はてなキーワード: 看板とは
Skullgirlsっていうゲームがあるんだけど、ご意見番みたいな人が性格が悪い。
ロクにプレイもせず、ただキャラクターが好きだからってだけでゲームのファンの代表みたいなツラをする。そんな看板を背負った人が、○○はクソだとかあの運営はアホだとか、チラシの裏に書けばいい事を色々公の場に書いている。
キャラクターは好きだけどファン層の性格が非常に悪い(というか変わってる人が多い)ので、総合的に見ると嫌なゲームだと思う。
最近スマホアプリでファンも増えたらしいがそっちもやっぱり変な人がいるようだし、古参ぶる変な奴もいるし、やっぱり陰湿なナード的な雰囲気が漂っている。
https://togetter.com/li/1869089
こういうまとめ見ててもさあ、単純に「ロシアは蛮族なんだ、野蛮なんだ、おかしな連中なんだ」(=自分達は正しく西欧側・自由民主主義側の枠内にいられるんだ)みたいなコメントばっかり出回ってるわけだけど
西欧・自由民主主義側が絶対に正義で疑ったりしてはいけないことになってるのか、なぜ自分が安心できてるのか(ロシア人・〇〇人はそういうもんだって嫌韓の焼き直しみたいなことをいえるのか)、そこまで踏み込んで考える奴全然いないよね
別にロシア万歳!ロシアの戦争正義!とか、大日本帝国万歳!アメリカ倒せ!みたいなことを言いたいわけじゃなくて(ロシア国内で今「何でロシアの戦争が正義なの?なんで俺達が徴集されなきゃいけないの?」と思ってる人は大勢いるだろうし)
もうみんな忘れてるだろうけど数か月前にアカデミー賞の式典でウィル・スミスが妻を侮辱したコメディアンを殴った時の日米の反応の差の時(反応差があること自体が悪い、みたいな)も思ってたし、前々から機会があればずっと思ってたんだけど
何でそう、何か「日本」という国名が付いてるだけで後の中身はヨーロッパや北米のごく一部からしか発していない風習に染まり切らなきゃいけないのか、それがごく当然の事となってんのか、全然分んないんだよな
「今、そうなってるから」「今それで発展してるから」ってのは追認とか気休めであって説明じゃないよな
西欧諸国もアメリカもある時点までは海外に力で自分達の力を押し付けまくって(戦前日本もその列に加わったり、都合が悪くなると看板替えて「大東亜共栄圏」とか言ったりして)た時期があって、別にその時点で「自由民主主義」が正義だった事は無いわけで
そんである時点から「なんか力ばっかり押し付けるのは止めにしたることにしたわ、ウチの若いもんも死にまくるし評判悪いから」ってなって一応西欧の一部諸国が勝手に体面だけ取り繕うようになっただけだよな
(旧植民地はそれに感謝しないといけなくて、感謝しなかった国は解放時に事務机まで取っ払われないといけなかった)
枝末になるけど別に「アメリカやイギリスの自由民主主義」が無くても中国も日本も世俗的には発展してたし、独自の政治参加や人命尊重の概念は発展させてたし、アメリカインディアンはアメリカ独立やフランス革命と何ら関係なく自前の高度な民主主義を持っていたわけで
そんで侵略とかは一応しなくなった後も、「アメリカでは親は子どもと同じお風呂に入りません!」(までならともかく)→「同じお風呂に入る日本は野蛮!」みたいなバカみたいな文化の解釈と押し付け(宮城遥拝の押し付けと変わらん)を官民一体でしてくる訳だろ
(あとこういう時に引合いに出される「アメリカ」ってごく一部のWASP・セレブのものであって絶対にインディアンやラテンや黒人や混血の文化なんて参照されないよな)
相対主義って最近叩かれがちだけど、それも程度問題で、何でここまで卑屈とすら言えるレベル(しかも「前からロシア人は気にくわなかったんだ」みたいなスネオ精神丸出し)で自分の境遇に満足したり疑いを持たなくなるのかを考えると、
アパートの一室で金髪でジャージで髪が長く身長が低いアリサと名乗る女の子とお喋りをしている。
アリサは僕より年下なのにシッカリしてて、理路整然とした喋り方をしている。
そこはアリサの家で、次はもてなしをしようとご飯やお酒を用意してくれるが、僕は帰らないといけない。
そう言うとアリサは「一人で帰れる? 怖くない? 怖いか。ついて行こうか?」と心配してくれる。
僕は一人で帰れると何度も何度も説明する。
なんとか説得し一人で帰る。
僕は怖くなって泣き出してしまう。
僕は一人が怖いからついてきて欲しいと言わなきゃいけないと思うも泣いて言葉にならない。
アリサが近づいてきて頭を撫でてくれる。
僕は「僕は怖くないよ。けどアリサの方が怖がってる気がしたから戻ってきただけだよ。怖くない?」と泣きながら言った。
アリサは「うん。怖いから手を繋いでくれる?」と返してくれた。
僕は嬉しくなって泣き止んで手を繋いだ。
アリサと手を繋ぎながら歩くと先ほどの怖い山道ではなく車道の方に行けば電灯があるから怖くないことがわかる。
アリサに道を教えてもらいながら歩く。
アリサはしっかりしてて、僕が怖がるたびに大丈夫だよと励ましてくれる。
僕は、僕が怖いのではなくアリサが怖くて戻って来たのに、僕の家に着いたあとアリサを一人で帰らせることが申し訳なく思った。
なので足を止めて、アリサにその旨を伝える。
何度か問答を繰り返す。
そうすると、そこが分かれ道であることに気づく。
アリサが「こっちがキミの家だよ」と指を挿して教えてくれる。
もう一つの道は長い木の棒が一本だけ刺さっていた。
僕は「ここまででいいです。着いてこさせてごめんなさい」と謝った。
向き合う。
左手を繋いだまま向き合った。
その時、アリサが「でも、今から行くのはアッチだよ」と言って、僕を家の方向ではない方向の分かれ道へと引っ張って進み出す。
とても強い力。
そちらの道は暗くてなにも見えないから怖い。
アリサにそれを伝えようとすると、アリサは黒いモヤになって見えない。
アリサではなかった。
ここで大声を出して起きました。
何か人のためになる正しいことをしようとしたときに、その過程で違法な手続きをしたらどれほど目的が崇高でもそれは犯罪なんよ。
という気持ちでcolabo見てたけど、なんか最近は自分の私腹を肥やすために叩かれにくい、叩きづらいコンテンツ(フェミニズム・被害者女性)を利用してるだけなのでは?と感じつつある。
本当に助けを必要とする人に手を差し伸べたい気持ちがあるのなら、どうして誠実にやらないのだろう。被害状況を国に伝えるためにも保護した女性の人数や寄せられた相談の件数は重要なはず。より多くの人を助けるために税金を欲しているなら、余計正確に誠実に提出すべきでは?
そう考えると、怪しい数字の多さに首を傾げたくなってくる。もちろんホームページと都に提出した書類が完全一致しているべきだ、なんて馬鹿なことは言わないけど、さすがに誤差が大きく、またバラバラすぎないか?
colaboの活動自体は応援してる。困窮してる人の中にも男性はいるし、男性に対するサポートもあった方がいいのではと思ったりもするけど、女性に特化して支援する組織が必要なのは理解出来る。だからcolaboには是非とも正々堂々と潔白を証明してほしい。できるはずなんだ。あなたたちがしっかりと実情に対して現実的なアプローチを重ねていたのなら。
これもしかしたら地雷耐性より基地外耐性の性差の問題かもしれない。
まともな大人の男性であればあるほど、大声でただのワガママを叫ぶバカのことは集団の秩序を守るためにもきっちり理屈でシメるべき、となる。
一方、まともな大人の女性であればあるほど、大声でただのワガママを叫ぶバカを見たら「あんなに大声で叫んでる人を無視したりシメたりしたら人非人だと思われるのでは?」と考えてしまうんじゃないか。
大声で泣き叫ぶことが「ひどく傷ついていてケアを必要としている人」「それほど強い正当な怒りを抱いている人」という看板として機能するかしないかというか、「優しくない」「冷たい」という評判が同性間で命取りになるかどうかというか…
平気で理屈で殴り返せるタイプの女性もいるけど、そんな人ほど日頃から「少し冷たい」「理屈っぽい」「人の気持ちがわからない」などの悪評を背負っているのでシメに行っても意見が通りにくくなるし、匿名でも「平気でそんなことを言うのだから変人であろう」となって意見が通しにくい。
そういう構造的バグを突かれる形になるのでメチャクチャな理屈で喚くバカが大声を出すと女性ばかりの集団はそれに抵抗しづらくなるという耐性の弱さが傾向としてはあるんじゃないかな…
エルデンリングにおいてはボスがかなり強く、隻狼やダークソウルのようにプレイヤー自身のスキルを以て倒そうとすると、それなりの修練が必要となる。
しかしみんながみんなアクションが上手いわけではないから、お助け要素として、① 「遺灰」(召喚獣のようなもの)、② NPCの手助けが用意されている。
平凡なスキルしかないプレイヤーは、強いボスに出会ったとき、①②のいずれか、あるいは両方を連れてボスに立ち向かうことになる。
ゲームバランスとしては、平凡なスキルをもったプレイヤーが、ボスごとの適正レベルに上げた上で① 「遺灰」を連れて行った場合に、ぎりぎり苦戦するような難易度に設定されている。
そのためプレイヤーは、強いボスに出会ったときは、自然と②NPCを連れていくという発想に至るようになっている。
しかし、各NPCはただでボス討伐を手伝ってくれるわけではなく、事前に恩を売るなどして筋を通す必要がある。
依頼を受けて敵を暗殺したり、秘宝を取ってきたり、穴に嵌ったNPCに油を塗って尻を蹴飛ばしたりする必要があるわけだ。
こうした「根回し」が奏功してはじめてボスを倒すことができる。
これまでのシリーズでは、ひたすら己の腕を磨いてボスを倒すというスタイルであったから、まるでサラリーマンのように各地を回って頭を下げる(実際には下げてないが)主人公の姿は衝撃的であった。
オープンワールド化のひとつの帰結が「根回し」というのは何だか皮肉だが、「ダークソウル(魂)」という看板を下ろして「エルデンリング(輪)」というタイトルを掲げた理由はこの辺にあるのかもしれない。
いやあ、耳が痛くてもげそうだぜ!やめてくださいしんでしまいます。
団体の専従者数名が就職せずに「善行」で飯食って行くのが目的の全てみたいな誰も得しないショボい自己満足活動は今もザラにある。
そういうところに公金をイージーに流し込む行政の問題がまず一つ。
最初に言っておくけどこれ全部フィクションだからね。わかった?わかったなら次に進んでよし!
国の予想では近い将来人口ゼロ集落が続出すると予告されている町。
町だが、面積が無駄に広く人口密度はそこらの村よりも低い。自治体を維持するために昭和の大合併、平成の大合併で合併しまくった結果だ。
合併したのに従来の役場はそのまま支所という形で残し、行政改革をせずにくっつたけたけ。無駄に体力を消耗。当然集落の整理なんてできるはずも無くて、だらだらと消滅に向かっている。
この町がなんとなくでもやれていたのは、地方交付税に加えて、特殊な助成金が比較的簡単に取れるからだった。
電源立地補助金ほどは打ち出の小槌ではないが、そこそこ破綻してない申請書を書ければ、国から自動的に金が来ると言う程度の助成金がとれた。
ところが、近年になって渋くなってきた模様。そこでそれ以外の補助金に手を出すようになったのだが、流行のキーワードはこれ
「地域の力を生かす取り組み」
国もこの手の自治体に頭を悩ませており、いろいろな助成金を作って自立を促したり、整理を促したりしている。
その中で、良くも悪くも鈍い感じの自治体に改革を促すために、自治体単体ではなく、民間企業や、地域住民による地域作り団体などと共同で取り組む計画を求めるようになってきた。
こうして「おくにが考えたさいきょうの政策」を実現するために補助金を使っている。THE 補助金行政である。
とは言っても、そんな一緒にやってくれる企業などはそうそう転がっていない。
地元でがんばっている社長さんとかいるんだけど、既に頼られまくってどうしょうもないぐらいになってるのが普通。
地域おこしをするための地域受け皿がない。服を買いに行く服が無いみたいな話である。
行政の出資比率が高くなると駄目な場合があるので、行政の出資比率は見かけ上低くしているが、そのかわりに商工会議所とか、農協、地銀、信金とか、青年会議所関係とかに声をかけて出資させて、一般社団法人を作る。(オイコラそこ、めんどくさそうなメンツとか言わない!俺もそう思う)
そして、そこと共同でやるという枠組みを作ることによって、えらい人の威光を保ったたままに補助金をゲットしようと言う仕組みである。
さて、ここで求人をするとどうなるかというと、デフォルトで最低賃金での募集になる。
そもそも職なんかほとんど選択肢が無いような地域だ。社会貢献ができますよ、と言うところと、自治体が出資している安定した組織に、学歴職歴関係なく就職できるという二つばかりが注目されて人が来るのである。
だから、意識の高い系職員と、ほとんどコネで送り込まれてきたような意識の低い系職員が混ざり合ったカオスからスタートする事になる。
さて、こうしてできた一般社団法人。当時の政治家が鳴り物入りで作ったお国の制度の補助金が出る3年間はある意味やりたい放題である。
給料は安いが、儲けや結果は求められないままに、申請書をぺらっと書けば金は使える。拠点も昔補助金もらってうっかり作っちゃった交流センターを事実上の払い下げ。
行政の看板を使えるからみんなとりあえず話を聞いてくれるし、人も集まるし、金を配ってるような状態だから表面上は感謝もされる。
国の政策集にものったりするから県知事や国会議員が視察にきたりして、注目を浴びて自分がえらい人になった気になる。
何故3年かというと、中央省庁の官僚がそれぐらいで担当替えするから。そして新しい担当になった人物は、前任者がやったそれがどんなに成功していても、引き継いだところで自分の実績にならないので、打ち切るのが普通なのである。
当初の補助金が切れるとどうなるのか。
社会の中で困ってる人に手を貸そう的な活動において重要な・必要なものは、まず実務的な知識・スキル。マンパワー。(金のことを含む)行政との連携。
でも実際に活動の現場にずっと残りがちなタイプは「世直しさん」である。理念を口にするばかりで実務軽視。無駄に好戦的な無謬の正義マン。好きな言葉は「心によりそう」「つながり」。仕事がデキる実務家タイプは潮時を見つけていずれ退出していく。
国の補助金が切れた後、1年は現在の体制が維持できるだけの金を町が用意してくれた。ただお先真っ暗なのはあきらかなので、実務的にいろいろやってくれていた頼りになる人ほど、培ったコネを使って退職していく。
そして、残るのは、
もう解散してしまえ、と思うのだが、この状況に至っても広げに広げた大風呂敷を畳む奴はおらず、地域のキーパーソンに声かけまくって作ったためにしがらみが多すぎて、いつの間にかこの一般社団法人を維持していくことが目的にすり替わる。
そうして今はどうしているかというと、元々作られた地域振興のための団体、と言う看板は下ろせないままに、行政仕事の便利屋みたいなポジションになっている。
上の奴は本来は自治体職員が自らやるべき仕事だが、我々がやると、なあんと!全員最低賃金報酬非正規雇用で人をこき使えるよやったね!
社団法人を維持するためと言う大義名分で役所から出してもらっていたが、心ある町議会議員様から、それは利権だろと正論ハラスメントを受けて価格ヤスクを徹底された結果ご覧の有様です。
団体の専従者数名が就職せずに「善行」で飯食って行くのが目的の全てみたいな
ははは……。
この中で最も実入りがいいのがプロモーションビデオ作成なんだから笑える。
そして、町の仕事で安泰なんでしょとか、儲かってるんでしょとか言われる。うるせーばか
非営利の「社会的課題の解決を志向する活動」におけるコンプライアンスとは、もっと攻めの姿勢のものであるべきだ。
はい。
自分たちだけが秘密ヒーロー戦隊じゃダメなんだよ。全てをオープンにして「出資者」も一緒に運用を考えるんだよ。何にどうリソースを投じるべきか、それでその先どうなるか。コンプライアンスは制限じゃなくて指針なんだよ。
そして情報公開こそがその団体の、活動の命綱だ。
リアル社会でのリアルな人助けってのは難しい「大人の仕事」なんだぜ。
おっしゃるとおりです。
まぁ、今、地域おこし協力隊で面白い兄貴が来たのと、あと何人かを抱き込んで、反旗を翻そうと準備は進めている。今に見てろよ!
じゃなかった。
暖かく見守っていただけるとうれしいです。
あのPK戦はひどかった。トーキックしか蹴れない素人がプロ相手にPK蹴ってみて止められたような感じだった。
昔の日本代表はPK戦に強かった。2004年アジアカップなどが未だに記憶に残っているが、W杯だと2戦2敗。
原因は単純。これまでW杯でPKを外した人は全員「高校サッカー未経験者」である。今回外した3人が全員そうであり、2010年の駒野も例外ではない。今回決めた浅野は高校サッカー経験者、2010年に決めた3人も高校サッカー経験者、つまり部活組。
W杯PK戦に限っては「ユース組の成功率0%、部活組の成功率100%」であるのだ。これは偶然とは言えないだろう。
なぜユース組と部活組で違ってくるかについてだが、部活組は学校の看板を背負ってサッカーしており、特に高校サッカー選手権におけるPK戦は生殺与奪がかかるシーンだ。プレッシャーは半端ない。
ユース組は別に所属チームの看板は背負っている感はない。クラブユース選手権とかでPK戦をやる機会はあるが、高校サッカー選手権と比べると悲壮感やプレッシャーが天地の差。
この経験の差は、今の日本サッカーの仕組みでは、代表クラスの選手については大人になっても埋まることはない。
プロになってからの所属チームのカップ戦でPK戦を行うことはあるが、代表クラスの選手はそのPKを蹴る機会はほとんどやってこない。カップ戦は決勝戦を除いて原則代表活動期間に行われるからだ。これは日本でも海外でもほぼ同じ。
つまり、高校までのPK戦の経験がそのままプロになってからのPK戦のスキルになってしまう。厳しい環境でのPK戦を経験して来なかったユース組が代表の中心になった今、PK戦に弱くなったと言うことだ。
今回、自ら立候補して第1キッカーになった南野や第2キッカーの三笘はボールを持った時点で顔面蒼白だった。極度にプレッシャーがかかるシーンでのPKを経験していなかったが故のものである。蹴り方も方向が読まれやすいインサイドキック。今時、高校サッカー選手権の都道府県大会でも見ない低レベル(インステップで蹴るのが今の標準)。可哀想だが、J2ヴァンフォーレ甲府の選手に蹴らせた方がまだよかっただろう。唯一決めた部活組の浅野は目が座っていた。吉田は論外だった。
厳しい局面でのPK戦を大人になっても経験できる機会を増やさないといけない。例えば、Jリーグや高校生カテゴリのリーグ戦(高円宮杯プレミアリーグ、プリンスリーグなど)で90分やって決着がつかなかったらPK戦にして、勝ったら勝ち点+1(引き分けの勝ち点にプラスする)というのもアリかもしれない。地域チャンピオンズリーグと言う地域リーグ関連の大会でも実際にやっている方式だ。地域CLはこの勝ち点+1がJFL(実質4部リーグ)への昇格有無を分けることもあるし、Jリーグで導入したら優勝や残留、昇降格を分けるケースも出てくるだろう。
中田はPK戦で成功体験がなく、失敗体験しかないままプロ入りした。当時の韮崎高校で、高3の選手権予選決勝でPK戦で敗れている。中田本人は成功していたが、すでにプロ入り後のことを気にしていて心そこにあらず、だったようだ。これは「外したら何もかも終わるというプレッシャー経験」にはならないだろう
https://nirasakisoccer.hatenablog.com/entry/2020/06/15/111615