はてなキーワード: 世捨て人とは
最後通告です。僕が覚えてる範囲で「こいつ本物川一派だ」と言う人が今夜RTしたら、僕は即刻そいつはブロックします。甘やかしたら付け上げるアバズレのゴキゲンを3日も取って来たが、限界が来た。殴られないだけありがたいと思え— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 16
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。
必ず誰かと出かけて、月曜になってくると思い出を連れて帰るように、身体に痕を残して職場に来る。
出かける相手も様々。
会社の同期、大学の友人、中学のクラスメート、先日参加した読書会の……etc。
'まさかとは思いますが、この「友達」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではない でしょうか。'
淡い猜疑心は、いつかの飲み会で写真を交換して、溶けていった。
最近は世捨て人のように週末を山で過ごして一般人の話題ストックが全く足りなかったけれども、八丈島ならいったことあるよともらした自分の言葉を上手く繋げるように、会話は徐々に盛り上がって終わった。
後から、というか今思い出したが、その席で話した人の中で沈黙が痛くなかった唯一の人だった。嫉妬なのか、羨望なのか、よくわからないものが胸に詰まって今すごく痛い。
明日の金曜、定時ダッシュをしていいかと、確認が来た。この時間までお互い残ってる理由分かってる?と言えない。聞きたくない話を聞いて、了承して、お終い。
ここは残業代はきっちり出る会社だ。そして私に予定はない。進捗は今欠員が出ると不味いかもくらいには少し遅れ気味、でもカバーできる範囲。トレード出来ない何かに苛立つ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140421-00000029-fsi-bus_all
(「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」に賛同するのは常に男性の方が多いってのは敢えて書かない辺りがいかにも産経だがまあそれは置いといて)
Yahooのコメント欄を気紛れで読んでみたらこんなのを見つけた。
子育てと家事だけに集中できて、最高に幸せな時間だったのは事実。
しかし子供の手が離れたので学費稼ぎのためにイヤイヤながらパートに出始めましたよ。
そりゃあ、最初の頃は辛かったけど、だんだんと脳が活性化してきたのが自分でもわかるんですね。
専業主婦もさすがに10年続けるとたるんできて、ちょいとぼんやりしてきてですね、実のところ世捨て人のような、もういつ死んでもいいわ、私なんて用のない人間と思い始めていたのです。
今はそんなこと考えもしないですね。
子育ての期間だけ専業主婦で、いずれは正社員としての社会復帰もできるのが理想なんだけど、今の社会はどちらかしか選べないような風潮なのが何とも残念です。
「もういつ死んでもいいわ、私なんて用のない人間」と考えている状態が「最高に幸せ」な訳がなく、むしろ病的な状態ですらあるのに
その状態から脱した今でさえも「最高に幸せな時間だったのは事実」と言ってしまうその心理。
その後の書き方からして、この人は「その時間は実際は幸せではなく、むしろ病んでいた」という事を自覚出来ているんだろうと思う。
そう言わなければならない抑圧でも感じているのか(だとしたらそれは誰に対して?子供?夫?それとも漠然とした「世間」?)
或いは「専業主婦とは最高に幸せなものだ」と言う宗教じみた洗脳にはまっている状態が未だ解けていないのか。
この人が特異なのではなく、こういう人は珍しくない。
この人のような(元)専業主婦だけではなく、専業主婦ではない女や男でも同じような矛盾した認識を持つ人は多い。
身近な専業主婦(例えば母親だったり妻だったり友人だったり)がいかにも不幸そうだったり病んでいるのを目の当たりにした経験があるのに
「専業主婦」と聞くと漠然と「幸せなはず」と考える人達。はてなでもよく見かける。
そもそもそれは「精神異常」なのか?
疑わしいな
おまえは「攻撃」と言っているが
それは単なるコミュニケーションでは?
ネトウヨのコミュニケーションは精神異常であるという学説もあるが
だが おまえはそのような具体例を示していないし
少なくともおまえが書いた例は
精神病の医学的定義はDSMなりICDを自分でググって確認してくれ
もうひとつ書いておく
何で他人の功績を自分の功績のように讃えたり、
身内の恥みたいに責め立てるのだろう
どこの誰だか知らない他人の、個人的な生活の一部なのに
この点に関しては
疑問に感じる気持ちはわからぬではない
その勝者の栄誉を称える
そのような考え方を実践することがオリンピックの理想なのだろう
その意味で考えるなら
他人の功績を自分の功績のように讃えたり
身内の恥みたいに責め立てる理由は
ということになる
理由を一般化するのは適切ではない
そもそも「個人的な生活」に
ルールは常に変化する
他人の功績を自分の功績のように讃えたり
身内の恥みたいに責め立てたい人は 好きにすればいい
世捨て人のように無関心を装って生きたい人も 好きにすればいい
そういう生き方があってもよいし どう生きるのもその人の自由だ
そのように多様性を受け入れたほうが
多様であること
それが自由の本質だ
今のスペックのまま、“ちんちんがそこそこ大きい”人生を歩みたい。
俺はルックス的にはおそらく中の上、ブサイクだと言われたことはないが
皆の心の中で「なんか惜しい」と思われている空気を感じる、そんなクラスだ。
そして俺はちんちんが小さい。いわば“粗チン”であり、言うなれば SO・CHI・N である。
ちんちんが小さいがためにできなかった事やなりたかった自分の幻影が俺の心の片隅を占拠しており、
このままでは死んでも死にきれないのだが残念ながら人はいつか死ぬので、
仕方ないから生まれ変わった時にちんちんが大きい男として生まれいろんな夢を叶えたい。
こういう事を言うと必ず「ちんちんの大きさなど関係ない」とか抜かすアホが出てくる。
関係ないわけあるかぼけクソゴミ虫。ろくに考えもせず適当なこと言いやがって。考えれば簡単に分かるはずだ。
ルックスがいかに良くてもちんちんの大きさによって不可能な人生がある。
考えてもみろよ。
毎晩美女をとっかえひっかえするプレイボーイになると思うか?
街中で超絶美女を悪漢から救いその晩、彼女を抱く事になると思うか?
答えは否だ。彼は絶対にどこかでちんちんが必要にならない選択をしてしまうからだ。
やりたくないのではない。ちんちんが小さいから逃げざるをえないのだ。
どうしても最初のご開珍の場面を先に想像してしまい無意識のうちにそうならないルートを選んでしまう。
風俗でさえパンツを脱ぐのと同時にどうしても「すみません」という言葉が出てしまう。
この「すみません」は、「小さくてすみません」「小さすぎて笑いたいのを我慢させてしまってすみません」
という意味だ。
書きながら画面が滲んでよく見えない。
想像してみろ。
JAY-Zのちんちんが小さいわけがないし、SnoopDogのちんちんが小さいわけがない。
この世の中で活躍してるのは概ねちんちんがそこそこ大きいやつらだ。
反して、秋葉原などでブヒブヒ言ってるやつらはきっとちんちんが小さい。
今度アキバでチン長を調べてみて欲しい。平均チン長が明らかに小さいはずだ。
むしろちんちんが小さくないヤツがアキバにいるべきではない。ちんちんが小さくないのならもっとやりようがある。
そもそもちんちんが小さいから、世捨て人の如く内に篭って外見にも気を使わずどんどん腐っていくというパターンは
確実に多いと思う。
だってどんなに洒落て充実したところで、ちんちんが小さかったら最後でギャグになってしまうのを我々は知っているからだ。
そう、ご開チンが“最後のセレモニー”だからタチが悪いのだ。(いやタチは良いのだが)
この手の話になると今度は女子が「女にだっておっぱい格差が」とか下らないこと抜かしやがる。
くそが。
おっぱいなんか大きかろうが小さかろうが大した問題ではない、おっぱいは常に素晴らしいものであるし、
そもそもそんなものは外見からも見て取れるものだからイメージと実物の齟齬は乳輪くらいのもので限りなく小さい。
パッド偽装が非難されるのは当然であり、それはおっぱいの小ささへの非難ではない。
「小さくても問題ない」と言う俺を信じなかった事への非難だ。
あと女性のおメンクは大きい小さいという評価基準が無いのが羨ましい。
たまに広さを問題にする愚かな男がいるが、はっきり言ってそんな事はどうでもいい。
多少のガバメントは問題にすらならないし、もし産後であるならそんな素晴らしい事を責める男はクズ以下の塵に同じ。
まじであんなとこから頭が出てきた時の衝撃と神々しさは忘れがたい。
少々話が反れたが、言うなればおっぱいは“中ボス”、ストーリー上の通過点、装飾として添える華であり、
おメンクは“エンディング”なのであり、めでたしめでたしなのである。ぶっちゃけエンディングってどんなんでもいいだろ?
ところがちんちんはそう甘くは無い。(いや実際の味は知らない)
ちんちんは“ラスボス”であり最後に登場するからタチが悪い。(いやタチは良い)
最後に登場したくせに小さいと、それはもはや“オチ”以外の何物でもない。ギャグなのである。
その瞬間に流れる微妙な空気は、実際にちんちんが小さいヤツにしか分からない温度と匂いがある。
また画面が滲んできた。
たまに「セクロスの良さはポコニャンの大きさじゃないよ!」とか言ってくれる素敵な女性がいる。
氏ね。そんな優しさいらないしそれはあくまで常識的なちんちんの大きさがあってはじめて成立する話だ。
じゃあナニか?おまえのおマンションに小指を出し入れして本当に気持ちいいか?あ?
というかただでさえろくに満足させてやれなかった嫁も2人射出してからさすがにガバメント2.0になり、
なおさら俺のSOCHINでは満足させられなかったせいか見事にセックスレスになってて泣いた
もしも俺のちんちんが大きかったなら、想いのすべてを歌にしてから即セクロスに持ち込んだかもしれない。
あの時すれ違ったストライクすぎる美女に気兼ねなく声をかけてその晩ゴルゴばりに抱いたかもしれない。
近所の不良どもを片っ端からやっつけ今頃関東○合のトップで仕切ってたかもしれない。
同じチームの女性陣を片っ端からひいひい言わせて味方につけ、会社のトップに君臨してたかもしれない。
“ちんちんが大きいと得をする”と言いたいのではない。
大は小を兼ねる、ちんちんが小さいとする躊躇もちんちんが大きければ何も躊躇しない。
ちんちんが小さいことを無駄に気にして避けてしまったルートを、なんの気兼ねなく検討できる。
この感覚はちんちんが普通、もしくは大きいヤツには絶対に分からない事だ。
そんなわけで、ちんちんが小さい今世を頑張っていくしかないのでxvideos見ながら小さいちんちんマッサージしつつ(タチは良い)、
久々に実家に帰った日、待ち受けていたのは家族のドン引きした視線だった。
冷ややかな視線も痛かったがそれよりも心に突き刺さったのは妹のヒステリックな叫びだった。
「外でお兄ちゃんだって言いたくない」
歳が離れている分、特に兄弟喧嘩をすることもなく仲良くやってきたつもりだったが
母のヒステリー体質をしっかり受け継いでいるのもこの時知った。
父を除く家族一体のブーイングの中、這々の体で帰らざるをえなかった。
先ほどその妹から宅配便が送られてきた。20-21時の時間指定で。
玄関先で偶然配達のあんちゃんと顔を合わせたので、そのまま受け取ったが、
だが四角い。玄関の明かりをつけると、果たしてそれはタニタの体重計であった。
リアクションを取れずに固まる中、宛先人が妹の名前になっていることをかろうじて目が追った。
有効に使ってほしいということ、先日は言い過ぎたこと、2月の結婚記念日は絶対に痩せて帰ること、
細かいが息せき切ったような字でみっちり書いてあった。
高校生のお小遣いにしては少々額が張りそうな立派な体重計を見ると、母もお金を出したのだろう。
ただ、言い出しっぺは妹に違いない。家と会社を往復する世捨て人のような社会人生活を送ってきたが、
今更やばいと思った。私は意思弱だが、見栄っ張りだ。自分のためではなく妹のために痩せよう。
まずはメールを送ろう。
どうすればいいんだろう?
地元の友達と話をすると、そちらや海外に母子疎開する家庭は少なくなく、受け入れ体制の整備が町で動いている。離婚して母子家庭になる場合も考えられるので、その場合のサポートとかね。
もし、私が関東で子を出産し、低線量の放射能に晒しながら、子が成長していくのを見たら炙り焼きされているような危機感を持つ気がする。
地元に受け入れ体制はあるわけなので、子が成人するまでだけでも、そのまま仕事は辞めて離婚して、母子家庭で手当てもらいながら、そこそこ働いて、子のために未来のために畑作したり、本や音楽を作って生きていくのはとても魅力的に見える。まるでインドのオーロヴィルみたいだ。案外うまくいくんじゃないか。
ただ学生の時にインドのあの町を見て、世捨て人の世界、私はそっち側ではないという感覚を持ったので、そういうところが信仰の違いってやつなのかなと思う。この違和感はなんなんだろな。
子を産むリミットは限られているので、それを過ぎたら私はそっち側には永遠にいけないんだろう。
放射能について
逃げて安全だと思っている人たちは、そうじゃない人のことをいつも心配しているけど、同じように偏見だって持ちうる。
心配のコアになっている部分と、その殻は何層にも重なっていて、上手な切り分け方がわからない。
殻ごと壁に投げつけるなんて乱暴なことはしないにしても、ある程度剥いたら折り合いをつけるしかない。折り合いをつけるというのは、殻の中が腐ろうが、ヒヨコになろうが受け入れるということだ。
結局、増田の妻は増田がどうなっても受け入れようとは思っているけど、それ以上はもう歩み寄ることはできないんじゃないかな。少なくとも子が成人するまでは。
唐突だけど以前読んだ本で、「宇宙の果てまで―すばる大望遠鏡プロジェクト20年の軌跡」というのがあったので紹介する。
http://anond.hatelabo.jp/20130506111132
書いたのは、ハワイのすばる望遠鏡設立に向けて尽力した小平 桂一という方で、
話はほぼご自身の経験に基づいた軌跡なんだが、
研究者としての彼の姿よりも研究者のために働くマネージャーとしての姿がとても印象的だった。
例えば、すばる望遠鏡の設立が三十年越しにようやく決まった中で、
ハワイへ数ヶ月から数年単位で海外赴任することになるであろう職員の海外赴任手当が大きな問題になった。
なぜなら、今まで海外にある国立の設備といえば、第二次世界大戦の慰霊碑ぐらいしか前例がなかったのだから。
国立機関の研究者が常勤で海外に暮らすということに限って言えば、前代未聞だった。
既存の枠組みでは"出張"程度しかなかった海外赴任の手当をもっと増やせないかと関係省庁を巡るなかで
彼は、少なからず「研究者は研究をしたいからそこへ行くんでしょう。手当等増やさなくてもいいんじゃないですか?」という声を聞いたらしい。
このままでは「すばる望遠鏡」という箱はできても中に人がやってこなくなってしまう。
職員に職務命令で従わせることもできるが、志気が上がらない研究でなんの成果があがるんだ(この辺うろ覚えでごめんなさい)。
そういう危機感をもって活動した結果、待遇は改善されたという話だった。
研究者は世捨て人じゃない。市井の働く人たちは皆仕事とプライベートの二者択一を選ばなくて、研究者がそれを当然だと思うのはおかしいよ。
足りない部分をかける時間で補うような研究もあるとは思いますが、なんていうか大半が、環境が許せばそうはならないんじゃないかと私は思います。
ピペドの体験談など特に...すごく無責任に聞こえると思いますが、元増田は常勤職ということでそれなりのポストを得ていると思います。
ご自身が今に納得しなかったなら、せめて次のひとたちのために、活動できるようになれる立場を目指されてはどうでしょうか。
長文にて失礼致しました。
何が言いたいのかサッパリ。何が主張したいのか意味不明であるし、富士山の商業主義にたてつく割に自分が一ヶ月そこで働いて給料貰ったとかメチャクチャだ。
登山歴89年のオレが富士山の現状について噛み砕いて説明する。
山小屋やトイレなど登山をスムーズに進ませてくれる有り難い施設があるからこそ、あれだけの登山者を捌けているという事実をもっと尊重してください。もし山小屋が無くてこのチャリンダーが言う「山小屋に頼らないテント泊の登山」なんてものを登山者の5%がやり始めたら富士山は確実に崩壊する。そこら中にテントが溢れてメチャクチャなことになる。今以上に混雑して分け分からん事になる。3000m越えの山にあれだけの登山インフラが揃った経緯も少しは考えた方がいい。
富士山は多くの日本人にとって憧れの存在なんだよ。日本の象徴じゃないか。その山に人生一度は登ってみたいと日本中から人が集まる。それの何が悪い?それを否定するなよ。登山や冒険はチャリンダーみたいな世捨て人だけのものじゃない。普段日本の為に汗水垂らして働いている人達が、休暇や老後を利用して憧れの富士山に登りにくる。そしてその大量の人達を大きな事故も無く捌けている今の富士山のインフラは凄い。こんな山は海外じゃそうそう無いぞ。
このチャリンダーとやらの記事が気持ち悪いのは、富士山に登りにくるような一般ピープルを心の底で見下してるからじゃないかな。「オレは世界中の荒野を自分の足で走って来た それに比べてお前らは...」てな具合。それは違うと思うんだよな。世間の人がお前みたいに自由にわけのわからん生き方できないから。そんな生き方を日本人が誰もがやったら、君みたいな人が存在する受容性も無くなるよ。
もちろんゴミのポイ捨てはダメだ。そこは当然同意する。なぜあんなところでゴミを捨てられるのか理解に苦しむ。しかしそれはそれ、これはこれだ。オレが知る限りこれだけの高山にこれだけの人が集まってたいした事故も無いっていうのは日本ぐらいのもんだよ。実際海外の登山好きの奴に富士山の現状を話すと笑われる。「HAHAHA!そんな山、あるわけないですー。ウソよくない〜」ってな。そのくらいありえないんだよ富士山ってのは。すげーよ富士山。
ゴミはダメだ。でも富士山に登りたいという日本人の気持ちを否定しちゃダメだし、今の富士山のインフラはむしろ誇るべきだ。以上。