はてなキーワード: 実践とは
作ってみろってのは初学者に対して言ってる場合、あくまで学習目的だから成果物の質は求めてないよ。
helloworldは出来たけどだから何?ってところで止まる人が多いから目標を作って実践しながら憶えてもらおうってだけ。
プログラミングを生業にするために一番簡単なのは、未経験可・学歴不問でエンジニアとして雇ってくれる会社に入社することかと思います。
自分は専門学校や大学に行かずに実践からプログラマになったクチですので、
以下、ご参考にしていただければと思います。
1. 普通科高校卒業(当時PCを持っておらず、プログラミング経験ももちろんなかった)
2. 高校出た後プログラミングとは全く関係ない仕事を数年やる。飲食とか色々
3. 2に限界を感じてプログラマーに転職。未経験可・学歴不問のSIerで派遣プログラマーとして雇ってもらう。プログラマーを選んだのは、当分食いっぱぐれなさそうだから。与えられた課題を解決するために必死で勉強したのでここで基礎ができたと思う。最初は先輩エンジニアがお題を色々くれて、そのお題の中で必要な知識を解説してくれた。大抵は先輩が開発しているシステムの一部の小さい部品がお題になっていた。ディレクトリを指定したらその中のファイルから特定の文字と数字のセットを抜き出して数を足し合わせるシェルスクリプト、とか。ある程度慣れてきたらバグ修正や機能追加のタスクをふってもらえるようになった。一つ一つのタスクが勉強になりました。
https://anond.hatelabo.jp/20200519162131
そもそもプログラミングスクールでやってるような「プログラミング!」っていう内容はここ最近の分野なので
例えば英語学習みたいな長い歴史もないし経験則もないのでいい加減なものが多いのはしょうがないと思う
あと50年もすればそれなりにこなれてくるかもしれない
その一方でプログラミングの背景にある情報理論や構造的プログラミング、OS構造の考え方みたいなのは普遍的なので
(まぁそれも英語・数学の学習に比べると歴史が浅いから完璧ではないと思っているし、大学による差が大きいと思うが)
問題は情報理論やプログラミングの考え方、Moden Operationg Systemsを読んだ、とかだけだと実際の現場で役に立つとは限らない
英語の文法は知ってるけど喋れないのとか、数式は解けるけど社会課題を数式に落とせない、とかに似ている
そういった面でも実際のプログラミングを行うというのも非常に重要で、英語に対する英会話に相当する
英語(文法)知らないで英会話だけ学んでも、まぁそれなりに喋られるようにはなるのかもしれんけど
プログラミングは5年もすれば喋り方が変わってたりするので全然話せなくなる
なのでプログラミングだけをやると5年もすると使えない知識になって、その都度多大な苦労をして学び続けることになる
この辺は理論的な普遍的な部分をしっかり学んでいれば喋り方が変わるだけなので実はそれなりに対応できる
(たまに文法も変わるが、ドラスティックには変わらないのでそこまで問題にならない)
プログラミングだけをやって、その理論を学ぶこともできなくはないが
限られた人にしか難しいだろうというのと、そういう人は先に理論をやった方が早いとも思う
てことで、プログラミングを学ぶにはとにかくプログラミングしろ、っていうのはやや暴論で
その中で英文法を学ぶこともできるとは思うけれど、先に文法を学んでからやった方が効率がいいに決まってる
プログラミングを勉強するなら情報理論やOSの基礎的な話・考え方あたりを学んで
その上で実践的なプログラミングをやるのが1番の近道だと考えている
簡単に言うと、情報系の大学に行ってちゃんと基礎的な授業を受けるのが良い。
外国語学校に通いながら英会話スクールに通う人みたいに、大学に通いながらプログラミングスクールに通うという手もなくはないが
配偶者は性処理のために存在しているわけではないから、増田は既婚者でありつつ自ら性欲を解決する素晴らしいフェミニズム実践者だ。
恥じる必要はない。
むしろ誇っていい。
所属する会社はコロナ対策に素早くて、3月上旬からずっとリモートワークだった。
午前:仕事
午後:仕事
しかし、3月末に、政府が緊急事態宣言を発令するだのしないだので事態急変。
我が家は流行りの住職近接を実践しており、会社は徒歩圏だ。しかし、家は狭い、古い、高いの三拍子揃ったジャパニーズウサギ小屋。
子供の遊びは公園や児童館。家は食事と睡眠だけ。家事は家電に課金して物理で殴れ。こんまり最強と割きっていた。
そんな状態で、非常事態宣言→保育園休園になったら、仕事は子供に邪魔され、ストレスから家庭内が険悪になるのは目に見えていた。
迷うことなく、非国民の謗りを受ける覚悟で疎開スタート。コンクリートジャングルから、限界集落一歩手前の実家へ。
老親だけで暮らす実家は広い。1階は車庫と農作業場、2階は生活空間、3階は使用者のいない子供部屋。そして離れの倉庫。かつては酒を密造していたらしい。この広大な空間に3人ばかりが増えても何のことはない。
そして家に潜む沢山のモノ。それは、私が昔遊んでいた汽車や飛行機、トラックのオモチャだったり、小学校の教材だったり、五月人形だったり。今の自分なら間違いなく断捨離しているモノたちが、子供達に娯楽を与えている。
さらに家の周囲は、山の裾野まで広がる田畑に囲まれている。仕事の息抜きがてらに少し家から出ても、他者との濃厚接触や3密など望むべくもない。まあ、疎開者に厳しい目を向けられているのは感じるが。
しかし、これらの環境は老親による維持の賜物である。長男の私をはじめ、兄弟全員が都会を選んだ我々は、早晩訪れる親の死によりこれらを失う訳である。
田舎を出た時点で取るに足らないと切り捨てたはずの価値を今、見せつけられている。
私は、何もない、閉鎖的で、陰険な風土の田舎を憎んで、都会に出たのではなかったのか?そして良い学歴、良い職歴を得るために努力したのではないのか?
しかし、僅かばかりに高い給与を得るために、狭小で閉鎖された都会にひしめき合い、消費を強要されながら生きている。
コロナが終息した後には快適で便利な都会は戻ってくるのだろうか?
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
公の場で「同性愛者は気持ち悪い」なんて言おうものなら袋叩きは免れないけど、「小児性愛者は気持ち悪い」は全然許される
同性愛が加害を伴わずに実践可能なのに対し、小児性愛は判断能力のない(とされる)児童への性的搾取を行わないと実践できない(とされる)のが原因だろう
結局みんな加害性に厳しいんだよな
同じ障害でも無害な奴は「かわいそう」、有害性があるとなんなら障害だということすら認められない
例外は電車の中で騒いでるタイプの知的障害者くらいか 彼らは明らかに有害だし、存在してるだけで不特定多数の人間に不快感とか不安感を与えときには実害すらもたらすけどアンタッチャブルだからすごい 活動の成果なんだろうな
まあでも、ほかの有形無形の加害性は厳しく排斥されてるのは間違いない 痴漢なんかも一種の病気っぽいけどその点はほぼ無視されるし、月経前症候群もどうしようもない割にいい顔されない
人間以外でもそうで、普段アニマルライツに厳しくてエビなんかを生きたまま捌こうものなら烈火の如く怒り出す外国人もスズメバチが粘着シートで苦しんでる動画には「火をつけろ」なんてコメントを残す
いかに加害性をなくすかが生き残りを左右する時代になってきてる気がする KKOは加害性がない割に嫌われてるけど、まあ臭さとかキモさが加害だっていうんだろうな 救われねー
ちょっとした外出のたびにマスク出す必要ないしマスク使い回してるとかどんだけ不衛生なんだよ。
ないよりマシ?無くても変わらんだろ。根拠のない思い込みでマスクしてない人を叩くのやめません?
そんなことよりも手洗いうがいをちゃんとやる、3密の場所になるべく近づかない、仕事は休む、人が少ない時間帯に活動する。
これをしっかり実践してればいいよ。
偽善者とか、そういう目で見るつもりは全くないけど、何か、テレビもスポーツ選手のyoutube流したり押しつけがましいし、こっちも同じようなの何回も見せされてるし、
さすがにこっちもそこまでバカじゃないと思うし。
「今はガマンしよう」なんで、よく分からん有名人に言われるのも癪にさわる。
やろうと思ってる、実践してるのに、テレビのニュースとかで訳の分からん有名人の「ステイホーム」なんで何回も言われるのって、どうなの。
誰に向かって流してるの?超一部のパチンコ屋に並ぶ連中に、幼児園児を諭す感覚で言ってるの?
ほんと、テレビの人たちの、馬鹿にした感覚は前から癪に障る。だったら見なきゃいい、と言われるけど、全方位網では、低いところに合わせなきゃいけないから、
自分のブログで書いても影響力ないし、最近は新型コロナを盾に、他人の攻撃や批判しかできない腐った連中が多いので、ここに書いてみようと思う。
それにしてもこの1ヶ月、日本語圏において、まじで言論の自由がない。ここは地獄か?
このあとどうなるか、個人的な予想を書いてみようと思う。
自粛はどうせ "ムード" だ。個人の考えで行動しているわけじゃない。
今は "自粛" って声がでかいやつが騒いでるから、同調圧力で自粛してるだけだよ。
日本人はみんなと同じことをすればいいと思っている、自分で考えることをやめた奴らばっかりだから、ムードが変われば流れは変わる。
個人的に、COVID-19 を "封じ込める" 事ができると思ってるやつは脳味噌お花畑だと思っている。
今の時代人と接触しないなんで不可能なので、どうやっても感染経路を断つことは不可能だし、そもそも人間が媒介ではない可能性だってあるわけで。
治療薬だワクチンだ騒いでる奴らもいるけど、薬の研究なんで数年~数十年掛かるものだ。
第一、薬ってもんは病気を治すわけじゃない。病気と戦う人体をサポートしてくれるだけだ。
ワクチンだって、わざと微量のウイルス入れて安全に免疫つけされてるだけなんだから、感染しなくなるわけではないってことが理解できない奴らがいるようだ。
あと、新型コロナ関連で死んだ人は基本、肺炎で死んでるわけだが、COVID-19 が肺炎を引き起こすのではなく、肺炎は併発で起きるものだ。
だからそういう人は、インフルだろうと風邪だろうと、肺炎になるときはなるし、死ぬときは死ぬ。
こう考えると、どうやっても集団免疫の獲得以外に勝ち目(?)はない。
しかし、医療崩壊を防ぐっていう意味では自粛に一定の価値があるのは事実だろう。
ソーシャルディスタンスという言葉が広まり、実践されていることは素晴らしいことだ。在宅勤務によって満員電車の混雑が緩和されたりしていることも効果はあるだろう。
けれども、経済活動を止めてまで自粛するのは、正直無理がある。2週間~1ヶ月がどうやっても限界だ。
新型コロナで死ぬか、経済的に死ぬか。死ぬ確率は前者のが低いだろう。
あともう一つ。
これは緊急事態宣言関係ないが、なんか "死ぬ" ということに対して勘違いしているアホが多い気がする。
新型コロナに感染すれば死ぬ、感染しなければ死なないと誰が言ったか?
そんなことより家でマクドばっか食ってるほうが生活習慣病で死ぬだろうし、買い物行く途中に通り魔に刺されるか、車に引かれて死ぬかもしれない。
また、新型コロナに感染しなくても、ガンや心筋梗塞で死ぬかもしれない。インフルエンザで死ぬかもしれない。
そもそも、人間の死亡率は100%だ。死のリスクなんて、生きてる限り一生付き纏ってくるもんだ。
新型コロナで死んだのは、この数ヶ月で500人程度。去年、交通事故では3,200人死んだ。インフルエンザだって毎年3,000人は死んでいる。
たぶん、今年は自殺者増えるだろう。新型コロナ自粛騒動で人生立ち行かなくなった人たちから、連日のように自殺者が出るんじゃなかろうか。
この状況で、過度に新型コロナだけを特別視する必要あるといえるのだろうか?
確かに新型コロナは怖いが、そういう人たちは交通事故が怖いからって家から出ないのか?躓いたら骨折するからって立ち上がらないのか?そんなやつはマトリックスのあの幸せな夢を見れる機械にでも繋がれてろ。
感情ではなくデータに基づいて行動すべきだ。全く、世界ははどうなってんだか。