あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」に河村たかし名古屋市長が口を挟んだ件についてつらつらと書く。
そもそも、自分の知る限り、河村氏は、慰安婦問題にそこまで興味は無い。国会議員時代に議員連盟「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」会員ではあったが、氏の興味はどちらかというと父親が軍人として進駐していた南京のようだ。そちらに関しては「南京事件はなかった」発言で騒動を起こしている(2012年)。
では、なぜ???…という話をしたい。
前提として、あいちトリエンナーレは「あいちトリエンナーレ実行委員会」の主催である。会長は大村秀章愛知県知事で、他のメンツは→らしい(昨年3月の運営会議の参加者)。 https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/190223_445551_misc.pdf
名古屋市の河村たかし市長はここに載っていないが、「会長代行」であることが報じられている。愛知県が8.5億を出資する一方で、名古屋市も2.8億だしてるので、その肩書きは自然だが、運営会議参加者として名前が載ってないことからもわかるように、あまり積極的ではないように見える。あのオッサンは、自分が目立てないことには興味が無いのだ。
河村市長と大村知事は、ある程度、共闘したりもしていたけれども、最近は、何かと対立している。
近いところでは、名古屋市が手がける名古屋城天守閣の木造復元工事について舌戦を繰り広げたりしている。つい半月前の話だ。 https://digital.asahi.com/articles/ASM7J3K6FM7JOIPE009.html
また、政策としては、「国際展示場」問題があった。「東京五輪期間中のビッグサイト代替/日本の展示場の国際競争力不足/愛知県内産業(自動車)の振興」といった目的で、愛知県と名古屋市で国際展示場を作る話があった。ところが、市と県が折り合えず、最終的に県単独で中部国際空港島に建設することに(2017年)。その展示場は「Aichi Sky Expo (愛知県国際展示場)」として今月末にオープン予定。かっきり五輪に間に合わせた。恐らく河村氏としては面白くないだろう。
この8月。あいちトリエンナーレは、基本的には県の事業だ。名古屋市は目立てない。そして、月末にはAichi Sky Expo開業。名古屋市にとっては関係がないどころか、屈辱的ですらある。ついでに、当初は河村氏だけだったコスプレサミットでのコスプレも、大村氏もやるのが定番になってしまった。
ここまでが前提としての状況。
そこに、ある連絡が入る。「日本維新の会」の松井一郎氏から、あいちトリエンナーレでの『少女像』展示が伝えられた。維新は、河村氏の地域政党「減税日本」にとっては共闘相手である。先の参議院選でも維新公認で2人の候補を出している(2人とも落選)。つまり、どちらかというと借りがある側。
維新との協力関係・愛知県(大村知事)が目立つ事への嫉妬・自分が目立ちたい・南京を介した歴史修正主義への親和性。
元増田にグダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。
「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞
デモに来た埼玉県の女性会社員(25)は「作品を見たかった。主催者側へのひどい脅しなどがあったので続けられない状態になったのだろうか。悔しい」。上滝浩子弁護士(京都弁護士会)は「公権力を持つ立場にある人が干渉的なことを言えば、表現活動が萎縮する。そうさせないために憲法は表現の自由を保障している。許せない」と話していた。
繰り返しになるけど、表現活動が委縮したのは、ガソリン持ってくると脅されたからでしょう。
で、それに対して通常、対処しうる危機管理以上のことが現場で可能だったの? 例えばガソリン怖いのをみんなで耐えるの?主催者だけではなく客も巻き込むんだよ?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そういう理由で起きる表現活動の委縮って誰かのどんな努力でどうにかできるものなの?というのが俺の最大の疑問。
委縮しないようには何をすれば?という観点でいうと、例えば、テロを抑止する、という話とよく似ていて、
社会にあふれる憎悪を鎮静化させる、みたいなフワっとした話にしかならない。
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行政が危機管理対応としたという話と、行政が言論を弾圧した、という話を混ぜるなよ。ナイーブすぎるだろ。
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もう少し思想的な背景に突っ込ませてもらうとさ、
そもそも、脅迫含めて暴力的な言論というのは、表現の自由の副産物として、
そういう過激な行為が起こりうることは覚悟しておかないといけないかもしれないんだよ。
アメリカを例にとる。意見が異なる者同士が過激な形でぶつかり合う、というのは、17世紀のヨーロッパがプロテスタントの宗派争いで経験済み。
たとえ激しくいがみ合っていても、政府はどちらか一方が正しいとは言わない、と。
その経験があって、アメリカに渡った巡礼始祖が社会の約束事として決めたのが、合衆国憲法修正条項に引き継がれ、表現の自由の原型となっていく。
1970年代の連邦最高裁の言葉を借りれば、社会が不協和音に満ちていることこそ強さの証である、みたいな覚悟をもって、
ヘイトなど多少の過激な言動を認容していく、というのがアメリカ的な背景としてはある。
つまり、もし仮にアメリカ的な感受性で対処するとすれば、脅迫があったが、ま、今回は引きますが、へこたれずまたやりましょうね!ということなんだよ。
ところが日本の場合、そういう歴史もなければ、不協和音のなかで生きる覚悟もない。
むしろ日本の空気として強いのは行政による言論弾圧の記憶なんだよね。
それならそれでいい。表現の自由を基礎づける歴史的な記憶というのは、その国の歩んできた歴史文化によって異なるのは当然だからだ。
でもその背景について、客観的な整理と自覚がないと、ただ無意識にオブセッシブな態度を表明しているようにしかみえないわけよ。
だいたい横から出てきた名古屋市長なんてそもそも中止となんの関係もないじゃん。
そこはちゃんと危機管理対応と弾圧を冷静に切り分けてもらわないと。
展示が表現の不自由がテーマということで、ついでにひとつ言及しておきたいんだけど、
ムハマンド風刺画問題というのがあるよね、フランスで大きな騒ぎになったりもした。
これは、暴力行為が表現の自由の副産物だという文脈では読み解けない。
アメリカとはかなり異なる歴史的な背景があって表現の自由の価値が基礎づけられているからだ。
簡単にいうと、カトリックの絶対正義が猛威を振るっていた時代に、
こんなんじゃ、まともな社会設計ができん!という問題意識からスタートしている。
まずはカトリックを批判する権利が必要だということで「神を冒涜する権利」として始まったのがフランスの表現の自由であり、例の過激な政教分離なんだよね。
だからムハマンド風刺画事件でも、フランスのメディアは「涜伸の権利はいずこに」という形で問題提起をしたりしたわけだよ。
ただ、おれは別にそんな話を今回の展示に期待しているわけじゃ全然ないんだけどさ、でもなぁ。
そんなたいそうなタイトルを銘打っておきながら、さまざまな国の作品を展示しているのに、他人の作品をコピペみたいに持ってきてパッチワークかよ。
ネットでみつけた一般客のコピペした解説文や評価をみても、テーマである”不自由”の背景がよくわかるものではなかったね。
そのうえ雲行きが怪しくなったら中止と。芸術監督は残念がってメソメソと泣いて、みっともないってちょっと思ったりした。
行政もだよ。リスクを想定したうえで、あらかじめ退避の基準を明示しておくんだよ。この場合、判断と行動のスイッチとなりうる事象をリストアップしておくんだよ。
そのうえでリスクシナリオと判断基準について主催者と合意しておく。
そうしないと、あ、ヤバいと思ったんで引き揚げました、みたいに、行き当たりばったりな説明しか主催者にできないだろが!
そりゃ、突然中止に追い込まれたと思うわな。
まとめると、
表現の自由という観点でも主催者の問題意識は感覚的なものでしかないし、
表現の自由についての問題整理とリスク管理、この二つをしっかり持っておかないと
なんだだ危なっかしいだけだ。
という感想をもった。
追記:
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。
おおむね間違ってはいないんだけど、このあたりに、日本人が感覚的に扱う、表現の自由の手つきの危うさがある。
検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁の定義はそうだ。憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。
昔、両親が不倫沙汰で自殺騒ぎをおこしてまともに通学もできなくなって、人生がぐちゃぐちゃになった時、死のうと思った。
でも、自分は何もしてないのに、周りの色々のせいで不幸なまま死ぬことが悔しいと思う気持ちもあって、とても幸せになったら死のうと決意した。
自分にはもったいないくらい素敵な友人達がいるし、その中にはなんでも相談出来る、まさに親友とも呼べる人もいる。
更に、楽しいと感じる職に就けた。
1番驚いているのは、パートナーが出来て同棲しているということ。あの両親の騒ぎを見て恋愛なんてしたくないと思ったけれど、それを覆すくらい良い人がパートナーになってくれた。
家に帰ることや家にいることがこんなに安心出来て、こんなに幸せなことだって長い間忘れていた。
実は、とても幸せになったら死のうと思っていたことにはもう一つ理由がある。幸せから一気にどん底まで落ちる瞬間をもう味わいたくないからだ。
両親の騒ぎがある少し前まで、私はとても幸せだった。片方の親の不倫がバレたあの日から、一気にどん底まで落ちた。もう、あの瞬間が怖くて怖くて仕方がないのだ。しかも、自分が原因なのではなく、他人の行動で不幸になる可能性があるというのが本当にこわい。
今の幸せも、もしかしたら他人の行動によって一気に壊れてしまう可能性があるのかと思うと怖くて仕方が無いし、今の、幸せなまま人生を終わらせるべきかなという気がする。
内容はどうでもいいけど例のラスボスの主張はこの作品でやるべきではなかった。
なぜなら『大人になれてない大人』はこの作品を見に来ないから。
やるならまどかマギカかFGO辺りでやるべきだな。
魔法少女の正体は傀儡人形だったとして、大写しになったQBが「キミたちには奇跡も魔法もないんだよ?現実に帰りなよ」と言って終わり。
なあ聞いてくれよ、書くだけ書いて何も考えずに投稿したら後半入りきらなくてぶっちぎれてたよ。
もう何書いたか覚えてないよ。とにかく戦隊映画が虚無だったんだよ。
「ドラクエ思ったより良作だったじゃん、苦行映画っつのは今年の戦隊みたいなののことを言うんじゃねえの??」って話を誰かに聞いて欲しかっただけなんだ。
噂の実写版デビルマンと今年の戦隊映画両方見たって猛者がいたら、どっちが酷いか教えて欲しい。
んで、「ドラクエ昔やってたけど今はそこそこ大人やってまーす」って人と、大どんでん返しされるの好きな奴はユアストーリー見に行ってくれ。
仮面ライダーのやつは、今回は見に行くつもりはなかったんだけど、友人から「見とけ、笑えるから」と言われたので見に行ってみることにした。
twitterなどで若干否定的な意見も目にしていたけど、つまりそれが「笑えるから」ってことなんだろうなと、ギャグ映画を見るつもりで見に行くことにした。
ドラクエの方は、シリーズ中5が一番思い入れが深くて、SFC版からPS2、DS、アプリと、ハードが変わるごとにやっていて、半ば原理主義者化している自覚があり、また小説版も大好きなので、その辺のゴタゴタからも見に行くつもりはなかったのだけど、twitterで「5点満点中マイナス100点」等、あまりに酷評されているから逆に気になった。
そんで、今日たまたま時間が空いて、ライダー映画の後にちょうど良い時間の上映があったこともあって、はしごで見てきた。
と、ライダーの名前を出しておいて何だが、今回の話にライダーは余り関係無くて、バーターで付いてくる戦隊の映画の方の話をしたい。
(ライダー映画は、突っ込みどころの多さも含めていつも通りの、安定した面白さだったので、特に語ることはない)
で、その、ライダー&戦隊映画を見た後でドラクエの映画を見たのだ、という話をしたいのだ。
まず、ドラクエの話をしたい。
散々な酷評が聞こえてきていたのと、後記する理由でハードルがガン下がりしていたのとで、期待値はマイナスだった。二時間の苦行になるだろうと思っていた。
事実、始まって10分ほどの間は、心が10回くらい折れそうだった。
リメイク時に後付された設定がさもSFC時代からあったかのような改ざん!!
っていうかそこまでゲーム画面でやるのかよ!!そのまま最後までゲーム画面流せばいいじゃねーかもう!!
あれもこれもすっ飛ばすのかよ!!
ゲレゲレかよーーーーーーー!!!(ゲレゲレ派の皆様すまん、プックル派なんだ)
ドラゴンオーブはそこにはねーーーーーーーーーーーーえ!!!!
ヘンリーそんな奴じゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ラインハットほったらかしかよ!!!!!!!妖精の国すっ飛ばしたからサンタローズに春が来てねえじゃねえか!!!!!!等々。
いや分かってるよ2時間で話まとめるためには仕方ねぇよ、でもさーでもさーーーと心の中の原理主義者が泣いていた。
しかし、綺麗なグラフィック、迫力の戦闘、懐かしい音楽、佐藤健の流石の演技(直前にライダー映画を見ていたとおり、特撮畑の人間でもあるので、特撮出身俳優のアフレコに対する判定は甘々な自覚はあるが、「あ~電王だ~」と思う瞬間は一切なかったので、さすが佐藤健だと思う)に押し流されるように時間は過ぎていく。少なくとも(心の中で原理主義者が泣く以外の)時間経過に対する苦痛はない。
原作と違う点に突っ込みは入れたいと思うが、時間内に話をまとめるためには仕方が無い。
例えば、ヘンリーのキャラが違うとは言っても、SFC時点で我々に許された解釈の範疇ではあるように思う。
リメイク版には仲間会話があるが、SFC版でNPCとして交わした会話はわずかだ。ああいう解釈をしていた人が、まあ、いなかった訳ではないかもしれない。ギリギリ。
リュカのキャラクターは全く小説版の「リュカ」ではないが、「どこかの誰かが操る主人公」としては、誰かの頭の中にはああいう主人公もいただろう。
ビアンカフローラの選択。そんなに簡単に「自分の本当の心」なんて分かるか???とも思ったが、一応、フローラがいいならまあよしとしよう。
個人的に、特に回収もされず、一番残念だと思ったのは「娘ーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
・・・まあ、これも仕方が無いだろう。大人の世界には予算とかの問題がある。
普通に考えて5のストーリーを「正しく」映画化しようとすれば、5章仕立てくらいにしないと終わらないだろうから、「どう二時間にまとめるか」も見所だ。文句を言うより楽しんだ方が得だ。
後半のプサンの「今回はそういうことになっている」的なメタ発言も、嫌いな人は嫌いだろうが・・・と思いつつもクスリとした。
ここまで超好意的に受け止めていたが、流石に「えええええーーー」と思った。
ついでに、「あ~~~~~~~~~~~~~これオタクが発狂するやつ~~~~~~~~~~~」と酷評の理由も理解した。
確かにちょっとグサッときた。いい年してこんなところで仮面ライダーの映画からドラクエの映画はしごして見てる自分の胸にグサッときた。大人にはなれてねぇわぷー。
しかし、その後の真実の暴露により、前半で心の中の原理主義者を殺した、気になるポイントの数々が全て伏線として回収された。
幼年時代をゲーム画面でスキップしたことも、リメイク版の設定のはずなのにSFC版に存在していたかのような扱いだったことも、ヘンリーのキャラクター解釈も、なんであんなに解釈が違うのに「リュカ」なのかも、ビアンカとフローラの選択の顛末があんなんだった理由も、プサンのメタ発言の訳も。
もう、なんか、ここでぞわーっとした。
気に入らないと思ってたことの全てに理由があった(娘の存在のことは置いておく。少なくとも見ているときはそう思ったんだ)。
今まで「どこかの誰かの頭の中にあるドラクエ5の世界を見てるんだな」と思って我慢していた事が、ある意味それで正解であり、また、一気に「どこかの誰かの物語」が、「主人公の物語」あるいは「自分の物語」になった気がした。
その辺は上手く言語化できないが、体感としては「うおおおおスッキリーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
最近は予定調和的なハッピーエンドが約束されているライダー映画ばかり見ていたので、ついぞこのところ体験していないカタルシス。
その後に登場したキーアイテムがロトの剣だというのももう、細かいことは抜きにしてたまんねぇわという感じ。
確かにあの瞬間、主人公は自分だった。子供の頃からドラクエと共に育った自分自身だった。あの一瞬、まさしく「YOUR STORY」だった。
(後で冷静に思うと「自分の」物語だと思うには物語の解釈が違いすぎるが、あの一瞬はそんな細かいことはどうでも良かったのだ)
そして、「経験した冒険は、確かに本物だ」というメッセージこそが、本当に我々に向けられたものだったのだろう。
大人になれ、現実に帰れ、そんな風に言われることが多い社会だけれど、我々が「ドラクエ」から貰ったものはそんなありきたりで薄っぺらな言葉で踏みにじれるようなものではないはずだ。
と、言われているはずなのに、一度発される「現実に戻れ」というメッセージの前に「そんなこと言われたかったんじゃない!!!!!!」って発狂するオタクが多いのはちょっとこう・・・オタクのメンタル弱すぎじゃねえの・・・という気がするが、まあそれは現代社会では仕方の無いことでもあるし、今回の本題ではないんだ。
言いたいのは、一本の映画として見たときに、よく出来ていたじゃないか、ということなんだ。
確かに、もう5の物語は身体に染みついてしまっているから、全く5の物語に触れたことがない人にとって、提示されている情報が十分だったかについては冷静な判断ができない。
ストロスの杖のあたりとかは説明不足だったようにも思うが、まあ、「息子が頑張って探した石化が解けるアイテムである」くらいは伝わっただろう。
(ちょっと使い方それェ~~~?!!と思ったりしたが)
(ルーラの辺りは怪しいかも知れないが、「ルーラ」といえばワープの魔法である、というのは有名だと思いたい)
二時間でまとめる為にはどうしても大幅なカットが必要である、そのためにカットされたり設定が変更された部分について「そこをカットするのかよ・・・!そこをそう変えるのかよ・・・!」という視点で気に入らない箇所を除くと、「え~~~~」と思った部分は大概、ラストで伏線として回収された。
その、ラストの展開それ自体が気に入るかどうかはともかくとして、5のストーリーを知っていればいるほど「あれっ?」と思う箇所には、大体理由付けがされている。
長い話をカットした時にありがちな「えっその話いつしてた??」みたいなのも、多分、なかった、と、思う。(なにせ冷静な判断ができないのだ)
一人の男の一代記になってしまうので、ストーリー全体が駆け足感あったのはまあ、仕方が無いと思うが、それも設定を知った後なら逆にリアルだ。
もちろん、二時間に納める為にカットされた部分、変更された設定について、文句を言おうと思えばいくらでも言える。娘はどこへ消えた。
ラストの演出については、これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうなとは思った。
「ドラクエを見に来たつもりだったがSAOだったか」と思ったりもした。
「これをドラクエで、しかも5でやる意味はあるのか」みたいな批判もあるだろうと思う(これは、はっきり意味があると思うが)。
「5のファンとして、納得できるかどうか」の話であって、「映画自体のクオリティが極端に低い」ということではない。
それなのに、あたかも「映画自体のクオリティがめちゃめちゃ低いから見に行かない方がいい」みたいな言説ばかり飛び交っているのは非常に残念だと思う。
CGは徹頭徹尾圧倒的に綺麗である。(ドラクエ5らしいか、は置いといて。。。)鳥山明の絵とは遠いが、動いて居る彼らを見ていれば全く気にならなかった。
物語や設定が破綻しているということもない。もちろん重箱の隅を突けば色々出てくるだろうが、世間一般の映画と比較して特段トンデモ展開という訳でもないと思う。虚無でもない(後述)。
(ただ、主な比較対象がライダー映画であり、あれはトンデモ展開をやってナンボみたいなところがあるので、若干ふつうの人より「トンデモ展開」判定は緩いかも知れない・・・その辺りの自信はちょっとない)
とはいえ「好き嫌いは分かれるな・・・」「文句の言いどころがいっぱいあるのは分かるな・・・」とも思ったので、薦める相手は慎重に選ぶ必要があるのはわかる。
たぶん、元からこの作品はオタクの方を向いて作られた映画ではないんだろう。
(まず、オタクの方を向いているならちゃんと声優を使うはずであるし、そもそも3DCGにしないだろう)
友人にこのクソ長ったらしい感想をもう少し縮めて伝えたところ、「子供の頃ドラクエやってたパパが、懐かしいっつって子連れで見に行って、そんで夏休みの間にソフト買って親子でやってね、ってことだろ」と言われたが正にターゲット層はそこなんだろう。30~40代の子持ち父親(あるいは母親)。ちょうど小中学生の頃ドラクエ5をスーファミでやっていた世代だ。(だからこそ、今「5」が選ばれたのだろうと睨んでいる。3以前だとリアルタイム世代がもう少し上になってしまうし、4は5章構成で話が長すぎる。6以降だとまだちょっと若い)
「現実と向き合え」って言われるのが何よりも嫌いなオタク(と、あとフローラガチ派)は見るべきではないと思うが、まさしく「子供の頃ドラクエが大好きだったが、今はまあ子供もいて、そこそこ大人やってます」って人には是非薦めたい・・・・・・いや、そう言うタイプの人は最後のどんでん返しでカタルシスを感じてくれなそうである・・・ある程度「ゆうしゃとしての自分」に思い入れがないと・・・だがそう言う人は得てして現実と向き合うのが嫌であり、あるいは原作からの改変が些細なことでも許せないタイプ・・・実にジレンマである。
(・・・と、そのようなジレンマを抱える構造になってしまったことが「失敗」といえば「失敗」かもしれない)
また、この流れをもって主人公を「リュカ」としたなら、確かに久美沙織に対して何かしらの仁義は通すべきだと感じた。その一点においてマイナス100点である。
5の主人公=リュカの図式を作ったのは間違いなく小説版であろう。(もし万一、「リュカ」あるいは「リュケイロム・エル・ケル・グランバニア」の名がエニックス(当時)サイドから提供されていたのだとしたらそれを明確にして欲しいし、作者があのような(慎重な)声明を出す以上、命名は久美沙織側だったのだろうと思っている)
製作委員会におかれてはその辺は本当に仁義を通して貰いたい。この素晴らしい作品に、そんな事務的なことで味噌が付いて欲しくないと思う。
で!!!!!!だ!!!!!!!!!!実はここまでの長ったらしい話は全部前段であるっていったら怒る???
何でここまでドラクエ映画を大絶賛するかっていうと、作品自体が(人は選ぶものの)素晴らしかった(のに世間の評価がだいぶ偏ってるから、いっちょこっちは絶賛しとこう)っていうのは大いにあるんだけど、その直前に見た、見てしまった戦隊映画があまりに、あまりにも虚無だったからというのも大きい。
虚無映画のダメージがまだ残っているうちに見た為、通常時の1.5倍くらい面白く感じた...と言う可能性が否定しきれない。正直なところ。
(ブースト効果がなくても十二分に面白かったと思っただろうが、ここまで熱狂的に、最高に面白かった!!!!と思ったかどうか、怪しい)
というわけで「虚無映画の後にドラクエ見たら予想以上に面白かった」って話がしたくてドラクエの話始めたら思ったより熱が入ってたらしくてすっげー長くなったごめん。
でもこの後また長々虚無映画の話をさせてくれ。誰かに聞いて欲しいんだ。
「5点満点中マイナス100点」の栄光はまさに今年の戦隊映画みたいなもののためにあるのではないか? ドラクエではなく。
いや、戦隊映画については多くの人々が「ライダー映画のバーター」程度にしか見ていないのだろうと思う。
だって毎年バーターで、ライダーは一時間、戦隊は30分と相場が決まっている。ライダー単体の映画は大人1800円キッチリ取るが、戦隊単体の映画は大人1200円だった時代もある。
最近は戦隊単体の映画は期間限定上映になってしまったほどだ。悲しい。
だから、毎年大した期待は掛かっていないし、つまらなくてもその後のライダー映画が面白ければ何の問題も無いのだろう。
現に、今年のライダー映画に関する評判は、良い物も悪いものも合わせて耳に入る。つまり、それだけの人数、戦隊の映画も見ているはずなのだ。
しかし、誰も話題にしない。あんなに虚無だったのに!!あんなに虚無だったということを誰も口にしていない!!!その程度の興味すら抱かれていないのだろうか・・・それとも虚無すぎて何も言えないのか・・・
あるいは、「名作」とまではいかずとも、通常のテレビ放送の二話分くらいの時間を使えるのだから、ちょっとしたスペシャル回くらいの話はできる。
テレビ放送を見ている時よりはちょっとわくわくした気分で楽しんで見られて、特撮映画のことだから突っ込みどころも多いが、概ね「楽しかった楽しかった」と思える作品がほとんどだ。
(折角の「劇場版」がそれでいいのか・・・という話は一旦横に置いておく。今は、多くは求めまい)
少なくとも「早く終われ・・・」と祈ったことは、(毎年見ている訳ではないが、6~7本くらいは見ているはずだ)一度も無い。
それがだ。今回は半分より手前くらいのところから「早く・・・終わらないかな・・・」と魂が吸われていたのだ。
確かに、今年の戦隊はあまりちゃんと見ていない。が、それは過去の戦隊においても同じ事が言える。
(おおよそキャラクターや敵が何者かくらいは知っているが、毎週毎週熱心に見ている訳ではない。これはライダーも同じだ。友人たちと話のネタにするために流し見しているくらい。そこまでガチ勢ではない)
だから、「例年より話が分からない」「例年よりキャラクターに思い入れがない」という点で「面白くない」訳ではない。
「特撮映画」というジャンルには独自の文明があるので、割合トンデモ展開が許される。
(実際のところファンが「許して」いるかは知らないが、平成だけでも20作品にわたってトンデモ展開をやり続けながら絶対的コンテンツとして君臨しているのだから、許されていると思っていいだろう)
突然東京がひっくり返って江戸時代になろうが、突然信長が蘇ろうが、突然歌って踊ろうが、サーカスを始めようが、見た目は大人頭脳は子供だろうが、侍もいるし天使もいるし忍者もいる。タイムスリップも日常茶飯事、作中における原理原則の多少の無視もよくあることだ。今更騒ぐようなことでもない。
「展開がトンデモすぎる」「作中の設定が無視されすぎて変」という話でも、ない。
六千五百万年前からいきなりタイムスリップしてきた人類(的な生き物)が居たら、まずは文明の違いに腰を抜かすところからじゃないのか???とか
六千五百万年前の文明発達しすぎだな?いやそれは作中設定があるからいいとしても、こっちの部屋はロストテクノロジー仕様なのにあっちの部屋は旧
このエントリーを書いた人がどうかは知らないけど、時々リベラル派の人の主張を見比べると困惑することがある。
韓国の人々が日本の輸出管理について激しい怒りを示し、国旗を焼いたり大使館に押しかけたり、大統領自らが過激な発言をしたりしたニュースについての解釈なんだけど、
①これほどまでの韓国市民の怒りを安倍と日本人は真摯に受け止め、ホワイト国除外を撤回するともに友好関係を回復するべき
②このようなナショナリズムにひた走るのは韓国の中でもごく一部にすぎず、日本人にだって極端な人はいる。国民全体がそうであるかのように言うのはただの偏見なので止めるべき
これはダブスタ批判ではなく、同じリベラル派の中でも人によって意見が全く違うことを示しているだけ。
といっても、どちらを政治的に正しい見方として採用すれば良いのかがいまだに分からない。
①と②はどちらも韓国の人々に好意的な立場から出てきたものだと思われるが、同一の現象を正当な言動と解釈して自論の根拠に用いるか、それとも不当な言動と解釈して切り離すべき対象に位置づけるかという違いがある。
これらは同時には成立しえない主張のように思われる。
「時間を持て余してる」が一番かと
政治でも経済でも賃金でもなんでも、底が浅いのは政治学、経済学を勉強してないから
https://www.kensetsunews.com/web-kan/350971
高砂熱学工業は、「Green Air Festival in Summer」と称した「省エネ月間」に取り組んでいる。
1日からはサマータイム勤務とテレワークの試行も始める。現場勤務の社員には、熱中症対策として空調作業服1500着を支給した。
Va, quiero que sea mejor persona.
Quiero ser mejor persona.