記者20代後半。
ツイッターの記者クラスタの人たちがみーんな「実名は必要」「亡くなった人の人生を伝えることに意義がある」とか言ってるのに違和感を感じて仕方ないので、備忘録的に感じたことを書く。
何の落ち度もない被害者たちの名前を公開する必要はない。報道の仕事を経験したからこそそう思う。
日揮の判断は英断だったと思う。社員をちゃんと思ってるいい会社だ。
記者が殺到して遺族の心がかき乱される可能性がある以上、教えてはいけない。
新聞は一昔前のテレビや雑誌みたいにマイクやカメラ向けて「今、どんな気持ちですか?」みたいなゲスな取材はしないけど
それでも締め切りに追われて殺気だった何人もの記者に押しかけられてピンポン連打されたり、近所の住民からも話を聞き出されたりして気持ちいい人はいないだろう。
「話を聞いてもらいたい、亡くなった人のことを世に訴えたい遺族もいる」という意見もあるけど、俺には言い訳じみて聞こえる。
「一切取材されたくない人」に合わせるべきだ。
ツイッターでは遺族取材にこだわる理由を「売りたいだけでしょ」と決めつける意見に「記者も遺族取材は辛い」「これを報じれば売れるとか数字になるという意識はない」と答える記者もいた。
確かに売れることを考えてる記者はまずいない。が、それは単にセクショナリズムのせいであって、功名心すら一切ないと言い切れる人はいないだろう。いたら信用できない。
よくデスクに「泣かせで書け」「いまいちインパクトが弱いな。もっと心ゆさぶるエピソードないの?」と言われたなー。
刷りを見たら遺族が勝手に「声を震わせた」ことになってたのもざらだった。
酒乱でどうしようもないオッサンでも、性格がゆがんでいて両親も手を焼いていたガキでも、近隣住民から死んでせいせいしたと言われる強欲ばあさんでも
「事件事故の悲惨さを世に訴えるために」(そして「泣かせる」社内でも評価の高い記事に仕立てるために)と悪いところは捨象され、紙面では悲劇の聖人になって登場する。
そんなん読ませて何になるんだ?
いやまあ、それで悲しいとか辛いとか心動かされたとか言う人は一定数いて、それで飯を食ってはいるんだけど。
これはやっぱり、弔いとか、そういう美しいものではないよな。
「仕事は、社会は、そもそもそういうえげつないものなのだ」と言ってしまえばそれまでだが、えげつない行為を正義で塗り固めて恥じないほどは、まだ面の皮が厚くなりきってない。
こういうことを言うと「政治部脳」とか言われるけれどいわゆる「社会部脳」よりはマシだと確信している。
もし俺が遺族だったら、家族が亡くなったばかりの状態で記者に取材にしてほしくなんかない。そっとしておいてほしいと思う。
×門切り型 ○紋切り型 「門切り型」なんて出すIMEはいったい何者?