凡ての)民がそこに倒れているのを,あなたは見たであろう。{7} それであなたは,かれらの中,誰か残っている者を見るのか。{8} またフィルアウンやかれ以前の者や滅ぼされた諸都市(の民)も,罪を犯していた。{9} かれらは主の使徒に従わないので,かれは猛烈な懲罰でかれらを処罰した。{10} 大水のとき,われが方舟であなたがたを連んだのは,{11} それをあなたがたへの数訓とさせ,注意深い耳がそれを(聞いて)記憶に留めるためである。{12} それでラッパが一吹き吹かれた時,{13} 大地や山々は持ち上げられ,一撃で粉々に砕かれ,{14} その日(一大)事件が起る。{15} また大空は千々に裂ける。天が脆く弱い日であろう。{16} 天使たちは,その(天の)端々におり,その日,8人(の天使)がかれらの上に,あなたの主の玉座を担うてあろう。{17} その日あなたがたは(審判のため)みな(剥?)き出しにされ何一つとして隠しおおせないであろう。{18} それで右手にその(行状)記を渡される者は言う。「ここに(来て),あなたがたはわたしの(行状)記を読め。」{19} 「いずれわたし(信者)の清算(審判)に合うことが,本当に分っていた。」{20} こうしてかれは至福な生活に浸り,{21} 高い(丘の)園の中で,{22} 様々な果実が手近にある。{23} 「あなたがたは,過ぎ去った日(現世)で行った(善行の)ために,満悦して食べ,且つ飲め。」(と言われよう)。{24} だが左手にその(行状)記を渡される者は言う。「ああ,わたしの(行状)記が渡さオになかったならば」{25} 「わたしは自分の清算が,どんなものであるかを知らなかった。」{26} ああ,その(死)が(わたしの)終末であったならば,{27} 富は,わたしに役立たなかった。{28} 「権威は,わたしから消え失せてしまった。」{29} (だが厳命が下ろう。)「かれを捕えて,縛れ。」{30} それから燃え盛る火で,かれを焼け。{31} 更に70腕尺の長さの鎖で,かれを巻け。{32} 本当にかれは,偉大なるアッラーを信じず,{33} また貧者を養うことを勧めなかった。{34} それでこの日かれは,そこに友は無く,{35} また,穢しい腐敗物の外に食物はない,{36} 「それを食べるのは,罪人だけである。」{37} われは,あなたがたが見得るものにおいて誓い,{38} またあなたがたが見得ないものにおいて誓う。{39} 本当にこれは,尊貴な使徒の言葉である。{40} これは詩人の言葉ではない。だがあなたがたは,ほとんど信じない。{41} また,占い師の言葉でもない。しかしあなたがたはほとんど気にもしない。{42} (これは)万有の主から下された啓示である。{43} もしかれ(使徒)が,われに関して何らかの言葉を捏造するならば,{44} われはきっとかれの右手を捕え,{45} かれの頸動脈を必ず切るであろう{46} あなたがたの中,誰一人,かれを守ってやれないのである。{47} 本当にこれは,主を畏れる者への訓戒である。{48} われはあなたがたの中,(それを)拒否する者を知る。{49} 本当にこの(クルアーン)は,不信者にとっては悲しみ(の種)であろう。{50} だがそれは,本当に確固たる不動の真理である。{51} だから至大なる御方,あなたの主の御名を讃えなさい。{52}