はてなキーワード: 入院とは
書いている人は20代。
昨日のAbemaTVの亀井静香を見て、頭の固い老害たちには新しい価値観は理解できてなさそう、人の話も理解する気がなさそうかなと思えて絶望した。
多分アーカイブあるから見てほしい。ゲイの出演者を「男女」と呼んだり、皇族に人権がないのも役割を全うせよと話聞く気がない様子が見えてしんどくなる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d42598697bfa0f30344958ff0fc6157af2fddfb
んで20代の周りの人間が抱えている問題で大きいのは、婚姻でしか他人との関係性を担保できないところだなあと個人的に思っていて、このままだと老害が死ぬまで変わらなそうかつその時までに解決していないとても困る問題なので提案がある。
現在の婚姻制度は残しつつ、人間関係の公的な担保をするためのパートナーシップ制度を作れないだろうか
現在の婚姻届で結婚をしたい人はそちらを使って、パートナーシップ制度を使いたい人は使えるようにする。
そうすれば
本気で婚姻とは別口のパートナーシップ制度を作ることで不利益被ることがなくなると思うんだけど、皆さんどう思いますか?
意見を聞きたい
ネット依存というとオンラインゲームの依存が中心だったと思うけど最近だと投げ銭依存もネット依存に入るんだな。
でも知恵袋依存やヤフコメ依存や増田依存といったレスバトル依存はいまだ社会的には認識されてないのが引っかかる。
http://suiminbusoku.livedoor.biz/archives/8536215.html
俺も久里浜入院したけどオンラインゲームの依存しかいなかったな。
そんでヤフー質問士目指してた自分自身に対してほかのやつらのゲーム依存よりは理知的な俺と勝手に優越感に浸ってた。
34優しい名無しさん2019/05/23(木) 23:47:54.77
そして計り知れないほどのダメージを負う
35優しい名無しさん2019/05/23(木) 23:56:32.55
俺もだよ
そして一度争そい始めると引くに引けなくなって泥沼の争いをしてしまう
レスバ依存と呼べるほど対人的なネットの書き込みに時間費やしてる人も決して稀な例ではないんだから今度は投げ銭だけじゃなくてレスバ依存もクロ現プラスで取り上げてほしいものだね。
https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2019/03/35_1.pdf
でもSNS依存って表現にはレスバという形による依存は含意されてないと思うんだよな。SNS依存と匿名掲示板依存は似て非なるものよ。
この歴史修正は酷いな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/824100972275744768
「まんだらけ擁護派」というけど、そこで論点になってたのはあくまでも禁書房の「外観」であって、
中身がアダルトショップでないからOKなどと主張するのは皆無だった。
で当然風営法の話題にはなり、同じフロアにいくつかクリニックが入っているものの、
風営法では入院設備のある病院や診療所に限るらしいから、その意味で「違法」ではないだろう、くらいの話だった。
近隣に相当規模の病院があることが指摘されていたら、そりゃ違法だわとなっただろう。
禁書房擁護といっても、ブロードウェイのフロアマップを見て一般客の動線を考える限り、
禁書房のポジションはフロア内でゾーニングされたとしか考えられず、Spank!には申し訳ないが他への移転はそんなに容易ではないだろ、くらいのものだよ。
2001年6月に同社が新規出店を準備していた予定地の近くに開業医が診療所を開設。
同8月、「入院設備のある医療施設から100メートル以内はパチンコ店が出店できない」と定めた大阪府風営法施行条例に基づき府公安委員会は営業許可申請を認めなかった。
その後02年4月にマルハンは府公安委員会に行政不服審査法に基づいて異議を申し立てその結果診療所は実体がない、として営業許可が下りた。
「かお 自治体立優良病院の大臣表彰を受けた県立姶良病院長 山畑良蔵さん
地域医療に貢献し経営が健全な「自治体立優良病院」として総務大臣表彰を受けた姶良市の鹿児島県立姶良病院。5代目院長を2013年から務める。「ひとえに地域の方が精神科病院を理解し支援してくれたおかげ。うれしく思う」と喜ぶ。
24時間365日受け入れている救急患者は新型コロナウィルス下で増えた。
「精神科は共同生活が中心で高齢者も多く、クラスター(感染者集団)をつくりやすい環境」と考え細心の注意を払ってきた。老朽化した病棟の改築を進め、9月には陰圧設備を備えた隔離室を新たに9室用意。徘徊対応などが必要な感染患者の受け入れも始めた。
志布志市出身。鹿児島大学大学院修了後、姶良病院の前身「鹿児島保養院」に勤務し、30年以上診療に当たってきた。「精神科は病気のために問題行動を起こしてしまう人が、生きていける場所を探すところ」と話す。
かつては長期入院の患者も多く、運動会や夏祭りなど地域と交流する機会がいくつもあった。そのため「精神科救急病棟の運用など受け入れてもらえた」。現在は、講演会を開くなどし、理解を深める取り組みを続ける。「退院後の支援をどうするか。行政はもちろん地域の人との連携が欠かせない」と語る。
学生の頃から人間そのものに興味があり、「医者になるなら精神科」と決めていた。歴史や物理などあらゆる分野の本を読み「なぜ生きるのかという永遠の問いを見つめている」。
俺は普段政治に興味がなく、うっすら野党はしょぼいしまあ自民党かななんて思うくらいのノンポリ具合なんだが、この一年はいろいろと考えることの多い年だった。
一度きりの一律給付金
強行された五輪開催
ぬるすぎる水際対策
次々入荷する最新株
開催1週間前まで観客入れるかどうかで揉めてて、実際開催セレモニーもひどい内容だった。
これらに強い憤りを覚えたし、こいつら絶対いれねえと今回の総選挙を固く誓った。
だからこの1年を同じ日本で過ごして自民党を支持する人がいるのはマジでわからない。
上で挙げた中で、限りなく全員が否にまわりそうな案件、たとえば水際対策のクソさなんかは擁護しようがないと思うんだけど、これも支持者からするとポジティブな内容に変換されてるの?どうやって?教えて。
父が脳出血で倒れた。
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ほらみろ、夜更かしはするし、タバコもやめないし、肥満だし、当然だ。
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と、思った。
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初めて病床で対面した時、矛盾ながらも彼はとても弱った様子だった。可哀想だと感じた。
親の死期が近い、という言葉が頭によぎる。
そして同時に寂しいという感情も沸いたのだ。
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あり得なかった。
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父は自分にとって、自分の人間関係の中でもワーストで関わりたくない。
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なぜか?
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金だ。金の使い方があり得ない。
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書ききれないほどに挙げられるが
にもかかわらず、とにかく働かないのだ(正確には働けない身体だが、本人にそれを改善する意思や行動は見られない。)。
このギャンブルに手を出してから、子どもたちの奨学金を生活資金として受け取り、踏み倒しギャンブルに投資していた。
父の入院をきっかけに父が所有するアカウントを全て洗い出した、証券の取引履歴を見たら、毎年50万の赤字を叩き出していた。本当に笑える。
喧嘩が激化して怖くて泣いた記憶もあるし、仲直りしてと子どもながらに訴えていた記憶がある。
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一度、母を殴ってたっけ。
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そんな母には僕が大学に進学するタイミングで、離婚することと家を出ることを勧め、離婚届にサインして日本を出た。
そして僕も奨学金を握りしめて家を出た。
今は海外で楽しく過ごしているそうだ。
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僕は父に対してコンプレックスを持っている。
頭が悪いと思われたく無いのだ。
幼少から他人を批判する父親を見て育ち、父にはそれを判別する力を持っている聡明な人間なのだと思っていた幼少期だった。
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入院してから病院に持ってきて欲しいものを間違えたとき、その時は気づかなかったが自分は内心とても焦っていた。
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ああ、また親父に認めてもらえない。
その原体験は高校でトップの成績を取ったときだった。成績を見せても
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井の蛙になるな
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と言われ、認めてもらえなかったのだ。
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これが寂しさを引き起こしている原因なのかもしれない。
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父には、まだ認めてもらっていない
早く何かを成し遂げなければ。
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だからもう少しだけ生きていて下さい。
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アカウントの乗っ取りをしたら、乗っ取り側はまずパス変えてくるんだよねー。
数十分前まで普通だったのに、やらかした事で炎上や拡散された後に即体調不良宣言。
あれあれー?ずいぶんと都合がいいなー?
都合が悪くなると体調不良だけでなく、入院というコンボにつなげる人がいるねー。
どこが悪いのかなー?
ツッコまれた事に答えられないせいで、いきなり逆ギレして自分は被害者だと喚き始め、
最終的には被害者からの関係のない問題の話をしはじめるというコンボ
元の話題をツッコまれるとブロックorツッコんできた人を中傷しはじめてくるというやらかし。
周りの人は、その言い訳と行動をしてきた時点で「またか」「いつものw」「はいはいw」ってなっちゃうんだ。
もうそろそろ潔く生きてみては?やらかしたのをさっさと認めて謝るのって大事ではないかな。
明るくて賑やかでよく笑う子だった。通夜で見た棺の中で、大好きだったサッカーのユニフォームを着せられて笑っていた。用事があって行けなかった葬式には500人を超える参列者が来ていたらしい。人望も厚い子だった。
彼と私は小中の9年間、一緒に過ごした。片田舎の小さな学校だったので、定期的にクラスも一緒になった。が、特に大した思い出もないまま卒業して、別々の高校大学に進んだ。成人式ですれ違うことも特に無く、会えなかったことを残念がるほど深い仲でもなかった。というか、成人式の私は彼の存在すら忘れ去っていた節まである。それくらい、私の中の彼の存在はとても薄かったのだ。
大学3年のインターンシップで、本当に偶然彼と再会した。「えっ久しぶり〜」「久しぶり〜、マジで卒業以来じゃね?」みたいな会話を交わした覚えがある。インターンメンバーは6人いたが、その中で顔見知りだった私たちは特別喋るようになった。彼は特に変わっていなかった。変わっていたのは彼の体だけだった。
この頃既に病魔に侵されていた彼は、度々通院のためにインターンを休んでいた。ガンであることは全員最初に聞いていたが、あまりにも元気そうで「ズル休みのレベルじゃん」なんて笑われていたが。病気してる人でイメージしやすい「常に顔色が悪い」「途中でぶっ倒れる」といったことも一切ないまま、インターン期間を終えた。その期間で交換したインスタのストーリーには、いつも筋トレかサッカーの写真を載せていた。
そこから末永い友情を築いたとか色恋に発展したとか、漫画ならありがちな展開になることも特になかった。お互いにインスタのストーリーでなんとなくの近況を知る。彼はちょくちょく手術や入院をしていた。医療に関してさっぱり学のない私は、その点滴が何を意味しているのか全くわからなかったが、ただ確かに彼の病気が進行していることをほんのり感じていた。
インターンから半年経った頃、彼が亡くなった。中学の同級生のインスタで知った。せめて通夜くらい、と思って、卒業以来縁を切っていた地元の人間に10年振りくらいに連絡を取り、参列した。
会場の中には、彼の小中高大までの思い出の写真と一緒に、インターンで6人で撮った写真が並べられていた。それを見てワッと泣いた。インターンの楽しかった記憶が鮮明に思い出された。彼のお母様に、彼がインターンを頑張っていたこと、すごく頼りにしていたことを話した。お母様は泣きながら「あなたも頑張ってね」と肩を叩いてくださった。彼の友達も親族も恩師らしき方々もみんな泣いていた。通夜に善し悪しがある訳では無いが、すごく良い式だったと思う。
さて、ここまでならまあ、割と無い話ではないのだろう。問題は通夜の最後だった。
「目を閉じると、故人様との楽しかった思い出が甦るようではないでしょうか」
司会の人の優しい声に促されるように、泣き腫らした目を閉じて、彼との楽しかったことを思い出す。インターンは勿論、せっかくだから小中まで遡って思い出してみるか。小中も何か…何か、こう、運動会とか文化祭とか、彼との思い出で楽しかったこと…
あれ、そういえば私、あいつに殴られてたな?
何故忘れていたのかわからない。多分記憶から抹消していた。私は確かに中1の1学期、彼に毎日のように頭を殴られていた時期があった。
その当時味方になって守ってくれる友人もいたし、先生もよく怒ってくれていたので、いじめというにはちょっと足りない気もするが。1学期の間で何故か完全に終わったし。そこからわざわざ関わろうとしなかったし。それでも確かに、中学生男子のフルスイングを女子の頭で受け止めていた時期が、あったのだ。
次に目を開けた時、号泣する周囲とは裏腹に、既に瞳はカラッカラに乾いていた。インターンにいた優しい彼も嘘ではないが、それ以前にやられていたことが、21の大人になった私から見てもまあ酷くて、とても泣ける気にはなれなかった。
前にそれほど関わりのなかった祖父が亡くなった時でさえ、亡くなってからしばらくは「あの年は運動会来てくれて嬉しかったなあ」「テストの点褒めてくれたな」なんて楽しかった思い出を思い出して偲んでいた。それが、ガッツリ9年間関わった彼の思い出は一切鮮やかなものではなくて、途端に故人との記憶として思い出すにはしのびなくなった。
1つ思い出すと、まあ芋づる式に出てくる出てくる。特別酷かったのが中1というだけで、基本いじめっ子だった彼はいじめられっ子気質のあった私に嫌なタイプのちょっかいをかけて遊んでいた。靴に虫を入れられたり、帰り道小石を投げられたり。本当に、なんで忘れてたんだろうね。
彼が死んだ後、彼を思い出してもインターンの優しい彼ではなく、中1の時に真顔で私をぶん殴る彼の顔しか出てこない。彼は変わっていないと思っていたが、そんなことはない。記憶である程度美化された彼の姿と、大人になった彼の姿がたまたま一致しただけで、彼はものすごく変わったのだ。そのきっかけが病気なのかはさておき。
ここまで読んでくれた人で、人をいじめたことがある人。過去は、消えない。何をしても。
きっと10年近く前の話だから、中1にやられていた事もある程度私の中で脚色されているとは思う。それでも、いじめを受けていたという事実は変わらない。その内容がどうであれ、過去の傷は見えないようにしているだけで消えない。
あなたが死んだ時、一瞬でも「まあでも死んでいいタイプの人間だったんじゃない」と思われることを覚悟して欲しい。どれだけ今のあなたが善く生きていても、過去に深く傷つけた人はあなたの悪事を忘れない。
まあ、故人に対してこんなことを思う私も、大概ひん曲がっているとは思うけどね。
自分のまぶたが一重で、世の中には自分とは違う二重まぶたを持っている人間がいる、と気づいたのはいつだっただろうか。
クラスで可愛くてモテていた女の子は大体二重まぶただと気づいたのは、それと同時に一重まぶたの自分をコンプレックスに思うようになったのはいつだっただろうか。
父親はぱっちりした二重まぶた、母親は奥二重。そんな2人から生まれたわたしは、これでもかというくらい脂肪がのっかった完全なる一重まぶたである。
小学校中学年にもなると、自分も周りも、人の「顔」がものさしで比べられるということが少しずつわかるようになってくる。
この頃、わたしは自分の顔が他人と比べて劣っていることに薄々気づいてきた。
じゃあなんで?わたしの顔は可愛くないんだろう??
そう考え、クラスの集合写真や、可愛い友人と撮った写真を改めて見た時に思うのだ。
「わたしの目、なんか重いし、細い……」
自分のまぶたには一重、そして可愛いあの子のまぶたには二重という名前がついていることをいつ知ったのかは覚えていない。
中学校になると、好きな男の子もできて、自分の見た目がすごく気になりだした。
家のルールで1日1時間だけ使っていいと親に言われていたインターネット。
「二重 方法」「二重 なりたい」「二重 マッサージ」毎日毎日飽きずに1時間丸々使って検索し続けた。
ヤ○ー知恵袋の二重に関する質問は全て読み尽くしたのではないかと思うくらい読んだ。
一重まぶたでもお金をかけずにマッサージで二重になることができる、ということを知ったわたしは、毎日死にものぐるいでまぶたをマッサージした。オ○ナインが脂肪燃焼に効くと見ると、それから毎日オ○ナインをまぶたに塗った。輪ゴムを結びつけ合わせて大きな輪っかにして、それを頭から被ってまぶたに食い込ませて癖をつけながらお風呂に入ったこともあった。インターネットで自力で二重になるためのマニュアルが売られていたので、お年玉で買いたい、と母親に訴えると、「馬鹿じゃないの、あんたはそのままで可愛いのよ」とあっさり切り捨てられた。
中学2年生のとき、クラスに同じく一重まぶたに悩んでいるAちゃんという子がいた。
ひょんなことからお互い一重へのコンプレックスを持っているということがわかり、一気に仲良くなった。
とても悲しい物語だったのだが、見終わったあと、わたしとAちゃんが1番に口にした感想は、
「映画に出てた女優さん、全員二重だったよね!」というものであった。
そんなに悩むくらいならアイプチやアイテープをすればよいのでは、と今の自分なら思うのだが、当時のわたしはアイプチは中学生が買ってはいけないもののような気がしており、購入には至らなかったのだ。
当時よく読んでいたセ○ンティーンには、よく某高級アイプチの広告が載っており、実際に二重になったという人の口コミがいくつも載っており喉から手が出るほど欲しかった。(これに関しては中学生の小遣いにしては高かったので諦めていたが……)
そんな中、ある日の休み時間に突然Aちゃんが「ソッ○タッチ(靴下が下がってこないように止めるアレ)で二重にできる!」と言い出した。
めちゃくちゃまぶたに白いノリのカス?がついてはいたものの、なんとなく二重にはなった。
しかし、違和感がすごく、こんな顔で先生の授業を受けられないと冷静に思い、休み時間の間に即顔を洗ってノリを落とした。
なんで生まれ持った二重の友達は何の苦労もせずに、わたしがこんなにも憧れている二重を手に入れているのだろう……こんなに頑張ってるのになんでわたしのまぶたは激重一重のままなのだろう…………悩めば悩むほどわたしは自分の顔をコンプレックスに感じるようになっていった。
「なんで二重に産んでくれなかったの?!お母さんは二重だからわたしの気持ちなんてわからないよ!!」
そう言って母に八つ当たりする日もあった。
「○○ってアイプチとかしないのー?したら絶対可愛くなると思うよ!わたしも一重で悩んでるから毎日アイプチしてるんだ!試しにわたしの使ってみない?」と声をかけられた。
慣れた手つきでBちゃんがわたしのまぶたにアイプチを塗り、プッシャーでわたしのまぶたを折り込んでくれた。
「できたよ!自分で顔見てみなよ!」と言われ、鏡を見た。
そこには、中学生の頃使ったソッ○タッチとは比べ物にならないくらい自然な仕上がりで、ハッキリと二重の線がついているわたしがいた。
Bちゃん愛用のアイプチを教えてもらい、帰りにドラッグストアに買いに行った。
家で何度も何度も練習し、自分の中で比較的自然に二重にできるようになったと感じてからは、高校にもアイプチをして行くようになった。
今思うときっとバレバレの二重だっただろうし、突然激重一重だったわたしが二重(変わらず激重ではあった)になったのは違和感満載だっただろうが、やはり触れにくかったのだろうか、周りからはあまり触れられなかった。
コソコソ噂をされるのも恥ずかしかったので、仲良しの友人たちには「アイプチデビューしたんだ!!」と明るく伝えていた。
友人たちは「可愛くなったじゃん!」と褒めてくれた。
毎朝、今までよりも30分早く起きて二重を作った。
寝坊しても遅刻しそうな時も、遅刻をしてでも二重を作って学校に行った。
授業中、寝たら半目になることが分かっていたので、死にものぐるいで寝ないように耐えた。
夏の体育のプールは1番の悩みだった。最初から最後までゴーグルで目を全力でカバー。授業が終わると1番に着替えて鏡とポーチを持って女子トイレに直行。個室で二重を整えた。
いかに自然で綺麗な二重を作るか、日々研究を重ねながら技術を上達させ、わたしは大学に入学した。この頃には百均のアイテープ+アイプチという自分の中での最強の組み合わせを確立させていた。
大学の同じ学部には元々の知り合いはおらず、一重のわたしを知っている人は一人もいなかった。
「わたしは二重」そうみんなに思われていたくて、友人や彼氏の前でも絶対に一重の姿は見せないようにした。
お泊まりのときは、寝る直前までアイテープを取らず、電気を消してからそっとテープを取っていたし、朝はアラームをかけて誰よりも早く起きてトイレでこっそり二重を作って布団に戻って二度寝していた。
わたしは医療系の学部に通っていたため、病院での実習があった。そこで入院患者さんを見た時に、ふと、「わたしがもし入院することになったら、わたしは病室でも毎日看護師さんたちが来る前に二重を作るのだろうか……」と考えた。
ニュースで避難所の様子が映っていた時に、「突然地震が来て、避難所にアイテープを持っていけなかったらどうしよう……一重のわたしなんて絶対に誰にも見られたくない」と漠然と不安になった。
大学4年の頃、久しぶりに中学時代一緒に一重のことで悩んだAちゃんに会った。
Aちゃんは自ら、「あの時散々悩んでたけど、結局埋没で二重にしちゃったー!すごく楽になったからやってよかったと思う」と笑顔で話してくれた。
まだ想像はつかないけれど、社会人になったらきっと忙しくなるだろうし、整形するなら今なのかな……。
わたしはその後、すぐに某美容整形外科でカウンセリングを予約し、そのままの勢いで埋没術を受けた。必死にアルバイトをして稼いだお金と引き換えに、10年近くコンプレックスを抱いていた一重まぶたとおさらばし、憧れの二重まぶたを手に入れた。
埋没をしてから数年たったが、わたしの激重まぶたは案外きちんともってくれており、今もわたしは二重である。寝坊しても、二重をつくらずにそのまま家を出れる。お泊まりをしても、人より早く起きて二重を作らなくてもいい。
こんな長文を書くくらい悩まされていたので、本当に本当に施術を受けてよかったと心から思っている。
人生で1番してよかった買い物だと自信を持って言える。
二重になったわけだが、他のパーツが人より優れているわけではないので、残念ながらわたしの顔は決して可愛くはないと思う。しかし、二重を手に入れたことで、日々の楽さ、そしてコンプレックスだった目への自信が少しついて、以前よりは自分の顔をマシかな、と思えるようになった。
世の中、美人!可愛い!とされる人は大抵二重だ。モデルや俳優さんも多くは二重まぶただ。
もちろん一重でとても素敵な人もいる。
しかし、なんというか、二重が正義というか、二重の方がやはり良しとされている雰囲気、一般論?はあるように思う。
わたしにもし一重の子どもが産まれても、別に整形を勧めるつもりはないし、整形したいと言うのであれば、自分の稼いだお金で勝手にやればいいと伝えるだろう。
「ありのままのあなたが素敵」なんてよく言われているかもしれないが、わたしはありのままの自分が大嫌いだったし、別にありのままでいる必要はないと思う。ありのままの自分が好きな人はありのままでいればいい。どちらも間違ってないと思う。
このブログは別に一重を否定する訳でもないし、二重にすることを助長する訳でもない。
ただ、一重だったわたしがずっとコンプレックスを抱えていて自分の顔が好きになれなかったことを思い出して、ふと書いてみたくなっただけの散文である。
一重の人も、二重の人も、自分がなりたい自分でいられたらいいと思う。
特にまとまりはないが、書くこともなくなったので終わろうと思う。
文中に書いた二重になる方法は、無知なわたしがやっていただけであり、皮膚のことを考えるとマネしてほしくないものもあるので、ご注意を。
ここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、ありがとうございました。