はてなキーワード: 亜流とは
もしもセックルがスポーツというのなら、どのようになるべきか?
男女シングル、男女ペア、同性ペア、男女複合チーム戦で、定められた時間内での、プレイの美しさ、精力などを競う。
男女ペア、同性ペア、男女複合チームで行う。体位の種類とその美しさ、力強さ、創意工夫を審査員の採点によって競う。10名の審査員が主観により0.1ポイント刻み最大10ポイントまでの点を付けると同時に、審査員の興奮度を科学的に計測し最大10ポイントまでの相対値とする事、合計200点で競技の優劣を競う。
体位の遷移、複雑さによって競技者の魅力をアピールすると同時に、連続ピストン数、射出精量などが採点の対象となる。審査員は競技1か月前に公開され、その嗜好に応じた創意工夫を行うことが競技者に求められる。対面座位→駅弁→正常位などの代表的な基本技が知られている。
対戦ステージは、公園、室内、電車内、球場、両親の前など様々な条件で設定される。
男女複合チーム競技、定められた時間内で対戦チームの選手を手技、行為により終わらせた人数を競う。チーム代表選手の手技や行為の熟達度と、チームの耐久力の総合的な能力を競う。10分耐えたらNNというワンズの有名企画は本競技の亜流である。
男女ペア、同性ペア、男女複合チームで競われる。競技をどの程度持続させることが出来るかを競う。熟達者ともなれば1昼夜は可能であるため、チーム戦ともなると数日に及ぶこともある。標準的な限界時間をK点とよび、K点越えの場合はK点内の終了回数・平均時間で評価し足切りとなる場合もある。
自慰停止期間の申告に虚偽があった場合は反則となり失格処分を受ける。また自慰停止を行う場合は申告に従い貞操帯着用を義務付ける。
https://www.google.com/search?q=こち亀 不良
ときどき見かける「イケメン/美少女に勝手に惚れられる主人公のマンガ/ライトノベル作品が都合よすぎなのでキモイ」論、共感したことなかったんだけど、ようやくその気持ちがちょっとわかったわ
ディズニー映画やその亜流などに顕著だが「偽りの勝利」→「どん底/敗北/最大のピンチというクライマックス」というパターンを踏む作品が多いのは周知の事実で、本作でも「麻薬の運び屋になる」→「大金を手にする」「最初はおそろしかったヤベー奴らに一目おかれるようになる」→「ヤベー奴らが代替わりしてもっとヤベー奴に締められる」「家族との亀裂深まる」「順風満帆に見えた犯罪稼業もDEAに嗅ぎつけられいつ逮捕されるかわからない」という風に展開していく。
その展開は「間違った価値観に基づく悩み(疑似問題)」→(最大のピンチ)→「真の問題に気づくことと、問題解決のセット」というプロセスによって挟まれていることが多い。(ファインディングニモ然り、シュガーラッシュ然り、インクレディブルファミリー2然り…)
『アメリカン・スナイパー』『15時17分、パリ行き』『ハドソン川の奇跡』『インビクタス』あるいは別監督の同年作品『グリーンブック』みたいな、実話に強く寄せた話ではない(一応、実在の事件にインスパイアされてはいるが、左記作品群のようには実名を使用していない)。
花卉栽培に熱中し、実益があるもんだから家族を顧みず全米を飛び回る。ところがインターネットの発達により実益が消滅、畑は差し押さえになる。みんな金がないのが悪いんや…から始まる物語。
ハッピーエンドというと、多くは「生きるか死ぬかの賭けに勝つ」「優勝してチャンピオンになる」「絶体絶命のピンチに遭遇し知恵と勇気で切り抜ける」「悪者をやっつける」「宝石を手に入れる」「一か八かの挑戦をして成功する」「追手から逃げ切る」といったものになり、「死ぬ」「負ける」「やっつけられる」「大金を手に入れられない」「失敗」「捕まる」で終わるものは通常バッドエンドとみなされることになる。
ところが『グラン・トリノ』は最後に主人公クリントイーストウッドが撃たれて死ぬが、ハッピーエンドなのである。これは「生命を失わない」ことより高い価値を持つものを主人公クリントイーストウッドが手に入れたというによって達成される。すなわち「他者との精神的つながり」が、生き長らえる、物質的な豊かさを超える至上の価値としてアピールされているのだ。(もっとも一般的なのは童話の昔から定番の男女間のカップル成立だが、『グラン・トリノ』の場合はアジア人の少年とのつながりを得ることができれば死んでもいいという価値観)
本作では、「間違った価値観に基づく目標と偽りの勝利」は「(悪いことをして)カネを稼ぐ」「それによって、家族ではなく、在郷軍人仲間(ベトナム戦争に参加していたという設定)や園芸職人仲間から称賛される」「モテる」で、成功=偽りの勝利シーンに”ああ、こいつ(クリントイーストウッド)あかんやつや”という通奏低音がいやというほど鳴り響いている。
ところが、このじじいがいろんなところで調子よすぎるのである。
前述の「ヤベー奴らに脅されたりスマホ(SMS)も使えなくてバカにされたりもしたが、持ち前の気骨ある行動とイケメンぶりで一目置かれるようになる」もそうだが、
家族とのディスコミュニケーションがマイナス要因で「妻からは冷たくあしらわれ、娘からは12年間口をきいてもらえず、家族の中では唯一孫娘だけが味方」
からの「妻が病気で倒れたと孫から連絡を受けるも、コカイン運搬中であり、どうしても駆けつけられないし事情も説明できない。そのためついに孫娘からも敵に回る宣言を受ける」という最大のピンチの後には、
「どうにか一仕事終えて家に駆け付けたら死にかけた妻に”あなたはひどい夫だったけど、最後そばにきてくれて看取ってくれるなんて超最高よ愛してるわ”と言われる」のだ。
妻の葬式、娘とも和解。葬式優先したために、グレードアップ後の、一目置いてくれていたやつらよりさらにワルいやつらに殴られる。(唯一のダメージらしいダメージはここだ)
そして逮捕。
裁判では無罪を勝ち取ろうとする弁護士を制して「わしゃ有罪じゃ」
最後は、刑務所の中で再び大好きな花育てを行うクリントイーストウッド。
引いて、終わり(ゲットワイルドは流れない)
っていやいやいやいや。違うでしょ。
何(1)妻が死んだ(2)ちょっと殴られた だけのダメージで 幸せいっぱいに園芸やって終わってんだよ。(服役中だけど)
娘もなんで最後にちょっとふらっと現れて口先で謝っただけで受け入れてんの?
涙まで流して「なるべく面会に行くわ」「(犯罪で稼いだお金で)取り戻したお父さんの大事な畑は私が守るわ」と抱きしめてたの?
「わしゃ有罪じゃ」宣言、そりゃ万ドル単位で犯罪マネーを蕩尽しといて当然でしょ。
前半にはアジア人を差別するクソ白人至上主義野郎だった『グラン・トリノ』の主人公が、見終わったらいい奴だったと心に残るのは、撃たれて死んだから。
(自分が東欧系移民でややカースト低め、非WASP白人だったということもある)
最初の話に戻ると、「空から美少女が降ってきて惚れられるし俺はTUEEE」な話を叩く人は、等価交換を重視してるのかもしれないと思ったよ。
FXのアカウントは10年前に開いていて、以前は少々やっていたが数年来離れていた。
年初からシステムトレードを勉強して、ロボットを選別して、少額で動かしていった。
600万円を2つのアカウントに等分して、二種類のロボットに、主要5カ国通過の取引をさせ、
同時に4つのロボットを2アカウントで計8つのロボットを動作中。
この二ヶ月は毎月思いっきり稼いでくれている。
ヤフーファイナンススタジアムのランキングで例えれば、上位50位には入る。
月間で、港区のタワーマンションを借りて、毎週末美味しいところで外食をして、お気に入りのデリヘルを呼んで、月一回は海外旅行にもいけるくらい。
税金もしっかり払う。
リスクがあるのはわかっている。
マーチンゲールの亜流のロボットなので、小さく高頻度に稼いで、大きく一気に負けて全額失うリスクがある。
ただ、チャイナショック程度なら乗り切れるようなリスク設定にしてある。
あまり話題にはなってない作品なのかもしれないど、これってかなり面白いことしてると思うんだよね。
女の子が艦船に乗って戦うみたいな、いっけんガルパンの亜流みたいに見えるんだけど、実はぜんぜん違うのです。
ガルパンの物語構造は、基本的にスポ根的なドラマツルギーに基いていて、ラブライブ!とかとほとんど同じです。
要は、「努力、友情、勝利」のジャンプメソッドmeets美少女なわけ。
ガルパンは戦車を、ラブライブ!はアイドルを素材にして美少女スポ根を展開してるわけで、その先祖はトップをねらえ!あたりかな?
で、ハイフリなんだけど、これって冒険小説的ドラマツルギーなんだよね。
アリステア・マクリーンとかギャビン・ライアルとかの古き良き冒険小説。
不可解な敵や、限定された状況下でのサヴァイヴとかまさにそんな感じ。
これで、内輪に裏切り者とかいたらまさに古典的冒険小説な展開だよ。
ネットでバズってる人ばっかり見てその人達が標準とか主流だと思ったら大間違いだぜよ。
能力が高いわけでもなくいつもはてなブックマークをたくさん稼いでる人がいたらその人はピエロか村のおもちゃだよ。
コピーライティングの人のことを本気ですごい人だと思ってたみたいだからね。
過去がどうかなんてどうでもよくてフォロワー数や読者数が多けりゃすごいってすぐ騙せるくらい
数字を疑わずだまされやい情弱のカモがぞろぞろはてなブログに来てるらしい。
そりゃ、アホみたいに互助会したりスパム営業して読者数増やそうと必死になるクソが増えるわけだよ。
それならはてなブログにいたまつたけって誰よりも優秀だったはずだけどあいつどこ消えたのかね。
豚まんじゅうはなんで未だにWebライターとして有料でのお仕事を一つももらえないのかね。
「恋愛論って受験で言う「ビリギャル、ドラゴン桜、コツコツと推薦狙い」みたいな選択肢があるんじゃなくて、「ヤれるのが当たり前の環境の中でよりいい相手と」みたいなのが主流でそれ以外の亜流があんまり認められてないんだよなぁ…。」
とか語ってて、こいつ他人のことをネット脳だとか抜かしてたがお前が一番ネット脳じゃねえか(知ってた
ところがこんなバカでネット脳の豚まんをみて、若者のことを思って文章書いてくれるのはこの人しかいないって信奉しちゃうようなやつもいるらしいからはてなはもう死んでいる。
ネットばかり見てるひきこもりニートの人が「恋愛論って受験で言う「ビリギャル、ドラゴン桜、コツコツと推薦狙い」みたいな選択肢があるんじゃなくて、「ヤれるのが当たり前の環境の中でよりいい相手と」みたいなのが主流でそれ以外の亜流があんまり認められてないんだよなぁ…。だから、聞いていて恐ろしく疲れるのよね…」とつぶやいているのを見てなにをどうしたらこんな世界観が生まれるのかとその人の情報インプットの偏りが真剣に心配になった。
その人確かラノベ批判に絡めて「ネット脳」みたいな言葉をつくって批判してたけど、本人は自分を指して「はてなでそこそこ力を持っている」などと意味不明なことを供述しており間違いなくお前が一番ネット脳だよと言いたい。
結局何が悪かったのかわかるようでわからんようで、まだ正直気持ちの整理もできていないが、落ち着かせる意味で増田に書かせてもらう。
今度、35年つとめた会社を退職することになった。いや、正確には一応は役員になっているから、解任か。
解任理由は簡単、
会社人生ではいろいろやった。自分なりに会社に貢献してきたつもりだったし、事実、苦しいときには俺がやった事業が会社の新しい展開をやれたとは思う。
ただ、その事実そのものを、専務の奴は気にくわなかったんだと思う。
もういい加減、愛想が尽きた。今は、あんな会社は徐々に腐っていけばいいと思う。
入社したときは、企画職でも営業でもなく事務職だった。ただ、ちょうどその頃会社はその頃の看板商品が大ヒットしていて、人手が足りなくなってた。
そこで、他の部署に応援に回される事になって、いろいろな部署の応援をやった。
人海戦術のDM発送、苦情受け付けに倉庫整理、制服の繕い物、展示会の売り子から営業の補助まで、何でもやったよ。その中で、最終的にある製品企画のプロジェクトに回された事が転機になった。
そのプロジェクトは全然注目されて無くて、一応商品化は済ませていたものの、社長や専務の覚えも悪く全然売れてなかった。
ただ会社の景気だけは良かったからお取りつぶしにされる事無く済んでいた。
こんな、他にもいくつかあったプロジェクトの一つだった。一応は責任者という立場だったが部下はいなかった。
会社はどこまで行っても同族企業で、その上社長や専務が強力なコネクションを持って仕事を取ってくるような所があった。
だから、社長や専務の覚えがめでたけりゃ予算をもらえてそれだけである程度売れる。
ただ、そういう所はひたすら専務の言うことを聞いてなきゃだめ、言いなりになってないと駄目と言う感じだった。
一方で、そうではないところは完全に日陰。だから俺がやる事になった所は、商売としてはさっぱりだったが、その代わり注目もされないので専務に横やりを入れられることもなく、自由にやる事ができた。とにかく当時は看板商品が売れに売れてお取りつぶしにするような手間すら惜しかったのだろ。
どうせつぶれるのだろうし、いろいろな場所でいろいろな手伝いをして歩いてずっと考えてたビジネスプランを実行してみることにした。
それが、当たった。ビジネスプランには自信が無いわけじゃないが、時代に当たった運もある。
もちろん、始めはいろいろと難しかったけど、取り組み初めて数年で軌道に乗り始めた。
バブルの残り香が消え始め、酔いが覚めるように人々はだんだんともうバブルは終わったんだと言う空気感になり始めた頃。そんな時代が切り替わるタイミングというのはいろいろと古い商売と新しい商売が入れ替わっていく。
そんなタイミングにあっても、出た芽は小さくて、昔からの商売をしている人にすれば、たまに生まれてすぐに消えるようなものに見えていたと思う。だからそう言う新しいことをやろうとしている人は、今の商売でうまくいっている人々に相手にされていなかった。
そこに俺は、今の商売でうまくっている所の看板を使って乗り込むことで、一気に市場で存在感を出すことができた。今流で言うと社内ベンチャーということになるのだろうか。最初は小さかった商売もだんだんとうまく行き始めた。
ただ、うまくいきすぎた。いや、違うか、本当に時代が変わっていた。これは悪い事に、これは看板商品の方がだんだん時代に通用しなくなってきたことも意味してた。前の看板商品はだんだんと売れ行きが鈍っていく。一方で俺の商品は売れていく。
そうして、あるとき有力な取引先が3つも相次いで路線変更をし、うちの商品のそれまでの看板製品の扱いを大幅に絞った。その代わり採用されたのが俺がやってた路線の商品。
うれしいと思うよりも、もう必死だったよ。気楽にやってたのにいつの間にか主流の落ちた売上を俺が支えなきゃならない立場になってしまった。必死で必死で会社を守るために働いた。幸いにして努力は報われてどんどん売上は伸びたが、主流派の商品はどんどん駄目になっていった。
よく覚えている、阪神淡路大震災があり、オウム真理教事件があった頃だ。
専務が関わっていた主流派の方は、既存の設備が無理がたたって主力品が販売できなくなった。
一方で、同系統の代替品を用意はしていたが、売れない。それはそうだ。時代の変化について行けなくなったから。前と全く同じ商品だったから売れていただけで、時代に合わない違う新製品を出しても売れなくなっていた。
一方で俺の方の商品は順調に売れていた。そこで、俺はよかれと思って、俺の方の商品に、主流派の商品をセット販売を少しずつ始めていた。どうも専務たちはそれを本当はやりたくないような雰囲気が合ったが、当時は完全に俺の商品以外は赤字になっていたからだ。
また、この新しい商品のノウハウは社内にも公開した。当然だ、秘密にする理由がない。
ただ、ここまで来ても俺がやっていた方のラインは、メインのラインと完全に交わることはなかった。ただ、スタッフの交流は行われていたし、現場レベルでは別に完全に分離されているわけじゃなかった。
社長や専務が主流の方に力を入れていて、こちらに何も言ってこないのは以前からだったし、何よりもそう言う体制があったからこそ、時代の流れの変化に会社として対応ができたから、それはそれで好ましいと思って、特に気にしなかったんだ。
ただ、今思うと、だんだんとひずみが蓄積していったのだと思う。
いくつか時代を象徴する出来事というのがあるが、オウム真理教事件が以前の時代の節目を象徴したものなら、俺にとってのその次は、リーマンショックだったと思う。
この頃から市場環境が再び大きく変化し始めた。商売の環境が再び変化し、90年代に確立しつつあったやり方が再び通用しなくなった。顧客の予算配分が大幅に変わり、そもそも市場が縮小し始めた。これにより売上が頭打ちになり始めた。当然手は打っている。手を打ったから大幅な売上減少にまでは至らなかったが、このままではじり貧なのは間違いが無い。
そして時代が回るうちに、うちの会社で主流派の社長や専務がやってきていた古いスタイルが再び受けるようになってきた。主流派は、こちらが作り上げ、提供したやり方と、80年代からやっている古いやり方両方を知っているため、堅調に伸び続けた。
当然、我々も後を追おうと考えた。
この二つのうち、どちらかを認めてくれるのならば、まだ耐えられた。ただ、両方とも封じられてしまったら、もう手も足も出ずに、座して沈んでいくのを待つしか無い。
しかし、もう問題は俺だけの問題でも、俺の部下だけの問題でもなく、供給者責任として商品を届ける取引先や、それに連なる経済の生態系に対して責任が及ぶようになってしまった。
そこで俺は、ここへ来て明確な指示への違反をした。いろいろと問題にならないように配慮をしつつ、せめて影響が小さくなるように、できる限りの手配をし、できる限りの手を打った。
専務からは何度も話は合った。そのたびにできる限り社の方針に従いながらも、しかし責任は果たすように新しい方向に舵を切っていった。
専務からの締付は強くなってきてはいたが、専務はそもそも会社愛が非常に強い人間でもある。ある程度の自制は効いていたのか、俺や幹部には強く当たるが、実際に決まった業務に影響が出るようなことはなかった。関係性は冷え込んで、それは取引先にまでしれるような状況になっていたが。
均衡状態が一気に動いたのは、ある噂だった。
タイミングとしては最悪だった。社長や専務はもう高齢で、後継者の話がでて、専務の娘が会社に入り、次期社長に決まっていた。そこでいろいろな整理が始まっていた頃だった。
もちろん、俺にはそんな気は全くなかった。弁解もした。ただ、これが「とどめ」になった。
専務からの指示はどんどん強くなっていった。それは俺に言うだけではなく、従来は現場レベルではある程度協業できていた末端の業務にも影響が出始めた。
そして去年の1月、専務に呼び出された。慌てて向かうとそこには専務の他に取引先の人間と、会社の顧問弁護士がいた。専務は取引先の人間に、独立する気も社長の座をねらってもいないと直接説明するように求めた。
俺は求められたように、何度も繰り返していた同じ話をした。そんなつもりは全くない、これからもやっていくつもりだと。事実として、社長や専務が戦後直後から作り上げた偉大なブランド力と、会社の巨大なシステムがなければ商売は続けられないし、それを辞めるメリットはどこにもなかった。冷静になれば誰にでもわかることだ。
ただ、専務はその取引先がいる席上で、そういった説明だけではなく、俺がやっている商品がいかに駄目か、いくらやっても会社の主流は専務の商品であり、劣った亜流であるかを演説し始めた。顧客まで馬鹿にするような発言。はっきり言って事実じゃない。そうして言ったのだ。主流になっているラインと、俺がやっているラインが分かれて摩擦がある事そのものが存在せず、もし存在しているとしたら刃を向けているのと同じだから、辞めてもらうと。
話はあっという間に広まった。
わかっている。いくらやっても主流になれないことは。
だが、会社が問題になったときに、古いやり方に固執して市場変化に対応できず、それでも売ろうとして製品を壊してしまったの誰なのか、収益を上げて会社を支えたのは誰なのか、それぐらいは人気視していると思っていた。
専務が後生大事に掲げる理想ははっきり言って利益になってない。それは我々が作り上げた売れ筋の土壌の上にしか存在できないものだ。それを認めろとは言わないが、否定するということはどういうことなのか。
主流になりたいと思ったことがないと言ったら事実ではないが、主流にしてくれと言ったことはないではないか。それでも何故、敵視してくるのか。
専務の言い分、それがすべてでたらめとは言わない。もっともな指摘はあるだろう。古い伝統や理想を掲げることは大事だ。
しかし、古い理想を古いやり方が再び流行が回るように時代の流れになったからと言って、それは合っていたとは言わない。
止まっている時計は必ず一日に一度は正確な時間を示す、しかしそれは時を動かしているものがいるからだ。止まっていることと動いている事は全く違う。
正直愛想が尽きた。
この方針は続けることになるだろう。少なくとも社長と専務がいる限りは。その娘がいる限りは。ただ、誰の目にもその方針でいつかは行き詰まることはわかりきっている。消えてしまうことはないだろうが、市場は大幅に縮小することになるだろう。
専務は取引先がいる席上でこう言った。「辞めろ」と。本流と一緒にやろうとしたとき、それを拒否し壁を決定的にした本人が、摩擦が存在するならば、辞めろと。ならば辞めてやろうと思う。
ただ、そう決めたからと言って、いきなり出社しないとかではなく、いなくなっても問題が無くなるまで引き継ぎをするあたり、結局俺は小物なのだと思う。
あいつが勝手に辞めたから会社が駄目になったとか言われるのも癪に触る。部下が困るのも本意では無い。結局一年かかってしまった。
希望を言うならば、ただ、進行の遅い癌のようにじわじわと会社をむしばんでいって、最後どうにもならなくなった時に、あのときあいつが残っていれば違ったのだろうなと言わせたいと言う程度の希望はある。(これは呪いでもある)
金なら十分すぎるほどあるし、仕事しかしてこなかったから養わなきゃならん家族もいない。これからは気楽にやろうと思っている。
悩み事としては、俺が辞めるではなく独立して新しい会社を興そうと考えてると勘違いして、ついて行きますと言ってる部下をなだめるのに苦労している。
俺も、それなりに人望はあると思ったが、そこまでとは、正直感動した。
感動したが、部下たちもあんな会社でそんなことを言ったら会社での立場が完全に駄目になることはわかりきっているのに言ってしまった。だからといって本当に会社を興してうまくいくとは思っていないので彼らを拾うこともできない。
もう噂になっていると言う所で頭が痛いが、最後の奉公だと思って(会社はどうでもいいが、部下や取引先は大切だ)各方面にこの下げなれた軽い頭を下げに行ってくるつもりだ。