はてなキーワード: ベランダとは
母と話しているとイライラする。
いろんなことを思い出していたけれど、母は甘えれば応じてくれたけれど、ぴしゃりと叱ることをしなかった気がして、それが原因かなと思う。
普段は八方美人で優しくたしなめた父は、私が片付けをしないことに腹を立てて、酔った状態で二階のベランダから物を投げた。
卑屈で普段は我関せずという小姑は、私が小学生の時分にアニメを見て宿題をしないことに腹を立て、髪の毛を引っ張って引きずろうとした。
全く正しいとは思えないけれど、それでも私は母に叱ってほしかった。「親に向かってその口の利き方はなんですか!」って、ドラマとかで言うけど、まさにあれを言ってほしかった。
20代になった今となっては、そんなこと言って母に、家族に優しくできない自分に言い訳するのはよくない。折り合いの付け方を見つけたい。
引っ越しシーズンで新たにインターネット契約を申し込む方も多いのではないかと思いますが、
フレ○ツ光にはマジで気を付けたほうがいいです。
昨年のちょうど今頃、私は1人暮らしを始めるべく某家電量販店で電化製品をまとめ買いして
ついでにそこで一緒にフレッツ○を申し込みました。
別に○レッツ光でなくてもよかったのですが、某家電量販店にいたフ○ッツ光のスタッフさんが、
「4月中には絶対開通しますんで!」とそれはそれは力強く言っていたので契約しました。
某家電量販店で使えるというポイントのキャッシュバックも40000円分くらいくれると言うし。
4月下旬から5月上旬まで12日間、研修のために東京へ行かないといけないという個人的な事情があったので、
スタッフさんは「間に合います、大丈夫です!」って言ってくれたので、それならば安心だと思ったのですが、
これが大きな大きな誤りでした。
そこからはフレ○ツ光のコールセンターの人と電話でやり取りしたのですが、
話が全く違うじゃないか!と言っても、コールセンターの人はそれより早くするのは無理、とばかり主張。
私の研修中にも何度も何度も電話をかけてきてやっと日程の調整ができて下見ができたのが5月中旬。
6月上旬に開通工事がやっとできることになったのですが、当日来た工事のスタッフが開口一番
「お隣の部屋の方の許可は取れましたか?」と。
下見の時に工事の際は隣の部屋のベランダを通る必要があるから隣人の許可を取る必要があると言われたので、
隣人とは生活時間帯が全く違うようだし私は仕事をしてるから無理、と伝えたら、
「じゃあ許可取っておきますね」っていったのはそっちじゃないですか・・・。
結局その日は隣人と連絡が取れず、許可がないことには工事ができないので工事は中止。
別の日がいいと何度言っても、フレッ○光の人は無理だ、それを逃すと7月になるとしか言わないんです。
仕方がないので母親に無理を言って工事日に来てもらったのですが、
15時までに工事を開始するといっていたのに実際に始まったのは15時半だったそうです。
引っ越しシーズンだから、インターネットの申し込みが込み合うのは仕方がないとは思います。
じゃあなぜ最初に、4月中に絶対開通できると嘘をついたのでしょうか。
○レッツ光のコールセンターの人もふざけた態度(半笑いで対応、こちらは悪くないとばかり主張、
電話かけてきても「お時間よろしいでしょうか?」の一言もなく勝手に話し始める、など)だし、
下見に来た人も私の部屋から靴下のままベランダに出てそのまま部屋の中に戻ってきたし、
コールセンターの人と下見の人と工事の人の連携が全然取れてなくて、
何回も何回も現状の説明させられましたし。
ちなみに、この件でご迷惑をおかけしたということで、フ○ッツ光から工事費用の4000円ほどはサービスしてもらえたのですが、
それも「こちらが4000円もサービスしてあげる」というような言い方。
でも初期費用の800円は絶対払ってもらわないといけないから、お願いしますとも言われました。
私がこの件で3か月ほど迷惑かけられたのに、高々4000円程度のことか、それもとても恩着せがましく、と呆れました。
昔まだ実家に住んでた頃、飼い猫がベランダでスズメを捕まえた事があった。
私は当時自室でネットしてたけど、母の物凄い叫び声を聞き、何事かと1階のリビングへ行った。
私に気がついた母が必死で指さした先に、部屋をバッサバッサと必死で飛び回る鳥の姿が。
あまりのことに( ゚д゚)ポカーン ←マジでこんな顔することってあるんだね。
母のそばを見るとドヤ顔でふんぞり返る猫がいた。
どうも話を聞いてみると、母が料理をしてたら、猫がやってきてなにか咥えてきたと思ったら
母の前でぽとっとスズメを落としたということらしい。
捕まえたって…どうやって???飛んでるということは翼を傷つけてないってことだから。
7キロもあるデブ猫のくせに器用なことをするもんだな…と感心してたら
無事でよかったねスズメさん。
事業所移転に伴って、契約していた社宅用の賃貸住宅を解約した。
管理会社は物件と離れたところにある業者だったので、立会も面倒だから錠は開けたままで、鍵を玄関に置いておけばいいとのことだった。
こちらとしてもその方が時間の調整をしたりする手間もなく楽だったので助かった。
そうして無事に引越も終え、鍵を玄関に残して立ち去って一晩が明け、先ほど管理会社から連絡が入った。
今までお世話になりましたとか、鍵は確認しましたとか、ひと通りの挨拶を終えてから初老の不動産屋は言う。
「(仲介の)不動産屋さんから聞いてるだろうけど、契約で敷金は返金できないけど大丈夫ですか?」
大丈夫ですか?という質問を投げてくるということは概ね大丈夫ではないということだ。
幸運にもすぐに見つかり、案の定書いてあった。
甲は、明け渡しまでに生じた本契約から生じる一切の債務を敷金から控除しなお残額がある場合には、本物件の明渡し後、遅滞なく、その残額を無利息で乙に返還しなければならない
当然である。
その旨を説明すると、ベランダにゴミ袋がいくつか放置されていたとか、離れた物件まで行くのだって金がかかるんだとか、だから費用負担に応じてほしいと言う。
もちろん原状回復にかかる費用を負担することはやぶさかではない。
それについては明細を立てて、残額だけ返金してもらえればいい。
だけどおたくの手間賃は違う。
いくら離れた物件であっても、管理会社が管理物件を訪問するのは通常業務であるはずだ。
そうした話をすると不動産屋もしぶしぶ納得した様子で、鍵はポストに入っているからゴミだけは処分していってくれと言う。
ゴミ残置はこちらに非があることだし、処分費で3万円とか取られても困るので承諾した。
『映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。
シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリング)から成り立っていますが、シナリオからの分析局面では、プロットそのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリングが重要だということになります。
ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである。映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。
様々な作家による小説、ラノベの創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界と主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。
正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスをゼロにする」ものでしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロでしかないからではないのか。
一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロをプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである。
ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。
であるならばそれは、システマチックに再利用可能な一定の演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。
仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体の品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である。
金子が映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディが不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価の底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。
「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。
本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的に存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話とキャラ萌え特化の現代ラノベに普遍的に存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。
と大塚と新城をDisった上で、つまりある特定の様式における「テンプレート」の抽出が必要なのであり、本稿ではボーイミーツガールの様式をもつラノベに限定することとした。
ボーイミーツガールの定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒやゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公とヒロインの出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。
まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョンが主人公であり、涼宮ハルヒはヒロインである。加えて主人公とヒロインの性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公もヒロインも女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公は女性でヒロインは男性である。表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。
次に、では「非日常」とは何か。
例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公はヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公はヒロインと出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。
そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロインを意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公が意識している相手」と定義する。
以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベをボーイミーツガールと考える。
なお、本稿におけるボーイミーツガールは排他的なものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である。
これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から、映像化された作品を中心に絞り込むこととした。
シリーズ化している場合、本稿での調査は原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。
以上からWikipediaのアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。
長くなったが、以下やっと本題に入る。
本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的な判断によってまとめたものである。学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものでしかない点は注意されたい。
「主人公がヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公のヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味でヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公の見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。
さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。
問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である。
突然同じ部活に所属することになったヒロインが毒舌家であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロインが天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインがサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロインが魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。
筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である。
「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存の陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロインが挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものとしか認識されないリスクを内包する、という点である。
既存の陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出の類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。
クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能である。ヒロインの奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公が美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。
とはいえこれらの例において実質的に主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。
一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分の人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。
偶然からヒロインの秘密を主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。
知ってしまった秘密を主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公とヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密の漏洩はヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロインの人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。
その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である。
例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。
しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型はヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。
例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。
筆者は全く百合趣味が理解できないが、そうであっても「美人が美少女のネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。
『マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインがベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。
以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。
例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインのエロゲ趣味が主人公に漏洩する第一の遭遇(秘密の漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロインが主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。
『化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロインに体重が無い」という「謎の提示」と「秘密の漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインがカッターナイフとホッチキスを主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃的性格のヒロインに特段の目新しさはないが、文房具を凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。
『とらドラ!』の第一の遭遇はヒロインが主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密の漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。
興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。
例えば『俺妹』ではエロゲをヒロインに返した際、その場でヒロインが主人公へ自室でそのゲームをプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロインに夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。
撤去処理ではありません、石綿が含まれると思われるボードを残したままのリフォーム工事です。
意外と、奴がいると思われる現場は多いです。やはり古い建物に。
奴が入ってるボードは、断面がなんとなく湿っぽい…とかで見分けています。あまり当てにはなりませんが。
「そこの壁、切っといて」
「はい!」
という会話を聞いて、ささっとベランダに逃げました。大工さん。
そこで察しがつきました。ああ、これ、奴入りなんだなと。
横長に1mほど、マルチツールで豪快に切りました。スーパーにあるようなただのマスクを付けて。
正直、奴を吸うのはかなり怖いです。放射線と何ら変わりありません。
しかし、仕事です。自分がやらなきゃ、結局自分以外の誰かが切るんです。代わりはいくらでもいるもの。
勉強を捨ててここにいるので文句言えないです。たぶん一番ヤバイのは悪質な解体業者なので、幾分マシだと思ってます。
気になる方は、リフォームする時なんかに「アスベストっぽいのがあったら適切に処理してください」と営業マンに念を押しとけばたぶん大丈夫です。
なんとなく肺が痛いです。なにより、自分への罪悪感で心が痛いですね。
※今回の話は僕の勝手な妄想かもしれません。そんなはずないですが、妄想かも。絶対石綿だと思うけど、思ってるだけだから。検査していないので、正確なことはわかりません。
サブカルクソ女のTwitterアイコンにおける自分の爪先率なんなの?
なんでみんな切って揃えたように2、3回洗濯したら破れそうな素材のスカートを纏いかかとの低いパンプスを履いて写真全体を淡い色に加工しているの?
なんでみんなニギハヤミコハクヌシが毛先を丸めたような髪型なの?量産型なの?
なんで淡い色に加工した写真を好むくせに一眼レフをぶら下げて歩くの?ファッソンなの?林家夫妻リスペクトなの?
頭のネジが陥没したようなふわふわツイートの中に稀に意識高いツイートを紛れさせるのは何のためなの?天敵の目をごまかしているの?
夜のベランダで前髪の長い寡黙そうな男と静かな時間を過ごす的なシチュエーションを好むのはなぜなの?ふたりきりの世界で、煙草が静かに点滅する、そんな幸せ。なの?
なんなの?サブカルクソ女は互いに記憶を共有しているの?ロビタ?ロビタなの?ひとりのサブカルクソ女が死刑判決を受ければ日本中のサブカルクソ女が大挙して溶鉱炉に飛び込むの?
前に住んでた家。入居時は子供も小さかったのか全く声はしなかったけど、2年くらい経過すると朝から晩までものすごい騒ぐようになった。
家の中で騒いでるならまだしも、わざと窓から外に向かって怒鳴る。それが面白いらしい。
ベランダにすのこが引いてあるらしく、それをガンガン打ち鳴らしてきゃっきゃうふふと遊ぶのも楽しいらしい。
一度静かにして欲しいとお願いしに言ったら、その家の親から嫌がらせされるようになって、親も一緒になって窓から大声出したりしてた。まあ親の声は響かないから大したダメージではなかったけど。
こういう対応されると子育てしてる親って他人の迷惑考えないで、好き勝手するための理由に「子供は国の宝」という言い訳を持ってきてるだけだよなぁとつくづく思うわ。
http://anond.hatelabo.jp/20140917075035
不満はないという割には、満足している点が2つしか挙げられていない点
本当に、心から、そう自分に言い聞かせることで自分を抑制していた。
そもそも、私は浮気したいと思ったことが一度もなく、それは一体どんな心持ちなんだろうと不思議に思っていた部類の人間だった。
つまり、浮気したいわけではないが、「浮気をする人の気持ちが知りたい」とは思っていた。つまり、それを知るためには「浮気するしかない」
ある日、よく行く店で出会った隣の人と映画と音楽の趣味の話が合った。何度か店で会ううちにDVDを貸してくれた。
それらはとてもおもしろくて、会うたびに感想を言いあっては笑って、もっとゆっくり話したいと思うまでにそう時間はかからなかった。
学生時代に好きだった人ともこんなことをしていた私はまるでその頃に戻ったみたいに思って、どこか思い出を辿るような甘ったるい気分で何度か飲みにいった。
女が男と飲みに行くという時点で浮気したいとアピールしているようなもの。本来、結婚して幸せなら付き合いとはいえ男とお酒など飲まず、家で貞淑な妻としての役割を優先するはず。
それをしないということはこの時点で既に旦那との関係は幸せともなんとも思ってないし、それ以上の幸せが得られるとわかってたからついていったことになる。
胸を触られながら、私、浮気するんだろうか、こんなに簡単に?浮気ってこんなものなのか?と思っていたが、事が進むうちになにも考えられなくなっていった。
彼のセックスは私の人生のなかで経験したことのないもので「セックスはこういうものなのか」と感じさせるほどによかった。
「いけないことをしている」という気持ちが拍車をかけたのかもしれないが、その後、何日か下腹の奥の感覚がよみがえり、生まれて初めて明確に自分自身の「性欲」を意識した。
浮気する自分を自覚し、それに酔ってるし、満足してるからかけるこの文章。
いまではベランダにはためく二人分の洗濯物をみても何も思えない。
たった一度のことで私は変わってしまったのだろうか。もう戻ることは出来ないところにいるのだろうか。
もともとなんともない二人分の洗濯物に幸せを見ていた当時からして頭イカれているが、
もう旦那のところに戻る必要はないし、とっとと別れて別な男とくっつけばいいと思う。
で、相手が結婚後に豹変したとしても自己責任でやればいいと思う。
ついでに言うとズルいのはお前。
浮気をした。
特に不満はない結婚生活だった。セックスレスでもない。経済的にも恵まれている。
ベランダにはためく二人分の洗濯物を見ながら幸せだなあと思えていた。本当に。心から。
そもそも、私は浮気したいと思ったことが一度もなく、それは一体どんな心持ちなんだろうと不思議に思っていた部類の人間だった。
ある日、よく行く店で出会った隣の人と映画と音楽の趣味の話が合った。何度か店で会ううちにDVDを貸してくれた。
それらはとてもおもしろくて、会うたびに感想を言いあっては笑って、もっとゆっくり話したいと思うまでにそう時間はかからなかった。
学生時代に好きだった人ともこんなことをしていた私はまるでその頃に戻ったみたいに思って、どこか思い出を辿るような甘ったるい気分で何度か飲みにいった。
何度目かの帰り道に抱きあった。キスしていい?といわれた。だめだよといったけれど、いざキスをされたら止まらなかった。
誰もいない夜の街で5、6歩あるいてはキスをし、それを繰り返しながら、部屋まで行った。
胸を触られながら、私、浮気するんだろうか、こんなに簡単に?浮気ってこんなものなのか?と思っていたが、事が進むうちになにも考えられなくなっていった。
彼のセックスは私の人生のなかで経験したことのないもので「セックスはこういうものなのか」と感じさせるほどによかった。
「いけないことをしている」という気持ちが拍車をかけたのかもしれないが、その後、何日か下腹の奥の感覚がよみがえり、生まれて初めて明確に自分自身の「性欲」を意識した。
話の合間に見え隠れする彼の驚くほどの気遣いと表裏一体の残酷さ、それを素直に出しすぎて多くの人に誤解されがちなところ。話をする時の声。大きくてしっかりした手。甘い匂いのする髪。
気がつけばそんなことばかり、深く考えるようになってしまったので、もう会うべきではないのだろう。
いまではベランダにはためく二人分の洗濯物をみても何も思えない。
たった一度のことで私は変わってしまったのだろうか。もう戻ることは出来ないところにいるのだろうか。