はてなキーワード: 人種とは
質問は
子供の「なんであの人は黒いの?」との問いかけに対する説明なのか
推測するに後者のようだが
あのさ
「なんであの人は黒いの?」って子供が言ってもいいんだよ
子供にしてみりゃ奇異に映るのは当然でそれを口にしてはイケないと教えるのは差別意識の刷り込みにしかならない
「人種が違うから、南国に住んでいる人は環境に適応して肌が黒くなった
日本ではあまり見かけないだけで世界にはいろんな肌の色の人間がいる」
触れなかったら差別にならないというのが日本人の差別行動に対する欺瞞
「皆違って皆良い事を上手く伝えたいと思ってます」
と保険かけてるのが更にクソ
私は差別主義者ではありませんよ、でも子供には異国人には関わらないように教育したいです
透けて見えるんだよカス
金に固執する奴と固執しない奴とで別人種かというくらい見えてる世界が違う気がする。
固執するのが悪いわけではなくてそれがプラスに働くこともある。固執しないことがマイナスに働くこともある。
なので良い悪いの話を言ってるわけじゃないが、確実に住む世界が違う気がする。
世界にはいろんな人種が居て肌の色は白かったり黒かったり黄色かったり、髪の色もいろんな色があるけど、○○ちゃんは、「なんであの人は肌が黄色いの?髪が黒いの?」って大きい声で言われたら恥ずかしくなったり、嫌な気持ちにならない?そういう、言われたら嫌な気もちにさせるような言い方をしたら駄目だよ、って言えば伝わらないかな?
親がいつの間にか引いたネット回線を通してWEBの海を知り、そこでアレコレやっているうちに何度もフリーソフトに助けられ「プログラマーって凄いな。俺もこういう風になりてえ」と勝手な憧れを持った。
何から始めたらいいのか分からない中で、ゲームプログラミングに手を付けるが、受験勉強に追われているうちに段々とプログラミングからは離れていった。
つまり、俺は「遊び感覚でプログラムに必死になれる人間」ではなかったわけだ。
その頃、インターネットの中ではIT業界は「才能がない人間がやってきても幸せになれない業界」であることが何度も語られていて、それを見た俺はIT業界にはいかず別の仕事を選んだ。
どの業界に行ってもエクセルでマクロぐらいは作れるからそこでプログラマーごっこでもすればいいやと思っていたが、実際に社会人をしてみるとそんな余裕はない。
学生時代に使っていた実験用のノートパソコンを処分してからは、そもそも家のパソコンにはマイクロソフトオフィス自体がなく、家で試しにマクロを作ってみることも難しくなった。
そもそも家でマクロを作っても職場のパソコンにアップロードする手段がない。
中学の部活動で昔のパソコンを触っていたときよろしく、ひたすら紙に書いたコードを目でコピーすればいいのだろうか。
プログラマーになりたかった夢を未だに引きずったまま行きているが、そもそもそこまで熱意がなかったという感覚は強い。
サッカー選手に憧れていると口にしながら1日1時間程度しか練習せず残りの時間はひたすら「研究」と称してサッカーの試合を見ているようなワナビーと同じ人種なんだろう。
そういう人間が「自分にもっと運動神経があれば頑張れただろう」という代わりに自分は「竹中平蔵が業界構造を破壊していなければ飛び込めただろう」と言い訳をしている。
何をすればいいのか、何をしたかったのかはわからないけど、「俺は凄い人間にはなれないかも知れないけど、世界の何処かで何かを生み出して暮らすんだ」という漠然としたモノづくり信仰に呪われたままで、何かを生み出すのとは違う仕事をしている。
生きるための才能や活力、学歴だったりコミュ力なんかが不足していて、とにかく自分が生き残ることだけで精一杯だ。
死なないために働くことしか出来ないから、どうやって働きたいのかを優先するチャンスがない。
定番の言葉で「もし自分が30年後から今ここに帰ってきたとしたらどうするんだ?」というものがあるが、今の自分に言えるのは「何度戻ってきたとしても、とにかくまずは目の前の仕事に殺されないようにして、少しでも丁寧な生活を取り戻すことがまずは最優先だ」と答えるだろう。
悪い予想の通りサウナーが列挙している
中に入っても徒党を組んで行動するからウザくてきしょくて全員死んでほしい
何がととのうだよ夏の陽射しの下ににいて勝手に汗かいて頭からバケツの水でも被ってろよ死ね
それ整ってねえだろ百歩譲ってサウナが健康にいいとしてもその一本で健康レベル-100だろ一貫性がなくて気持ち悪いんだよ糞野郎どもが
サ飯がなんだよレトルト食品食って健康になれるわけねぇだろ死ね
サウナは行き場のない死んだ目をしたおっさんの集まる場所でいいんだよ
サウナーとかいうキショキショキショキショ人間どもは家の風呂で半身浴でもしてろやカスどもが
サウナー全員殺す
うざいんじゃ
映画『バービー』の監督のグレタ・ガーウィグが注目される切っ掛けになったマンブルコアって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%A2
「マンブルコア(mumblecore)はアメリカのインディペンデント映画(自主製作映画)の一種で、多くは若い白人中産階級の日常生活や人間関係を主題とし、きわめて低予算で製作される点に特徴がある[1]。あえてエピソードの羅列にとどめ明確な物語構造を持っていないことも多いが、2000年代のアメリカ社会の新しい現実を描いているとして注目されるようになった」
……らしいけれど、これって人種多様性や格差や貧困が問題視される現代アメリカ社会の潮流からは寧ろ逆行してるよなあと思った。
「多くは若い白人中産階級の日常生活や人間関係を主題とし、」って辺り、持て囃した層はトランプを支持した層と被ってそう。
「身長」ではなく「人種」についてだが、共通する部分もある話題
このように、特定の人種が恋人探しで不利な立場に追いやられる現象は、「セクシュアル・レイシズム(性的人種差別)」と呼ばれる。
恋人探しサイトでは、相手に望む条件を入力してパートナー候補を絞り込める。そのため、人種のように単純明快な要素が恋人探しに及ぼす影響は昔に比べて大きくなっているのかもしれない。一部の人は人種や性別を理由に最初から排除されてしまい、オンラインでの出会いのチャンスが閉ざされているのだ。
この点を自覚している女性もいる。ある25歳の白人女性は、オンラインサービスより現実世界で恋人を探したいと言う。そのほうが先入観を持たずに済むからだ。
「現実世界のほうが先入観による決め付けを排除できる。オンラインでパートナーを探す場合、私たちは最初に相手を品定めしようとする。相手も同様の姿勢で臨む......その結果、多くの壁が生まれる」
インターネットのテクノロジーは世界から境界線をなくした面も多いが、恋人探しに関しては必ずしもそのような機能を果たせていない。社会に存在する境界線はそのままになっている。
アジア系男性は「恋愛の序列の最下層」──リアルもオンラインも、なぜモテない | ワールド | for WOMAN | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2020/03/post-353.php
「人はパンのみで生くるのではない」と言ったのはイエスであるが、とはいえ生きるためにパンは必要不可欠である。マルクスはキリスト教の布教以来、永らく西洋を支配してきたこの上部構造優位主義をひっくり返し、人類史をヘーゲル的な精神の発展史ではなく、労働あるいは階級闘争の歴史として解釈した。しかし、階級闘争の必然的な帰結としての共産主義社会の実現という展望には、判明な階級とその意識的な担い手が存在していることが前提となっている。
本邦において、小泉政権以来、階級意識は様々な仕方で言い換えられて来た。勝ち組/負け組、上級国民/下級国民、そして強者男性/弱者男性…などである。これらの区分に共通するのは、強烈な階級意識を内包しながらも、それらが政治経済的な問題を慎重に避けているという点である。
たしかに、上級国民/下級国民などは比較的強い政治経済的なニュアンスを帯びている区分のように思われるが、そこで意識されているのは政治経済という下部構造の問題ではなく、単に「どの家庭に生まれたか」という、不可逆的な問題でしかない。階級は、政治経済によって規定されたものではなく、単に生まれの問題でしかないのである。このような階級意識は、「親ガチャ」という言葉で端的に言い表さられることになる。他の区分についてもやはり同様である。そこにおいてはもはや変更すべき政治経済に対する抵抗は行われず、変更不可能なガチャの結果に対する諦念のみが存在する。現代日本人の階級意識をこのように捉えたとき、ガチャをやり直す「転生モノ」や、出世それ自体を否定する反出生主義などの思想が流行するのはある意味必然と言える。
他方で、積極的な闘争が行われている政治的な領域も存在している。人種やジェンダーなどに関わる、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの領域である。本邦では主にジェンダーの分野で闘争が繰り広げられているが、近年ではそこから派生して表現の自由の問題なども盛り上がりを見せている。しかし、これらの領域の闘争も、根本的には資本制そのものを揺るがすものではない。というのも、これらの闘争が目指しているのは資本主義やそれが生み出す抑圧的構造の否定ではなく、むしろその内で自己のアイデンティティを確立すること、資本主義による自己の承認でしかないからだ。
どうしようもない諦念と強烈な承認欲求。この二つが現代日本の階級意識の帰結である。それらから生じる運動や思想は、きわめて政治経済的な性格を内包しながらも、実のところ政治経済的問題に対する根本的な抵抗を巧妙に回避することによって、資本主義をより堅固で絶対的なものとして確立することに資している。
特定の人種や同性愛者をテーマにした「あの人達はこんなに差別されていました!本当に許せませんね!」っていう映画結構出てるじゃん?
あのノリで「昭和・平成の時代オタクはめっちゃ差別されていました!」っていう映画がそろそろ出てきてそうな気がしてね。
でもこういうのってどういう単語で検索すりゃええのか分からんし人力検索にかけたいわけだよ。
オタクが一昔前のオタク迫害時代にタイムスリップする作品や、オタク差別が激しかった時代のオタクの独白みたいな漫画はちょこちょこある。
「オタクでもイケメンで清潔感があって現代テレビで主流の価値観に媚びへつらうことが出来るやつは美男美女と恋愛させてやるよ」みたいなのしかない印象。
「気持ち悪いオタクは悪人だとテレビで差別されていました」っていうのが登場人物の過去として描かれている漫画やアニメは結構あるけど、それを歴史的な事実として描いているのはあんまないかな。
ぶっちゃけ「10万人の宮崎勤」自体はマリー・アントワネットの「パンが無ければ」や池田勇人の「貧乏人は麦を食え」のような、悪意を持った他者による発言の捏造だったという説が強いわけだが、『それぐらいの事をいつ口にしてもおかしくないような人間だったという共通認識』がその時代にあったのは間違いないんだよな。
その時代の空気感を描いた作品、まさにオタク版「シンドラーのリスト」のような映画が実は既にこの世界にもうあるのではないかと。
流石にまだないか?
オタクを差別した人間が記憶喪失を起こして「そんな奴らがいたのか。俺がもし近くに居たらぶん殴ってやったのに」とタイムスリップセルフ暴力宣言をぶっかますにはまだまだ本人たちの記憶力が元気過ぎるかな。
映画がバービーが嫌われているのは原爆問題で不評を買った日本だけかと思いきや
https://madamefigaro.jp/culture/230807-barbie.html
この記事では韓国のフェミニストの人が、映画がコケたのはアンチフェミニズムのせいだって言っているけれど、
母親ではない女単体の権利を主張する候補がソウル市長選挙に出て一定の支持を集めていたようだし。
韓国のフェミニストは強くて、男からの妨害にも負けずに自己主張して自分達の意思を貫いてる人達だから
この映画が本当にフェミニズムに根差した優れた映画であるならば如何にアンチフェミニストが跋扈しようが女性達は見に行ったと思う。
私は映画バービーが韓国で受けなかったのは、アジア人女性は客じゃない、っていう映画のメッセージをちゃんと感じ取っているからだと思うんだよね。
当たり前のように白人女性を中心に捉え、お情け程度に黒人女性を加える事はあっても、アジア人女性は端から仲間に入れてもらえない。
今時こんな金髪碧眼でドピンクの服を着た白人女性というコテコテのビジュアルを前面に出した映画で「攻めてる映画」を気取られても…って否定的に思ってたし。
(それこそ色んな人種のバービーとか太ったバービーとかを出してくるとかのアクセントがあるなら大分違うんだけど)
韓国フェミニストはちゃんと映画の本質に気付いていると思うし、だからこういうホワイトフェミニズムを冷めた目で見ているんじゃないかな
日本人フェミニストもいい加減アジア女は彼女らから対等な女性として人間として見られていない事に気付くべきだし
ブサイクな奴はチー牛
キョドってる奴はアスペ
会話が通じにくいなら糖質
こうしていくつもの「かつてオタクという枠で一纏めにされていた社会不適合者達の分別先」が作り出された結果、平成の時代に「オタク」と呼ばれていた連中はそっちに分類されるようになった。
代わりに平成の頃に「ファン」「マニア」「◯◯好き」と呼ばれていた者たちが令和では「オタク」と呼ばれるようになった。
「オタク」という名前が文化簒奪されたというよりも、「オタク」という概念が一時的に「人種のゴミ箱」として扱われていた状態から脱したのが現状。
平成や昭和だって、アニメや電車が好きでも清潔で金持ちで会話が成立すれば社会は受け入れてくれた。
ただその頃の彼らには「オタク」という名前は使われなかっただけだ。
「オタク」が蔑称として使われなくなったのは、そう呼ばれていた人間達の趣味が社会に受け入れられたからではない。
「それぞれの社会不適合性により相応しい蔑称が新たに作り出された」から、社会が受け入れない人種がそちらの名前で呼ばれるようになり、そうするうちにいつの間にか「オタク」という単語自体が持つネガティブイメージが消えていっただけだ。
「オタク」が受け入れられたんじゃない。
呼び方が変わっただけだ。
骨格タイプは人種や国によって違うらしいので、血液型のように遺伝で決まっているのではと考えた。
割合的にはウェーブは優性っぽいので父母どちらもウェーブでしか生まれてこない気がする
「人間なんて所詮小賢しいだけでよわっちい猿w」「人間なんてみんな愚か」みたいな言説を唱える人がまあまあいる。少なくとも俺の周りには、なんだけど。
まあ、わからないでもない。
確かに人間は野生動物と素手で喧嘩したらほとんど勝てないし、”意味”とか”理由”とかについて悩むし、戦争するし、思想や人種による争いも絶えないものだ。
だが、そのような自嘲的というか、シニカルというか、そういう態度でいつまでも人間をあざ笑っていることで何が生まれるのか、これがよくわからない。
そういう人物を愚かだというつもりはない。というより、むしろそういう人は自ら進んで「まあ俺も愚かだよw」とひっくるめて価値を貶めようとする。
きみらの狙いはなんなんだ。
楽しく過ごしている他人がそんなに許せないのだろうか、愚かに映るんだろうか。
若い人でもいい年いってる人でも、こういうのを唱える人がいる。
たぶん思想とか考え方の違いなんだろうけどさ。
「なぜ図書館で本を借りることは恥ずかしいのか?」
https://blog.tinect.jp/?p=82951
図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
1.日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
2.すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
3.図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
4.わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
5.すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
6.ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
「図書館の自由に関する宣言」とやらにはこんな大層な宣言がされているようだが、実際に図書館に置かれている本は小説や教育的な本ばかりで偏りがたいへん大きい。
国民の知る自由を謳うのであれば漫画や週刊SPA!、週刊プレイボーイなんかも置くべきでは?
国民の知る自由などと御大層なことを言っておきながら、実際には体よく国民を教育したいだけではないか?
図書館は図書館が本気で国民の知る自由を守る立場にあると思っているのなら、あらゆる書籍から平等に本を選定して収蔵すべきでは?