はてなキーワード: 隠れ蓑とは
政府はもうすこし教育にコストを割いた方が良いとも思ってる(少子化の原因にもなってるしね)
てかこの手の話するとすぐ収入だけの話にすり替える人が多いんだけど、隠れ蓑のために意図的にやってるとしか思えない。
親の年収が600万だとして、その辺のしょうもない会社の社員で600万なのと、東大准教授で600万なのとじゃ全く意味が違うって普通に考えれば分かるよね。
むしろ親の知性があれば金なんて全く問題にならないよ。
君からすれば、おそらく、親がその辺の日経225企業のエンジニアで課長です(年収は800万くらいです)、とか当たり前か少し低レベルくらいに思ってるんだろうけど、実際はそういう家は上位1%くらいの勝ち組だからね。
http://anond.hatelabo.jp/20120107215712
ただこういった言説があふれまくるのもどうかな、とも思ったんでね。
てかこの手の話するとすぐ収入だけの話にすり替える人が多いんだけど、隠れ蓑のために意図的にやってるとしか思えない。
親の年収が600万だとして、その辺のしょうもない会社の社員で600万なのと、東大准教授で600万なのとじゃ全く意味が違うって普通に考えれば分かるよね。
むしろ親の知性があれば金なんて全く問題にならないよ。
君からすれば、おそらく、親がその辺の日経225企業のエンジニアで課長です(年収は800万くらいです)、とか当たり前か少し低レベルくらいに思ってるんだろうけど、実際はそういう家は上位1%くらいの勝ち組だからね。
風当たりの矛先を一般市民に向けるのは、これは本当にお門違いだろう。
あなた方大阪市市職員が一部の労組員のせいで槍玉に挙げられているというのなら
矛先はその労組の連中に向けるべきだろう。
問題の労組員の排除に尽力して、そのうえでここにpostするべきだ。
「わたしたち一般職員は橋下市長とともに労組員の排除に成功しました。その経緯を説明します。」と。
上述している主の言い分を真に受けて「そうかぁ市職員も悪いひとばかりじゃないんだな、うんうんわかる、職員さんカアイソウ。」
なんて靡く一般人が出てきちゃったら、せっかくの橋下市長の政策にほころびが出るばかりか
問題の労組員の格好の隠れ蓑を作ってしまうことになり得ると思わない?
ははぁ~ん、主の正体は労組員だな?と疑われる羽目になるとか、考えつかない?
同じ穴のムジナに見られたくなければ、やるべきことは一つしかないだろ。
このpost見てつくづく、一般人の感覚とどれだけ乖離しているか改めて理解した。
この役立たずの穀潰しめ。
アスペルガーと言っても色々いると思う。もっと違うアスペの人と関わった事もある。
論理体系は概ね崩れてない。けど概ねであって、やっぱり事実と仮説の区別が弱い。主観と客観の逆転までは行かないか全てに対してそうではないとしても、そういう部分もある。やり取りして気味が悪いのは、狂ったその人の主観の中に引き込まれるみたいになっている事。気味が悪いし独特なものがあった。
はてなにもブクマされている評判が良くない記事に、共感した前からの知り合いの人に、データの読み方に問題があると、何の断りも前置きも気遣いも無しで言い放っていた。そう考える面はない事もないが、そのデータからそれに結ぶ付けるのは、おかしいのではないか、というような事だったが、そんな前置きや気遣いは無し。親しい間柄だから、と言うわけでもないのがわかる他人行儀な言葉遣いで、それだった。
何の迷いも無くと言うより、むしろ他人の揚げ足取りのような事が、したくて溜まらないのかも。たまらないというような一般的な人の感情の動きとは違っても、むしろ積極的にそっちの方向でいきたいみたいな。
ブクマはこれなんだが
http://b.hatena.ne.jp/entry/zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110928-00000011-pseven-pol
これのおかしさを指摘できるあたまはあるのに、まだどっちとも決め付けられない事で言ったら激しく相手の人格否定をしているような事や、大きなショックを与えるだろう事を、むしろ積極的に言う。
このあたりは、論理的じゃない。論理の飛躍をたくさんしている。
こういうの、アスペルガーかもしれないけど、アスペルガーを隠れ蓑にしているのではないかと思った。
つけたし、今、少し訂正してて思い出した事がある。他人行儀な言い方をする間柄では、反感持たれそうな事を、あてこすりのようなある意味持って回った言い方で言う。直接は関係ない例だが、そこでその例を出すと、相手にあてこすってる意味にもなるというような事を言う。
なんで、そんな事が言いたくなるのかはわからないけど。
あと、この人、相手と自分の区別が付いてないんじゃないかと思った。
書いてる文章が、誰がなのか、わかりづらい書き方をしていた。
それに、失礼さが相手を他人と見てないようで、怖かった。
ギリギリいっぱい相手にとって、不利な可能性を想像して(妄想して)それを、確定してる事実のように、決め付けて書く。
このへんには、かなり論理の飛躍があると思う。
こっちも、その可能性を考えるから怖いと言っているのに、それを敢えて言う。
一見第三者的で客観を装ってるところが不気味だ。
でも、本当に悪気が無いのなら、しかも自分がアスペと診断されたと言うなら、自分の認識がおかしいと多少の自覚もありそうなものなのに、謝罪したり、譲ったりと言うことは無い。
気味が悪い。
多くの婦女子諸兄には処女というのは特別意味のこもったワードらしくこのことについて書かれたブログやら何やらというのはまま見かける。
そしてそこに頻出するのが処女厨という言葉。もしこの単語が出てきたならば大体のところどんな主張を仰っているのかその想像はつく。
往々にしてこんな感じだろう。「処女を勝手に神聖視するな、処女をモノ扱いするな、処女厨こわい、きもい」
いつもならば眉を仰角30度くらいに吊り上げ一文字に結んだ口許からぐぬぬとでも漏らして終わりなのだが、今日ははっきりと言いたい。相手に処女を望むことの何がそんなにどうじてなにゆえ問題なのだ?
花も恥じらうご処女様と宮沢賢治よろしく欲にまみえむ童貞様が心も体も心身ともに結ばれ幸せそのものセカチューばりのプラトニックラブIT'S A BEAUTIFUL WORLD。
実に美しいじゃないか。
しかして正すべきのなにものもないこの世界に土足で押し入り踏み荒らしていくのが勝手に処女厨などとカテゴライズしたあげく遥かお天道様をも下す高みから見下ろしたもうたる輩だ。
彼等彼女等によれば女性に対して処女性を求める人物というのは分類学上の処女厨という範疇に収まり、それはもうおもわず目ン玉ひん向いてしまうくらいにリンカーンもビックリなご高配を賜る栄誉に預かるわけなのだ。
曰く、処女厨とは女性に対してワガママな妄想を抱いたあげくその自分本意な欲望を押し付けてくる怖くてキモい存在なのだそうな。
で、この処女厨ってなんなんだ?
ネット上には確かに非処女は肉便器とのご高説を垂れる手合いがいるが、ああいった連中のことだろうか。
ならば話が早い、あれは処女厨ではなくただ全方位に対してヘイトを撒き散らすのが目的の集団か、処女厨を隠れ蓑にした膜厨のどちらか、もしくはその両方を兼ね備えた人達だ。
まずヘイト集団は便所の落書きそのものだ、まともに相手をするのはバカと暇人だけでいい。
問題は自称処女厨の処女にあらずんば人にあらずなどとのたまう膜厨共だ。
まあこいつらの主張はごくシンプルで膜が有るか無いかの一点にのみことの是非が集約されている。膜があればよし、膜がなければわるし。
この単純明快な理論だがどう見てもおかしい。普通におかしい。ちょっとあたまおかしい。
突っ込むまでもなくこいつらはただの膜好きだ、論ずるに値しない。
まあ実際にはおお真面目に膜が云々と書き立ててる奴などそうはいないのだが、こいつらの言う所を噛み砕いてやればそういうことなのだ。
とここで対になるのが精神的処女厨という言葉なのだが、これこそが言いたかったことの一つだったりする。
精神的処女厨とは女性に対して膜の有無ではなく、それが初恋であることを求める人間のことだ。というか俺のことだ。
断言するが肉体的処女厨なんてのは2chを中心としたネタに過ぎない。
あえて矛盾点をしこたま抱え、通る道理のない所を無理やり通してしまう。
無茶な理論だと分かっているからこそムキになって反論してくる相手の存在が心地よく、横暴に振る舞えば振る舞うほど快感を覚えることのできる、そんな趣味の悪いお遊びだ。
そして冒頭に戻るが大抵の場合が処女厨と言われればこの肉体的処女厨のことを指している。いいかこんな奴はいない、存在しないんだ。
確かに処女膜という記号に萌えて燃えるやつはいるだろう、しかしそいつらは非処女を忌避しているわけではない。
ましてや肉便器肉便器などと呪文を唱え据え膳食わぬどころか膳には唾棄するべしというような信条をもったやつらでは決してないのだ。
詰まるところ相手が処女だと聞いて喜ぶような輩はいても膜がないからといって、それのみを理由にボールをストライクゾーンから一つも二つも外してしまうような輩はいないのである。
肉体的処女厨というのはたけのこ厨、きのこ厨と同じお遊びの産物に過ぎない。
では熱意と情熱をもって処女に対しそのほとばしるリビとーを思うがままに開放している彼等の言は全てがお遊戯なのかと言われればそうではない、
一分に真実の叫びが混じっており、それを担っているのが精神的処女厨というわけだ。
異性への好意、その最初の相手が自分であることを求める、つまり初恋でなければ許せないというのが精神的処女厨であることは先程述べたが、
逆に肉体的には無理矢理にレイプされていようが知らぬ内にネットペニスとやらに貫かれていようがそこに心理的な同意がなければ全くの無問題である。
なんのことはない運命の赤い糸とは言わないが好きになるのならそれが最初の恋であってほしいという叶わぬ夢であること間違いなしの想いなのだがただそれだけのことである。
で、これのどこにカースト制度ばりの侮蔑を投げかけられる要素があるというのだろうか?
例えば特定の相手ができたとすればその相手には精神的な処女性を求めたいとただそれだけだ。俺はでかい乳にそそられるだとか、貧乳こそ正義だとかそんな好みの話である。
別に精神的"非"処女の方々を蔑んでいるだとか嘲っているだとかそんなことは一切ない。
けれど、にも関わらず、しかるにだ、なぜだか勝手に虚空の存在である処女厨とやらにカテゴライズされた挙句、ご丁寧に被害者面して散々ディスられ、いつのまにやら上下が逆転しもうちょっと大人になられたら如何でしょうかと諭されるのである。
被害妄想?そうであればよいのだが彼等彼女等が指すところの処女厨というのには確かに俺が含まれている、実際にはそれがいもしない肉体的処女厨に向けられた言であってもだ。
大体個人の好みの問題になぜ割って入ってくるんだ?そんなに憎いのか?否定も肯定もされていないというのが嫌なのか?そこに有るというただそれだけがそんなに許しがたいことなのか?処女厨という架空の藁人形を編みあげてひたすら釘で打ち据えるのがそんなに楽しいのか?
「経済的理由」という隠れ蓑のもと野放しになっているのが現状。
もっと言うと堕胎罪は女性にしか適用されず男性はこの罪を負うことにならない。
これも不公平。
殺人なのに、平気で「できちゃったらおろせばいいじゃん」とか言ってる奴を見ると頭に血が上って手が出そうになります。
そうでなければ、「親は自分が産んだ子供を殺す権利がある」と認めてほしいです。
同じ人間を殺しても、お腹の中にいたら合法、お腹の外に出てきたら犯罪。
こんなの理屈に適っていない。
結局大人が自分たちに都合のよいように正義や道理そっちのけで法律を作っているからです。
命を作りだしたら、いかなる事情があれ男女が共同で責任を取るべきです。
いや、端で見ていてスカっとした。
少なくともその「高圧的な物言い」で得をした第三者がここにいる。
「叱咤激励」というのは、言い方だけを見れば大概はキツいし高圧的だ。
ただ、それが叱咤激励なのか罵詈雑言なのかは、最終的には受け取り手が決定すること。野次馬がいくら「その言い方はないんじゃないの」「攻撃やめろ」と言っても、言われた本人がそれで励まされたり奮起すればそれは「叱咤激励」となる。
当然、逆もまたしかり。
ということで、増田はあの「高圧的な物言い」を「叱咤激励」とは思えず、ただ凹んで悲しくなり反論したくなったと、それだけの事なのだろう。
自己卑下する事は書いても他人を攻撃するような書き方はしなくなった。
それは丸くなったんじゃなくて、反論される事に対して臆病になっただけ。攻撃する事で取らされる責任というものに気付いた時、それを負うんじゃなく取らずにすむ「書き方」に走っただけ。
「ほらほら、僕もうお腹見せてますから。ちょっとくらい気に障っても攻撃しないでくださいよ、ね?」というポーズを会得しただけだ。
誰かを攻撃するような内容でもなく軽く自己卑下というか反省みたいなのを書いただけで
平気でボロクソ言われて、え、なんで?って思ったこともあった。
それは、自己卑下という隠れ蓑の下で結局は誰かを見下したりしてたからじゃないかと。そういうのを見透かされたとか。
単に文章そのものが自虐オナニー臭の強いものだっただけかもしれないが。
あなたみたいに平気で「お前」とか「クズ」とか「~なんだろ?」とか
「~しろ」みたいなストレートな煽りをするような人も、あなたが言うような性格に当てはまるんじゃないでしょうか。
指摘してあげたつもりか、気に食わない内容に対しバッサリ言い捨てて気持ちよくなったのか分かりませんが、
「行間を読む」というスキルをお持ちでないだろうか。
結局は言い方のキツさとか語尾とかそんな表面的なものにしか目が行かず、それによって相手が「何を言いたいのか」を読み取る思考力がないからヘソだけ曲げる。その証拠に、反応しているのは相手の「書き方」についてばかりだ。
かつてはネットで思うさま暴言を書き殴り、その後「丸くなった」として攻撃性を隠すことで今度は他者に優しさを要求し始め、そのくせ中身や読解スキルなんかは一向に変化していない。
で、人間というのはたいてい「人を攻撃する時には、自分がされたらイヤな事をする」ものである。
この増田は、自分を攻撃してきた相手に対し「気に食わない内容に対しバッサリ言い捨てて気持ちよくなったのか分かりませんが」と返している。
つまり増田はかつて、人を攻撃する時にはそのようにして気持ちよくなってきたのだろう。だからこそ、相手も同じ攻撃手段を使っていると考えた。
「でもそれに反応したってことは、あなた自身が普段平気で誰かを煽るような人だから
癪に触ったとでもいうのですか?
増田は、『見境なく粗を探して叩くのでしょうか・・・』という文章で、無意識にせよ「粗を探して叩く」者を心で攻撃していたのだ。
だからこそ「こいつ反応したな」と思い、こうして反撃する。
かつては自分もそうしてきたんじゃないのか。「公の場で酷い言葉を使って書き殴りピリピリしてた」んだろ。
その時の心理をもう忘れたのか。そのうえ今度は素知らぬ顔でそういう人間を叩く側に回ってるのか。
自分が「優しくなった(つもりでいる)」からといって、その瞬間から手のひらを返して相手にも同じ優しさを要求し、応じてくれなければ悪者扱いか。
それは、攻撃的だったかつての自分自身を悪者扱いしてるのと同じだぞ。
「ほら、俺はこんなに大人になって正しくなったんだぜ。お前らまだそんな事やってんのか。ちっとは俺を見習えよ。で、俺を煽る事はやめてくれよな」が本意では?
「人それぞれ」と、何かあるごとに言う人がいます。言う人は、どうやらこれを「他人に対して柔軟で寛容な考えかた」だと思っているようですが、それは大きな間違いです。「人それぞれ」というのは非常に危険な言葉なのですから。そのわけを説明します。
まず、「人それぞれ」と口にするのは、どんなときでしょうか。それは、誰かとの間で意見が割れたり、衝突したり、とにかく相手の考え方が理解できなかったりするときでしょう。大げさに言えばそれは、「他者」との出会い、異文化との接触、の場面です。
しかし、考えてみてください。異文化との接触において必要なこととは何でしょうか。「柔軟性」?「寛容さ」?確かにそれらは必要です。しかし、それはあくまで「手段」ですね。柔軟で寛容な態度が求められるのは、それが相互理解のために必要だからであって、真の目的はその「相互理解(その結果としての両者の平和的共存)」なのではありませんか。
もちろん、異文化の間に完全なコミュニケーションが成り立つというのは、まあ幻想です。最後の最後、越えがたい壁は残りますね。そして、それでもこの狭い星の上で、相互に平和的に共存する道を模索しなくてはならない私たちは、理解しがたい相手との間に、「私たちは互いに相手を理解できないが、その一点においてのみ同意しあえる」という極地の理解に至ります。それがすなわち「人それぞれ」という言葉に象徴される事態です。それは、人間が最後の最後に発揮できるやさしさであり、つまり、最後の最後、絶対の理解不能地点で用いられる、最後・最大限の相互配慮なのです。
ですが、この言葉は最近ずいぶんと軽く、かる~く、用いられています。ひどいときには、人は、他者・異文化と出会った瞬間、抜き打ちのように「まあ人それぞれだから」という言葉を発し、それによって最初から相手に関する一切の理解を拒絶するのです。「人それぞれ」だから私はあなたを理解しない、あるいはあなたに理解してもらうための努力を放棄する、いわばその言い訳として「人それぞれ」という言葉を使っている。そんな風に使われる「人それぞれ」は、他者に対する柔軟でも寛容でもなく、むしろ積極的な他者の排除とディスコミュニケーションのための隠れ蓑に過ぎません。
「人それぞれ」という言葉をかる~く使う人は、その言葉で実は相手を自分の人生から切り捨てているのです。これは、優しさに見えて実は冷たい「人それぞれ」です。道ばたに倒れている人の横を素通りする際に、「まあ道を歩くのも寝転ぶのも人それぞれだから」とか言ったら、さすがにおかしいと気付くでしょうが、実際にはそれと同然な「人それぞれ」を、いろいろなところで見受けます。
相手がどのような立場・状況の中で、どのようなコトを考えて生きてきて、どんな経験をして、今そのように考えているのか、そしてそれは自分の人生や経験とどのように異なるのか、両者の意見に妥協点や共通点、接点は全くないのか、それを確認するためにはどのような努力や試行が必要か……「他人同士理解なんてできない」とものごとを一瞬で切って捨てる前に、自分は相手を理解するための努力をどれほどしたのか、胸に手を当てて考えてみるべきです。相手を理解するためにでなく切り捨てるために、「人それぞれ」を使っていると、その人の世界は果てしなく狭く、閉じたものになっていくと思います。
他者に対して自分の考えを主張する、「私はこう思う、考える。これこれこういう理由に基づくものである」…そういう風にモノを言うのは、それは「考えの押しつけ」ではありません。それは「相互理解にたどり着くための努力」というのです。「人それぞれだから」と相手を切って捨てることは「やさしさ」ではありません。「他者を切り捨て自分の殻に閉じこもる」行為でしかない。そこのところを、なんだか真逆に考えていたりはしませんか。
さて、ここからは下のリンク先の方へのコメントですが、結婚というのは、自分と彼女のプライベートな閉じた関係を、社会に対してオフィシャルなものとしてオープンしていくということです。恋人同士の閉じた世界を、他者に認知させ、社会の中に定位する作業ですね。その最初のステップで、他者との相互理解を拒んでしまっては、話は一歩も進みません。「ワカッテクレナイ」とすねても、誰もあなたを助けてはくれません。「ワカッテモラウ」ために「ワカロウ」と努力することが、今一番必要なのではないかと思います。
戦争責任者の問題
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
内容を全て話すと特定されてしまうと思うので色々伏せたままでごめんなさい。
イレギュラーは発生しましたが、最終的には話題の中心を思惑通りに修正でき、
実力的に全然伸びないのは、入ってすぐに大会があるからだから仕方ないけど、
なめた行為をし続けて、その度にのどかちゃんに叱られるという精神面での成長のなさがすごすぎる。
のどかちゃんの咲への怒りというのは最後の最後まで咲に届いたのだろうかかなり不安だ。
逆に精神面で成長するのは、池田、衣なんだけど、次のステージは彼女らには用意されていなくてお払い箱。
というより、彼女らが成長したところで主人公には敵わないだろうという世界観なのだから、
「怪物みたいな人間が急に現れて今までの自分の世界をぶっ壊し、さらにナチュラルに挑発してくる。
和は、チームメイト、親友という隠れ蓑をかぶることにより咲に敵でないというシグナルを送り、
チーム内での序列付けをあいまいにしようとする。結果、対等っぽくみせ、咲が活躍することで自分もその位置にいるように思い込む。
咲への好意は自分への好意の裏返しであり、あいまいな状況を甘受している自分へのいい訳だ。
優希に至っては精神状況はぼろぼろなはずで、何度も麻雀を投げ出したがってるだろうし、実際いやになっちゃうこともあるんだが、
飼われているという状況を受け入れていて、咲と和を上にみながらも愉快な友達役を熱演している。
京太郎に手を出すのは、部に自分のスペースがないことへの反動であり、自分のスペース作り活動の一環だ。
まこは、選手であることを半ばチーム内ではやめてしまっていて、部長のことをよく知る先輩役として身を慎んでいる。
部長は、選手として尊敬されないかもしれないという危機を素早く感じとっていて、部の管理者としての立場を強調する行動を取る。
いわば、まこと部長は咲、和が来たことで初めて運命共同体となれたわけで、まこと部長が過去を回想するというのは、
乗り越えてきた困難の確認でなく、一種のノスタルジィ、懐かしき良き思い出を確認しあう方法として機能している。
(そうなると、やっぱりすごいのはかじゅということになるだろう。
咲を目の前にして自分というものをやりきり、桃子の前に立つ姿というのは、白馬の王子様としかいいようがない。)
圧倒的な力を持つ相手が、やけに親切で自信がなく、けど、自分に対して麻雀好きなんだよね?
と確認、返答させてから、ぼこしに来て差を見せつける。
実生活でも、能力の社会ってそういうものだと思うが、やっぱりあんまりにもひどすぎるんじゃないか。
佐天さんは必死にあらがってみたけど、咲のキャラは甘んじた。
いや、佐天さんも結局、へらへらと愉快な友人役になることを受け入れたのであり、
学校に、仕事に行かなければとても元気で、友人と遊びに行ったり、ショッピングを楽しんだり、海外旅行をしたりする。
ところが、では元気だということで学校に、仕事に戻ると、とたんにうつ状態になる。
彼らにとって、当人が自覚しているかどうかはともかく、「うつ病」であることは、公的に認められた「バカンス」の期間であり、一種の権益なのだ。
彼らの問題点は、国民としての義務、教育・勤労の義務を果たしていないという点にあるだろう。
周囲に大変な迷惑をかけている、ということも重要だ。彼らが遊び歩いているあいだ、彼らの「立場」を守るために、彼らと違い、ほんとうの「うつ病」に掛かりながらも、職務を全うして、彼らを「守っている」人がいる。これは、正義の問題である。
さらに、彼らの遊興費は、本来治療のため、休業の保障のための、公的な財源から支出されているものである。
まるで、生活保護を受けながら焼肉を食べ旅行に行き贅沢三昧をしているようだ。まるで、「年末派遣村」で支給された生活費をすぐにパチンコに使う人間たちのようだ。
はっきり誰かが言うべきだ。このような人たちは、救うに値しないと。
日本は、多くの勤勉な人々によって支えられている。社会は、彼らの献身的な努力の上に成り立っている。
その献身的な努力の上にあぐらをかき、「権利」を臆面も無く主張し自らの責務を果たすこともしない。社会人としての責務を問われれば、「自分は病気だから」と逃げる。
十分働けるのに「病気」という隠れ蓑をかぶって遊び歩いている人間、生活保護を受けている人間、自己責任を果たせない人間。
彼らを、日本の大多数の真面目な人びとの犠牲を払ってまで、野放図に遊ばせる理由などあるのだろうか?
今こそ正義が求められるべきではないだろうか。
正しい意味で、うつ病セレブたちに「自己責任」を求めていくべきではないだろうか。
かれらは、身奇麗に着飾っているが、その心根はまさに「ルンペン」である。
本当の日本人なら、恥を知り、腹を切るだろう。
彼らに腹を切らせるべきだ。
また怒られた。
明日、重要な打ち合わせのための事前打ち合わせがあるんだけど、社長に
「明日何の打ち合わせするの?
俺しらないよ?
任せてもいいの?
よくないよね?
まあおまえがやってない分は俺が今夜必死で血反吐吐きながらフォローを考えるけどさ。
何やるかわかってんの?
わかんないまま明日になっていいの?
いいんだ、へー。
あっそう、へー」
だって。
何がわからないのかをわかるためにやる事前打ち合わせだと思ってたんだけどなあ。
これってパワハラなんじゃないかと思うんだけど違うのかなあ。
こないだ社長が怖くて身体が動かなくて会社に行けなくて1日欠勤したんだけど、もういよいよ精神的につらいよ。
できて間もない会社だからマニュアルとかないし、それは俺が作らないといけないし、やらないとってことはわかってるけど、
雇ってもらえた会社が何をどのくらいできるのか、なんにも教えてもらってないのに
「この案件やるから」
とか言われて、書類作れ、スケジュールまとめろ、今日打ち合わせに行くからそのための資料よこせとか矢継ぎ早ですよ。
0と1の違いもわからないのにいきなり10やれって言われても無理だと思うんだけど、それは俺の甘えなのか?
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またまた怒られた。
「病気治そうとしてるの?
自分に都合のいいときだけ病気を隠れ蓑に休んでるんじゃないの?
昨日も欠勤して、今日も体調悪くて休んで、どうして相談もしないで休むの?
病気だから休んでもいいの?
鬱だから相談もせずにいきなり寝るの?
こういうこと言うと、世間では「冷たい」「病気に理解がない」って言われるんだろうけど、そんな風にいつまでも病気に甘えてても
治らないんじゃないの?
いつまでもお母さんに心配かけて、頼ってて、お母さんを死ぬまで心配させるの?
そんな自分でいいの?
昨日の夜、調子が良くなったんなら、遅くても出勤して休んだ分を取り返すとかしないの?
ですよねー。
正論ですよねー。
今の会社に雇ってもらってる、っていうことがありがたくて、
「役に立ちたい、がんばりたい」
って思ってわからないままがんばってるけど、なんかもうどうでもよくなってきちゃったな。
相談しない、できないのはコミュニケーションがうまくとれない自分のせいだってわかってる。
自分の発言に自信がないし、そもそも声が馬鹿みたいな声だから、発するだけで
「ウザい」
って思われそうで、いつもびくびくしてる。
そんなんじゃ前に進めないことはわかってるけど、恐怖の方が強い。
「おまえの会社じゃないんだけど」
って言われた。
そりゃそうだ、あなたの会社です。
あなたのために俺は毎日がんばってるつもりだった。
でも、俺のがんばりが全然足りなくて、不満だったら、もう樹海にでも行って失踪したい。
ああ、でもお母さんを悲しませたくない。
生きているだけでもだめ、働いても不十分、成長の見込みもあるんだかないんだかわからない。
どうしたらいいんだろうなあ。
あのね、そのツイートのどこが酷いかというと、
「子どもを不安に陥れるような思想を子どもに吹き込もうとしているのが、そのツイート主自身」
っていうことなのね。他人の家に灯油まいて火を付けといて「ほらお前が木造の家なんか建てるから火事がおきる」って言ってるようなもんでしょ。
そして、これ書いた増田も考えて欲しいんだ。
「社会の風潮」とやらじゃなくて、例えば事実婚家庭の子をそういう目で見ている「あなた自身」が子どもを不安にさせる最大の要因になってるんじゃないか、っていうことを。
「あなた」が、そういう考え方を捨てなければ、「社会」が捨てることもないだろう。
「あなた」が、そういう考え方を否とするという態度を明確にすることが、「社会の風潮」をなくす第一歩になる。
あなたは、捨てるつもりはあるの?ないの?
ないんなら、増田のこの書き込み自体が、「世間」を隠れ蓑にした差別促進活動(太宰メソッド?)ってことになるんじゃないかな。
バイト先の飲み会でのこと、一つ上の先輩から正面切って「お前が嫌いだ」と言われた。
その先輩は、普段から口きかないほど仲が悪いわけではないのだけれど、確かに気の合う先輩でもなかった。自分からより良い関係を築こうと行動を起こすこともなかったので、そういう意味では言われても仕方ないなーと思う。だからそれほど衝撃的な告白だったわけではない。
自分も先輩もだいぶ酔っ払った状態だったし、まだこれから続くバイト生活を考えたりもして、その時は笑って対応できた。そうですかー、すいません、って謝りながら。そしたら先輩の方も笑っていたから、そこまではまぁ、自分も問題なかった。
で、今考えている話はその後。なんで嫌いなのかを説明され始めてからのこと。
曰く、後輩の中でお前は仕事できるかのように周りから思われてるけど実は違うんだと。むしろ能力ない方だと。人を隠れ蓑に上手く立ち回っているだけなんだと。
曰く、上手く立ち回っているように見せかけておきながら、その途切れ途切れにほつれが見えると。雑な部分があると。ところどころ引っかかる部分があるがゆえに嫌いなんだと。
だいたいこんな意味のことを言われた。
それにどう反応していいか分からなくて、とりあえず相づちを打っているうちに時間になり、そのまま解散。
うやむやのまま帰宅して、寝て、いまに至る。
特に気にする必要もないことなのかもしれない。ただこの先輩だけじゃなくて他にもそう考えてる人がいるかもしれないと思うと、バイト先での振舞いを変えないといけないのかな。
http://www.higashiyama.ed.jp/info/detail.php?id=442&category=nr
京都のジュンク堂書店に、参考書を見に行ったら、東山中高の先生の推薦図書が置いてあった。自分は見たとき生徒のお勧め本かとも思っていたが。北杜生の『どくとるマンボウ航海記』があったのが嬉しかった。
しかし中にこんな本が・・・
『マインドコントロール 日本人を騙し続ける支配者の真実』 池田整治 (著)
GHQによる自虐史観の刷り込み、宗教を隠れ蓑とした謀略、水道水に投げ込まれた塩素、化学物質で汚染された食卓、ウィルス兵器で脅される世界、どちらが戦勝国となっても儲かる支配層の「仕組み」オウム真理教のサティアン突入に唯一参加した現役の自衛隊幹部が、武士道なき日本の「驚愕の末路」を警告する! 長年、日本人にかけられ続けてきたマインドコントロールを解く衝撃の1冊。
東山の先生どうかしてるぞ。水道に毒とか陰謀論の王道だぞ。アインシュタインの予言とか堂々と載せてるぞ。やばいぞこの本。参考書とか児童書のコーナーにこんなん置いてあって、糞真面目な生徒が真に受けたらどうする。
いきなりテレビで自作が叩かれたので気が動転したのかもしれないが、自作が公の場で非難されたからといって「許可をとってない」と泣くのは愚かすぎる。いかに酷く誤読されようが理不尽な言いがかりをつけられようが、公刊して天下に問うたものに対する批評を制限する権能など作者にありはしない。この漫画家が「猪瀬直樹は誤読している」と猪瀬の許可なしにブログに書くことのできる自由と同じ自由がそこにあるというだけのこと。
エロ漫画家が自作の「誤読」をヒステリックに訴える、というのは喜劇的ですらあるが、人生かけて描いている作品が昼間のテレビで有名人に槍玉にあげられたというのは、そんなに過敏に自己弁護すべき状況でもないように思う。いかがわしい表現を意識的にやっているならむしろ誇ってみせてもよいはずだ。自分のブログで生活とか家族がどう、とかそういうところに同情を求めているところからみると、そんなに鷹揚に対応する度胸も生活力もないのかも知れないが。
そしてこの発言について思ったのは、「無断リンク禁止」とか「検索よけ」的な陽の下で一般人に言及されるのを嫌う態度と相通じるような気がする、ということ。狭い自分のサークルの圏外からの「勘違い」な言及を過剰に嫌悪する、というのは二次元界隈の皆さんには共有された感覚なんだろうか。
今回の件は話題が話題だけに「叩かれてナンボだろ」というつもりはないが、「表現者」が擁護するに足らない存在だと思わせてしまう対応は間違いなく逆効果。2ch にもブックマークにも「許可はとれよ」というコメントがけっこうあるが、引用にも紹介にも批評にも非難にも誤読にも不買運動にもファシズムにも「許可」は要らんですよ。もちろんこの漫画家がヒステリックに殉難者を気取ることも自由なわけだが、いかなる表現であれそこには常に文脈に依存した政治性が付随するということは批評も表現も同断なわけで、名のあがった、すなわち猪瀬と同じ言語空間で発言できる可能性のある今こそうまく振る舞うべき。
ttp://indora.iza.ne.jp/blog/entry/82794/
そして、2000年に摘発された事件は、朝鮮学校の異常性を浮き彫りにするものだった。
2000年2月に島根県の温泉津港に停泊する漁船「栄福丸」から250キロもの大量の覚せい剤が発見された。
「栄福丸」は北朝鮮領海まで入り込み、覚せい剤を受け取ったと断定されている。
そして在日朝鮮人の貿易会社「サンコーインターナショナル」が北朝鮮と暴力団を結ぶパイプとして浮かび上がった。
この会社の銀行口座に事件前、多額のカネが振り込まれていたのだ。
直ぐに専務が逮捕されたが、黒幕は曹奎聖(チョ・ギュソン)という会社代表の男だった。
この曹奎聖の経歴は、なんと下関朝鮮初中級学校の元教師で、貿易会社を立ち上げる直前は、校長まで務めていた人物だった。
犯罪が発覚した時点では、教職を退いていたが、朝鮮学校の在任中に暴力団と関係を結び、ダミーの貿易会社を設立したもようだ。
校長と暴力団の深い関係は、朝鮮学校の異常な体質を簡潔に現すものではないか…つまり、カタギではないのだ。
朝鮮学校は「民族差別だ」などと叫んで“弱い立場”を主張しているが、周りの地域住民を強面で恫喝し続け、学校を隠れ蓑にして組織固めを行っていることは明らかだ。
自作自演の嘘を強弁する前に、このような犯罪者が校長として生徒の指導にあたっていた過去を直視しなければならないだろう。
どんな教育だ…
この曹奎聖は、2000年1月に北京に向け出国したまま、現在も足取りがつかめず、指名手配されている。北朝鮮に逃げ延びたことは容易に想像つく。
わが国が直面する北朝鮮問題とは、拉致・核・ミサイルの3つどころではない。今この瞬間にも、日本人と日本社会を傷つけているのが、北ブランドの覚せい剤だ。
http://anond.hatelabo.jp/20100221123714の続きです。
現在、統一協会の信者がはてなダイアリー他のはてなのサービスを使用しています。そのうちの一人である、id:ucnow(http://k.hatena.ne.jp/ucnow/)が協会に都合の悪い箇所を隠蔽しようと必死です。
2010/03/03 10:45:08にキーワードの内容の大部分を削除しています。
編集時刻: 2010/03/03 10:45:08 編集者: ucnow 編集内容: 6,26d5 -**教祖 -教祖は戦前、朝鮮を日本からの独立させる抗日活動をしていた[文鮮明]。 - 文鮮明はこれまでに6度投獄されたことがあり、また女性関係では女性信者を清めるという名目で性関係を持つ“[血分け]”をして来たという根強い噂があるが、教団はそのような事実は一切ないと否定している。朝鮮戦争以前に韓国の興南(フンナム)収容所に投獄されたのはその現行犯で逮捕されたという説もある。 -1980年代にはアメリカで脱税の罪で懲役刑を受けて以来、1年 以上の懲役あるいは禁固刑を受けた外国人は入国できないとした入国管理法の規定により、日本への入国ができなくなっている。 -**教団の特色 -★独自の聖書解釈 - この教団は、聖書に再び来ると預言された[キリスト]とはイエスそのものではなく、文鮮明であると教えている。統一教会では、文鮮明を「真のお父様」、その妻の[韓鶴子]を「真のお母様」と呼び、夫妻を「真の父母」(真のご父母様)と呼ばせている。 -教団は独自の聖書解釈をしているために、一般のキリスト教会からは[異端]もしくは「異端ですらない」とみなされており、[エキュメニカル](教会一致促進運動)の対象にもなっていない。 -★独自の活動 - キリスト教でいう[原罪]を清算できる唯一の道だとされる「[合同結婚式]」を数年毎に行ってきた。また独自の経済活動として、偽霊能者を使って、壷や多宝塔、[高麗人参]エキスなどを法外な値段で売る「[霊感商法]」や福祉などの名目で行うニセの募金活動、さらに日本人女性に日韓関係の問題を韓国側の立場から説き伏せて罪悪感を持たせることで洗脳し、韓国の農村部の男性と結婚させていることなどに対し、社会的批判が強い。 - このような霊感商法による被害や、教会名や宗教であることをひた隠しにして、サークルや関連団体を通しての伝道(「[青春を返せ裁判]」)や、合同結婚式による婚姻の無効性などに関して、被害者や元信者らによって多くの訴訟が提訴されてきており、統一教会自体に信者の不法行為に対する「[使用者責任]」があるとされた判決が多数出ている。 -また、多数の関連企業(武器製造、高麗人参の販売など)を世界各地に持っており、『ワシントンタイムズ』(米国)や『世界日報』(韓国・日本)を通じたメディア活動および政治工作なども行っている。自由民主党との癒着も指摘されている((安倍晋三前総理大臣ら自民党議員が統一教会関連組織へ祝電を送った事実からも推測される。))。 - 彼らは様々な団体を隠れ蓑にして様々な活動を行っていり。宗教団体が学校や病院、企業をもつケースは珍しくないが、統一教会の場合は一見すると“まったくの無関係”を装って世間の目を欺いている(ただし実際は、その独特の名称センスのために非常にわかりやすい)ところが他の教団ともっとも異なる。 -霊感商法等の経済行為や政治的工作等に加え、近年は北朝鮮に対する莫大な経済援助をしていることなどによって、公安警察の監視対象になっている。
内容の書き換えが明らかに協会の都合のよいものとなっています。ところで「一部のキリスト教関係者や左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、」と書き直していますが、この認識は正しいのでしょうか。カルトと思っている人はほかにも多数見られますが、何か?
編集時刻: 2010/03/03 10:41:28 編集者: ucnow 編集内容: edit -「[[世界基督教統一神霊協会]]」の一般的な略称。統一協会側は「統一協会」ではなく「統一教会」を正式な略称として主張しているが、統一協会の対策にあたる人々や統一協会に反対する人々の多くは「統一協会」の略称を用いる。 + 「宗教法人世界基督教統一神霊協会」の一般的な略称。統一教会側は「神と人間の理想である地上天国を実現するために、神からそのみ旨を託された創始者・文鮮明師によって、1954年5月1日韓国・ソウルで創立された」と説明する。日本統一教会は、1959年10月2日に創立され、1964年7月15日に宗教法人として認可。2009年に創立50周年を迎えた。 -統一協会とその関連団体による霊感商法などで知られており、手口や被害の多さから、カルトと認識する者が多い(([http://www1k.mesh.ne.jp/reikan/japanese/index-j.htm:title]など。))。 +伝統的なキリスト教との教義の違い、平和運動・勝共運動の社会的影響力などから、一部のキリスト教関係者や左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、様々な批判を受け、呼称も「統一協会」を使用されている。
以下の記事を読んで思ったこと。
疑問1
id:Francesco3やid:hokusyuは、「男がケモノなら去勢や隔離をするのが当然でしょ」と言うのだけれど、それならばなぜ、「男がケモノなら性犯罪被害者はみんな泣き寝入りするのが当然でしょ」というふうには言わないのか?
確かにケモノはすべからく檻に入れておくべきものだが、それと同時に、ケモノは何事に対しても一切責任を持たない。
つまり、ライオンが人間をかみ殺したとしても、それが殺人罪にならないのと同じだ。被害者にとってはお気の毒だけれども、どれだけ憎悪を募らせていようと、ライオンを処罰するなんて馬鹿げている。ライオンが人間をかみ殺すのは当然の所作であるし、べつにライオンに悪意があったわけじゃない。檻に入れることにはもちろん同意するが、邪悪だとか言って非難するのではなくて、ちゃんと丁重に保護してあげるべきだ。
こんなふうに、彼らの論法では、「男がケモノなら性犯罪被害者はみんな泣き寝入りするのが当然でしょ」とも言えるはずなのである。
いや、『とも言えるはず』なんていうどころか、彼らは性犯罪の被害者たちに向かって、そう言わねばならないだろう。ケモノを道徳的に糾弾したりとか、刑事告訴したりするなんて、まったく馬鹿げているやり方なのだから…。
あくまでも「仮定の話」としてではあるが、男の責任が追及されているこの社会のあり様を嘲笑い、かような愚行が慣習化していることを戒めねばならない。
疑問2
id:Francesco3やid:hokusyuもそう認めているように、「男はケモノ」というのは、明らかに事実に反する仮定である。だから、彼らがべつに「男を檻に入れろ」と主張しているのでないことは読み取れる。
しかし、いったんそんな仮定(=反実仮想)を持ち出したなら、その後に何でも好き勝手に言えることになるだろう。たとえば、「もし太陽が西から昇ってきたなら、素っ裸で町内を一周してやろう」というように、いかに無茶苦茶なことでも無責任に約束・主張できてしまうのだ。
我々がいやしくも反実仮想を使うときには、そこで必ずしも常識に縛られるべきでない。事実とは異なることが自明の前提を採用するのであれば、極端な話、「ケモノをどんどん放し飼いにしよう!それで人間が傷ついても知ったこっちゃない!」という主張だって、可能なはずなのだ。
それなのに、彼らは敢えて「ケモノは檻に閉じ込めるのが当然だ」という常識にだけ執拗に拘っている。それはなぜか? 彼らはなぜ、「男がケモノなら女はおとなしくレイプされるのが当然でしょ」と言わないのか?
(※ 反実仮想だという言い訳をうまく隠れ蓑にして、その仮定のなかで性暴力を許容していたり、性差別を肯定している者がいたとしたら、われわれはその者を非難することが果たして可能なのだろうか? それとも、その者への非難は、どんな場合でもぜったい不可能なのだろうか?)
疑問3
彼らは「ケモノには人権がないのが当然だ」という大前提に立って、「男がケモノなら去勢や隔離するのが当然でしょ」と述べているのだろう。
しかし、もしそうした場合、結局は「女もケモノだから檻に入れろ」っていうことになるのではないかと思う。
なぜなら、女はほぼ100%、父親を持っているからである。男というケモノの精子から生まれ、そのケモノのもとで育てられ、たくさんのケモノたちと共存して生き、母としてケモノを出産すらしている女たちが、男と違ってケモノではないなんて、なぜそんな簡単に言い切れるのだろうか? 私は生物の分類について全然詳しくないから勝手なことは言えないが、このようにして、「男がケモノならそれと同じ種である女もまたケモノである」という結論に至ると思う。
そして最終的には、彼らの持ち出したこの仮定の話が、「女はケモノだから人権がない」というような形へと収束していき、女性への性暴力を人権問題として扱えなくなってしまうだろう。