はてなキーワード: 心理的とは
(翻訳記事)...ニューヨーク・タイムズ(NYT)紙 〈全訳〉
https://note.com/wypcg332/n/n3ebb465bd5eb
これは労作だね。
トランス批判は宗教右翼云々というのが妄想で、実は大規模な医療過誤事件の可能性があるってことだ。
というかヤバいことやってるのがわかってて、口封じのためにノーディベートとかやってたんだろうな。
グレース・パウエルによれば、医薬的または外科的移行を行っている間、ジェンダー違和(GD)やうつ病の理由について誰にも全く聞かれたことはなかったという。彼女の性的指向について尋ねられたことも一度もなかった。彼女は過去の心理的トラウマについて一度も尋ねられなかったため、セラピストも医師も彼女が子供の頃に性的虐待を受けていたことを知らなかった。
「でも、もしこれがあなたの問題であるならば、治療法はひとつ。やるべきことはひとつであり、これがあなたを救う、と言われたのです」
"ジェンダー肯定モデル" の支持者たちは、その標準的な治療と自殺リスク低下との関連を示す研究を引用してきた。しかし、それらの研究には方法論的な欠陥があることが判明したり、完全な結論には至っていないと判断されている。ホルモン専門医の専門組織である内分泌学会誌に3年前に発表された、異性ホルモンの心理的影響に関する研究調査では、"自殺による死亡については、いかなる結論も導き出すことはできない" とされている。
昨年ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)への公開書簡の中で、9カ国21人の専門家は、この調査が "異性ホルモンによる移行(トランジション)が自殺予防に有効であることを示唆する信頼できるエビデンスはない" と考える理由の一つであると述べている。
追記見た。すごい変化!
①元々女性の方がカウンセリングに抵抗がなく、検索したらスクールカウンセリングなどでも女性割合が高いみたいな見出しを見かけた
男性の減少については、精神科を標榜する診療所が増加して物理的にも心理的にも行きやすくなったのと関係あったりしないかな〜と想像する。
( http://www.npo-jam.org/library/pt/26_4-2-2.pdf )
レスで苦しい時に「苦しさ解消」という観点では、悩みを相談して関係改善したりするのもアリなら心が落ち着く薬を処方してもらうのもアリで、精神科へのハードルが下がると薬を選択する人も居そう。
あと夫年上の年の差婚が減ってる≒同年代婚が増えてるようで、それと結婚年齢が上がってるのを合わせると、年の差婚の多かった時代よりは、男性の性欲ピークと女性の性欲ピークのズレが小さくなった(ので男性の悩みは減った)とか?
ネットで見られる出典不明のグラフでは、男女の性欲グラフは30歳頃交差するので、同年代婚なら男性の性欲が上回って困る期間はない。
2014年までと現在とでそこまで違うかってのは根拠として弱いけど。
まあこれだけで激減の理由全部とは思えないからまだなんかあるんだろうけど。
根拠薄弱に思いつきをダラダラ書いてみた。
これが冷蔵庫にあるだけで、
小さくて切りにくいし、指がべとべとになるし、くさい。
この心理的ハードルが越えられずに食卓に上ることができなかったペペロンチーノが今までに何皿あっただろうか。
それがどうだ。
こんな前向きな気持ちに、俺をしてくれる。
桃屋のきざみにんにく瓶詰めには、およそ30粒分のにんにくが入っている。
1食のペペロンチーノに2粒分使ったとしても、実に15食作れる計算だ。週に1回ペペロンチーノでも4ヶ月近く。そんなに……!
ちょっと待てよ。
30粒分のにんにくが入った瓶詰めはスーパーで買うとだいたい400円くらいだぞ。
もしかして、普通のにんにくをバラして皮剝いて庖丁で刻むより瓶詰めのほうが低コスト……?
そんなわけないよな。俺の思い過ごしだよな。
45、いや48ぐらい?それより上の人の、デフォルト不機嫌人間ってなんなんだろ。
今日仕事で20代前半〜55ぐらいまでの老若男女50人ぐらいで一日中一緒にいたんだけど
48以上になるとまじ不機嫌だし態度悪いしでびっくりした。
不機嫌&常にせっつく感じの喋り方&ちゃんと依頼せずに相手の落ち度を指摘してから依頼(?)したりとか。(ちな相手はなんも悪いことしてない)
自分より偉い人に対してはヘコヘコニコニコしてて、でもそれが全方位に丸見えなのがダサと思ってしまった。
(今日の人はまあまあすごかったから、あれヘコヘコされる側も恥ずくないのかねって同僚と話してた。)
てか、理由が無いならデフォルト感じ良く(or普通に)してれば良いのに…と思ってしまったけど、今更無理なのかな。
45以下ぐらいになると、偉い人でも感じよかったのが不思議だなあ。
なんか時代の違いなのか、年をとるとそうなるのか不思議だけど、
すごい、興味深い。
女性的な心理を感じるな〜。俺は男なので全く理解できない感覚だけど…。いや、男だからなのか俺個人の性質の問題なのか分からないが。
「ライバルに負けてたまるか」という発想が出てくるもんなんだな。「同担拒否」は男だとほぼ全く存在しない概念なので、この部分が女性特有の心理的な機序に根差しているんだろうなと思う。まあ古の「ライブハウスの観客席で腕組みしてうなづいてる彼氏ヅラオタク」ももしかすると似たような心理的機序なのかもしれないが…。
俺なんかだと好きなキャラクターや何かについて「他者」の存在が意識に上ることが全くない。根本的に、他人への興味がオートマティックに湧き上がる回路があるのが女性(あるいは一般の普通の人)なのかもなあ。
プラスマイナス岩橋は昨年離婚しており、今年に入ってから過激な暴露ツイートを連発して、とうとうコンビを解散して吉本興業をやめたという話まで出てきた。フリーでやっていくというが、大手にここまで大々的に弓を引いてしまった以上、今後テレビや大きな劇場などの仕事は望めず、地下やユーチューブが主戦場になるだろう(芸人を続けるなら)。一時的に取り上げられることはあるかもしれないが、ほとんど失業状態に入るのではないか。
ホームズとレイが作ったストレスを数値化する表(https://www.niph.go.jp/journal/data/42-3/199342030005.pdf)によると、配偶者の死を100として、離婚は73、失業は47とかなりの心理的負荷に同時に襲われることになる。おまけに強迫性障害を患っているらしい上、所属組織・相方・仕事仲間などの人間的なつながりも多く失ったわけで、本当に危うい状態にあると思う。近くの人はケアしてほしい……と言ったところで、そもそも「近くの人」などいるのだろうか。
岩橋は「ダウンタウン浜田と親しい制作会社社長からパワハラを受けた」「飲み会に出たらエアガンで撃たれた」件、及びこれらを吉本興業から削除しろと言われた件をツイッターで暴露しており、ネット民は吉本を叩く流れだが、むしろ(結果的にせよ)吉本は岩橋を守ろうとしていたのではないか。ハラスメントを受けたことについては別途専門家によるケアを望みたいところだが、人を呪わば穴二つ、誰かを攻撃をすれば返り血を浴びてしまうのは避けがたい(最近も、本人にはそんな意図はなかったのにネット民が攻撃をはじめ、それにショックを受け自死した(と本人が書いていた)痛ましい事故があった)。とりあえずSNSを取り上げ、仕事に支障がないように整え、返り血を浴びないよう心を静めるという吉本興業の判断は正しかったと思うのだが、岩橋さんはそれを切断して飛び出してしまい、ネットではヤンヤヤンヤの喝采である。
このままだと、SNSがまた人を殺したということにもなりかねない。SNSは罪悪感を極限まで分散する構造になっているので、背中を押した人は何も感じずにますます吉本を攻撃すると思うけど(芦原妃名子の件と同じ)。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20240219/1708344000
仕事内容についても実際には各職場、各担当で必要とされる能力が違う。
すべての人が同じ会社にいるわけじゃないでしょう。
〇〇さんはここではやって行きにくいけれど、あの会社なら適材適所でやっていけるはず。
そういう職場そのものの選択肢を増やしていけば、シロクマ先生のおっしゃるようなディストピアっぽい展開にはなりにくいのでは。
実際クセの強い人を同じタイプの人の多いところに集めていくと、トラブルの発生率がかなり違う。
勿論似た者同士だけになると考えが片寄りがちになるから、モデレーター的な人を普段何もしなくていいからとその集団に紛れ込ませておいて、あ、危ない!と思ったときだけさり気なく方向性を穏やかなものに変えることは必要だと思うけれど。
それの担当者が胃に穴を開けないように、その人たちの愚痴をお互いに話す場も必要だろうけれど。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
「言葉の意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会うものがある。
それは、言葉の意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉の意味とは、この言葉に出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である。
こうした考え方を基礎とする「意味の理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている。
言葉の意味に対するこうした考え方(「意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。
そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインがフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。
フレーゲが主として問題としたのは、数学の哲学、特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。
『算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである。
言葉の意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前に伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである。
(言語哲学大全)
さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人の経験、感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから、元増田は「意味の心象説」論者です。
意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉の意味を理解します。
1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。
2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉の意味はまだ理解できていない)
3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。
では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形の意味を理解しているでしょうか?)
意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉の意味を理解する、という主張に同意するでしょう。
1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。
2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。
3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形の意味"を理解する。
「三角形の意味を再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?
もしも、あなたがこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。
もしそうだとするならば、直角三角形は三角形ではないということになります。
なぜならば、
・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、
こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。
逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形は三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。
ところで、あなたがこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?
仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。
もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれるひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味を理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。
その時、私はこのように問うことができます。「あなたがこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。
「意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。
しかし、三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形の意味"を説明することができず、
無限の三角形を連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、
「意味の無限後退」に陥るのはむしろ「意味の心象説」論者のほうであることになります。
なぜなら、その人は三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶ二つの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。
つまり、あなたが主張する「三角形の意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?
(この時あなたは、三角形の形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形の形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)
ここで示された無限後退は、あくまでも「意味の心象説」がもつ問題によるものであり、
言葉の意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。
話を元に戻します。
何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さらに限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。
振袖は着たくない。
大学卒業を控えた今のわたしも、やっぱり袴は着たくないと思っている。
2年前は自分でもよく理由が分からず、親や祖母は一生に一度なんだから着ればいいのに、と言い続けた。
だけど、成人式=振袖の構図に乗っかるのはありきたりだから嫌だとか、親のお金で選ぶ=途中でやっぱやーめた、とかできない、心理的閉塞感が自分のファッション美学に反するだとか、適当な理由を並べて回避した結果、それでも一応新しく買ったワンピースで、中高の同窓会みたいなやつに出た。(地元に友達がいないので式自体は出ていない)
わたしの振袖が見たいと主張していた祖父は前年に死んでいたから、わたしの主張に強く反対する親戚は誰もいなかったからだ。
そうして2年が経ち、現在卒業を控えているわけだが、袴はやっぱり着たくない。
最初は、2年前着られなかった振袖で出ようかとも思った。白地にバーンとでっかい鶴に椿とかを背負ってカッコよく決めたいな、なんて考えて、一度はその気になってフリソデモードに足を踏み入れてみたり、伊勢丹の貸衣装を覗いてみたりした。
けど、親が寝た後の暗いリビングのテーブルに、ぽつんとパンフレットが置かれているのを見て、やっぱりなんか違うな、と唐突に思った。パンフレットの幸せそうなモデルさんにイライラしてきて、もらってきたばかりだけど丸めてゴミ箱に突っ込んだ。
表紙を一枚捲ると、「お母さんに感謝を」的な、そういう文言が書かれている。
お母さんに感謝。
一理あるかもしれない。女手一つで育ててもらって、一貫に通わせてもらって、私大に入れてくれた。そのおかげで、悪くない職にもつけたと思う。いまいち活かしきれてないかもだけど、それはまずはありがとう。
けど、わたしは忘れない。忘れていない。
幼稚園の時にヘアゴムを無くしたら、夜中までリビングに立たされて、父親が帰ってくるまで怒られたこと。裸足で踏むフローリングの冷たさ。布団に入っても温まらない足を手で握って擦っていたこと。
両親が離婚して、変わった苗字を学童でからかわれて悔しくて、帰り道泣きながら母親の背中に話したら、「そのくらいで泣いててどうするの?」と逆に怒られたこと。自転車の後ろで、溢れる涙を押し殺して、声だけは気丈に振る舞ったこと。
テストの振り返りがちゃんとできていないといって、窓ガラスに向かって投げ飛ばされたこと。ベランダに締め出されたこと。投げ飛ばされたときは、これでわたしが大怪我でもすればお母さんも肝が冷えるかな、なんてのんきに考えていた。ベランダに出されるのは慣れっこだし、じっとしていればそのうち「なんで入ってこないの」て迎えにくるから大丈夫。
正直、これを書きながら涙が止まらない。
ぜんぶ完璧に乗り越えたと思っていたけど、全然まだ、わたしのきずとして残っている。
「お母さんに感謝を」というキャッチコピーを見た瞬間、わたしはそのことを理解した。
母とわたしは今では普通に仲良しだ。だけど、今までの人生で、何度も辛い目に遭わされてきたし、わたしはそのことを許していない。だから、母親に、「普通の母親が享受できるはずの幸せ」を与えたくないのだ。だから、振袖を着たくないと思ってしまうのだ。
メカニズムを把握した瞬間、振袖に対するもやもやした未練は消え去り、親への復讐という素晴らしい目的のためになんとしても今回も、袴および振袖を回避せねばならない、という使命感で高揚してきた。というか、今までの所業を「振袖姿を見せない」だけで精算してやろうというんだから、わたしは相当心が広いんじゃないかとすら思えてきた。だよね?
言って仕舞えば後もう一つ理由はあって(似たようなことだが)わたしは結構完璧主義なのだけど、「振袖とは心から完璧に祝いの気持ちで着るものだ」と信じている。だけどわたしは卒業を大してめでたいことだと思わないし、親には複雑な感情があるしで、そんな状態の人間が振袖を着てニコニコするというのは言うなれば振袖というものに対する「解釈違い」なのだ。だからやりたくない。
ここに書いたことは流石に母本人には言えないが、誰かに聞いてほしいのでここに来た。ご清聴ありがとう。
丸めてゴミ箱に突っ込まれたパンフレットをみて、翌朝の母親が少しでも心を痛めることを願って。
イナゴがハーブ系の爽やかなフレーバーがあるので多少マシなだけで、
セミもバッタも固くてパサパサで旨味がなく、口の中に殻と羽がいつまでも残って不快だし、
カイコは中身がスカスカで噛み切れない皮をいつまでも噛んでる感じ。
バッタ系の強靭な脚が噛み砕けずに歯茎や上顎に刺さって流血沙汰になるしで、
触覚も髪の毛食べたみたいな気持ち悪さありしね。
あなたは好きに描いていいし、女性キャラをどんな体型にしようと自由だよ。
でもさ、一度世に出してしまえば、ある程度の人に、女性性を釣り餌にして利用してる? と疑惑を抱かせてしまうよ。心理的安全性を提供してくれるペット、という女性のステレオタイプを強化してる、と批判される。本当に乳房の大きいキャラクターにする必要性があったのか、手癖で描いてないか、リアリティがあるかなどなど、性的強調する合理性を疑われてしまうわけ。
現実の女性の身体は、天が与えてくれたもの。自分で自由にいじれる余地なんて、実はほとんどない。
でも、フィクションの女性の体は創造主が自由に作れるのだから、あなたが全責任を持たなきゃ。
言っとくけどこれ、男女逆転させて高収入185cm男性でも同じだから。
表現の自由には責任が伴う・誰も傷つけない表現なんてない・誰かを傷つければ必ずクレームがくる。
クレームを出すのも表現の自由なので。もし、それらのクレームを「知ったことか」と撥ね付けるなら、あなたが胸に抱いてるのは、覚悟じゃなくて開き直りです。巨乳を描くならちゃんと覚悟を決めて。
じゃあどこでどうやって自死するんですかっていう話になる。
服毒が最もマシだが、それ以外の方法は部屋がめちゃくちゃに汚れる。
さらに心理的瑕疵(事故)物件として告知義務が発生し、借主が減り更に家賃も下がる。
現実にビルから飛び降りた女性が歩行者に衝突して死亡した事件が起きてるし、
今は少ないけど自爆テロや焼身が増えれば増えるほど社会リスクになる。
車で移動中にいきなり自殺志願者が飛び込んできて轢き殺して過失運転致死傷罪に問われる意味が分からん。
誰も知らん山奥でって話もなくはないけど、それが個人所有の山やったらやっぱり迷惑になる。
国の山でも急に見つけたらビックリするし、そいつの身元を割るための人員も国税から出る。
はっきり言って人間が生まれて生きてきて一人で死ぬときに迷惑にならない死に方ってほとんどない。
だったら、死ぬ用の施設で死ぬための準備を全て整えたうえでスッキリ死んだ方が
制度による部分はあるだろうけど、当然、安楽死だってタダじゃねーんだろうから、
自死に巻き込まれる人間にしたって、ただ自死に巻き込まれるよりはメリットがある。