はてなキーワード: 非情とは
建築土木や工場が非正規で回されるようになった今やつらは人材派遣会社を営み地方の若者を搾取する資本家に成り下がったのだ。やつらは国道沿いを活気づかせ車を趣味にし荒いながらも若くて立派に生きる弱者などではない。派遣を送るために大企業と癒着し金に汚く人を人とも思わない非情で醜い肥えた豚である。中小企業を営む人情溢れたマイルドヤンキーなどは今は昔の話だ。太い実家には土地があり名誉欲におぼれ地域経済の顔役ともなろうしている。自己責任論で派遣を鼻で使い上前をはねている。こいつらは地方を弱体化させる都会のおっさん連中の下っ端として働いてるのに過ぎない。誰なんだこんな強者の金持ちを都会の青白い引きこもりくんと対比しなが褒めてるはてな民は。
上辺だけのスペックで他人が勝手にイージーとかハードとか認定するなんて傲慢で短絡的だよ。気にしなくていい。
貴方は比較的恵まれた環境に居たかもしれないけど、その中で努力したり葛藤したりしてその環境を保つために努力してきたんだ。
運も良かったかもしれなかったけど、貴方はそれを無駄にしなかった。それはすごい事だよ。
それを当然と言う人も居るだろうけど、宝くじだって当たって無駄遣いする奴も居れば有効活用するやつもいるように、いくらお膳立てされてもダメな奴はダメだ。
そもそも残念ながら現実は非情なので苦労と結果に相関性は無いし、だから不必要な苦労をしなかった事で貴方の努力が軽くなる事も無い。
気にする事無いよ。
片方の男がペニスバンドを装着し片方を掘るような表現はなんというのか。今日のtwitterではこんな話題で腐女子界隈が盛り上がった。いろんな腐女子がいろんな持論を述べているのを見ていて、少し気になったことがあった。
「チンポどこいったの?いや意味わからんチンポ使おうよ普通に」
この傲慢さにびっくりしてさ。これが男女逆で男性がレズビアンカップルのセックスについて「マンコどこいったの?いやマンコ使おうよ普通に」とか言ってたら「レズビアンじゃないくせに男は黙ってろよ」ってなるじゃん。男女のセックスで、彼氏がバイブ使って「いやチンポ使おうよ普通に」なんて言うのだろうか。なんかこう、電車で出産した女性に対し、「病院まで我慢しろよ」とか「入院しとけよ」といったみたいな、何もわかってないのに当事者の行動に口を出す、みたいなさ。傲慢さと無知さとマジョリティ特権と(彼女らの多くはストレートだし)。
セックスは非情にプライベートな当事者同士のコミュニケーションである。たまたま男がペニスバンドをつける気分もあるだろうし、縛り上げた横でそばを打つことで楽しむこともあるだろう。なんかそういったものを軽視されて、外野からダメ出しされているのに非情にもやっとした。
現実化する結果というのは確率が低かろうが高かろうが関係なく事象する。
むしろ確率がどれだけ低い事象であっても現実はおかまいなしにサイコロを振り続けている。
そして結果として残し続けている。
冷静に考えて欲しいが太陽系があり地球があってこの文章を読んでいるお前が生誕してここまで生き延びてきた確率は宇宙生誕から計算すれば0に等しい程度の確率です。
ところが現実にとっては結果が全てであり確率が高い事象しか常に起こさないと思い込んでいるのは人間の脳だけです。
例えばの話、青信号で横断歩道を渡ってても信号無視のトラックにひき殺される確率は0.001%程度ある中で
お前が渡るときは死ぬわけないと思っているし平気で渡るわけだが、
実際に事故が起こり死んだ人間にとってはどれだけ低い可能性でも現実として結果が残る。
現実というのは人間の期待や計算を平気で無視して現実化してくる。
どれだけ交通整備ができて事故が起きないような世の中に変えても
横断歩道を渡ることで発生する死亡リスクは0%ではなく確かにそこに存在し続ける。
障碍者にしたくないから女児を産みたい、というのも恐ろしく現実への理解力が足りていない。
女児を産んだところで障碍者が産まれる確率は出産という行為に必ず紐づいてくる。
そのあとに出るのは障碍者ではないか、障碍者か、その結果だけしか答えない。
いくら可能性が高い方に賭けたとしても、現実は容赦なくそれを裏切る結果を出す準備ができている。
生きる以上は常に現実側が出す無慈悲な結果とどのように付き合っていくのかということだ。
大きな決断を迫られるとき、弱い人間は常に可能性が高い方へとベットしたがる。
しかし、可能性が高い方に賭けたからと言って必ずしも希望の結果になるわけではない。
もし希望した結果になったらその時は喜べばいい。
しかし現実の出した結果が希望と反対なら?可能性が低かった方なら?
そういった事態に陥ったときに人間として自分がどう行動するのか、
可能性が高い方に賭けたのに運が悪く現実が希望の結果を出さなかったとき、
彼、彼らは真に不幸である。常に落胆の底から出ることはできない。
いかに現実が非情であり、無機質であり、抗うことのできない存在だったとしても、
可能性の高い方だけが結果をもたらしてくれることだと信じ切っている。
ここ10余年の間にも発生するまでは誰も信じておらず可能性も低かった事象が平気で発生している。
「幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます。
本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。
生活が豊かになっても、富を得ても、幸せでなければ意味はない。
「人より生活が豊かである」ことに幸せを感じる人もいるだろうが、 「あらゆる人より」は世界に1人しかいないので、「誰かより」と人と比べることになるだろう。
どんな環境であっても、自分を幸せだと思う人もいれば、常に自分は不幸だと思っている人もいる。
自分が何のために行動しているのかを、もっと掘り下げて自問しなければ、自分で自分が理解できない。
「自分が理解できない自分」を他人に理解してもえることはほとんどないが、稀にあり、その出会いは幸せであるので感謝する。
「自分が何のために働いているのか」「何のために怒っているのか」「何のために勉強をするのか」「何のためにそこに住んでいるのか」
幸せになる方法は、あらゆる選択肢の中から自分の「好き」を選ぶこと。
付き合う人や孤独であること、仕事・仕事でない生きる方法、住む国や場所、食べるもの、着る服、宗教・無宗教など、すべてを「自分の」幸せと照らし合わせて選んぶ。
傲慢は誰も幸せにしない。傲慢であることに幸せを感じる人もいると思うが、私はそういう人とは付き合わない。
幸せを実現する手段を教えることはいいことだが、その選択自体は、他人にとやかく言われることじゃないし、他人に口出しするものでもない。
「人それぞれ」という言葉に不安を覚える人は、宗教や学問を選ぶと、自分以外の場所に確かな指標や信じるものが出来ていいと思う。
それを信じている間は、幸せのカタチを変えられないというデメリットも分かっていたほうがいい。
宗教だって学問だって、信じられなければ変えればいいと思うけど。
その手段は相手に対して間違っていることがあるかもしれないが、それを「偽善者」の罵る人は、想像力が足りない。
お金があること自体に幸せを感じる人は、自分をまだあまりわかっていない。
「お金あっていいな」とは思うけど「お金あればアレができるのに」はみんな違う。
「そのために何をしている、何をする」が近い人とは過ごしやすいし、「その手段もあるのか」「こういう手段もありますよ」がお互いを幸せにする可能性を広げる。
「わたしはこっちがいいんです」と言われても、それはその人の幸せのカタチなのだから、落ち込む必要も怒る必要もない。
こういう考えが自分に合ってるというだけで、それこそ個人個人にもっと合う考え方があると思う。
数多の国・宗教・文化があり、法律・戒律は違えども、すべての目的は「幸せになること」で、根っこの部分は本当によく似ている。
幸せのカタチはみんな違うけど、皆自分の生活をより良くしたくて、または今の良い生活を維持したくて、行動している。
怒りを感じる事自体は悪いことではなく、あたりまえの本能なのだけれど、それで幸せが遠のくのであれば、感じすぎないほうがいい。
怒りの成分は大きく分けると「自分の幸せへの危害」と「嫉妬」くらいだろうか。
嫉妬とは「相手の幸福により、相対的に自分が不幸になること」に対する怒りであり、あんまり自分の幸せがなんなのか分かってない時にあふれだす。
自分の幸せの手段である何かを持っている人に対して湧く感情なので、消し去ることはできない。
「今嫉妬してるってことは、自分もああなりたいんだなぁ」と言い聞かせて、「羨ましい」と言葉にすることで、少しは解放されるかも。
「それを持っていることでなぜ幸せなんだろう」と掘り下げることで、「元から嫉妬するようなことでもない」と気づけるかも。
「怒り」は「幸せ」を守っている。
ただ、必要以上の怒りは、怒っている本人を含めて誰も幸せにしない。
「何に怒っているのか」を自分で理解して、それ以外のことにぶつけてはいけない。
怒りの多くは、その原因を取り除けば解決できる。
「その手段でしか幸せになれない」と思っているから怒るのであって、他の方法を探すことで、かなりの怒りから開放される。
他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手も幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。
あらゆることに対しても怒りが湧くときは「眠い」か「疲れている」か「お腹が空いている」。怒っても解決しないので、うまいもの食って休もう。
「怒り」から遠ざかることで、「怒り」から遠い存在である「幸せ」に近づくことができるのではないだろうか。
哀しみを感じる事自体も悪いことではなく、あたりまえに持ってる本能だけど、それで幸せが遠のくようであれば、感じすぎないほうがいい。
幸せも怒りもわりとすぐに忘れてしまうけれど、哀しみはなかなか慣れない。
怒りと違って、死や離別など、原因を解決できないことがほとんど。向き合って鎮めるか、逃げるしかない。
仏壇に手を合わたり、十字を切ることで、寂しさから解放される人もいるだろう。一種のルーティーン。
大事な人やモノを失うと寂しい。いつもの幸せな日々が終わってしまうから。幸せなときにいつもやっていたルーティーンによって「大切なものの1つを失ったが、今も幸せである」と思い出す。
それは幸せなのかと言えば、そうではないと思う。哀しみをごまかしているだけではあるが、他にいい方法がない。
哀しみと向き合うのは、辛すぎる。
どうあがいても哀しいものは哀しい。
ずっと哀しんでいないといけない雰囲気がある。
それって誰が得するかと考えると、やっぱり宗教なのかなと。
余計に哀しむ必要はない。普通に過ごせば、みんな充分哀しんでると思う。
「哀しく感じていた感情を忘れる哀しさ」があるのも、また真実。
哀しく感じなくなったからと言って、愛していた事実がなくなるわけじゃない。それだけを愛情のモノサシにしなくても良いのでは?
私はいろんな人に愛されていると思っているから、私が死んだときにはそう考えて欲しい。
「恐怖」とはなにかを考えると、「幸せを害される」ことに起因する感情。
自らの死、病気、老い、孤独、蔑視など、人生においては恐怖も少ない方がいいが、避けようがないものもある。
悪い結果を想定して、余裕を持っておく。
恐怖を乗り越える「覚悟」を持っていれば、もはやそれは恐怖ではない。
老いたから、即不幸なのか。何ができなくなることが不幸なのか。若いままでいて、何ができることが幸せなのか。
病気も孤独も蔑視もそう。それ自体が不幸なのではなく、その結果なにかができなくなることが不幸であり、逆に何かしたいことができるままであれば、それ自体は恐怖の対象ではなくなる。
「死」の恐怖はすさまじい。「死」は積み上げた幸せを失う。
死んだことがないから、またわからない。わからないものは怖い。
あれもしたかった、これもしたかったはたくさんあるけど、「この人と一緒に過ごせてよかった」とか「得られるだけの幸せを手に入れた」と満足することこそが、生死の際まで幸せでいられる手段ではないだろうか。
この世との別れは哀しい。それは絶対に避けられない感情だけど、それより人生に対する幸福感が上回れば、受け入れられないものでもないのかも。
うん、やっぱりどう考えても今は死にたくないな。
長生きするのは不幸だという意見だったけど、失う対象が少ない状態で死ねると考えれば、今はじめて、少しだけ羨ましくなった。
「幸せな死」にこれから出会えることがあれば、そこから学ぼう。
出会う前に死んだら、仕方ないな。
怒りや恐怖について考えられる日も、多分幸せな日だけ。
哀しみについては、哀しい日の方が考えられるかも。
余裕ができたら、余裕がなくなったら、また読み返そう。
新卒2年目の非情報・理数系出身のSEでVBAという非常に使い勝手の悪い言語とDBを使って業務アプリケーションを開発しています。
配属チームには技術に詳しくない上司しかいないので技術的に頼れる人はGoogle先生しかいません。
現在地方から東京に向けて転職活動中で、その中で言われたことで気になったのですが、
そもそも社内で社外の勉強会に参加しているという人は手で数えるほどしか知りませんが、
なんか・・・社内でもその言語をバリバリ使いこなしてるって感じの人ばっかりで居心地があまりよくありませんでした。
東京は初心者が集まる勉強会みたいなのもあるらしくていいですね。
おしどり夫婦で有名だよね。たぶん不倫を隠し通して、旦那さんと表面上はうまくやっていただろうに。週刊誌にすっぱ抜かれるなんて可哀想だ。
ぶっちゃけ結構な割合で世の中不倫してるよね。誰にも話すことができない不道徳を、生きていたら一つや二つ経験する。
いつまでたっても男(女)は捨てられないもんだ。まして顔が整った芸能人ならそういう機会が山ほどある。正義感が相当強くないと、無理無理。不倫しちゃうよ、そりゃあ。理性なんて本能に比べたらちっぽけなものだ。
こんなゴシップが報じられるたびに、有名人夫婦ってかわいそうだなあと思う。有名だからこそ身辺はしっかりしないといけないんだろうけど、週刊誌の非情が際だっている。
長文なんてここ数年来書いていないので見苦しい点も多いと思うがご了承願います。
どうしても、ここ数日心に重くのしかかる思いを吐き出したくなり、いてもたってもいられず文を書きました。
座間9人連続殺人事件(ざまくにん れんぞくさつじんじけん)は、2017年10月に神奈川県座間市で発覚した複数死体が遺棄された事件
神奈川県座間市は、東京都心から約50km離れたベッドタウンだそうで。名産品や観光名所はあったのだろうか?
関東在住ではない私には、座間という地名は、推理小説のタイトルさながら、目と耳を覆いたくなるような猟奇的な事件が起こった場所、としてインプットされてしまった。
3ヶ月で九人。本当にその”一人目”が初犯なのかと疑われる。
生首の入った複数のクーラーボックスのそばでの衣食住など普通なら考えられない。
事件が発覚したのは、被害者の兄が行方不明になった妹を必死に探したからなんだけど、
どうして、身近にこんなにも頼りになる兄がいながら、SNSで怪しい「首吊り士」なんていうアニメアイコン野郎なんかに引っかかってしまったのか。
そう思う人はすごく多いと思うし、私だってそう思う。
でも、あまりに存在が近すぎて、見えなくなっちゃってたのかもしれないね。
当たり前にあった優しさだからこそ、視界が曇ってると気付けなくて。
気がついていたとしても、心が鈍ると、何も感じなくなってしまって。
結局は、何かのせいにしながら、何かに寄りかかって生きようとする。
そうしないと生きていけない子だったのかもしれない。
肉親でも友人でもないのに、自分の心の叫びを聞きつけてどこからともなく現れる自分を救ってくれるスーパーヒーロー。
そんなものを求めて、そして殺された。
この事件を受けてか、Twitterの規約が一部変更されて、自殺や自傷行為の助長は明確な違反行為と定められた。
この変更に怯え、反発しているのは、皮肉にも恐らく被害者たちが持っていたものと同じようなアカウント。所謂”病み垢”の住民たちだ。
病み垢。Twitterには以前から存在していた、所謂メンタルヘルスを病んでいる人(またはそう思い込んでいる人)が己の心の苦しみやリアルでは吐き出せない気持ちを吐露するアカウントだ。
病み垢は病み垢同士繋がって、傷の舐めあいをする、そんな独自のコミュニティが形成されていた。
自分たちの居場所を奪われるかもしれない、危機感を持った彼らは、#病み垢凍結反対 というハッシュタグを使い、抵抗活動をしている。
そもそもTwitterはWEB上でのいちサービスに過ぎず、Twitter社が彼女らのインターネット上の居場所を確保してやる義務も必要性もないんだから、
いくら権利を主張したところで、運営上マイナスとなる危険性が高ければ非情に冷静に事務的に自動的にそのアカウントは消されて終わる。
だけど、そんな時少しでも、被害者の兄の事を思い出して、自分たちにとって、その兄のように必死に助けようとする存在が意外なほど近くにいるのかもしれない。
そう思えることが出来たら、少しは、被害者も浮かばれるんじゃないか、そう思った。
この文章を最後に、この事件については新しい情報を仕入れないようにしようと思う。SNSでもこの話題は避け、ニュースで流れ始めたらテレビを消そう。
暗く暴力的なこの世界が、思った以上に自身のそばにある気がして。近づきすぎたら引きずり込まれるような気がして、すごく、怖いから。
自慢する意図はないけど、なんかこの辛さは見たことなかったので。
いわゆるスペックが悪くないからか、割とサクサクマッチングはできて、ありがたいことに積極的なメールをよくもらうんだけど、メールのやり取りが進んでいくうちに合わないなあと思うこともあるわけなんだけど、そう感じたタイミングでどこかでやり取りをやめなければいけない。
これが辛いんだよね。普通の出会いならそのうちフェードアウトするんだろうけど、なんかメールを返さないという意思表示は明確すぎて心が痛むんだわ。まあこっちもよくやられてるんだけどさ。
自分でいうのもなんだけど優しすぎるんだろうなあ。婚活には向かないかも。非情でドライなひとはさくさく切り捨てていけるのかな。女の人は判で押したように優しさを求める旨を書いてるけど、優しい人には辛すぎる世界だわ、コレ。
そのままである。
用事があって東京に行ったので、ついでに前々から興味のあった原宿のロリータ体験サロンに行ってきた。
一万円前後でロリータ服が着れて、プロがメイクをしてくれて、スタジオで写真まで撮ってもらえる。ロリータ気になるけどどうしよっかな〜〜!的な人にうってつけのお店。素晴らしい。
正直お店は最高だった。お洋服は可愛いし、メイクさんは距離感がちょうどいいし、カメラマンさんもうまいことこちらをノせてくれる。
だけどそんなお店に対して、私は最悪だった。何がって言うと顔だ。とにかく顔が悪い。
そういうお店に行って、ロリータ服を着て、プロにお化粧してもらえば私もそれなりの女の子になれるんじゃないかと思ったんだけど、ダメなものはダメだった。
面長で黒目が小さい、ロリータとはかけ離れた顔立ちだ。ひどい。カラコンなどの対策もしなかった。馬鹿野郎。
ザ・ロリータブス。鏡に写ったのは化粧だけ厚くなってしまったクソブス腐女子。ロリータ服の哀れな腐女子。綺麗なお洋服を着てプロにメイクしてもらえば誰もが青木美沙子や深田恭子になれるわけではなかった。現実は非情なり。
結局ブスはどんなに手を尽くしてもらってもクソブスには変わりない。カメラマンさんもメイクさんも可愛い可愛いと持て囃してくれたけど、卑屈とかそんなんじゃなく、純粋に鏡の中の自分がクソブスだったから惨めな気持ちになった。
こういう時雰囲気や衣装に酔えて、自分!可愛い!と思える人は本当に羨ましい。私もそうなりたい。その方が絶対に人生楽しい。精神的にも全然良い。ブスであることを自覚しまくってしまった私は毎日窮屈すぎてゲボを吐きそうだ。一応いつも化粧もしっかりしてるし、そこそこ服にも気を使っているんだけど、ふとした時にいや私頑張ってもブスじゃん…となるから、なんかもう本当にどうしようもなくなる。でも頑張らなければ余計ブスになるから手は抜けない。なんかもうわかんないわ。
まあでもお店は本当に素敵だし、可愛いお洋服は可愛い人が着たら本当に、絶対に可愛いのでみんな行って欲しい。ただ絶望する可能性もそれなりにあるから、よろしくお願いしますといったところである。
そして壊滅的な容姿
お互いが「いいね!」したらマッチング成立。そこで初めてメッセージの交換ができる。
一か月に使える「いいね!」の数は30ほどで、ポイントを使えばおかわりも可能である。
プロフィールは最初から万人受けなど狙わず、趣味の合う層だけに的を絞った内容にした。
そこそこ爽やかに写っている写真をプロフィール用にチョイスし、焼け石に水を注ぐ。
自分から「いいね!」をする対象も、「いいね!」数が控えめな女性に限定する。
相手がもらっている「いいね!」の数はプロフィール上で見ることができるが、女性というだけで50ぐらいの「いいね!」は付く。
その中でも「いいね!」が100に届かない程度の女性をターゲットに選び攻略対象とする。
そして2か月ほどが経った今、現実と向き合っている。
その中でメッセージをやり取りできたのは5名。反応のなかった残りの3名は誤操作であろう。
そこからさらに会う約束をするまでこぎつけたのは3名であった。
さて、実際に会うことができたのは0名である。
小倉氏自身、カツラ使用に関しては以前から認めていることであり、
あいつがヅラ隠してんの俺知ってるぜ!プゲラみたいなテンションでそのことを持ちだす性根の悪い人間がいる。
そして、それを見て一緒になってゲラゲラ笑う人間も同様にいる。
代表例がとくダネ!が番組内でとんでもないミスを犯してしまい、
それを謝罪したと報じる記事のブクマにおける下記ブコメである。
http://b.hatena.ne.jp/entry/342546642/comment/sakuya_little
記事内容とはズレにズレた内容かつ非情に無礼なコメントにもかかわらず、星がつきまくり。
小倉氏のカツラいじりは正義の名の元に行っていい正当ないじりだってか。
ここまでしつこくやり続けるんだから、唐澤弁護士いじって楽しい人達と同じ神経してるんだろうね。