はてなキーワード: ハラスメントとは
多分、周囲に感染を広めても、具体的に誰が感染させたかまでは分からない訳で、
仮にオリンピック関係で老人だけでなく、持病があるとか、変異株で子供が死ぬような事態があっても、
具体的に誰が感染させたかなんて分からないから、責任問題にしづらいわけで、
そんな感じでなし崩し的にオリンピックを推し進めたいんだろうなあ、というのはよく分かるんだけど、
つまり、数字とか統計的な結果として感染拡大は観察できるけど、
具体的に誰がというのは分からない、だから、自民党の政治家さんたちは、
だったら無理矢理やっても構わないんじゃねーの?俺たちは医療従事者よりワクチン先に打ってるんだし、みたいな感じだし、
昨今の単なるゲスで外道な露悪趣味地味た政府や世の中にウンザリですわ
マキャベリズムというか君主論というかだって、圧政で民を蔑ろにしていいとは言ってないというか、
露悪はリアリストじゃねーんだよ、
それは単に下品で、育ちが悪いことを自慢するようなものだ、ヤンキーのヤンチャという前科犯罪自慢と同じ
ナチス・ドイツだって、特に最初は労働党という名前の通り、社会主義とか共産主義的にも思える、
「労働者の味方」として与党の地位を確立したはずだし、実際の給与とか国産車が買えるとか恩恵があったわけで、
アソウとかヒトラーを見習うべきといいながら、全然駄目だと思うのは、
ヒトラーやナチスは、少なくとも最初の段階では庶民の給与を増やしたし、インフラ整備とか、
周辺諸国に苦しめられているドイツの救世主として期待されもしただろうし、
庶民に10万を一度配るのさえ、くどくど愚痴って渋るケチなアソウはまったくヒトラーを見習えてないというか、
あれも息子のギレンはそういう器ではない、というのをデギンは見抜いてたから言ったと思われる
それが今のオリンピック強行派によく現れている気がする
一部の国民の生命を犠牲にしてでもオリンピックがやりたい、なんて中国っぽい発想だと思う
ただ、中国はそうやって一部の人たちを犠牲にしてでも経済発展したから、日本を抜いて二位になれたんであって、
中国と同じように人の命を犠牲にしてオリンピックをやっても三位にしかなれない日本は格下ってことになるだろうに
どこまで、今の日本の中心に居座ってる輩は、この国を貶めるんだろう
美しい国とかほざいてた連中が、実際は日本という国の品位を、品格を損ねている
アベシンゾウは戦後の間違った教育を煮詰めたようなヤツだったか、そんな表現をしていたと思うが、
…
ウイグルとかユダヤ人を犠牲にして、安い国産車、EVを買えるようにして、貧しい層でもクルマが買えるようにして、
その代償として天津大爆発があっても列車事故があっても埋めちゃったり、
それでも民草の生活を豊かにして、人心を掌握しておかないと、中国は革命の繰り返しの歴史だからね、
今の中国共産党政府だって、天○門とかやっぱり気にしてるから情報統制に神経を尖らせるんで、
怖いから粛清もするし、怖いから民の生活を豊かにしようともする
これってマキャベリズムとしてすごく正しいと思う
アメとムチをちゃんと使い分けてる
なぜ、「議論なし・説明なしで圧力をかけて人を動かそうとするのはハラスメント的な振る舞い」なの?
池江選手が覚悟を持ってないか、覚悟を持たない人間がどういう扱いを受けるべきかは議論の余地があるが、覚悟を持たないのが悪いこと、ずるいのが悪いことなのは一般論としては当然だろ。
年齢はおそらく40代。おっさんである。既婚だとか、子供の有無と言ったプライベートの情報は一切話さないから、知らない。
そして何が嫌かというと、一言では言い表せないが、これが面倒くさいおっさんなのだ。まず、人の悪口を言う。上司や前の職場、もちろん私に対してもだ。内容はくだらない。上司に対しては、実力がない、知識がないといったレッテル貼り。前の職場に対してもそう、サボっている、適当だ、お局だ。私に対しては、やる気がない、実力がない、使えない(これはモラハラ?パワハラ?)。私なんて異動した初っ端からそんな事言われたから、家帰ってもリフレインして辛かった。耐性がないと言われたらそれまでだけど、よく知らない相手にむき出しの敵意?向けられて、意味分からなさすぎて悶々とした。気分回復するまでの時間は無駄に奪われたと感じて不快極まりない。
まず、言い方が単純で、悪口をいいたがりの中学生みたいで呆れる。親とか先生に反抗したがり、他人を見下したがりで。精神的に幼い。ちょっと話が長いことを上司に注意されたことを逆恨みして、上司の悪口言うとか、40代の男性にしては幼いというか。おそらく、前の職場でも楯突いて、低評価食らったのだろう。珍しい位、恵まれない職場を転々としている。通常3年程度在籍するが、短い期間で動いている職場が何回かある。出されたのだ。
批判の中には事実もあるが、常におまいうという感じ。一方で、承認要求も凄まじい。自分は使えない、やる気がない、と言いつつ、でしゃばりたがり。身につけた知識を総動員して開陳し、若手に延々同じ話を繰り返す。確かに、仕事上使える知識も多いし、役立つことも多い。ではなぜ自分は、早く帰りたい、こんなくだらない仕事やりたくない、低レベルな仕事だ、などと言って、モチベーションが低いポジションをとりたがるのか、他人に対しても、心の狭さを隠そうともしない態度をとるのか、全く不明。普通にベテランとして知識を仕事に役立てて、上司とも波風立てずに仕事すればいいじゃん!そうすれば頼もしい人だよ。だけど、それはできないらしい。
想像だが、勉強熱心で野心もあるが、性格に難があって人に評価されずにここまで来たため、捻くれたのだろう。「私はやる気がなく不真面目だ」というポジションを取ることで、不遇な人事を正当化しつつ、同時に知識や仕事面で人に評価されたい、承認されたい、という強烈な欲求がある。たぶんプライベートではブログとか、SNSで一端の知識人気取っているのだろう。過去に似たような上司に当たったことがあるが、彼はアマチュアのジャーナル誌に寄稿して、アカデミックな立場を気取っていた。そういう、自尊心を保つ趣味にプライベートで打ち込んでいるんだろう。それ自体は否定しないし、頑張っていただきたい。
問題は、評価や承認欲求を満たさない他者を攻撃する癖があるということだ!若手や他の社員と違って、上司や私は彼を評価していない。長過ぎる彼のスピーチに辟易して、時に冷たく切り上げたり、話しかけないように拒絶しているが、きっとその態度が気に入らないのだ。しかし、驚くべきことに彼は自分を敬って欲しいようなのだ。よく知識を知っているとか、仕事が早い、だとか、言ってもらいたそうにしている。
また、彼は他人によくおべっかを使う。できる社員や特に若手に対して、やれエリートだ、サラブレッドだ何だと大げさに称賛する…こうやって自分を卑屈に言いつつ他人を褒めそやす人間は、自己愛が強く、同じように称賛されたいという欲望も強い。どうやってこの人格が形成されるのかは不明だが、実家でちやほやされて育った僕ちゃんだからかもしれない。しかし実力が無いと、家の外では誰も褒めてくれないので、結局こうやってこじらせることになる。とても複雑なパーソナリティだ。ある意味被害者とも言える?でも、他人に感情をぶつけるのは公害だ。私はあんたのお父さんでもお母さんでも無いんで。
その時の感情に任せてぶつけてくる、他人、しかもおっさんはキツイ。さらに面倒なことに、人からの承認の調達が不器用な理論武装おじさんは相手への傷つけ方もねちっこいので最早救いようがない。
前の職場でも嫌な人がいて耐えてきたのに、どこに行っても嫌な同僚は絶えないもの。彼は常々出勤したくないとかほざいているんで、ずっとこの先、一生リモートでもしてて欲しい。どうすれば機嫌よく仕事してもらえるのか、他人の機嫌取りするのはもう疲れた。リモートのいいところはそれがないところ。気分屋で、他人を傷つけながら承認欲求求めてくるおっさんは害悪でしかないから、どっかいって欲しい、居なくなってほしい。一応、発言はメモしてるんで、限界が来たら上司にハラスメント行為として訴え出るつもり。
男性差別を挙げてけっていう増田がホッテントリにあがってたけど、ハラスメントの事例ばっかりじゃん。
童貞いじりなんかも、セクハラで人権侵害で大問題であってはならないことだと思うけど、男性差別ではないだろ??
差別ってのは、男だからという理由で育休取らせてもらえないとか、大企業の事務系一般職に採用されないとか、保育士になりたいと言ったら難色を示されるとか、寡婦控除が適用されにくいとか、男だったら既婚子持ちじゃないと昇進させてもらえないとか、法律上助産師になれないとか、性犯罪の被害届を受理してもらいにくいとか、そういうのだろ????
正直、男性差別の例として挙げられてるのが、明確なハラスメントの事例ばっかりで、男ってやっぱ恵まれてるんだなって思ってしまった。
でも分断されるのはアホらしいし、もっと男性差別が知りたいので、ハラスメントじゃなくて差別を教えてほしい。男の人も差別されて大変なんだなって思って、男女手を取り合って、性差別を無くすために闘っていきたい。
男性差別を教えてくれよ。
ただのハラスメントじゃん、ばかなん?w
「弱者男性の指す範囲が広すぎる」という意見も目にしたから、「ある種の弱者男性」としておこうか。
ここで言う「ある種の弱者男性」というのはいわゆる非モテ男性、そのなかでも容姿等の外面的な要素で女性から嫌悪・排斥され、そのぶつけられた嫌悪を内面化した人達のことだ。
容姿がキモい、喋り方がキモい、動作がキモい、、、、女性はまあカジュアルに言い放つ。
そしてそんな言動は一切咎められず、むしろ「不快にさせられた女性こそ被害者」として正当化される。
女性は正しいので悪いことをしないだろう、女性は弱者だから男性というだけで恵まれているだろう、
女性は被害者だから男性に対して加害者にはならないだろう、女性にとって好ましいものこそ善だろう
こうした世の中のリベラルな通念が呪詛となって、後々「ある種の弱者男性」を苦しめることになる。
言われた側の男性は自然と「自分はキモい」「女性にとって不快」、果ては「自分は世の中の害悪」と自己を規定する。
なぜか?女性に不快な思いをさせ嫌悪させるものは「悪」だからだ。
(そうでしょ、フェミニストのみなさん?)
社会の正義に沿おうと真面目に考える男性ほど、こうしてより深く罠に嵌る。
「おまえは『悪』だ」と判定を下されたら、もちろん返上しようとする。だがその成否を判定するのも結局女性でなければならない。
つまり、男性が「善良な存在」であろうとすると、必然と女性ウケ(モテ)を意識せざるをえなくなる構造になっている。
だが、キモい男性がアプローチしても害悪扱い(セクハラ、告ハラetc…)されるだけなので、
多くの場合は徐々に恋愛=女性からの承認、すなわち「善良」であることを諦めていく。
「女性は男性の人格を、外面的な要素から正しくジャッジできる」という信仰のもとに、
「清潔感」という言葉で包められ正当化されたルッキズムにさらされ、(努力も虚しく)女性に好ましい容姿を実現できないというだけで
「不潔で不衛生」「人格が劣悪」のレッテルを貼られては正当化され、それをまた内面化していく。
(そもそも女性のジャッジ次第で人格までレッテル貼りされること自体が不当なのだが、そう思うことも難しい状況にある)
そして「ある種の弱者男性」は、「自分は害悪だ」と思ったまま、自信も自己肯定感も失っていく。
女性のいる場所はもちろん、女性に(人によっては同性にさえも)話しかけることを恐れて所謂コミュ障になっていく。
自信も自己肯定感も物怖じしないコミュニケーション能力も、男性が豊かに生きるには非常に重要だ。
むしろそれらが欠如するのは致命的とも言える。
女性の場合なら自信なさげな態度と言動は奥ゆかしさとも捉えられることもあるだろうが、男性、それも容姿が悪いともなればどうか。
例えば一般的な企業の入社面接を想像してみてもらえばその悪影響の大きさがわかると思うが。
そして流れ着くのは薄給のバイト、ブラック企業、危険を伴う肉体労働。
こうして、学校で女子にキモいと罵られた少年は、弱者男性となっていく。
女性たちからキモい害悪とレッテルを貼られ拒絶され、女性との交際を諦めた弱者男性は、
それでも大抵は「害にはなりたくない」と願い、女性を避けるように生活する。
弱者男性の多くは、女性から承認されない、恋愛できない自分はダメな奴なんだろうかと不安を抱え、SNSやgoogleで検索をする。
すると遅かれ早かれこうした文が目に入ってくることになる。
言い換えれば、「(異性愛者で)女性に選ばれない男は人格的に劣っているに決まっている」
あるいは「女性にとって好ましい男性は人格面も優れているに決まっている」、ということになる。
そしてそんな類の暴論が数百、時には数千単位の「いいね」を集めている。
さらに社会正義を謳うリベラルやフェミニストは、非モテ男性を敵視し、口を極めてその人格を貶める。
曰く、非モテ男性は甘ったれている。曰く、非モテ男性は性欲の権化である。
曰く、非モテ男性は誠実さがないからモテない。曰く、非モテ男性の悩みなど低レベルだ。
曰く、非モテ男性は女性を搾取しようとしている。曰く、非モテ男性は・・・
他でもない反差別を掲げるリベラルからすら平然と差別をされることで、ますます自己肯定感を失っていく。
―――女性たちに外面的な要因で拒絶されることで同時に人格まで否定されてしまうなんて、
それが正当化されるならば、払拭するには女性に承認されお墨付きをもらうしかないじゃないか―――
そのような指摘は、今度は「女をあてがえということか!」と歪められる。
「女をあてがえ論」の他には「ありのままの僕を受け入れて論」なんて言い方もしたりして、
とにかくあたかも自堕落で自分本位な男性が主張しているかのようなイメージを擦り付け人格否定が行われる。
それが例え「同じ人間として扱ってほしい」「外面的な部分だけで排斥しないでほしい」「あなた達と恋愛できないからといって人格を貶めないでほしい」という
願いから出たものであっても、女性に対して批判的だからというだけで「ミソジニー」果ては「インセル」呼ばわりされ邪悪のレッテルを貼られる。
挙句の果ては、「男性というだけで恵まれているんだから被害者面をするな!」と遮断され、
(女性のジャッジは正しい。)(男性なんだから恵まれていると思え。)
(女性は加害をしない、お前に落ち度がある。)(女性に嫌われるなんて悪に決まっている。)
フェミニストたちが形成するこうした世の中の通年は、人格否定された「ある種の弱者男性」をさらなる自己嫌悪と自信喪失、自暴自棄へと追い込み、その人生を淀ませていく。
女性たちはこの呪いのもたらす苦しみと構造の強固さを知ってか知らずか、今日も気に入らない男性へ気軽に「キモい」と言い放つ。
「キモい男は害悪」、そんな女性たちの価値観が正当化され力を得る世の中では、
善良であろうとするほど「キモイ男性」は何もできなくなっていく。
すこし思考実験と言うか、考えてみてほしい。
普段のあなたの行動範囲のなかで、女性(とくに若い人)に遭遇することがどのくらいあったか。
そして女性と遭遇するたび、それだけで自分がその人を不快にさせ、害を与えているとしたら。
場合によっては「キモい!」と面罵され、それに対して異議を唱えることはおろか、反感を抱くことさえ許されない、そんな価値観が正しいと思い込まされているとしたら。
あなたはまともな精神で社会生活を送れるだろうか?程度の差こそあれ、概ねこれが「ある種の弱者男性」の見る光景、生きる世界だと思ってほしい。
おそらく、俺たちのような人間はほとんどのリベラルの人たちの観測範囲には入っていないだろうと思う。
女性からいじめやハラスメントを受けて人生の舞台から転落なんて、そんな少数のレアケースの問題など、いちいち考えてられないと思うだろうか?
念の為に言っておくと、「ある種の弱者男性」は決して少なくない。少なくとも、リベラルの人たちが考えるよりはずっとずっと多い。
全国の学校ひとつにつき数名はいるんじゃないか。心当たりがある人も多いんじゃない?
まあ数が少なく見えるのも当然ではあるかも知れない。彼らは大抵が、社会の下層で怯えながら隠れるように暮らすから。
リベラルたちの視界から外れた社会のはずれへ疎外され、自分は世の中の害悪だとひたすら信じ込まされたまま、
ろくに声もあげられずに死んでいく。俺が同じ境遇ということで交流してた人たちはみんなそうだった。
「ひっそりとオナニーしながら死ね」だったか、フェミニストの偉い教授が言ったそうだが、「望み通りだ」と彼らの末路を見て笑うのだろうか。
女性にとって好ましくない外面というだけで人格まで否定しないでほしい。
同じ人間として扱ってほしい。
弱者「男性」であるがゆえに偏見や差別的な言動を受けるというのであれば、それは「セクハラ」なのでは?と思うんだよな。
性別を理由にハラスメント受けてるわけじゃん。だから、セクハラ問題の場合と同様に考えろじゃなくて、それもセクハラだ、で良いと思うんだが。
はてブは基本的にキャンプファイヤーのようなもので、薪をくべてはそれの炎の揺らめきを楽しむが、翌朝には忘れてしまう。
弱者男性の話も、まあ一時のものだろうけど、割と醜悪なブコメが並んでいて辟易としたので、他山の石とすべくここに記録しておきたい。
なお、自分は「でも歯は綺麗だ」と死んだ犬を評したキリストの説話がわりと好きであり、原典を知る人が居れば教えてほしい。
まず混乱しがちなので、さきに差別とハラスメントとの違いから整理しておく。
差別とは、「ある特定の集団や属性に属する個人を、集団や属性を理由に取り扱うこと」である。
ここでは、以下については踏み込まない
つまり「女性は話が長いから会議が長引いて困るなー」というのは、「女性」という属性を基に話をしているので、差別になる。
女性を正しく定義できるか、その発言で有利になるか不利になるか、その発言が正当か不当かは問わない。
ハラスメントとは、「嫌がらせ」である。
特に「善意や好意から行ったことでも」不愉快、不快感、実質的な損害を与える行為を指す。
ここでは、この後の部分で混乱しないように、主観(ハラスメントを受ける側)と客観(第三者)との2軸で整理しておく。
ここでは、「客観的」とは社会的に許容されるレベルかどうかを指すので、平たく言えば裁判で勝つか負けるかと考えるとわかりやすい。
そして、裁判では個人の感覚については、「現時点のその社会で平均的にどうか」を基にすることが多いので、社会の雰囲気と言って良い。
もちろん、法律や条例に規定されれば、それは社会的にNGとなるので客観的にNGになる。
例えば以下のようになる。
ここで重要なのは、「社会的にどうか」というのは、ある程度「その社会で平均的にそれはNG」という雰囲気があるかどうかであり、
その合意形成は、「みんなそれは良くないと思ってたけどナアナアだった」場合や、「それは流石に良いんじゃないのと思われていた」場合などで、その難易度や達成度合いに差がある。
緊急避難的な「本来は良くないけど今はそうするしかない」ものや「最終的なゴールに行きつく過程でこうしたい」みたいなものも含まれる。
そして、「明らかに問題ない」や「気にするだけで問題ない」は、色々な理由で時代によって変わりうる。
例えばセクハラは「気にするだけで問題ない」から「明らかにハラスメント」に、啓蒙、陳情、判例の積み重ねで変化した。
自助、互助、共助、公助と、四つの助け合いの話が社会保障に出てきて叩かれがちなので、良し悪しを置いて軽く触れておく。
例えば、夜道での女子中高生への痴漢被害が増えた時に、対策として以下が挙げられるとする。
痴漢の取り締まりや未然に防ぐという意味では、警察の逮捕、補導、巡回強化や、そもそも夜道を暗くしない街路灯の設置が、解決策であったりする。
ただし、「痴漢が出るようだから一人で夜道を歩かないように」という学校からの指導に対して、「それは警察の怠慢だ!それで痴漢が防げるのか!」と嚙みつくのは違う。
お題目は別にして、まず被害を防ぐという点からは、自助が最も「手っ取り早い」からだ。
(自助頼みになる点を問題にすべきであって、自助そのものは非難されるべきではない、という立場)
ここまでの前フリでわかった人も多いと思うけれども、「弱者男性差別」と「弱者男性ハラスメント」とは、別に整理した方が分かりやすい。
弱者男性という属性で、個人を取り扱うのが弱者男性差別である。
この場合、「弱者男性」を定義できなくても、「優遇か冷遇か」わからなくても、「合理的か正当性があるか」不明でも、差別であるところがポイントである。
つまり「弱者男性差別とは具体例がないとわからない」というのは、暗に「その差別が社会的に許容されうるか判断できない」と言っているに過ぎない。
「弱者男性という属性の個人」を「それ以外の属性の個人」と分けて語ったり、分けて取り扱う場合、それはすべて差別である。
少しわかりにくいと思うので、以下に3例を挙げる。
1番はわかりやすい女性差別である。
2番は経済的な合理性はあるかもしれないが、差別である。
3番も差別である。ただし、学校歴や経歴による差別(その経歴を持つものだけを特別に取り扱う/持たないものを分けて取り扱う)は社会的に許容されている。
つまり、 「弱者男性は、公的扶助が充実すれば、犯罪に走らなくなる」という物言いは、ストレートな差別発言だ。
それに正当性があるか経済合理性があるか、弱者男性の定義や公的扶助の種類に関わらず、だ。
ここまでの流れからわかるように、「弱者男性差別」の話題の要点は、弱者男性ハラスメントの方である。
(「主観的NG&客観的NG=自明」「主観的OK&客観的OK=無し」「主観的OK&客観的NG=許容」「主観的NG&客観的OK=繊細」と略する)
例えば、以下の3例はいずれにあたるだろうか?
1番、2番、3番いずれも、主観的にはOKかNGかは不明だが、客観的にはOKになるだろう。
つまり、いずれにも主観的にNGとなり大いに傷つき不快感を持ったとしても、社会的にはこれだけではハラスメントとはならない。
弱者男性という属性で、個人を取り扱うのが弱者男性差別である。
逆に言えば、「個人的な体験をもとに差別されたと感じたとしても、その差別の要因が"弱者男性"でなければ、弱者男性差別にはならない」ということになる。
例えば、「俺は真面目に婚活を頑張ってマッチングアプリで課金もしているのに、まったく女性と付き合えない、惨めだ」という「体験」は、弱者男性差別にはならない。
なぜならば、「それは違う差別だ。それはそれとして問題だけど、弱者男性差別じゃないよね」と言われてしまうからだ。
例えば「マッチングアプリは、男性で年収250万円未満のマッチング優先度を下げるアルゴリズムだった」は、「男性(年収)差別」になる。
大変分かりやすい事例が最近あった。女性の医学部入学試験時の取り扱いだ。
女性と男性とで、医学部の合格点を変えていたという問題があった。これは「体験」の段階では女性差別とは言われない。
「私はとても良い点数を取ったのに、自分より出来ていないはずのあの男性が合格した」と言う「体験」は、容易に「お前が点を取れなかっただけ」と言われてしまうだけだ。
「筆記試験で同点数を取っていても女性は不合格、男性は合格にしていました」と明らかになって初めて「女性差別」が明らかになるからだ。
つまり、個別具体例が挙げられるのは、定義がわりと明確で、客観的に判定ができるものに限られる。
弱者男性差別が、弱者男性の定義があいまいで、客観的に判定が難しければ、弱者男性差別というのは「自分は弱者男性であると自認しており、それ故に差別されたと感じた」としても、単なる「感想」や「体験」にしかならず、わかりやすい弱者男性差別という例示にはならない。
そして、弱者男性ハラスメントは、主観的にNGとなっても、客観的にもNGとならない限り、ハラスメントとは(社会的に)ならない。
その結果、「弱者男性差別の具体例は?」「弱者男性は女性をあてがえと思っているんだろうと思われることが不愉快」「それはあなたの感想ですよね?」というやり取りそのもので消耗したり不愉快になったとしても、それはハラスメントにならないため、単に一方的に消耗するだけになる。
自らを弱者男性と感じる人が、具体的にどのような属性を持つ人が多いのかというのに言及することそのものが、弱者男性差別ではある。
それは「弱者男性」というレッテルで「個人」に言及することになるからだ。その上で、あえて列挙するなら、以下のようになるだろう。
ただ、これも結局のところ、AでないBのような定義をしているだけなので、あまり意味はない。
客観的にわかるところは、現在でも改善されようとしているし、改善されたものもある。
例えば具体例として、年収が350万円以上であり、既婚者であり、扶養家族がいるような男性が、「弱者男性ってなに?」と無邪気に問うことそのものが、問われた側の主観的にはハラスメントになるかもしれない、という自覚はしなければならないだろうな、と思う。
ルッキズムやメンズリブ等とは明確に異なり、「弱者男性の救済」というのはその言及そのものが傲慢だ。さらに問うとなればなおさらだ。
(特定の属性を持つ男性性の把握ではなく、「弱者」というレッテルを張った上で、それに属するのでは?という問いそのものが侮蔑的だ)
外科や器質的疾患、足の骨が折れた男性や、大腸がんになった女性は、「骨折の定義は?」「大腸がんになって差別された具体例は?」と聞かれることはまずない。
松葉づえをついても買い物ができるように、腹に水がたまったものを抜いて社会生活が送れるようにするのは、患者ではなく医者や行政の仕事だ。
自助や共助、公助への陳情に向けて何かするにしても、せめてヒアリングぐらいは丁寧に行うべきではないかと、自戒を込めて思う。
無自覚に「どうすれば腎臓がんにならなかった、腎臓がんである今をどうすれば解決できると思いますか?」と問うていないか、その問いが相手を追い詰めていないか、気を付けていきたい。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
責任ある川淵さんがオリンピックにベストを尽くすのは理解できる。オリンピックを開催するかぎりその使命は理解できる。がしかしだ。それとは別にオリンピックを中止しようという提案や議論が別のセクションからあっても良いのではないか。
国を運営してる人たちは本気で「オリンピックをやればみんなが元気になる。皆んなが感動してくれる。国が一つになる」と本気で思っているのだろう。
数十年前の価値観そのまんま。コロナ禍であることも時代が変わったことも理解できないのだろう。
実は我が社のお偉いさんがそうなのだ。
45年前の若者だったそのお偉いさんはいつも腹を空かせていたのだろう。
お肉が何よりのご馳走だったのだろう。
現代の若い社員をねぎらうために連れて行くのはステーキハウスや焼肉屋だ。
食べろ食べろととにかく食べさせる。ステーキだぞ、肉だぞ、俺のおごりだぞ。お腹いっぱい肉が食えるなんて幸せだろ。
45年前の若者だった自分と、中高一貫をでてそれなりのステータスの実家通いの現代の若者の価値観の違いに気づかないままだ。
悪気はないんだよ。ハラスメントでもないんだよ。ただ気づけずにいるだけなんだ。その優しさを知ってるから多くの部下は彼を信用してる。
別の役職でそれに気づいた人がいた。
取引先にケーキやお菓子を持参しても昔のように女子社員が喜ばなくなったと。
(もちろん礼は言われるし喜んでくれるが、昔のようにきゃ〜ケーキだなんて嬉しいわぁ珍しいわぁという態度ではなくなったという意味)「そうだよな、ケーキなんて当たり前の食べ物になっちゃったからな」と一定の理解を示して、ではどうすれば相手と円滑な関係を築けるかという工夫をアップデートするビジネスマンだ。
ときどき老害って言葉を目にするけど嫌な言葉だね。責任を老人に丸投げじゃないか。実務の30代ー50代はなにしてるんだい。意見言えよ。調整せよ。愚痴をいいながら老人に言われたことをただやるだけかい。ズレてるけどリーダーシップだけはあるこの年寄りが死んだらこの国はどうなるんだい。
ただ、ケアできないくらい打ちひしがれている男性も多くいることを知っているのでそのことを語ってる。
最初は人生においていろいろなことをあきらめた男性①が静かに暮らしていたんだよ。
そのうちフェミニズム(特にSNSの時代以降の動き)が盛んになり、男性優位社会や暴力的な男性②が批判されるようになった。
また、その反動が匿名掲示板時代の口が悪い文化の名残も合わさって、フェミニズムに反論するミソジニー的男性③も目立つようになってきた。
出そろったのでまとめると、
ミソジニスト③は攻撃的なので、それに対する女性も攻撃的になり不毛な議論になりがち
そして、これら②と③の流れ弾が、静かに暮らしていた①に被弾して一番わりを食ってしまった。
この無害な弱者である①を区別して守る必要があったから生まれた言葉が「弱者男性」なのだ。
弱者男性はモテない程度にはキモいが、加害する男性とは別人だ。しかしなぜか一番攻撃の的にされてしまう。
キモくて弱い男は、きっと性格も悪く、生活も雑で、女を異常に求める一方ネットで女を攻撃し、リアルでハラスメントや暴力行為をするだろう、という偏見で見られてしまう。
それは別の人だよ、というために無害な人たちを弱者男性と呼んでいるのはわかってほしい。
もちろん弱者男性に社会的なケアがあるとありがたいとは思うけど、そこはあんまり期待してなくて、それよりも今殴ってる拳を一旦引っ込めてくれ、殴る相手をちゃんと見極めてくれ、というのが要望。
ハラスメントっていうか鬱陶しいな。嫌みったらしくて。
ハラスメントかどうかはされた側が決めることや