はてなキーワード: 功名心とは
大手メディアは本イベントの批判を「木がかわいそう」などとまとめていますが、実際は「震災の鎮魂と復興と再生のテーマにふさわしいイベントなのか」「実行までの不透明な過程」「主催者の二転三転する説明への不信」などが焦点になっています。
会期も終わり、クリスマスツリーとされた大木は、植樹と言われながら根付くことなく伐採されました。
自分の心を整理するため、主催者に被災者の鎮魂、復興と再生を謳ったイベントの主催としての誠意が全くみられなかった、という点について書きたいと思います。(他の面については他の方が証拠を揃えて書かれていますので、書きませんが、重大な問題だと思っています)
◆◆◆
神戸の街と人々は、22年前に地震という自然の力に否応無しに痛めつけられました。大切な物を喪い、傷つき、絶望した記憶は、街が復興を遂げたとしても癒えるとは限りません。中には望まずして愛する街を去らねばならなかった人もいました。
そのような人々に対して、健やかに山で生きていた大木を功名心とも思える動機で切り出して、にぎやかなイベントのアトラクションとして据えることが、鎮魂の象徴にふさわしいなどと、どうして思えたのでしょう。本来であれば、主催が説明をすべきことですが、彼らはいくら真摯な意見を受けても、説明する責任を果たしませんでした。主催の西畠清順氏は、会期中5回以上のトークイベントを設定しながら、このテーマについて語った言葉は数えるほどしかありません。関係者は説明から逃げ「嫌なら見なくていい」と放言したり、中傷されたと被害者ぶったり、わざわざ直接ではない言い方で「くだらない」「厄介な傷つきやすさのアピール」と侮辱をしたのです。
私には、否応無く採取と輸送で痛めつけられ半死半生で潮風にさらされる木が、150年以上にわたって自らを育んだ地から強制的に引き剥がされた木が、被災した神戸の人々に重なってなりませんでした。震災を経験した方の中にも、そのように感じ、つらい記憶が生々しく蘇って苦しんだ方がいらっしゃいました。それは、西畠氏が仕掛けた「この木への感情移入」に少なからず原因があったと思います。
また、何より許し難かったことは、被災地の子供たちに願いを書いてもらったオーナメントが無残に風にちぎれ飛ばされていたことでした。主催にとって、「鎮魂と復興と再生」というのが単なる都合の良い大義名分以上のものではないということを如実に示していました。
私は、悲愴な記憶を「もう○年前のことだから」「自分には権利があるから」と、踏みにじってもよいもの、利用してもよいもの、軽んじてもよいもの、として扱う鎮魂ビジネスを断固として拒絶します。
そしてその姿勢を是とした西畠清順、糸井重里、そら植物園、フェリシモ、神戸市等への不信感を決して忘れません。
いつか、東北や熊本で同じようなことを企む輩が出るかもしれません。震災に限らず、聞こえのよい大義名分のもとに、メディアに守られたならず者が土足で人々の思いを踏みにじることがあるかもしれない。
その時には亡くなった者、傷ついた者の尊厳を守るために断固として戦わなければならないと思いました。
参考)
有川浩さんのブログ https://ameblo.jp/arikawahiro0609/entry-12336781681.html
いいなさんのブログ(本企画の時系列) http://iina-kobe.com/entry88/
純粋に仕事がらみの人間関係だと思っていた上司や部下、同僚や取引先に、とつぜん性的な接触をされたら、男女にかかわらずショックを受けるだろう。仮に性的要素がなく、単に好意を示されただけでも、違和感を感じるのが普通だ。された方が「気持ち悪い」「そういうつもりじゃなかったのに」と思うのも無理はない。
もしもそう感じた人がいるならハラスメント、という原則でいえば、それをセクハラと感じる人すらいるだろう。「被害者」の彼ら彼女らには、本当に同情する。#MeTooで本当に救われるべきは、そういう人たちだ。
まあ「加害者」側だって、単に好意が抑えきれずに溢れてしまっただけなのに(もしかするとそれで相手の好意を引き出せるかもしれないのに)、それはやってはいけないのが現代のビジネス社会というものだ。
しかしだ。それは「被害」を訴える側が、純粋に仕事関係の相手だと思っていた場合の話だ。もしも一方、例えば女性が、
「気にいってもらえたら、早く希望の場所にいけるかもしれないという思いがありました」
という意図で男性に近づき、その反応として性的な接触があった場合には、先述したセクハラ容疑と同様に扱えるだろうか。
警察に行ったって「あんた、それは自業自得じゃないの?」と言われるのがオチだ。それが適切かどうかはともかく、ホンモノの極悪犯罪を数多く見ている人からすれば、そのあたりが「相場」というものだ。そもそも、加害者といわれる岸氏による、
「俺に気に入られる絶好のチャンスなのに体も使えないわけ?」
という発言は、
「気にいってもらえたら、早く希望の場所にいけるかもしれない」
岸氏は、これが若い独身女性という属性を利用した「色仕掛け」であると認識していたかもしれないし、認識していなかったかもしれない。
しかし、はあちゅうのやったことは、実質的に「色仕掛け」なのである。
岸氏の言葉を取り出し、文脈から切り離してしまえば、読者は冒頭で示したようなショックを受けるのが自然だ。ところが、実際に岸氏がはあちゅうにそう言った「文脈」は、そんな純粋な仕事関係ではなかったのではないか。
電通の女性同僚で声を挙げた人が少ない理由は、「図々しく色仕掛けに勤しんで返り討ちに遭ったあいつと、私は一緒にされたくない」と思っていたからではないだろうか。そして、被害を声高に叫ぶはあちゅうから、『「自分」を仕事にする生き方』とか、“そんな「自分」を無駄なく有効活用して、楽しく生きていくための方法”とか言われても、冷ややかに見る人が多いのではないか。
ただ、個人的には、いちばん罪が重いのはバズフィードの2人だと思う。私がデスクなら、この構造を見逃すことはなかっただろう。彼らが功名心と薄っぺらい正義感(あえてこう言おう)だけで暴走したから、#MeToo は冷水を浴びせられてしまった。否定する前に、いちど反省してみるがいい。
なんたる損失・・・。
原因は、岸氏とはあちゅうが無意識に共有していた、ある「制度」を彼らが見逃していたからである。本当は、その「制度」自体にメスを入れなければならなかった。しかし、それをやるためには、岸氏のみならず、告発者であるはあちゅうもが抱えていた、どす黒い人間の欲望の闇に直面する必要がある。
無邪気な彼らには、無理だったのだろうが・・・。
基本的に欧米の概念やムーブメントの模倣・後追いで展開するのが日本のリベラル運動なんだけど
この「欧米の概念やムーブメント」の日本におけるアーリーアダプタ-って
わかるでしょ。
アーリーアダプターになるのって情報力があって慎重さが薄いタイプ。
まずオタクやマニアであり、その次が投機筋や山師みたいな勢力。
そして思想概念や社会運動のアーリーアダプターにはマニア・オタクの人達はならない。
彼等は人とつるんで自分達の利益を目指してガツガツっていうのにそれほど興味ないから。
自分の利益や自己実現のためなら他人なんかどんどん踏みつけにして心が痛まないタイプ。
マニアやオタクのように自分の分野での正確性へのこだわりもない。
なので、
欧米で生まれたリベラルの概念やムーブメントが日本に導入される時って
自分の利益や自己実現第一のサイコパスっぽい山師がだいたい背後にいることになる。
子供の人権に関する国連特別報告者を1番上手く使いこなしてたのは「日本の女子学生の13%が援助交際してる」とかデタラメを世界に吹聴して恥じない女だったし、我が国でのmetoo運動の旗手に収まったのは我等がアレというわけ。
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。
まあパクりってのは長期的に考えるとその人のクリエイター生命を確実に短くするんだけどな。
粉飾決算と同じで、一度始めると後戻りができなくなる。
最初は他の人のちょっとしたアイディアから自分の発想にして創作してるつもりでも、何度か繰り返すうちにそもそも自分の力で何かを作るって方法がわからなくなってしまうんだ。
もっともカクヨムあたりで創作するよりプログラムの穴を見つけて閲覧数増やす方法に注力してる連中はクリエイターとしての魂?何それくらいの功名心だけで動いてる連中だからクリエイターとしての寿命も最初からゼロのゾンビなんだろうが。
なんか色々と疑問を感じる。
この動画では、有名なドローン少年が有楽町で、飛べないドローンのカメラ機能を使って、ネット配信中に
警察に囲まれたあげく強制的に連行されている場面の一部始終が確認できる。
https://www.youtube.com/watch?v=GIeJcIovzmo
警察が途中でしきりに「危ないからカメラをしまえ」と言っているが、
もしカメラをしまったら、その瞬間に、もっと強引に連行されていたのではないかと思い、恐怖すら感じる。
違うのかな?理由がわかる人は教えて欲しい。
まさか本当に危ないと思っているわけないよね?
一番気持ち悪いのは警察がここまで必死になる理由がよくわからない点。
これは無いよね?
確かに落ちて来たら痛いかもしれないけど、このドローンは大きさの割りには軽いし、羽も小さいから
よほどピンポイントで思いっきり目に刺さったりしない限りは、ほとんど問題ないと思う。
そもそも飛ばせないと説明しているし実際にプロペラを取ってて飛ばしたくても飛ばせない状態なのは見ればわかるはずだ。
これも微妙。
そもそも飛ばせないし、万が一どこかで飛ばされて、それが最悪の形になったとしても、
それはこの少年が悪いのであって、警察の面目がそこまでつぶれるとは思えない。
彼のドローンはみんな知ってるから何かあったらすぐに逮捕できるし。
これも違う気がする。
身分を明らかにしている時点で、そこまで警戒する必要は無いよね?
「なぜあんなに危険そうな人物をちゃんとマークしてなかったんだ!」と非難されるのが嫌とか?
ナイフなどを所持していて、誰かを刺しでもしたら「なんで職質してたのに、解放してるんだ!」と言われるのが嫌とか?
でも、やっぱりこれも無いと思う。
むしろ何か事件が起きたら「いや職質したけど任意だからと拒否されました。我々にはもっと力が必要です」と主張して
警察の権限を高める方向に世論を動かせるきっかけになるのでは?
こんなしょうもない理由で?とも思うけど、これが一番ありそう。
つまり「任意ですよね?拒否します」と言われて、そのまま解放したら警察の面目がつぶれると思っているのではないか。
この少年に危険はほとんど無いのは理解しているけど、そんな事はどうでも良くて、とにかく捕まえたいのでは?
反抗的な態度を生中継している時点で、もう何がなんでも捕まえて、警察の力を見せつけないと気が済まないのではないか?
とくに、羽を取ったドローンでわざわざ撮影しているので、それを警察に対する挑戦だと受け取った可能性が高そうに思える。
警察に反抗する奴は、違法性が無くても問答無用で攻撃する、という態度に見えるのだが、違うだろうか?
どのケースでも私服警官(?)が何かをする前にすぐに声をかけている時点で、この少年は警察に完全にマークされているのは確実なのだが、
警察がそこまでする理由がイマイチはっきりしない。官憲にたてつく奴は全力でつぶすというメッセージだと考えるのが一番腑に落ちてしまう。
いずれにしても、現場の警官は上の命令にただ従ってるだけで、彼を捕まえなきゃいけない理由はよく分かっていないのではないかと思う。
そうじゃないと、あれだけの数の警官がお互いに相談もせず悩みもせずに、ただ粛々と職務を遂行している理由がわからない。
この少年は一目見て危険だとわかるタイプでは無いし、生中継してるならむしろ危険性は少ないはずで、絶対に捕まえなきゃいけない理由はないと思う。
微妙なラインなのに、全員が何の迷いもなく粛々と職務を遂行しているのは、すごく違和感がある。
それと面白いのは皇居の近くで捕まった時もそうだったが、パトカーに乗せられた瞬間から警察が無反応になる点。
路上では色々と質問したりして賑やかなのに、パトカーに乗った瞬間から態度がコロっと変わるのはなぜ?
他人には「ちゃんと答えなさい!」と高圧的な態度なのに、自分たちは答えないって、どうも納得がいかない。
あと「なぜ強制的に保護したのか?」という問いには絶対に答えないんだけど、これって本当に大丈夫なんだろうか?
法的には完全にアウトだよね?
などなど、とにかく色々と疑問が多過ぎる。
法治国家って言ってるのは単なる建前なんだなーと、つくづく感じる。
一方で、この少年というか、生配信というものにも問題が多いと思う。
配信者は多くのビューを獲得するために出来るだけ過激な映像を撮ろうとする。
この少年も、建前では「江戸城から見える景色が知りたい」などと言っているが、
本音は警察などとトラブルになった方が美味しいと思ってるよね?
トラブルになる事がわかってないとは思えない。彼はそこまで馬鹿じゃないと思う。
普通の人だったらビビってしまうような場面も彼らにすれば美味しい場面なので、
恐怖心より功名心の方が勝ち、結果として勇気のある人に見えてしまう。
うらやまけしからんので、この仕組みを広く知らしめて、効力を無くしたい。
駅ナカの土産屋だから利権云々は仮にそうだとしてもさもありなん。って感じです。
今、嫌がらせ受けた!岡山はクソだ!地元の新聞ガー!きびだんごの企業ガー!
「ももたん」を取り扱ってくれない!下等生物である岡山のクソ達が褒めてくれない!もっと俺を褒めてくれ!ふるふる。みたいなね。
読み進めていくと、とにかくこればっかりがハナにつくんですよ。
見下している岡山の人間相手に、猜疑心のありったけをぶちまけてるのみるとね、もう。
この人は、岡山を、岡山土産をもっとみんなで盛り上げよう、って気はないんだろうね。
もう全部俺!俺の手柄!俺以外の岡山土産はクソ!クソ食ってんのと一緒!みたいなね。
うれしかったんだろうね。でも誰も相手にしてくれなかったんだろうね。
で、心を入れ替えて出なおして、名を挙げたらいい。
■ http://anond.hatelabo.jp/20131211200208
一方話が難しくて分かりにくい人とは、難しい話を本当に、自分の理解しているのと同じような理解度で理解してもらおうと思って話す人である。
コミュニケーションには理由がある。
1:ただ情報を伝え知ってもらう
2:理解してもらう
3:理解した上で何か行動に移してもらう
4:行動に移したうえで何か成果を出してもらう
大きく分けるとこの4つ。
1ならばどんな方法でも内容でも良い伝えたいように伝えればいい。
2は厄介だ。
そして、
理解の度合いをどの程度に設定するかにより、
頭が良いと言われるタイプは、
相手が理解可能なレベルの把握と、
3、4はもっと難しい。
ちなみに、
2を目的にはしているけれども、
それを出汁に、
単に説明することが好きなだけ、
やっぱりみんなモチベーションに対して何かしら思うところがあるんだなあ、と実感。
で、こういったモチベーション関連のネットの意見を見ていて一言言いたいことがあるんだが、
みんな「できる人」を神格化し過ぎ。
「できる人はモチベーションを標準装備してる」だの
「できる人は創らなきゃいられない、とにかく創りたい、って欲望を最初から持ってる」だの
君らはできない人達のくせに何を勝手に想像して語ってるんだ。何を知っているというんだ。
モチベーションに悩む人間をバッシングする為に、勝手な想像で「できる人像」を作り上げて押し付けることがどれだけの才気ある人間をダメにして潰しているのか君等は自覚しているのか?
努力できない、自然に創作意欲が沸き起こってこない俺は創作が上手くなれないんだ、と思わせて諦めさせて楽しいか?君達。
君らこそ口じゃなく手を動かしたまえ。
モチベーションは技術と環境で作り上げることができる。決して天賦の才ではない。
大体できる人って人並みにやる気や努力について悩んでるし、けっこう嫉妬や功名心の強い人が多くて中身はドロドロしてるよ。決して無敵の聖人君子ではない。
できる人が聖人に見えるのは、周りから褒められることで謙遜してるか、精神に余裕が出来ているからだ。
実際君らの言う「できる人」を本当に体現しているのはヘンリー・ダーガーのような人のことを言う。
ビジネス関連でもよく見かけるんだよね。
「できる人は嫌いな人間について考えない」
「忙しい人は忙しいと言うヒマもない」
「できる人は〇〇を習慣にしている」
とかね。うそつけ。焦燥感を煽る商法なのか、新書のタイトルでもよく見かけるけど。
記者20代後半。
ツイッターの記者クラスタの人たちがみーんな「実名は必要」「亡くなった人の人生を伝えることに意義がある」とか言ってるのに違和感を感じて仕方ないので、備忘録的に感じたことを書く。
何の落ち度もない被害者たちの名前を公開する必要はない。報道の仕事を経験したからこそそう思う。
日揮の判断は英断だったと思う。社員をちゃんと思ってるいい会社だ。
記者が殺到して遺族の心がかき乱される可能性がある以上、教えてはいけない。
新聞は一昔前のテレビや雑誌みたいにマイクやカメラ向けて「今、どんな気持ちですか?」みたいなゲスな取材はしないけど
それでも締め切りに追われて殺気だった何人もの記者に押しかけられてピンポン連打されたり、近所の住民からも話を聞き出されたりして気持ちいい人はいないだろう。
「話を聞いてもらいたい、亡くなった人のことを世に訴えたい遺族もいる」という意見もあるけど、俺には言い訳じみて聞こえる。
「一切取材されたくない人」に合わせるべきだ。
ツイッターでは遺族取材にこだわる理由を「売りたいだけでしょ」と決めつける意見に「記者も遺族取材は辛い」「これを報じれば売れるとか数字になるという意識はない」と答える記者もいた。
確かに売れることを考えてる記者はまずいない。が、それは単にセクショナリズムのせいであって、功名心すら一切ないと言い切れる人はいないだろう。いたら信用できない。
よくデスクに「泣かせで書け」「いまいちインパクトが弱いな。もっと心ゆさぶるエピソードないの?」と言われたなー。
刷りを見たら遺族が勝手に「声を震わせた」ことになってたのもざらだった。
酒乱でどうしようもないオッサンでも、性格がゆがんでいて両親も手を焼いていたガキでも、近隣住民から死んでせいせいしたと言われる強欲ばあさんでも
「事件事故の悲惨さを世に訴えるために」(そして「泣かせる」社内でも評価の高い記事に仕立てるために)と悪いところは捨象され、紙面では悲劇の聖人になって登場する。
そんなん読ませて何になるんだ?
いやまあ、それで悲しいとか辛いとか心動かされたとか言う人は一定数いて、それで飯を食ってはいるんだけど。
これはやっぱり、弔いとか、そういう美しいものではないよな。
「仕事は、社会は、そもそもそういうえげつないものなのだ」と言ってしまえばそれまでだが、えげつない行為を正義で塗り固めて恥じないほどは、まだ面の皮が厚くなりきってない。
こういうことを言うと「政治部脳」とか言われるけれどいわゆる「社会部脳」よりはマシだと確信している。
もし俺が遺族だったら、家族が亡くなったばかりの状態で記者に取材にしてほしくなんかない。そっとしておいてほしいと思う。
本省からうちの大学に出向している40歳ぐらいの独身課長が、飲みながら話していたこと。
「いや、ほんとに本省というのはむごい。毎日、毎日、午前様で働かせておいて、残業代もでない。
こっちにきてから、10キロ太りましたよ。それだけ、人間らしい生活ができているってことですよね。
すばらしい。
本省は、公務員で、行政を司っているはずなのに、労働3権は守られていない、人権無視のところですよ。」
と、愚痴りながら、この大学に出向したことで人間として落ち着いてきたかを語る課長。
ここまでは、あー、へー、本省は大変なのねーですむのだが、
「けど、そんな生活が続きますとね『おれがやらなきゃだれがやる!おれこそが日本の教育を支えているんだ!!』って意識になるのですよ。
そういう意識が、ここの人にはないですよねー。責任感をもっともってほしいな。本省は忙しい分、そういう気持ちがあったもの。」
と、いかにうちの大学の事務屋がノホホンとしているかを愚痴りだす。
そこで、おれは引っかかる。
その責任感って、ある種のストックホルム症候群というか、共依存というか、追い詰められて追い詰められて、発狂する寸前だけど、それを必死に抑えるために出てくるような責任感ですよね。
一歩間違えば、すぐに人間として壊れちゃうギリギリって事ですよね。
つまり、病んでるってことですよね。
その教育を司って、いろんな施策を考える「人」が「病んでる人」だとするならばさ、
その人たちが考える「教育」ってなんか「ゆがんだ・病んでる」ものになるんじゃーねーの??
そんな「ゆがんだ・病んでる」教育で、ちゃんとした人間を形成することができるのかね???
試験区分で区別するのは良くないが、所詮は下級役人の国家2種の人間が、そんな病んだ状態で、狂った頭で考えているような「日本の教育」が、全部ではなくても一部は施策になって、なんとなく垂れ流されていく。
それって、本当に大丈夫なのか???
教育って短期的な施策をうてばいいというよりも、長期的などちらかといえば思想的な問題だからこそ、余裕があり、叡智を持つ人間が、大きな目線で考えていかないと、日本ってよくならないんじゃないか??
って、愚痴を聞きながら、怖くなった話。
ちなみにうちの大学はそういう病んだ人間が定期的に本省から来て、功名心にはやってわけわかんない学内改革をするので、教員と地元組がぶち切れています。
なので、学内の雰囲気悪いです。
ごめんね、学生。
学力こそが子どもの能力を測る第一の基準になってるって現実をみんなわかってるからこそのものだと思うよ。
決して勉強出来ることが軽視されてるからじゃなくて。勉強をすることが功名心のあらわれだと思われてるからじゃなくて。
勉強できること=能力があることとされる世の中だからこそみんなやっかんでくるんだよ。
体育や音楽出来る奴が素直に認められるってのは、みんな体育や音楽がちょっと出来てもどうってことないって思ってるからだよ。
勉強できることの価値が高いと思われるからこそ、その裏返しとして蔑視があったんだよ。
そういう認識持つことって無理ですかね?
このところ日テレが木山裕策という素人の歌い手をやたらと押してるのが気に食わない。知らない人には申し訳無いんだけど、「home」って曲を出してる人。この木山さんという人はきっと一生懸命生きてて苦労も一杯してるんだろうなあと思うし、家族を養うためのチャンスがあればそれに乗るのは至極当然のことで、木山さん個人に対しては何も思わないんだが、これを必死に利用する日テレのやり口にはたまらなく不快感を覚える。反吐が出る。
もともとこの人は深夜にやってる「歌スタ!」という素人オーディション番組に出演して、そこで一度落選してるはずなんだが、なぜか再挑戦させてもらって、そこで「見事」夢のメジャーデビューを勝ち取ってる。ちなみにこの経緯が先ほど特番となって放送されてたので、バッチリ見させてもらった。不快なものは最初から見なければいいという話なんだが、批判するからにはしっかり相手の手の内を把握しないといけないので、イライラしながらも全部見た。
何が不愉快かって、日テレのお膳立ての徹底っぷり。この見え見えの特番にしてもそうだし、「行列のできる法律相談所」になぜかゲストで登場し、なぜか家族も隣で見守る中一曲披露してみたり、アルバムのジャケットをなぜかリリー・フランキーがデザインしてみたり、PVをなぜかチュートリアル徳井が撮ってみたり、日テレロゴ入りで早速ホームページまで作られてたり、本当に気持ちが悪い。口コミで広がって話題になっているのを受けて、メディアがそれを紹介するというのなら話は分かるけど、今回みたいにメディアの側が一方的に「いい曲なので、あなたの大好きな家族といっしょに聞いてくださいね」(番組内で、本当にこのように紹介された)と言って宣伝して回るというのは、テレビの傲慢さもついにここまで来たかと恐れ入る次第ですよ。なに通だかなに報堂だかが一枚噛んでるのか知らないけど、本当にもう何でもありだよね。世間で流行ってるように見せて紹介して、それに食いついたミーハー共から銭を搾り取る、という従来のやり方に慣れすぎて、とうとう手段を選ばなくなってきたな。もはやブームを作り出すのに「今巷で流行っている」という前提(建前)すら必要としないらしい。
「行列」あたりはもう法律番組じゃなくなって久しいので別にどうでもいいんだけどさ、とりあえず特番が凄かったですよ。番組のオーディションに応募して合格するまでをドキュメンタリー的に撮ってて、やたらと苦労の様子とか合格までの道のりを煽りつつ見せてるんだけど、結局それってそれを撮ってるてめえのところが主催してるオーディションなわけで、もはや出来レースどころの話じゃない訳じゃないですか。しかも、どこで歌うにせよ、あろうことかオーディション本番までにも、わざわざ嫁と子供4人が出てきて、歌ってるところを隣で見守ってるんですよ。なんか泣いたりしてるし。いや、それはおかしいやろと。歌で人に気持ちを伝えることを生業とする人間が、何でわざわざ家族呼んできて隣に座らせる演出をしないといけんのよ。CDを買ってもらう以上、歌で全てを伝えるのが歌い手だろう。木山さん自身がそれを望んだとも思えないから、間違いなくこれは日テレの歌い手に対する冒涜。もっと言えば、テレビ局がケツ持ってくれさえすればデビューできるという今回の例は、メジャーデビューを目標とする全てのアマチュアシンガーに対する冒涜だ。アマチュアの功名心を利用した、本当に下衆なやり口だ。これと実に良く似た構図を同じ日テレの「エンタの神様」に見ることが出来る訳だが、これについては今更言及するまでも無いだろうからここらで止めておく。
私の書いた風刺の枝葉末節に見当違いなツッコミを入れて、「疑似科学ハンター」と悦に入っている人がいる。
こんな輩には別に何の興味もないが、前回の記事が「ネタ逃げ」だと思われている節もないではないので、敢えて補足しておく。「傲慢だ」という見当違いな非難を受けたくないし、無内容な長文を書きたくもなかったので、本当は気が進まないのだが。
まず、私のIQが152だと書いたこと、実はこれは完全な嘘というわけでもない。ネット上のIQテストで152という数値を出したことはある。もちろん、ネット上のIQテストの信頼性が高いなどと思っているわけではない。だが、130とか140あたりが上限になっているテストでは必ず上限に達していた。それともう一つ、平均的な人が知的障害者を差別する発言を見聞きすると、「お前らの頭の中身も五十歩百歩だろうが」というのが実感で、正直内心片腹痛いのは事実である。以前、障害者の介護のボランティアをしていたことがあるが、軽度の知的障害者と「健常者」の違いはほとんど認識できなかった。紙一重の差で社会に受容されているかいないかというだけの差にしか思えない。あるいは、例えば「ニート」の名の下に社会から爪弾きされている者の中には、知的障害者か否かの境界的な位置にいる者もいるのかもしれない。
もちろん、こうした見解をひとたび口に出せば暴言としか受け止められない。だから本当は書きたくなかった。しかしながら、「障害者とは相容れない、隔離せよ」といった類の暴論が一定の支持を集めてしまう現状に対しては、「天に唾でしかないこんな暴論を支持する者は、自分自身が『頭の不自由な人』だ」ということを喝破することも必要であった。だが、そういったことを直接的に書けば「煽り乙ww」、前もって断り書きをした上で丁寧に書けば「どこを縦に(ry」と言われるだけだ。所詮、「平均的な人」は「わかりやすい話」でなければ理解できないのだ。そこで苦肉の策として、わざと人目を引くような形で、一人称体の風刺小話を書いてみただけのことだ。要するに形式はネタでも意図は真面目だったわけだ。そもそも風刺とはそういうものだ。IQという数値だって本当は出したくなかったのだが、十分賢い人を連れてこれば「健常者」も障害者同然という状況をわかって頂くには、何らかのわかりやすい基準がなければならなかったのだ。だから、多少の暴論を承知でIQを持ち出したまでだ。「健常者」が「障害者」を暴論で切り捨てていることを告発するのが目的なのだから、レトリックとして敢えて暴論を用いたのは事実である。
ただし、それにもかかわらず、
彼のIQに対する主張は100%トンデモの疑似科学。また、はてぶコメントに「認知心理学では正しい」と書かれているが、そんなコミットメント(原文のママ。「コンセンサス」の誤りか?)は認知心理学会(原文のママ。正しくは「学界」か)には存在しない*1のであしからず。
このようなことを言われるのは心外であるし、正しくすらないと反駁せざるを得ない。
第一に、「知的障害者」がIQを基準に決定されていること、そしてIQを生活年齢と知能年齢の比のパーセント表示で決定する方式があることは事実である。Wikipediaの「知能指数」の記述のうち、「算出法」と「障害者認定」の両箇所を見ればよい。その程度は調べてから書いている。見損なわないでいただきたい。「100%トンデモ」と侮辱的な言葉をぶつけられたが、撤回していただきたいものである。
第二に、
「知能が2倍」ということには自明な定義があるわけではないのだ。だとすれば、知能年齢が2倍であることをもって「知能が2倍」と呼ぶことにして、なんの問題があるか。
と書いたことを「俺様定義」と批判を受けた件。これについては理解できなくもない。しかし、私はこの定義はそれなりに妥当性のあるものだと考えるし、頭ごなしに「俺様定義」と批判されることには異を唱えたい。私の生活実感からすると、未成年者同士での知能の比は年齢の比と近似的に(「近似的」である。くれぐれも「0歳児はどうした」などと下らぬことを言わぬように)一致するように思える。たとえば、18歳のときに12歳の少年と話をする感覚は、12歳のときに8歳の子供と話をする感覚とほぼ同様だった。もちろんこれは主観に過ぎず、検証もできないしできるものだとも思わない。厳密さに欠けるのは当然だ。しかし、そもそも私は学問的に厳密な話をしようとしていたのではなく、感覚的な話をしようとしていたのだ。そのことは文体からでも明らかであろう。「知能」「知能が2倍」という言葉にカギカッコを付けていたことからせめてそのあたりを感じ取って欲しかったのだが、というと望みすぎであろうか。
だいたい以上のごとしである。もはやこれ以上私は下らぬ文章を書きたくないので、これ以降、自称「疑似科学ハンター」の下らない功名心に付き合わされることのないよう望むものである。
蛇足
厳密に書く意図がもとよりないことが文中に明示されているような文章に対して
ま、拙い接続詞の使い方や、こういう詭弁を見れば、まともな論述、論理の訓練を受けてないことは明らかで、騙される事もないと思いますが一応言っとかないとね。これで大学生だったらマジどうしよう。
だとか優越感を露わにしておられるが、私は旧帝大院卒なのだが?
これに対して「学力崩壊」だと嘆くか「ハッタリ」だと憤るか、それとも逆に尻尾を巻いて逃げ出すかはあなたの判断にお任せすることとする。