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2019-11-04

一部フェミニストの「萌え絵」の定義おかし

何度か増田で書いたけど(anond:20191018235243anond:20191102145214)、一部フェミニストの「萌え絵」の定義がどこかおかしい。

躍起になって萌え絵を叩く言説を読んでいて「……ん?」という気分になることがある。違和感

上の増田で書いたことの繰り返しになるけれど、「性的に強調した表現がある・エロティックアニメマンガ絵」を「萌え絵」と定義しているように見える。

でも、性的に強調したエロティックさのない表現がなくても萌え絵ではありうるし、エロいアニメ絵でも「いやこれは萌え絵じゃないです」ってなる場合もあるよね。

から萌え系と絵柄の似た少女漫画とかを「これも萌え絵じゃん」って出されると「はぁ??? エロスの要素がないでしょ??? オタクのくせに表象区別もつかないの???」などと謎ギレをおっ始める。

逆に萌え系の絵柄とは似ても似つかないエロいアニメ絵を出してきて「萌え絵っていうのはこういうやつ!」などと言い張る。

いや、そもそもそれはお前らの「萌え絵定義おかしすぎるだけなのでは……? フェミニストの人の「萌え絵」に関する議論意味不明なのはそもそも連中の「萌え絵定義おかしいからだという気がしてきた。

上でいくつか例を挙げたけど、『らき☆すた』の泉こなた柊かがみ英語教科書エレン先生、この辺り典型的萌え絵でしょって思うんだけど、別にセクシャルな要素は強調されてない。

もっと言うと、仮にエロゲキャラであっても、エロシーンでなければ特に性的な強調がなされていない場合もある。『月姫』での遠野秋葉立ち絵赤十字が使ってもたぶん燃えなかっただろう。単に普通女の子の絵にしか見えないもん。宇崎花の爆乳イラスト炎上した『宇崎ちゃんは遊びたい!』の中身がくっそ健全ラブコメなのとある意味正反対

萌え絵の源流(のひとつ)にエロゲがあるというのはまあそれはそうなのだろうけれど、それはあくま様式としての源流であって、実際にその絵がエロティックかどうか、あるいは絵師エロゲーマーだったかどうか、というのは話が別だよね。

ではなぜフェミニストの人らは「萌え絵」に関する狂った定義を支持するようになっていったのか。

これは憶測しかないんだけど、碧志摩メグのうりん駅乃みちか境界線上のホライゾンといった萌え絵が「エロすぎる」として燃えた結果、「萌え絵性的強調表現があるものエロティックもの」という認識が育まれしまったのでは。

単に性的強調表現に乏しい無難萌え絵燃えなかったというだけで、萌え絵が全てエロということには当然ながらならないんだけど、どうもそこで妙な混同が起きてるんじゃないか……?

というか、子供向けの絵本とかの表紙が「萌え絵」って言われたときになんか変な空気になってたのもそれか!? 俺らオタクは「なんということだ絵本にも萌え絵が使われるようになったのかい時代になったもんだ」って騒いでたのに出版社の人が「これ萌え絵のつもりじゃないんで……」ってすごい言い訳してたけど、まさか「これはエロくない」って意味だったのか!? そりゃ話通じないわけだ! 萌え絵は「カワイイ」と「エロい」の両端の間に広がっているんだよ! 可愛いに寄せてあってもエロに寄せてあっても萌え絵萌え絵だよ!

まあ言葉意味というのは時代とともに移り変わっていくものではあるのだけれど、流石にこのコミュニケーション不全の責任は「萌え絵」に妙ちきりんニュアンスを付加して騒いでる一部フェミニストの皆さんが取ってくださいとしか言えない。俺たちアラサーオタクは原義通りの「萌え絵」を使い続けるだけなんで。それは萌え絵じゃないとか言われても困ります。いやそれは萌え絵です。あんたらの定義おかしすぎるだけです。

追記

anond:20191104133429

オタク定義するとんがり帽子アトリエ萌え絵だってのも大概頭おかしいけどね。

あれは正直微妙ラインで、カラー絵を見ると「萌え絵やんけ」って思いそうになるけど、中身を見ると「うーん、これは少女漫画系統タッチだろうな」と思うから、俺は萌え絵とは呼ばない。

でも、あれを萌え絵と呼んであそこまで強烈にdisられるのはマジで意味がわからない。

萌え絵呼ばわりに対する反論が、これはどう見ても少女漫画タッチです、画風が違います、なら理解できるのよ。でも実際は、これはエロくないか萌え絵じゃない! エロ記号がない! とかの意味不明反論だらけなわけ。これおかしいでしょ。エロ萌え絵に不可欠の要素ではないのにまるで不可欠であるかのように論じられている。

anond:20191104134553

ちょうど同じような議論ツイッターで見かけて笑った。京アニ萌え絵かどうかという議論

ファーwwwwwwwwwwwwwwwwwww

あん萌え萌えド直球の絵柄ですら萌え絵じゃない判定する人がいるのか。そりゃ話が通じないわけだ。

「これ萌え絵だよね」って、オタク側としては単に「これ泉こなたとか伊原摩耶花とかエレン先生と同じカテゴリの絵だよね」って意味なんだけど、それを「これエロコンテンツだよね」と言われたように受け取ってる人がいるのか。

ひょっとして「萌え絵公共空間に出すな」とか無茶苦茶イチャモンつけてくるのもそういうことか!? オタク側としては「それって『Fate/Zero』のセイバーの絵を出すのもダメってこと? 『氷菓』のポスターもアウトってこと? 艦これ三越コラボとかもNGなっちゃうよね。なんて不当な要求なんだ!」って思っちゃうんだけど、向こうとしては単に「エロい絵を公共空間に出すな」って意味だったの???

なんかもう、理解が及ばないってレベルじゃないな。共通言語を探求してくれ~~~~~~。

いやおかしいかもしれんけどだから何?って話でしかなくない? 別にオタク土俵」に乗って「オタク世界現象」について議論してる訳ではないので。こういうの考えるの別にいいけど論じるのは時間無駄

おかし定義が原因でコミュニケーション不全が生じてるよねって話してるんですが理解できないんですかね……

いや別に一部のフェミニスト萌え絵に関するおかし定義を信奉してるのはいいですよ。でもそのおかし定義を元に「これは萌え絵じゃない! 萌え絵呼ばわりするなんて失礼!」とか「萌え絵公共の場に出すな!」とかの主張しはじめたら「お前らの定義おかしいよ」って言うほかなくない???

オタク土俵に乗る必要はないってのも、表現の自由とか女性の権利とかの普遍的問題系についてならそうかもしれないけど、萌え絵なんてオタク発祥の語彙使って論を立てる以上はオタク側の語義を尊重してもらわんと。もともとは別の意味なのを一部のフェミニストが捻じ曲げて使っているという話なので……

2019-10-18

anond:20191018131310

萌え絵公共の場に出すの許さなマンって何でどいつもこいつも萌え絵についての理解ガバガバなの?

そして、そのディフォルメの目的は明らかに身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである

ほら、こうやって考えるまでもなくわかるデタラメを書く。

萌え絵の中に性的ものがある」ことはまったく否定しないけれど、「萌え絵がすべて性的ニュアンスを帯びた絵である」かのような断言はおかしいだろ。

たとえば、萌えおこし代表例としてよく知られている『らき☆すた』のキャラデザ泉こなた柊かがみイラスト性的な含みがどこにある? やたらと胸が強調されてるとかあるか?

長門有希はどうだ? 伊原摩耶花は? シャナは? ルイズフランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは? 公共空間に出せないほどのエロスを纏っているか

つーか、なんでか『はたらく細胞』のコラボはセーフだったみたいなこと言ってるやつが大勢いるけど、あれも様式的には萌え絵やんけ。

あいったもの文化史的に萌え絵じゃないなんてありえないよね。この時点でこのガバガバ定義破綻してるんだよ。

一部の性的な要素をやたらと強調した萌え絵性的すぎるって叩かれてたのは事実だけど、一方で特に性的要素を強調していない萌え絵がある、ということはつまり単に「萌え絵にはエロいものエロくないものもやたらと性的要素をデフォルメしたものもそうでないもの存在する」ってだけじゃん。

萌え絵のすべてが性的興奮を呼び起こすものであるかのような前提をさらっと紛れ込ませるのはただの詐術でしょ。

それとも、目がぱっちりと大きくてかわいい少女が描かれてるから性的な興奮を呼び起こすものだと主張する? そんならジャニーズも『あんさんぶるスターズ!』もペ・ヨンジュン性的な興奮を呼び起こさせるのが目的存在だってことでいい? 女性アイライン引いたり男性がたくましい二の腕露出させたりする行為はみんな性的な興奮を呼び起こすための行為だってことでOK? それらは公的空間にはふさわしくないっていう理解で本当にいいのかな?

まり、ここで伝わってしまう恐れのある、発信者意図しない、隠れたメッセージとは、

女性の体は、目で見て楽しむためのものである」というメッセージである

さんざんイケメンがたくさん出てくる作品とのコラボもしてたよって指摘されてなおこの言い分を振りかざすの? バカじゃないの?

じゃあ『刀剣乱舞』とのコラボもやってるから男性の体は、目で見て楽しむためのものである」という隠しメッセージもあるってことでいいの?

ここまで言っといて自分立ち位置を明示しないのはずるいと思うから言っておくと、実在するそのへんの女性にじろじろ見られない権利存在することは肯うとして、じろじろ見られるのを能動的に仕事で選んだ人(アイドルとか俳優とか)が仕事場(ファンイベントの会場とかステージの上とか)にいるときにはじろじろ見て性的消費してよいのだから、「人を性的消費してはいけない」なんていう一般論が成立するわけはないし(そういう権利確立したければ限定を付してね)、実在する人じゃなくて架空の人に関してはそもそも人権存在しないよね。

架空の人をじろじろ見ることが実在女性権利を脅かすという理屈理解できない。仮に前者が後者を導くんなら、それは二次元三次元混同するその人の問題。そういう人に向けて存分にお説教してください。非実在青少年人権論には付き合っていられません。絵の中の美少女はお前じゃない。俺がジャニーズタレントじゃないのと同じ。

つーか、まず前提となってる定義イミフだよな。

萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。

人間身体的な特徴をデフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つ」って、そんなの少女漫画もニューズウィーク風刺画も『あたしんち』もそうじゃん。

ジャパニーズ少女漫画もパッと見ただけで「これ少女漫画だ」ってわかるくらい独特の雰囲気を帯びてるし、色んな風刺画並べられてても愛読者ならニューズウィークのはひと目で見分けつくよね。あんな顔の人間現実はいないけどでもまあ「おばちゃん」の特徴のデフォルメだよな『あたしんち』って。

まあだからエロゲーをルーツに持ち」って限定を付して少女漫画や風刺画や『あたしんち』を排除してるんだろうけど、それを措いておいたとしてもこの定義ってよくわからんよね。

いや、学術定義をするならわかるんよ。様式史を遡っていったところにエロゲの文脈があるのは、まあ、否定はしない(というか様式史について真面目に検討したことがないんでよくわからん)。なので萌え絵文化史卒業論文書きます! というならこの定義でいいのかもしれない(いや卒論ならもっと厳密に定義しないとまずいか)。

で、それは社会におけるイラスト立ち位置を考える上で必要定義ですか?

萌え絵イラストレータの全員がエロゲに携わっていたわけでもなく、萌え絵を楽しむ若いファンの多くはエロゲなんてやったこともないだろう(おっさん世代エロ経験者率は知らない)。ルーツ定義してなんか意味あります

まあ、萌え絵ルーツ探究したいっていうなら頑張ってね。止めないよ。

2019-07-30

京都アニメーションの件、気持ちを整理するため振込め

俺は、ワープアなので金がないのだが、しかし、感情にまかせて61万円を振り込んだ。手取りの3.5ヶ月分。
貯金は綺麗さっぱり無くなった。が、振り込んですっきりした。
すっきりしたのである

まり、振り込むのは、被害者のためと言うより、自分精神衛生上、払い込む事が必要だったという事に気付く。

今、気持ちの整理が付かない人は、思い切って振り込め。それでもしかしたら少し落ち着くかも知れないぞ。

作品愛を語るには、文章力では足りない。
作品の素晴らしさは、もっと文章の上手い方々が論じているので、割愛する。

京アニとの出会いは、フルメタル・パニックふもっふ、に遡る。当時はまだBS放送ネット配信も手の届く範囲にはなく、しかし、フルメタ原作からファンで、WOWOW放送もあったこともあり初期から見ていたため、地元ローカルレンタルビデオ店で借りたのが最初である

そのあたりですっかりアニメを見る習慣が付いた俺は、地元企業就職後、派遣労働者の悪い所と、一般社員の悪い所を合わせたような職場就職して駄目になりそうなときも、親が病気で倒れたときも、もちろん今日の夕飯を食うときだって人生そばはいつもアニメがあるし、その大きな一つに、京都アニメーション作品があったことは間違いない。

よく、冗談で「来春に○○の新作が出るから、来春までは生きることにするわ」という書き込みがあるが、今回の件があって、自分の中でこれは、冗談でもあり、そして実は人生駆動させるものの一つだった事に気付いた。

故に、事件の後、直接的には何にも関係の無いのに、何か、なんか、自分でも明らかに挙動不審
元気だそうと思ってふもっふboxを引張り出してきたら、再生してもねえのに泣けてきて号泣とか、なんかもう、俺ってここまで繊細だったのかよと笑ってしまった。

そこで、例の口座開設である
そこに、自分貯金をぶち込んだら、すっきりした。
少なくとも、ふもっふ再生する力は出てきて、ふもっふらき☆すた、甘ブリ、とみて、なんとか仕事をやる気が出てきたところ。

まり、何が言いたいかというと、振込は、寄附ではなく、自分必要だったから行った行為だと言うことだ。ツンデレとかそう言う話ではなくて、純粋に。

なんか今回の件でやり場のない怒りをどうしたらいいのか持て余して、挙動不審な人が結構いると思う。俺もそうだけど。もやってるより行動した方が精神衛生上いいと思う。かなりすっきりする。
金で解決できることは金で解決しよう。

2019-07-27

ヤマカン監督としてその域に達していなかったから生き延びたんだな…

京アニ事件武本康弘監督の死亡が確認された。12年前、有名なヤマカン監督交代で、らき☆すた監督山本寛から引き継いで5話以降の監督をされた方。

山本寛ことヤマカンは、この後しばらくして京アニを退社。結局、詳細は公表されることはなかったが、ヤマカン京アニトラブルがあったことは間違いない。

ヤマカン監督の域に達していたら、今も京アニに勤めていて事件に巻き込まれたかもしれない。そう考えると、ヤマカン監督としてその域に達していなかった事が幸せに働いたんだな…人生万事塞翁が馬だ。

https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%9F%9F%E3%81%AB%E9%81%94%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84

2019-07-26

「終わりなき日常の終わり」とかいう終わってるコラム

アニメなんてなくても生きていける。

そう論じるのは簡単なことだ。

だが

人間そもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。

それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。

アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ音楽アイドルスポーツ観戦、特撮映画小説

多くの人間一見生産ものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。

まずこういったもの批判をすること自体禁酒法時代アメリカ天保の改革風俗取締令のようなナンセンスさがある。

すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。

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終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

まりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファン豹変し、本人を襲撃。アイドルアニメは、そのマーケットクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映労働争議で多くの人材放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメ製作ノウハウはあっても、資金的制作能力に欠けており、広告代理店テレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本キティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおマンガ翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーション前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守映画オリジナルストーリーうる星やつらビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSFさらにはもっとタイト大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生サークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数共通体験からだ。入学式修学旅行学園祭卒業式教室体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分個人人生空っぽな者、いや、イジメ引きこもりで中高の一般的共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生ガイ制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタアラサーアラフォーファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメ主人公は、のび太カツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後希望は、自分永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙立候補する、アイドルタレント芸人になる、小説マンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニ惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事待遇業界のあり方、物語方向性ファンとの関係見直しあらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

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京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人女性戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実劇場版企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。

また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。

日本オタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。

京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。

エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。

終わりなき学園祭としてひとつ象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、

うる星やつら漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、

近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパン基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。

しかアニメファンは常にコンテンツ新陳代謝さらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社からといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。

1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。

そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。

そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社非情なる現実

そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品供給できる会社を存続させてきた、業界良心の要石のような会社京アニであって、それはこういう批判俎上に上げるべき存在ではそもそもない。

事件からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。

このケースは犯人特性も含めて極めて異常であり、安易因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。

この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。

オタクにイキって食う飯は旨いか

まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造ものも見受けられる中、ひとつひとつ作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。

あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。


最後

人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである

そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。

2019-07-25

放火された京アニは偽の夢を売って弱者や敗者を搾取する麻薬の売人以下」by 大阪芸術大学 純丘曜彰 教授

京アニ大阪芸術大学純丘曜彰教授京アニは偽の夢を売って弱者や敗者を搾取麻薬の売人以下」 放火事件めぐるコラム

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/blnews_190724_2479254717.html

7月24日(水)19時46分 BIGLOBEニュース編集部

放火事件に見舞われた京都アニメーションを「麻薬の売人以下」などと表現したコラム「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」に批判の声が相次いでいる。

ビジネスメディア「INSIGHT NOW!」に掲載されたこコラム24日、非公開にされた。取材に対して運営会社は、内容に「一部不適切発言があった」とコメントした。

このコラムは、大阪芸術大学純丘曜彰教授が「INSIGHT NOW!」に寄稿し、21日に掲載されたもの

1970年代からアニメ業界の歩みやトレンド解説し、京都アニメーション前身が「うる星やつらビューティフル・ドリーマー」に携わったことが、同社の後の方向性を決定づけたとしている。

その後の京都アニメーション作品については、「一貫して主力作品は学園物」で、「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」など、「似たり寄ったりの繰り返し」とのこと。

また、学園物は「中高の共通体験以上の自分個人人生空っぽな者、いや、イジメ引きこもりで中高の一般的共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすが」だと考察している。

そして、こうした人たちをファンにすると、「いつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなもの」とのこと。

最後には、京都アニメーションを「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ」と断じた。

このコラム24日に非公開になった。運営会社取材に対し、問い合わせが複数寄せられたこから利用規約に照らし合わせて内容を確認したところ、「一部不適切発言があった」とコメント

また、純丘教授危害が加わることも懸念されたことも非公開にした理由の一つとした。

「INSIGHT NOW!」では、寄稿された記事確認掲載後に行っているという。

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/2479254717/20190724194647294_thum800.jpg

2019-07-20

京アニ放火殺人事件で溜飲が下がった人たち

京アニ放火殺人事件で多くの人が悲嘆に暮れているが、溜飲が下がった人も多いのだろう―PTAとか、フェミニストとか、純潔カルトとか、児童基金とつるむ元歌姫とか。

そういう奴らにとって、京アニアニメという低俗な娯楽を提供する邪悪企業だ。たとえ、「らき☆すた」が地域活性化に貢献しても、「けいおん!」が女子高生の間でブームになっても、「リズと青い鳥」で歴史のある大藤信郎賞を受賞しても、世界中人達京アニを称賛しても、そいつらが持つ嫌悪感絶対に変わらない。

今もアニメオタク犯罪者予備軍という偏見は根強いと思っている。実際、今でもアニメゲーム犯罪と結びつける報道は後を絶たない。そう言うと多くの人が反論するだろう。確かに社会は変わった。でも、人の価値観簡単に変わらない。特に好き嫌いは克服することが難しい。宮崎勤事件とかでオタク嫌悪感を持った人間は、今も嫌悪感を持ったままだろう。

日本アニメ陰キャに限らず多くの人たちを魅了している。これがオタク文化に対する嫌悪感を緩和する原動力だ。そして、オタク文化は京アニという大きな原動力を失ったのだ。これを機に、表現規制派は勢力を拡大させるだろう。

そういえば、山田太郎は今年の参議院選挙落選したら政界引退すると言っていたが、間違いなく落選するだろうな。前回は29万票だったのに、「今回は53万票取ったら変わります」って、できると思えるのか。世論陽キャのものだ。家に引きこもってネットにすがることしかできない陰キャ政治を変えることなんてできるわけがない。悔しかったら当選させてみろ。

2019-07-19

表現規制派は京アニ放火殺人事件のことをどう思っているのだろうか

京都アニメーション日本代表をする最高峰アニメスタジオだ。

フルメタル・パニック」や「AIR」で躍進が始まり、「涼宮ハルヒ」「らき☆すた」「けいおん!」で現在地位を確固たるものにし、アニメオタクにだけでなく、世間一般にも存在感を放つようになった。

今や日本だけではなく、世界中で名を知られている大きな存在である

そんな京アニ表現規制派の視点で考えるとどうなるのか。この最大級大惨事についてどう思っているのか。

2019-06-23

ヤマカンアニメ廃業作の映画薄暮』を観てきた

昨日シネ・リーブル池袋で、山本寛監督の『薄暮』を観てきた。

ヤマカンとは

ヤマカンというは山本寛監督別称京アニ傘下出身で、ハルヒEDで注目されてらき☆すた降板話題になり
その後かんなぎBRSの頃は評価悪くなかったが、フラクタルで内輪揉めを起こし、
WakeUp,Girlsなるアニメ作品と同名ユニットを立ち上げ、ユニットはそれなりの人気で
今年活動終了したが、アニメ劇場3作TV2期あったものの、こちらも揉めて途中監督降板してる。

以前から煽り耐性がなく、炎上するたびにまとめサイトアンチに対して通報した結果
揚げ足は取られなくなったが、比較中立だった映画評論家アニメ関連ライターに留まら
盟友だった音楽チームのMonaca、(彼の言う意識の低い)一般ファンまで常態的に罵るようになり、
誰も触れられない雰囲気になり、ようやくクラウドファンディング制作に漕ぎづけたのが今作。


・『薄暮』について

公開2日目にして20人くらいで少し寂しい感じではあるが、クラファンに参加してそうなおっさん
福島県いわき市舞台から見にきたのか、年配のカップルも居た。

先月試写会かなんかで、未完だの廃業だの話題になってるのに
内容的に悪くないとかい評価が出ていて、少し気になっていた。

凄く簡単に言うと、福島県いわき市舞台にして絵画音楽を中心にした、こじんまりとしたガールミーツボーイの佳作だった。

作画別に期待していてなかったからか、最後演奏シーンは止めが多いなとは思うもの
平松禎史追崎史敏も参加していたし、未完云々は炎上マーケティングだろう。
WUGより近岡キャラデザの素朴さが表現できていたように思う。
テーマ弦楽器地方都市で、必然的音響と背景がクローズアップされるので、作画は気にならない

もちろんヤマカンらしいネチネチした演出は健在。

物語高校吹奏楽部は強豪校であり、主人公たちの音楽部(ストリングス中心)が
人が集まらないという設定は京アニの『響け、ユーフォニアム!』に対する当てつけに思える。
企画立ち上げ当初はバンドの『けいおん』を意識していたのかも)

また主役男女2人の接点でもあり、タイトルである薄暮は、『君の名は』の片割れ時を想い出させる。
舞台装置として同じだろうが、ファンタジックな新海作品よりも現実的立ち位置

他にも主人公セリフ生理という単語を入れたり、自宅のベッドで上着を脱ぐシーンなど
明らかに狙った少女演出がある。ここはジェンダーアイドル論的な視点議論できそうだけど、他の人に任せる。

テーマ的には震災あくまで遠景的なもので、基本は主人公初恋などの淡い成長など非常にシンプルなので、
新海誠山田尚子のようなフェティッシュだったり繊細な作品に比べると、物足りなさを感じる。

声オタ的には、主演の男女2人は役柄の演出もあって、特に違和感はない。
ヤマカン作品では常連花澤香菜下野紘に、同級生友人2人は雨宮天ちゃん佐倉あやねるのシンカリオンコンビ
を配置して、声オタ的にも十分に満足できた。

特にあやねる『プロメア』のようなステレオタイプヒロインよりも、今回のウザねるが圧倒的に魅力的。
WUG関連だと島本須美も出てるし『らき☆すた』の頃から福原香織大坪由佳
こにわ、大橋隆昌とか懐かしみを感じる面子も。

結局のところ、非商業インディーズでやってりゃ、そこそこ褒めて誰も文句言わないよという作品

2019-04-29

なんか最近アニメでJpopカバーED多くない?

あかねさす少女の壊れかけのRadioとか

八月のシンデレラナインのどんなときも。

ロリガの人にやさしくOPだけど、あれTHE BLUE HEARTSまみれだしな。

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンドフレンズだったし

まりあ†ほりっく夏のあらし!と新房昭之監督作品は多いイメージ

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。secret base 〜君がくれたもの

そらのおとしもの、は色々だったけ?

それなりにまとまってアニメカバーというとらき☆すたキャラソンあたりが浮かぶけど、版権持ってれば楽曲自体は使うのは簡単だったりするのかな?

2019-04-06

anond:20190405144412

らき☆すたの次、みたいなものタイミング的に求められていた。

あと、普通にアニメとして作画とかキャラクターがよくて、ここがダメというところもなかった。

アニメとしての売れたスケール普通だったけど、楽器市場かに波及して、折から聖地巡礼のおこりもあり、ニュースとしての広がりが大きかった。

とかか。

2019-03-18

anond:20190318173234

らき☆すた同人誌だとこなた最初彼氏からもらったサンドイッチがうまかったとしか思ってなくて

自分勝手サンドイッチを作ったけどうまくない

から彼氏にまたサンドイッチをもらいに行く話だったはず

やはり最初の一発目だけじゃダメなのか

2019-03-13

anond:20190313095156

人に使わせるからだろ

薬物中毒にして売春婦にするってらき☆すた同人小説で書いてあった

2019-02-18

anond:20190218200544

ごめん。おそらく君はそんな権利は無いといいたいんだろうけど、アプリ版の信者(いるとすれば)は、けもフレ1期に対する正当な批判権利を、(もしけものフレンズ1がクソならば)持っていると思う。

けもふれ1が神作品だったとしても、アプリ信者は、「ここがアプリと違う」という権利はあると思う。

そして、私はたつきが好きなんじゃないんだ。むしろ同人騒動以降は嫌いで、しかし、けもふれ1期は好きなんだ。

(似たような状況は、ヤマカンらき☆すた1~3話以前作品にも発生していて、別に個人的問題はない)

そしてさらに、けもふれ1は、終わってないと考えているんだ。伏線を張るだけ張って、回収をしていない状態だと思っていたんだ(エヴァみたいに)

なのに、2期が「伏線?ありませんでしたよー」として作られているから、さいあくなんだ。

から煙草はいかないよ。あれもクソだから

けもふれ1は、本当に稀有な、化学反応だったんだろうな…と悲しんでいるんだ…

2019-02-16

関係性を志向するファンダムのこれから 後

承前

https://anond.hatelabo.jp/20190216023228

3【オタクによって関係性を消費されるオタク

キャラクタ化するオタク

 本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。

1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuber現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語消費者提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタクである。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタ関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャル世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである自分人生趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタのものになるということは、自伝エッセイ執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタク人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語関係性が発生していくというコンテンツに、オタク萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在人生物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。

また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子特有の親密さは、既に広く認知されており、さら創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク言動コミュニケーション「あるある」と思いながら読むような自伝エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。

・「関係性」の基底現実での実践

 上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品キャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリング相手ネット上で交際したり、同作品キャラクタ日常会話をする文化である。このアカウント運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイ交際していた相手現実でも交際に至ることがあるという。

 つまり関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌え関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたち関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタ境界あいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。

4【関係性消費はどこに行きつくのか】

 本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクのものキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダールッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタク理想バーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることであるバーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタク理想キャラクタとなり、主体的交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差ルッキズムによる格差存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者セクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である

これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状であるしかし、バーチャル空間上でのルールマナー議論の末に整えば、それぞれが理想関係性を追い求めて基底現実バーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界拡張現実侵食する「関係性消費」は、しか古典時代から物語として脈々と行われてきた文化であるオタク文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。

関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからジェンダーセクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。

引用文献】

*1 東園子,2015,「宝塚やおい、愛の読み替え 女性ポピュラーカルチャー社会学新曜社

*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナキャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125

*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書

*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社

【参考文献】

玉川博章,名藤多香子小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社

吉澤夏子,2012,「『個人的もの』と想像力勁草書房

山岡重行,2016,「腐女子心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版

塚田修一,松田聡平,2017,「アイドル論の教科書青弓社

2014,「ユリイカ 特集百合文化現在」第46巻第15号 青土社

2018,『ユリイカ 特集バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社

美水かがみ,2004-,「らき☆すたKADOKAWA

なもり,2008-,「ゆるゆり一迅社

あとがき

期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク人生で遊んでいこうな!

関係性を志向するファンダムのこれから 前

 本稿では、現在の「ファンオタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品概念グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブ言葉として用いる。拡散多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。

1【現代オタクデータベース消費から脱却する】

日常系が売れるのは「関係性」を読み取れるから

 「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数女性キャラ日常生活描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメ2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的ドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみらき☆すた」(2004)や、なもりゆるゆり」(2008)などが代表的ものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語想像して消費することができるからなのではないだろうか。

・「行間を読む」相関図消費の“複雑さ”への萌え

 関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティ担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D3D二次元アバター現実の肉体の動きとシンクロトラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそもYouTuber」の動画には前提とされる物語世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナキャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。

そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNS動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物画像投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダー次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。

まり、「実在人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系関係性」が、液晶内のキャラクタバター動画配信という形態の手軽さにより、オタク関係性消費への志向次元を超えてさらに加速していくと予想できる。

2【やおい文化百合文化から読み解くオタクジェンダー格差

関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味

 前章で関係性消費への志向さら高まると予想したが、本章ではオタクジェンダー格差について女性向けジャンル男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態差異があるのだろうか。

もちろんHL(異性愛文化を扱う少女マンガ少年マンガにおいても恋愛友情ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BLGL文化ではそれ以外の登場人物関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉意味合いについて掘り下げ、BLGL同性愛ファン文化それぞれの特徴から考察してみたい。

・「腐女子特有の親密さ

女性オタク人文学社会学研究に関しては、特に腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的女性性的欲望解放」といった視座からの言説であった。特に腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全領域において、性的表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったもの存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在日本混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。

 今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からマイナスイメージ払拭しようとしたり、イベントSNSでの趣味スラングの共有による特殊連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティ特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物特性セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドレズビアン連続体、ホモソーシャル関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。

・「百合男子」はなぜ流行らなかったのか

 では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望コミケでのゆるやかなホモソーシャル交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツ受け手ジェンダーによって大きくそ意味合いが変化してしま場合があるからである。そして男性GL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別限定されていない。これはGLというジャンル男性けが消費することに対することが上記齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称流行ったのはBLというジャンル女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。

 また、百合コミュニティにおける異性愛忌避姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造腐女子ジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。

関係性消費によるジェンダー越境可能

 こうして述べてきたように、同性愛コンテンツファン構造は非常に複雑で特殊ルールの基に成立している。しかし、上記性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファン異性愛忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物消費者セクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊連帯プラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuber関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuber関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性ペルソナシス女性キャラクタがシス女性キャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象アニメ漫画においても進んできており、創作物受け手ジェンダー必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。

【続きと参考文献リスト

https://anond.hatelabo.jp/20190216024058

2018-12-13

当時16歳の私から見た『涼宮ハルヒの憂鬱

私は1990年まれ高校の時にリアルタイムハルヒニコニコ動画出会った男性です。あまりアニメ全般については詳しくありませんが、私の経験の限りにおいてハルヒについて語ってみます

ハルヒは当時の印象では「わけがからないが、とにかく新時代のすごいアニメ」という作品でした。一つ一つの要素を見ると取り立てて珍しいものではないのですが、それらをアレンジするセンスと細部のクオリティがずば抜けていたと思います

まず、日常系学園ラブコメと高度なSFとを融合させたアニメが珍しかたことは記憶しています。当時の私はスクールランブルあずまんが大王にハマっていましたし、エヴァンゲリオンカウボーイビバップも大好きでした。しかし、両者の世界観が融合するような日常系アニメがあり得るとは思ってもいませんでした。その後六畳間の侵略者ニャル子さんなど似たような作品が出てきましたが、少なくとも当時の私にとっては斬新な世界観でした。

もちろん作画も素晴らしかったです。これについて私はほとんど語れませんが、日常系萌え作品であれだけぬるぬると人物を動かしたことには驚きました。それまではロボット飛行機をどれだけなめらかに動かすのかについては意識してきました。しか美少女の手足や顔を実写のように丁寧に動かすことについては、ほとんど注目していませんでした。明らかにキャラクター日常身体動作を美しく作画する流れは、けいおんやその他の萌えアニメに繋がっていったでしょう。

また、ブログや2chなどでの考察が盛んになったのもこの頃でした。ハルヒは謎が多い設定や話数シャッフルなど、視聴者探究心を刺激するギミックが多数仕掛けられていました。当時のアニメブログ上では考察記事参考書籍の一覧があちこちで見られ、2chでは解釈を巡る論争が白熱していました。その後、シュタインズ・ゲートまどマギでも同じような光景が繰り広げられることになります

さらにはニコニコ動画Youtubeの「ハレ晴レユカイ踊ってみた動画社会現象になりました。この流行高校生や大学生の社交的な人々の多くが参加したこと意味は大きかったです。これによって電車男以来続いてきた、社会におけるオタク文化容認の流れが加速することになったと思います。深夜に放送している萌えアニメが、陰気なオタクが見るものから「(女性も含めた)普通の」中高生も楽しめるものに変わる転機でした。

2000年代京アニは、Key作品のような男主人公ハーレムかららき☆すたけいおんのような百合日常物へと変化していきました。それは2000年代から2010年代にかけてアニメの潮流がエロゲ的な物からラノベきらら的な物、オタク的な物からサブカル的な物、男性作家原作から女性作家原作へと変化する動きと重なっているように私には見えました。そういったアニメ界の地殻変動結節点存在していたのがハルヒであり、90年代文化終焉10年代に続く新たな文化の始まりの両者を象徴するアニメだったのではないかと今にして思うのです。もしかするとハルヒのこうした両義的な立ち位置フォロワーの少なさに影響しているのかもしれません。

ちなみに2010年前後の私は一連のアニメ業界流行の変化を「男性向けアニメ少女マンガ化」だと漠然と感じ、個人的にそのことを嬉しく思っていました。というのも私はエロゲ象徴されるようなハーレム作品が苦手で、少女漫画百合が大好きだったからです。けいおん以降の百合アニメ全盛のこの10年間は私にとってアニメ黄金期でした。今後、ハルヒやその前後アニメの潮流は、どのように分析批評されるのでしょうか?近い内にどなたかが『10年代想像力』を書かれる日を楽しみにしています

anond:20181213030340

ハルヒスクールデイズは 

俺妹らき☆すたみたいなお宅要素がない万人向けのアニメ 

多くの人間理解できる世界観と設定がある

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