はてなキーワード: 室町時代とは
わいの実家は京都からも江戸からも最果ての天領にあるので、室町時代までさかのぼってど田舎と胸をはって主張できる。当然、スタバもねぇ、おしろいも売られてねぇ、映画館は名古屋までいかねぇとねぇ、昭和30年代はかろうじて向かいが映画館だったらしい。そんなところで文化的って何?と思うでしょ。ところがどっこい、実は門前の小僧習わぬ経をなんとやらで、謡曲をうなれたりするんだよね。当方、現在関東民だが、周囲にそんな知人はいません。記憶を辿るに、近隣の衆が江戸もしくは京から観世流の講師を定期的に招き、寄り合いながら稽古に励む姿を見ていたんだよね。半年に一度くらい、それなりの規模の発表会が開催され、祝いの席では年長者が高砂をうなれる文化的素養があるわけ。いまにして思えば、暗い山あいの村落に、文化の匂いを渇望する民がいて、都の香りを数百年届ける師匠筋がそれなりの厚みで文化基盤として維持されていたんだよね。世阿弥すごいよマジで。まぁ、そういう金で解決もあるんだよという話。ちなみに観世流の講師陣ネットワークって現存してるからな。
こないだのゲームの炎上で「戦国時代で畳を敷くのはおかしい」「畳が正方形なのはおかしい」「殿様と同じ段に部下が座っているのはおかしい」みたいな話が出ていて、そもそも城の内装ってあんまり知らないなと思った。
ググると「とっさに盾にしやすいように人の身長の大きさに信長が決めた」という話が出てくるが信憑性がわからんし、そもそも「それ以前は正方形だった」という話でもなかろう。
最古の畳は聖武天皇のもので、この時点で縦長ではあったらしいが、その当時は床に畳を敷き詰めるような習慣がなかった。
畳を敷き詰めるようになったのは室町時代以降に書院造が広まってから。
正方形の畳は「半畳畳」といって、畳を卍に敷き詰めたときの真ん中に使ったりする。
半畳畳だけを敷き詰めるようなことは無かったんだろうか?
この絵だけだと畳の縁飾りが横方向にしかなくて境界線がわからないから長方形なのか正方形なのかわからない。
あと、江戸城の広間は畳敷きだったみたいだけど、信長の頃は板敷きだったということなのか?
この絵では将軍らしき人と同じ段の背後に側近みたいな人が座ってるので、「殿様と同じ段に座っちゃダメ」説は少なくとも否定できるのかな…?
https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/sansu/WebHelp/05/page5_24.html
この「割」は,鎌倉時代から室町時代にかけての金利の単位として用いられました。当時の文書には「和利」という文字で表現されています。その後も利子計算の必要性が増大し,「割」だけではすまされないほど複雑になってきました。
一方,江戸時代のはじめに,中国から小数の考えが導入されました。小数では,1の1/10を1分,1分の1/10を1厘,1厘の1/10を1毛……のようによんでいます。
その影響で利子計算にも小数が取り入れられ,1割を基準として,1割の1/10を1分,1分の1/10を1厘,1厘の1/10を1毛……と名づけられました。
ちょっと調べたら、これは「歩合」の単位とされていて、その方面で調べれば過去の使用例がわかるらしい。小学生教育方面だと「最初は借金の利率で使われた」って説明があったけど、その初出までは書かれてなかった。まあ小学生がそこまで興味持たないだろうからしょうがないか。
正直、興味を持ったのは「分」との歴史的な前後関係なのだ。勘違いしがちだが、「1割1分」の時の「1分」は1%で0.01だが、「五分五分」のときの「五分」は50%でこれはつまり0.5,つまりこの場合の1分は0.1になる。数字の扱いが違うだろうと思ったかもしれないが、「割」はもともと十分率の単位で、十分率を単位とすればその1分は0.1で正しいのだ(このへんはWikipediaにも書いてある)。これを無理やり百分率で例えると、1.1%を「1%1分」と書くようなものだ(実際には今はこういう書き方はしない、例示として書いた)。
とはいえ、借金の利率なら最初から「分」で表してもそれほど困るような気がしない。実際前述にもあるようにことわざでは「割」使う場面少ないしね。「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足したのか、まえは「分」で示していたのが何らかの都合(借金は特別扱いしたいとか)で「割」を使うようになってそっちが当たり前になったのか、たぶんどっちかなのだ。
税率を割合で示すようなことは租庸調の時代からやってたみたいだから、たぶん文献は豊富にあるはずなんだが、こんな簡単なことがネット検索でわからない。調べるキーワードが足りないだけかもしれないけれど。
(追記: ついでにまとめ)
みなさん反応ありがとうございます。結果的に人力検索になってしまいましたが、もともとこれはそれを目的として投稿したものじゃなくて、自分が「ここまで調べた」のまとめとして書いたものでした。いずれ調べが捗って本当に感謝しています。
とりあえず、
ようで、「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足した、の予想がそこそこ近かったようだ。
調べているうちに出てきた新たな疑問としては、
あたり。このへんは今回の疑問から少し外れるので、まあそのうち。
「リファレンス使えば」。これね、時々思う。実際使ったこともある。とある地名の表記ブレを、行政機関があまり一般的じゃない方に統一した、って時に、それが単なる自治体PR(統一したほうにはそのPR要素があった)なのか、それともまあそうするだけの根拠があったのか、疑問に思って、「その地名の2つの表記の古文書での使用頻度」を調べてもらった。ちなみに結果としては30件くらい見つけてもらって、見事に半々っぽい結果だったのでまあ納得することになった。
今回は今回で調べてもらってもいいのだけど、前に頼んだ図書館にはおそらくこれ関連の古文書少ないのよ。そうすると一般書籍で記述のあるもの探してもらうことになる。それだったらネットで同じような疑問を持ってそれ調べた人の成果を探したほうが早いの。リファレンス使うとその図書館の調査には2,3週間かかることもあるのね。だったら自分で調べてたどり着けなくなってから頼んだほうがいいと思った。そうね、「分」の1/4 1/10 1/60問題についてはそのうち聞くかもしれない。
アラン・デケイロス「サルは大西洋を渡った 奇跡的な航海が生んだ進化史」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S1話 スメルズ・ライク・イーヴル
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S2話 ステアウェイ・トゥ・ワンダーランド
ルイジ・ピランデッロ 「ピランデッロ戯曲集I 役割ごっこ/作者を探す六人の登場人物」
アゴタ・クリストフ「第三の嘘」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第S3話 シー・キャント・エクスプレイン
アゴタ・クリストフ「昨日」
マイケル・カニンガム「めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」
日経アーキテクチュア編「危ないデザイン 建設設計や運用に仕える知見を事故に学ぶ」
池澤夏樹「ワカタケル」
M・R・オコナー「絶滅できない動物たち 自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ」
特別展「毒」
「すずめの戸締り」
ボドゲ(クイックショット、マーダーミステリー・想いは満天の星に、ワードウルフ)
友人のブログで見かけた本や、別の友人から紹介された本や、旅先の十和田市の図書館で見かけた本を読んだ。アゴタ・クリストフは再読。昔は低く評価してしまったが、再読して正解。引越し先にも持っていきたい。
ビー・ウィルソン「キッチンの歴史 料理道具が変えた人類の食文化」
スティーヴン・J・ダブナー 、スティーヴン・D・レヴィット「ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する 増補改訂版」★
山下いくと「EVANGELION ANIMA 1」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 2」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 3」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 4」
山下いくと「EVANGELION ANIMA 5」
繁田信一「平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職」★★★
「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」
「活字 近代日本を支えた小さな巨人たち」於・横浜市歴史博物館
特に平安時代に思い入れがあるわけではないが、何となく読んでいる。
千葉雅也はゲイコミュニティの様子が描写されていて面白い。ただ、作者がどちらかと言えばインテリ寄りなので、わかりやすく書いてくれているだけってのもあるだろう。
「EVANGELION ANIMA」は新劇場版に流れた設定があるだろうかと思って読んだ。とはいえ、シン・エヴァンゲリオンでいろいろな感情が成仏したため、考察を深めるにはいたらず。
ジャスティン・O・シュミット『蜂と蟻に刺されてみた 「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』
尾脇秀和「氏名の誕生 ――江戸時代の名前はなぜ消えたのか」★★
ロブ・ダン「家は生態系 あなたは20万種の生き物と暮らしている」
ジャン=アンリ・ファーブル著、奥本大三郎訳「完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル著、奥本大三郎訳「完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 下」
「シン・仮面ライダー」
かつて友人に「最近はあまり文学が読めなくて困る」と愚痴ると、「おっさんになると政治経済歴史、生物学の本を読むことが増える」という返答が戻ってきた。
あまり感情を揺さぶられたくないと感じてしまっているのか、歳月がある程度風化させたものに関心が向かうのだろうか。
現に「ファーブル昆虫記」を読み始めた。最近は何が読みたいのかがわからなくなってくると、やたらと巻数のある本を読むことが多い。昨年も「旧約聖書」を通読したし、その前は「聊斎志異」「三国志」「西遊記」、その前は「ラーマーヤナ」や「ガラン版千夜一夜物語」を読んでいる。
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行」第3話 魔の山を走れ
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第2巻 上」
梅津和夫「DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで」★
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第2巻 下」
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第3巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル、奥本大三郎訳「ファーブル昆虫記 第3巻 下」
フレデリック・クレインス「ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針」
高野秀行、清水克行「世界の辺境とハードボイルド室町時代」★★★
「ルーヴル美術館展 愛を描く」展
高野秀行は定期的に読みたくなる。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第4巻上」
スージー・ホッグ「5歳の子どもにできそうでできないアート 現代美術(コンテンポラリーアート)100の読み解き」★★
スージー・ホッジ「世界をゆるがしたアート クールベからバンクシーまで、タブーを打ち破った挑戦者たち」★★★
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下」
堀越啓『西洋美術は「彫刻」抜きには語れない 教養としての彫刻の見方』
グレイソン・ペリー「みんなの現代アート 大衆に媚を売る方法、あるいはアートがアートであるために」☆
また、先月の鶏に続いて、食肉にまつわる本を読んだ。屠畜の現場についての本も読みたくなったのだが、関心がほかのテーマに移ってしまった。「昆虫記」を読んでいると、当時のヨーロッパの屠畜について書かれているのも興味深い。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第6巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第6巻 下」
渡邊大門「清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上」
武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く アマテラスと天皇の「発明」』★★
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 下」
「マティス展」
「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」
読書を休んだ日が多い割にはまあまあのペース。昆虫記は8月の中頃に読み終わるだろうが、旅行にまでに間に合うかはわからない。間に合わなくても構わない。
当時はそう書いていたのだが、なんだかんだで間に合っている。
こうしてみると美術展には毎週行っていることになる。旅行先で絵画ばかり見るのにはもう飽きたと口にしているものの、そうでもないのかもしれない。それとも、歴史や神話の知識で「読解」できてしまう西洋の古典絵画に飽きているのか? だから博物館の歴史的遺物により惹かれるのか。
【続き】
室町時代も江戸時代も、当時の人はそう呼んでおらず、後から付けられた名前だ。
なのでこれらはより大きな時代にまとめられるだろう。
終戦で一旦時代を区切るのは、なんといっても国の主権が天皇から国民に移るためだ。
国の中心が変わると社会が大きく変化する。
歴史の大きな流れとしては、武士の時代から天皇の時代、国民の時代へと変わっていく流れとして理解されるだろう。
明治維新から終戦までの時代は、俺なら「帝国時代」と名付ける。
鎖国から解き放たれ、天皇を頂に据え世界に挑もうとした時代に相応しい。
そして終戦から現代を超え未来まで続く時代は、正直俺にも分からん。
まだ知らない未来の出来事によって名前が付けられる可能性もあるので
その時代が終わった後でないと、名前を付けることはできないのかもしれない。
何か思いつく名前はある?
もうすぐアニメが始まるから注目が集まってて嬉しい。あれだけの人気作品だから好きな人も多いと思う。私も好き。あの独特な雰囲気が良きだし、静謐という言葉があれほど似合う作品もない。あの雰囲気を作っているのはフリーレンのキャラと、エルフの長寿ではないかと思う。
そもそもなんでエルフは長寿なんだろう。ふと疑問が出てる。bing君に聞いてみたところ、
・エルフは自然に深く繋がっているから自然からエネルギーを吸収して老化を遅らせている
こんな回答が返ってきた。魔法で若さが保てるなら、人間の魔法使いだって長寿じゃなきゃいけないと思うけど、エルフしか使えない魔法があるのかもしれない。まあ、それぞれ作品ごとに設定があるなら、それはそれで。
エルフの長寿というのは数百年とか、千年とか、これも作品ごとに違うんだろうけど、人間にはピンとこない長さだ。今を基準にするなら鎌倉室町時代あたりから生きてることになる。武士の世の中を経験して、平和な江戸、激動の明治大正昭和をなおまだ現代も生きているとか、もはや意味がわからない。神に近い生き物って感じすらする。江戸前エルフで神様として祀られているのも納得。
エルフの寿命を人間で考えるなら、人間とハムスターの寿命を比べるようなものだろうか。短い寿命のペットを飼っている人は必ず喪失を経験する。その悲しみに耐えられなくて二度と飼わない人もいるし、悲しみを埋めるために別のペットを飼う人もいる。常に複数のペットを飼うことで、一つの死が特別でなくなるようにしている人もいる。
要するに、寿命の長い側が喪失を何度も受け入れなきゃいけない。関わるだけでそれを強制される。長生きもたいへん。エルフと人間との関わりというのは、これと似たようなものなんだと思う。
多くの作品でエルフが人里から離れてエルフの村落で暮らしているのは、人間とエルフの価値観が違っているからだろうし、その価値観の相違は寿命の長さから発生する。似たような外見をしているからこそ、タイムスケールの違いは埋めがたいものになる。
例えば、ハムスターが喋れるようになったら、人間は同じように飼うことができるだろうか。意思疎通ができて、今まで以上に仲良くもなれるけど、3年で死んでしまう友達。私はちょっと無理かもしれない。考えるだけで尻込みしてしまう。ダメージが大きすぎる。無理無理の無理。
だから、エルフは人間には近づかないというのは納得感がある。人里で暮らすエルフは珍しい存在だし、エルフと人間の子供のハーフエルフはもっと珍しい存在になるはずだ。
ここで脱線して、エルフは生涯何人の子供を産むのだろう? エルフがずっと若いままで、妊娠可能であるのなら、500年もあれば数十人、やる気があれば二百人以上は産めてしまう。それぐらいの繁殖力と寿命があれば、世界はエルフだらけになって、人間なんてとてもとても生存圏を広げられない。エルフの覇権世界だらけになりそうなものだけど、物語世界では人間よりエルフの方が数が少ないことになっている。人間が支配的なことが多い。世界をエルフが支配している物語ってある?
人間は寿命が長くなるに従って、子供を産まなくなっていく。寿命が長くなるということは豊かな生活をしているということで、1人の子供を育てるコストが高くなる。だから、そんなにポンポン産めなくなる。
エルフの場合は少し違うように思える。エルフは自然に近い生活を送っているので、豊かさとは別、つまり、発情期に合わせて子供を産むんじゃないかと思うのだけど、違うのだろうか。子供が少ない点からして、エルフは数十年、数百年に一度しか発情期が来ない。とするとそれを逃したら子供を産まないのか。流石に生き物としてどうなのかと思うので違いそうだ。そもそも妊婦のエルフというキャラを見たことがない。本当にエルフは胎生なのだろうか? 木から産まれたりしない?
ところで、この文章にオチはないし、どこへ向かうかも考えられていない。寿命から考えたことを並べただけにすぎない。強いてオチをつけるなら、人間がエルフの長寿に近づく方法が一つだけある。
それは
アニメ映画の「犬王」、Amazonプライムで見れたから見た。ある程度前評判通り、良い部分もそうでない部分も。という感想。
湯浅監督のファンなので、相変わらずアニメでしか表現できないだろうイマジネーションの視覚化や、流動的な作画が多く見られるところは好き。動きのダイナミズムという点では文句がない。
一方で、室町時代の前衛的な音楽表現としてロックはどうなの?というミスマッチ感。べつにエレキギターの音が入っても全然いいんだけど、ロック自体がいま既に古いというか、やり尽くされたフォーマットになっていて、和楽器とのコラボも特に珍しくなくて、しかも過去のロックのオマージュ的な見せ方が多いとなると、なんだか気恥ずかしい感じがあるのは確か。
そういうロック歌劇シーンが大部分を占めているから、物語の情動部分、特に終盤、犬王がどういう思いや考えで足利義満にこうべを垂れるのか、踊り続けたのかは端折られた感が強かった。歴史的にわからないんだろうけど。