2010-08-25

程度の差こそあれ、障害を負ったオスを、健康なメスが選ぶことは稀である。これは生物学的に正しい。当然ながら強い子孫を残さねばならないのだから。「愛」という概念の通用しない利己的な生物学本能をもつ以上、その選択は論理的に的確であり、誰からも非難される理由もない。

この選択の正当性について、現代の人間場合について考えてみよう。障害を負った男性女性が強いて好む理由も、ひとつもない。だとすると、障害を負った男性は直ちに排除されるか、いかなる支援も享受することなくのたれ死ぬべきか?大半の人はNOと答えるだろう。

なぜか。「個」の尊厳が全く無視されているからである。多くの人は「そんなことはあってはならない」と感じる。それは功利主義的な論理でもなく、もはやきわめて「道徳」的な問題である。だが「道徳的な人々」が必ずしも健康男性を押しのけて障害をもつ男性を選ぶか?答えはNOである。

その根拠については私自身の経験上においてもよく知っている。健康男性を押しのけてまで障害をもつ男性を「選ばなければならない」理由もないのである。もしも障害のある男性に強い好意を女性が抱いたとしても、彼女は激しく葛藤し、将来を悲観する。道徳的に舗装された現代社会においても、葛藤・悲観・悔悟に押しつぶされる前に障害のある男性から逃避する行為は、誰にも責められないのである。苦しんだ女性は、たとえ逃避する道を選んだとしても、苦しんだだけでも賞賛に値すると、私は思っている。なぜなら、その問題において「苦しむことができる」という事実それだけで、彼女は「道徳」を実践したからである。道徳を語ること及び支援することと、実践することの間には依然として断絶があるからである。道徳を声高に語ることは容易い。だが実践し、苦悩する人は、稀である。

ならば、己れの障害のために、男性絶望すべきか?次々と己れのもとを去ってゆく女性たちを目にして、絶望することは「正義」か?答えは断じてNOである。それは思考停止と同じ罪を負っている。思考及び行動を必要以上に自粛することは、己れで己れの「個」を卑しめることであるからだ。障害をもつ己れが絶望に任せ、己れの「個」の尊厳を卑しめる権利もまた、己れにはないのである。「個」や「道徳」といった問題は本来、そのようにナイーヴ自己完結するものではないからである。

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