はてなキーワード: 障碍者とは
小山田はガキの頃にしてたいじめを大人になっても武勇伝のように語ってたわけで
大人になっても悪いことをしたなんて思ってなかったよね
つまり障碍者への差別意識を根底に抱えたまま大人になったわけだけどそんな奴がパラリンピックの開会式担当するのっておかしいよね?
今回騒ぎになってようやく謝罪したけれどこれ騒ぎになってなかったら謝罪してなかったよね?つまり今の今まで差別意識持っていたとしてもおかしくないよね?
やっぱり左翼は障碍者差別やいじめをやってた側の人間なんだなって思うよね
https://twitter.com/tavito_net
そうゆこと
露出する人間が懺悔なのか武勇伝なのかしらないが「イジメていた」なんて言えば叩かれるに決まってる
五輪の関係者でもない、NHKの番組にも参画していないお前でさえも、職場や取引先での雑談で「昔 同級生に障碍者が居たんですけど、人前で自慰させたり、ウンコ食わせたりしてやりましたわ」って言ってしまったらどういう事態が身に降り掛かってくるかわかるだろ
まさかお前の周りの人みんなが「おーっ 俺もやったことあるわ 面白かったよな」とか「謝ったんならいい思い出じゃない」って言ってくれると思うか?
小山田氏が過去にこの問題がきっかけでの降板や謹慎、被害者との和解などがあれば多分世の中の反応はだいぶ違ったのではないか
過去の事だから時効だし許してやれという意見も一理あるし、現時点で文書以上の謝罪というのは難しいだろう。期間から見ても現時点での降板は現実的ではない。
一方で、被害者にとってはどんなに過去の事でも文書一つでは何にもならないし、現時点での被害者への金銭的な解決というの過去に対しての埋め合わせとしては有効とは思われない。
これはつまり、時間が過ぎたことによって、どのような方法を取っても解決足り得なくなったってことを示しているのだと思われる。
どういうことかというと、例えば芸能界なら、坂上忍氏の飲酒運転や、東国原英夫氏の不倫、清原和博氏の薬物使用など
一定期間の謹慎や刑事裁判での刑事罰などを受けることで、社会もといマスコミは許してきた側面がある。(ここでの許す=地上波での出演を許可する、という意味で用いている)
もちろん、彼らが全面的に許されているのか、誰一人として許していない人がいないか、というのはまた別の問題である。
(個人的に言うなら、昼のワイドショーで坂上忍が他人の酒の不祥事について我物顔で批判しているのはどうかと思う所もある)
しかし、小山田氏についてみてみれば、おそらく、過去にいじめの問題がきっかけになった降板や謹慎はなかったのだと思われる。
つまり、同業者内で小山田氏を許していたとしても、彼の作品で償いや葛藤の表現がなされていたとしても、
2世タレントである故か、大きくならないよう黙っていたためかはっきりとは知らないが、
過去ワイドショー的な場面で取り上げられてこられず、謝罪会見なり降板や謹慎がなかったのは氏にとって幸か不幸かといったところだろう。
そして、今となっては、いかなる時期に謹慎や謝罪などを行ったとしても、おそらく有効的な対策にはならない。
「ずっと事故の過去から逃げ続けていた不誠実な人間、声が大きくなったので仕方なく謝った」
という世の印象はよっぽどのことがない限り晴れないからだ。
結局のところ、氏は自身の過去の問題に向き合わずに逃げ続けたことで、問題を解決する手段すら失ってしまったわけである。
今後、氏の活動が増えるのか減るのか、業界で干されるのか、改めて謝罪会見を開くのかといったことはわからない。
ただ、今のこの段階では降板することも謹慎することもスポンサー的にも許されないだろう。
さらに、今後何か表舞台で活動が発表されるたびにこの問題が再燃することは間違いない。
しかし一度大きく取り上げられてしまった以上、今までのように逃げ続けることはおそらく不可能であろう。
また、汚名を返上する機会は、今よりも難しく困難なものになるだろう。
おそらく本人もどうすれば社会的に許されるかというのが分からないのではないだろうか。そして、実際更生、謝罪の機会は一生訪れないだろう。
(謝罪会見を開いたとしても、結局オリンピックの仕事は降板しないだろう。そうなると何のための謝罪会見なのかがわからなくなるからだ。)
余談だが、今からできる解決案として、一番現実的なものとしては「今後毎年、自身の売り上げの一部を障碍者団体へ寄付する」ぐらいしかないのではないかと思われる。
(もちろん金ですべて解決する話ではないが、金でしか見せれない誠意もある。もちろん氏にそれだけの誠意があるかどうかは別だが)
https://anond.hatelabo.jp/20160117121121
の後日談です。
で補遺とか書くと思います(21:00補遺アカウントでブコメの返信行いました)。
郊外の辺鄙なところにある激安事故物件すら借りられないレベルで社会的信用がない。そのうえ生活保護すら受給できないっぽいしどのみち詰み。
「いつ人生強制終了するの?今でしょ!あとこの点は出ねぇよぉ!」と脳内の予備校講師がささやきかけてきます。もう駄目ですね。
こんな増田を書いて一時期は持ち返したけど結局は詰んでしまったという話。やっぱりあの時自滅しておけばよかったのか。
あ、田中くんはいつもけだるげはすごく良いアニメでしたよ。2期は来なかったのが残念…
【追記1】
https://anond.hatelabo.jp/20210505173406
>なんで知人の手伝いを続けようとするのかが知りたい
実はジオラマに頻繁に使われるあるパーツ(特定防止のためどれかは答えられない)が今はほとんど流通していません。
そのパーツは10年ぐらい前までは秋葉原の専門店とかに行けば20種類、場合によってはそれ以上簡単に手に入りました。当時は各社も矢継ぎ早に新製品出していましたし。
しかし今はそのパーツは2~3種類ぐらいしか流通していません。恐らくジオラマを趣味で作る人が減って需要がなくなったからだと思います。
そういう状況に風穴を開けたい!という自分のエゴで墓穴掘ったのが正直なところです。
ジオラマ素材で10年前と比べ手に入りにくくなったものはたくさんあります。
恐らく中国の工賃上昇でビジネスモデルが成り立たなくなったのと、スマホゲームが娯楽を丸呑みして他の娯楽産業が成り立ちにくくなったことが要因だと思います。
【追記2】
一時期赤旗読んでいた時期もありましたが、共産党はなんか支持できないんですよね。社民党支持者ですし。
ついでに社民党と共産党は『きんいろモザイク』と『あそびあそばせ』ぐらい違います。
まあ弾圧大好きな中国共産党とは今は一切関係ないですし、いざとなったら使うことは考えるかもです。
現時点ではいません。障害者福祉サービスのヘルパーさんにも相談したのですがなしのつぶてでした。
>障碍者年金という、絶対確実な毎月のインカムがあるなら、公的融資を受ければいいじゃない。
そういうのもあったのですね。余裕があったら調べてみたいと思います。
それに人間性はクズだけどそのクズさも一種のスパイスになる作品ならまだ許容される。ロマン・ポランスキーやフィル・スペクターとかね。被害者はたまったもんじゃないけど。
坂本龍一も間違いなくクズではあるが、クズゆえの人間性を捨てて作品のみに向き合った海原雄山みたいな解釈は可能。あと昔から左翼思想は隠そうともしていなかったので、アナーキスト的平和観や人類愛には比較的相性がいい。戦争をなくそうとか原発をなくそうとかね。
そういう意味で小山田の今回の件はテーマがやばすぎる。健常者も障碍者も健全にたたえるスポーツや人類愛を語る資格は外道の小山田にはさすがにない。
あくまで可能性だが、退場を求めない場合の倫理的な問題以外のメリットデメリットを整理してみた(ほかにもあれば追加よろしく)。
あくまで可能性だが、退場を求めない場合の倫理的な問題以外のメリットデメリットを整理してみた(ほかにもあれば追加よろしく)。
巷では小山田圭吾のイジメ問題で大炎上している。……どんな時代でもイジメはなくならないというが、イジメのスタイルや感性は時代とともに変わってきたようにおもう。
70年代は、ゴリゴリの暴力やカツアゲという"利益目的のイジメ"だった。社会全体が貧しく、不良はイカつげで、弱者や障碍者はカモだった。だが大多数の層は「見て見ぬ振り」か、せめて白い目では見ていた。
80年代は、お笑いブームと金余りもはじまり、不良はヤンキー臭があってもお笑いもイケる奴が「モテ」になった。暴力や貧しさという負の側面はイジることで笑い飛ばす風潮になった。ヤクザはヤッちゃんと呼ばれ、貧乏長屋はパロディになり、弱者や障碍者はイジりの対象になった。暴力的な不良でなくとも、弱者のみっともなさや不自然さを笑えば勝ち組に回れる。暴力より笑いのほうが平和じゃん?と。弱者をマジ顔で擁護する正義漢なんてアナクロだしダサい。強きを助け弱きをくじくタケちゃんマンは笑いにくるんだ本音としてウケた。そんなライト感覚で従来の一般層も弱者を笑うほうに回った。
90年代は、社会が隠蔽する負の側面を見世物小屋的に取り上げるサブカル民の一部……つまり従来のモテの条件だった暴力も金も顔も微妙だが面白いことは言えるし弁は立つ……が、80年代モテ系のイジメ作法を真似し始める。知的階級は弱者や障碍者を擁護すべしという戦後リベラル的な不文律を、「だーってそんなんじゃモテないし、助けてもいいことないし、素直に見たら笑えるじゃん?」と開き直った感じでもある。つまりはビザール系な知的興味の"対象物"扱いである。
かくて不良系のみならず知的とされる階層までが、「ジョークだよジョーク」、「悪ふざけが過ぎたけど一緒に遊んでただけ」、「社会参加しさせろというから仲間に入れて遊んでるんじゃん」とうそぶく、そういう笑いにくるんだ「道化イジメ」に精を出す時代ともなった。
小山田圭吾が「俺はアイデア出してただけよ?」と言い募るのは当然だ。彼はサブカル民だから、「あたまのわるい不良みたいに直接暴力に訴えるなんてダサイ真似は、この俺がするわけないよ?」と言いたかったわけだ。
前フリが長かった。
この時代のEテレに、児童向け特別支援教育番組の"グルグルパックン"というものがあった(1994~1999年放送)。かの有名な"ストレッチマン"が最初に登場した番組である。当時の生活リズムとちょうど合う時間に放送されていたのと、自閉症や知的障害の児童たちのゆるさとストレッチマンのハイテンションの不思議な空気感に、何となく習慣的に見るようになっていた。番組内容はゆるくて差別感や悪意も感じず、むしろ怪人に扮した支援学級の先生たちの奮闘や障害児童の頑張らない日常……チャリティ番組的なお涙頂戴ではない……は穏やかでいい感じであった。
ある日、寝ぼけまなこでテレビをつけた時、そこには隅に小さく番組のロゴが映っていた。自分は目を疑った。
https://pbs.twimg.com/media/EubSIAtVIAEI9Rp.jpg
寝ぼけた目に小さなロゴは、"クルクルパークン"……"くるくるパー君"と読み取れたのだ。(画像を縮小して、目を細めてぼやっと見てほしい。) ものすごい悪意を感じて、たじろいだ。
もちろん。「自分の目がボケてた見間違いでしかないじゃん」、「差別意識や被害意識のある奴はどこにでも差別を見出すんだよな」、「障害児童を画面に出すのも微妙なのにそんなヤバいことしないでしょ?」と、矢のような反論が飛んでくるのはわかっている。ただの見間違いから因縁をつけているだけと言われるだろう。ただあの、「弱者や障碍者に親切顔で接近しながら裏では小馬鹿にして嘲笑うことは、知的でイケてる層のウィットに富んだ身振り」とされていた90年代の雰囲気を踏まえると、何とも奥歯に物がはさまったような釈然としない気持ちにもなる。ましてや、「NHKでは知性や学歴を鼻にかける高慢で反抗的な奴はEテレに回される」という風説を耳にしていると、陰でイジメをする優等生が「見間違いで妄想して何を言っているんだ。邪推でみんなの善意と努力を否定する気なのか?」とうそぶくような、抜け道確保済みの確信犯的な振る舞いじゃないかとも思えてくる。いや、出てくるみんないい人だよ。それら全部を身内ごとひっくるめて嘲笑うような"見間違い"だから、知識人特有の底意地の悪い見下しを感じたのだが。
そういえば、このあたりから日本の成長は失われていったな。二枚舌が使えない者が"発達障害者"としてあぶり出されはじめた時期でもあった気もする。
真偽は謎の上に、四半世紀前のことを持ち出して因縁つける気もないが、世間の話題にのっかって「90年代はそういう風潮だった」と確認し、「だれか同じようにロゴに気づいてた人いなかったのかな」と書きおいてみたかっただけだ。読み捨てていただきたい。
障碍者の方の糞便を食した方が大物感でるだろうに
道徳の教科書にでも載せたらどうですか。障碍者をいじめてたいじめっこはやがてネットでみんなにいじめられました。そうです「いじめはいけないこと」ってあらゆる層にアピールできますよね。じゃあネットの人は?
件の共同声明について、女性フェミニストに対して是非を問うたり、踏み絵のように利用する事には抵抗が有る、
何故ならやはり女性は現在進行形で強く抑圧を受けている被害者であり(無論、そうした「男性」対「女性」の様な単純な二元論は当の声明で批判されていることは重々承知であるものの)
しかし、男性の場合はその様な遠慮は当然働かない。あの声明に対してどう考えるのか、フェミニストとして応答責任があるとさえ思う。
まず件の声明は「フェミニズムではなくヒューマニズム」との批判も受けているが、男性がフェミニストになる場合は女性と異なり、ヒューマニズムを経由する場合が殆どである。
理由は単純で、そもそも男性フェミニストは女性ではない以上、「何故ほかのどれでもなく、女性(差別)なのか?」という問いに応え得ない。
つまり女性ではない男性が女性差別を問題視する動機は、「そもそも差別は駄目だ」というヒューマニズムを経由せずにはほとんど成立しえないのだ。
だとすれば男性フェミニストは件の声明がヒューマニズムであったとしても、それ故にこそ声明の語る内容を拒否しえない。
ヒューマニズムを根拠に自己と異なる属性の人々(女性やLGBT、障碍者、貧困者、セックスワーカー等)へ共感を寄せ、それらの人々が受ける差別や苦難に反対する事は間違いなく正当だ。
しかしだとすればそれらの人々の間に優劣を付ける事は欺瞞ないしグロテスクな加害にさえなり得る、
例えば女性差別に反対する事は間違いなく正当だが、「女性を優先していない」事を理由に件の声明を拒否するなら、それはLGBTやセックスワーカー等をヒューマニズムの対象に含めないという極端にグロテスクな差別主義という事になる。
この事情故に、男性フェミニストにとってのあの声明は、女性フェミニストにとってのそれと取るべき対応がかなり異なる。
「女性を優先する」タイプのフェミニストを自任する場合、女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者という構図を採用する事が多いだろうが、そのような単純な二元論を棄却しないならば同時にLGBTやセックスワーカーに対しても強者・加害者とならざるを得ない自己の責任を果たさねばならないし、だとすれば声明を拒否しえないのだ。
「あの声明の内容に問題は無いが、フェミニストの名を冠するのは不当だ」という批判もあるが、これも適当ではないと私は思う。
件の声明が「再確認を呼びかける」ものである事に着目すべきだろう。文脈上、ほぼ確実にあの声明はそもそも「フェミニスト・フェミニズムの名の下にLGBTやセックスワーカーへの差別や偏見が蔓延している」現状を前提とし、
そうした現状を憂慮するが故に「再確認を呼びかけ」ている。そうである以上、あの声明は「フェミニスト・フェミニズム」に対して呼びかけなければ意味がないし、その必然性がある。
また声明の構成は「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」等のタイトルで区分けされ、その前に「フェミニストの原則の再確認:」と書かれている。
これは声明に書かれたすべてが「原則」なのではなく、「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」「❸拷問、非人間的な扱い、医学的虐待からの解放」といったタイトルが「原則」であり、そのあとに付される文章はその原則の「応用」「実事例への適用」と読むべきだろう。
LGBTやセックスワーカー等への言及はこの「応用」「実事例への適用」に当たり、原則そのものにはLGBTやセックスワーカー等への言及は含まれていない。
つまり「LGBTやセックスワーカー等への言及ばかりだからこれはフェミニズムではない」というのは声明の構成に対する誤読だと私は解釈する。
あくまでそれらは「原則」から導いた応用に過ぎないのだ。そして各タイトルはフェミニズムの原則として違和感のあるものではない。
また、それらが「あまりに一般的すぎる」事は、論理的に考えてフェミニズムという思想に対する強い信頼の反映だと考える。
つまり「あまりに一般的な」普遍的な人権に関する原則とフェミニズムはほぼイコールなのであり、普遍的な原則からフェミニズムは自明に導けるのだ、という強い主張である。
例えばフェミニズムが「女権拡大」の為のもので、女性を優先した原則を掲げなければフェミニズムではないと考えた場合、そのような思想は「女権を拡大すべき」「女性を優先すべき」という命題に同意する人にとってしか重要ではないし、従う理由もない。
けれども普遍的な人権に関する命題からフェミニズムが導けるならば、普遍的な人権に同意するあらゆる人はフェミニズムに同意しなければ矛盾を抱えていることになる。
つまり原則が「あまりに一般的すぎる」事はフェミニズムの普遍性を支持しているのであってその逆ではない。逆にフェミニズムを普遍的な人権と切り離してしまう人は、フェミニズムを自ら小さい、意味の無いものにしてしまっている(こうした論理的な関係は気付きにくいものなので、そこに気付かないことに特別過失が有るとは思わないが・・・)
こうした事について男性フェミニストや男性リベラルは真面目に考えることが出来ているのか、声明に応答できるのか、という事は注視すべきことであろう。(勿論私自身を含めて)