はてなキーワード: DELLとは
Dellのマシンは素直にSupportAssistのサービスを無効化しろ
あれは月1とかでDellデリバリーだかなんだかを起動してアプリやBIOSのアプデすればいいだけであって、常に起動させておく必要はない
遊びの趣味としてならいいけど、実用性を求める人はこんな記事を読んでいてはいけない。
以下、最適解を教えてあげる。
いま使っているパソコンのシステムドライブをSSDに換装しよう。メモリが8GB以下しかないなら増設しよう。1万円前後で足りるでしょう。
その他のことは一切やる必要ない。
今から新調する人も、最重要事項は「SSDにOSがインストールされているPCを買うこと」です。
中古ジャンクPC(ジャンクと言っても企業PCのリースアップ品でストレージが抜かれただけの程度がいいもの)を数千円で買い、これまた数千円のSSDを買ってLinuxをインストールする。
DELL、HP、マウスコンピューター、ドスパラなど適当にサイト見て、予算に見合う好きなヤツ買ってください。どれ買っても大丈夫。
もう止めはしないので、お好きなようにしてください。
元増田のように、パーツをいろいろ調べて買い集めて組み上げるとか、暇人がやる趣味の遊びでしかないので、くれぐれも「普通の人」はこんなものを真似して時間を無駄にしないように。
iPad買え。
iPad Pro買え。
RAMが8GB以上、SSD容量が240GB以上のWindowsラップトップかデスクトップを買え。
Mac OKならM1 Macbook AirかM1 iMac(24インチ)買っとけ。
Macはだいたい家電量販店に展示されているので、そこで触ってみてダメならNG、大丈夫そうならNG、大丈夫ならOKみたいな判断で良い。
なお、iMacのような形のPCで買って良いのはiMac(24インチ)だけってことだけは覚えてくれ。
Windowsデスクトップを買うときは、モニターは机と相談した上でできるだけ大きいのを買え。
机と相談する上では置ける横幅はもちろん物理的な限界となるので重要だが、それだけではなくモニターと座ったときの目の距離を考えろ。
モニターは意外と奥行きを取るので、だいたい机の奥より20~30cm程度前に画面が来ると考えたら良い。
その位置と普段の目の位置の水平距離を測っておいて、それだけ顔を近づけてから実使用感を試せ。なお、店頭での確認は甘くなりがちなので、冒険するつもりがないなら大丈夫そうはNGにしとけ。
近くにあるモニタは意外と圧迫感がある上、モニタの端から端まで視線を移動するために顔を大きく振る必要が出てくるので疲れる。そして圧迫感も顔の移動もモニタがデカければデカい程デカくなる。
だから、机の奥行きが短いなら24in程度が無難だ。27in以上は机の新調から考えても良い。
なお、モニターアームを導入するともうちょっと奥にモニターを追いやれる。
RAMが16GB以上、SSD容量が1TB以上(できれば2本の2TB以上)のWindowsデスクトップPCを買え。
予算に合わせてRTX○○60、RTX○○70、RTX○○80のどれかを積んでるのを買え。
RTX○○90をご家庭で使うのは、逸般の誤家庭状態になるからやめとけ。普通にオーバースペック。
SSD容量が多いと思うだろうが、最近のAAAゲームは平気で100GB程度持っていくから、下手すると1TBに4~10本しか入らんとかある。
まぁ、消せば良いんだけど、ふとやりたくなったときにまた数時間DLするのもなんかなっては思うんだよな。消すけど。
だから、できれば1TB以上のSSDが2個乗っていて、Windows(とか色々)用とゲーム用を別々のSSDにわけられる構成にした方が良い。
モニターの解像度という奴は、RTX○○60ならFullHD(4Kも可だが、ゲームによっては設定を落とす必要がある)、RTX○○70以上なら4Kがだいたいの対応目安ということになってる。
別にゲームしないならRTX○○60でも4Kモニタ良いし、普通に4Kモニター+ゲームの解像度をFullHD~WQHDあたりに落としてもいけるけどね。
ゲーミングPCは3~5年で買い換える消耗品だ。なので、それぞれの年数で積み立てられる額がそのまま予算になる。
例えば出張がめちゃクソ多くて家に落ち着く暇が少ない、あるいは頻繁に引っ越すなどの理由でデスクトップが使いづらいタイプの人間。
このような人間だけが、ラップトップタイプのゲーミングPCを買う栄誉に預かることが出来る。
ゲーミングラップトップは、値段比でスペックが低い+どうしても熱が籠もりやすいのでデスクトップPCに比べて寿命は短めになることが予期される。
このため、一般人はゲーミングラップトップを原則的に避けるべき。
部屋が汚くてデスクトップPC置けない? 片付けて?(業者いるレベルだったら業者呼んで? 風呂にも入って?)
部屋が狭くてデスクトップPC置けない? うーむ。確かにそれは悩む。モニタを置く余裕の有無が分かれ目になるだろう。
ゲーム用兼用ならRAMが32GB以上のCPUにIntel Core i7って書いてあるデスクトップPCを買え。それ以外は2つ上のゲームPC編を見ろ。
ゲームを同じPCでするつもりがないなら、M1 Macbook ProかM1 iMac(24in)がお勧め。MBPは14inの方で良い。
AMDでも良いが、特にAdobe系を使う場合にはIntel OR Macの方が安定するようだ。
なお、ストレージは場合によっては無限に必要になるので、デスクトップPCならHDDを入れておいた方が良いかもしれない。
(お勧めはWindows用SSD+ゲーム用SSD+録画先・作業用SSD→作業・保管用HDD)
ただ、初回にはいらんか。
あと、モニターは2枚以上欲しくなる時が来る。そのときが来たらモニターとは別に机がきちんとモニターを2枚置けるかや、場合によってはモニターアームの導入も検討しよう。
自宅でHyper-VかBitLockerを使おうとする者のみがWindows Proを買う意味がある。
Hyper-VとBitLockerのどちらにもピンと来ない奴が買う必要は無い。
マジな話、PC専門店のBTOはお前の代わりにPC専門店が自作してくれるPCなので、まずはそれ買え。
なにか不満が出て来たら、その不満を解消する術を調べて内部を弄っていこう。
自作する上で一番大事なのは、自ら答えを導出するために調査に時間を掛ける癖をつけることだ。
デスクトップPCなら基本的にはPC専門店のBTOがお勧め。次点でマウスコンピューター/HP/Dellなど。
その中でもお勧めは俺の経験上はツクモだが、近くにリアル店舗がある所でもまぁ良い。
別の決め方として、好きなeSportsチーム/有名ストリーマーがいて、かつ、そいつのコラボモデルを売ってるとこがあるならそこでも良いんじゃない?
それ以外はAppleなので略。
思ったことをつらつらと
引越し先のマンションの1階が24時間営業のスーパーで、なおかつ部屋の下が搬入口だから深夜にうるさい、
と前書いた
サッシ入れ替え工事で防音性があがったのと、環境に慣れたのとで、上記騒音は問題なくなった
窓開けてたら階下の人間のタバコが臭いのも、冬は窓閉めっぱだから今んとこは気にならない
こっちは季節性だから、春~夏がやだなーって感じ
ずっと前に価格コムで安くてスペック高いのを選んであげたけど、2,3年で壊れた
あと割と閉め方も荒いし
ヒンジもしっかりしてるし、いろいろ丈夫で前のpcよりもってる感じはする
あとオフィスもプリインだとpc壊れたらライセンス死ぬから、別にパッケージとして買っといた
クリスタルディスクインフォでも真っ赤だし、こないだのブラウザ証明書切れがなおんないしそもそもwin7 32bitだしで
ゲームとかしなけりゃまあいいんだけど、chromeタブ開きまくるからしょっちゅうメモリ不足でchromeが落ちるんだよなー
うーんうーん
Docker使うならIntelのCPUにLinuxしか選択肢ないだろ
M1 MacでDocker動かすためだけにZENNに25517字書くとかアホだろ…
現状ならWindowsのWSLやHyper-Vの方が遥かにマトモだし、
一番いいのはWindows消してLinuxをインストールすることだと思う
というか、今、先週到着した新マシンを初めて立ち上げて色々やってたんだけど、
Windows 11も色々クソというか、クソ以前にヘンテコな直訳で失笑させられたんだけど、
単にGUIなんて表面的なものでOSの価値が比較されがちなのは、
そりゃ、世の中の普通の人は技術的なこと知らんのが普通やろというだろうけど、
技術的なこと抜きにしても、そんなに今のGNOMEデスクトップが悪いとも思えない
GUIに否定的なLinusも今のGNOMEはそんなに悪くないみたいに言ってた記憶がある
QtベースのKDEはGNOMEより遥かに軽くなったが、UIとしてはクソだと思う
今のGNOMEとかUbuntuのデスクトップ環境はスマホみたいになったと揶揄されるが、
11inch 2in1のノートPCでUbuntuを使うと、タブレットのようにも使えて個人的には快適だ
Ubuntuだとハードウェアが対応しないということもそんなにない気がする
不安なら、例えばDellは米国ではUbuntuプリインストールして売ってるマシンもあるので、
GUIなんかより、セキュリティ、個人情報をやたらにMSやApple、DellやHPが取得しないか、
やたらとハードウェアの要件とかで足切りして、買い替えを促さないか、
それにも関連して、デバイスドライバとかが長く対応し続けるか、
なんだかんだ中身がオープンであり、使用しているユーザーが多いほど、寄らば大樹だと思う
WindowsマシンのデータレスキューでもLinuxは活躍すると思う
というか、Appleは枯れた技術としても安心感のあるUNIX文化を不安にさせるだけなので、
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
プロパンガス使用料が高いのには背景があって、ちょっと問題じゃないかと思ってる。
都市ガスサービス地域なのにプロパン使用のマンションやアパートがあるのは変だと思わないだろうか?都市ガスの方が使用料が安い。ならば競争原理によってプロパンは市場から追い出されて域外でしか営業できなくなるはず。
ところが競争原理によってプロパンに切り替える集合住宅が増えていくんである。
プロパン会社の営業地域に物件を持っていると営業が回ってきて「うちに切り替えてください」と来るんだが、手ぶらでは来ない。読売新聞の巨人戦チケットみたいなみやげを持ってくる。そのみやげというのは水回りの設備なんである。
このみやげは戸数によって変わるんだが、自動給湯器とか洗面台とか場合によってはシステムキッチンなんかをタダでつけてくれる。工事費もガス会社持ち。
例えば八戸のアパートのリフォームで切り替えるんなら全室に自動給湯器付けてくれるなんて大盤振る舞いを平気でしてくれちゃう。自動給湯器って一個20万近くする。8戸なら150万くらいか。
しかもバランス釜や瞬間湯沸かし器なんかと違って外から蛇口まで配管が必要だから外壁穴開けや床板めくる必要もある。そういうの全部請け負ってやってくれる。工事費含めたら250万くらいをサービスしてくれちゃうわけよ。
アパートリフォーム予算、200~300万位だとしてその同額分バックマージン来るって事だから大家としてはそりゃ飛びついちゃう。
そのリベート分はどこから取るの?って言えばガス代に転嫁されてるわけで。つまり入居者が払う。
契約はガス会社と入居者で交わされるのに決定権は使用料払わない大家が持ってる。だから競争原理のせいでガス代が高くなる事になってる。
ゼロ年代のネット経済論議では市場競争が価格を下げるという原則を信じ込んでる人が多数居て「ああー、そーじゃないんだよー」と思っていたが、決定権がどこにあるのかとか、市場慣行を知る方が大事な事の方が多いんですよ。
蛇足だが、既得権である相続集合住宅経営よりも企業が買収した住宅が増える方が家賃が下がると信じてる人も多く居たけど、不動産取得費が転嫁されるから安い家賃の家なんか出来ません。
自分は今は廃業したが大家の方だったのだが、これじゃ入居者はたまらんわなと思う事然りだ。配送コストと企業のスケールメリットの小ささでただでさえ高いプロパンガスが更に高くなる。
量販店がインセンティブ商売に傾いていて通常商品にお得感が無くなっており、それで「店頭販売のパソコン」はDELLなどの外資ダイレクト系に駆逐されてしまった。その駆逐直前の量販店パソコン売り場に似た市場状態だが、「決定権者と名目契約者が違う」という構造故にDELL PC(=都市ガス)が排除されてPCデポが拡販しているという状態だろう。
しかもこの読売営業商法、契約としてしっかりしてなくて変なトラブルも多いと聞く。
携帯ショップの割賦何年縛り契約みたいにちゃんと特記事項書いた契約書交わすんじゃなくて口約束の事が多いらしい。それで「もう○○年経ってるから」とガス会社切り替えしようとしたら元会社に怒鳴り込まれたとか。
また営業手法も強引で、契約前に「うちでサービスできる工事かどうか確認しますので鍵を預けていただけませんか」と言われて番号式鍵ボックスをドアノブに掛けて番号を伝えておいたら勝手に工事が完了していた。な、なにを言っているか判らないが恐ろしいものをみた。
リンナイの給湯器なら「お風呂が湧きました」と言ったところか。もう工事しちゃったから契約しないんなら外す工事必要だねぇ、という言外の脅迫である。押し沸きって言うの?こういうの。
あと、中古物件を買って水回りもボロイからガス会社変更して巨人戦給湯器おまけで貰う方向でリフォーム契約したら元ガス会社に怒鳴り込まれたってトラブルも聞く。じゃあ契約書あるんですか?と聞くと「無い」と。無いけど品はうちのもんだから現物剥いで持って行くよ!と。やっぱPCデポだこりゃ。
この読売ガス商法、大家は数戸の契約牛耳ってるから来るけど、個人宅だと契約一戸だけだから相手にしてくれませんので悪しからず。他所のバックマージン転嫁で上がったガス代支払うだけでございます。