はてなキーワード: ホモフォビアとは
男らしくあれ、という教育を受ける
の順番だとされている。
中学生がエロ本買ってるやつをバカにする感じだ、ということだね。これは、エロ本をゴキブリ同様にキモいと感じている、とは異なる。
ほんまにそうなんかは人によるだろうな。たとえばホモはレイプ犯って偏見を持っていたら、心からキモさを感じることはあるだろう。
極論、完全なプライベートで家族・友達しかいない場でそういうこと言ってる分には『脇が甘いな』って思うが、クソどうでもいいの
政治家・公僕が、公的な場・身内以外が見聞きできる場で発言したこと自体がまずいの。オフレコもなにもねーだろよ
こんな発言したら会社クビになるし、場合によっては訴えられるから、ホモフォビアでもフツーはしないのですわ
少なくとも、ホモフォビアは『お気持ちを表明したら社会的に殺されるから出来ない ><』って騒いでますやん
Appleのティム・クックだってゲイだし、アイルランドの首相のレオ・バラッカーもゲイだし、他にもきりがないが、
そういう大企業や国とは付き合わない宣言、なにより自国の国民を認めない宣言、
案の定、『「お巡りは高卒だろ」と吠え…荒井勝喜・岸田首相秘書官の息子が警察トラブル』とか出てきておりますしな
この発言は、差別とか個人的なお気持ち以前に、"自分はなにをしても許される絶対権力者だ" と思ってなきゃ、とてもとても出来ないよ
腐女子は今でもネットで叩かれる存在だからこそ女性向け、特にBL界隈では不快なものを垂れ流す方が悪い、好みの分かれるものは隠れるべきという意識があると思う
腐女子を叩いているのはホモフォビア的な男性であったり他カプが許せない腐女子であったり愉快犯だったり色々で男女どちらが悪いとは言わないけど間違いなく叩いていた男性もいるわけだから女性は我慢ができないという結論を出されるとうーんという気持ち
今でも匿名掲示板を利用しているとBL、百合、百合に挟まる男、NTRあたりは定期的にアンチが湧いてくる
性別は分からないけど高確率で男性も叩きに参加しているから不快なものを我慢できない、したくない気持ちに男女差はないと思う
男性向けは「無視する」我慢が基本ルールだけど、女性向けは経験を踏まえて叩かれることへの忌避感から「隠れる」我慢にシフトしたのでは
どちらも違う種類の我慢を強いられてるわけで、優劣はなく歴史的なものとある程度の男女差からきてる
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
本当に本当にショックで、いやおかしいだろマジで許せないという出来事があったのでとりあえず書く。
父親とはもう2年半近く口を聞いていない。同じ家に住んでるのに。
事細かな説明をすると長くなるから省略するけど、私は小さい頃から(7歳から〜24歳に至るまで)父親の性差別、人種差別、同性愛嫌悪発言を何十回も聞かされてきた。
私はその度にモヤモヤし、図書館に通っては本を読んだ。こういう発言に侵食されないように、そして自分自身の言葉を獲得するために。
何度か反論しているうちに大喧嘩になって、それ以来一言も口を聞いていない。
しかし今日、母親から聞かされた出来事に言葉を失い、どうすればいいかわからなくなっている。
父親は運送会社勤務なのだが、普段から”嫌われている同僚のおじさん”について話していた。
ある日そのおじさんの携帯電話が壊れて、他の社員たちが「かして」と言ってそれを取り上げ、直そうとしたらしい。
しかし直った途端、あろうことかネットの検索履歴を勝手に見たそうだ。
そこには男性同士のセックスについての閲覧履歴があり、それが職場で噂になったらしい。
そして同僚たちがふざけながら本人に直接、「◯◯さんってホモなんですか?」と聞いていたと、父親が”笑いながら”母親に話したそうだ。
信じられる?おそらく父親は2015年4月に起こった「一橋大学アウティング事件」という出来事すら知らないだろう。そもそも「アウティング」という言葉を知らないだろう。
そのおじさんは同僚たちの発言を聞いた後、「そんなこと言う人たちは嫌いだ」と怒って帰ったそうだが(当たり前だ)
それすらも面白おかしいという様子で、父親は笑っていたそうだ。
近頃東急ハンズのホモフォビア発言や、政治家の「同性愛は精神の障害で依存症」発言が問題になっているが
でも私はそのおじさんの顔も名前も知らない。
父親とはずっと口を聞いていない。話したくないし、なぜか父親の前で口を開くことができない。
喉に何かを押し込まれたみたいに。
自分の身内が差別主義者で、実際に人を攻撃している様子を聞いた/見た時はどうすればいいんだろう。
いや、そんなこと絶対だめだ。
一読して、同性愛をめぐる主題の取り扱いの薄さが気になったのだが、筒井亮太の解題に指摘があった。
「[...]実のところ、サリヴァン個人のセクシュアリティの部分は、後続する類書(本書もその例外ではない)において巧妙に回避され、正面きって論じられることが少ない。その点を鋭く指摘したブレッシュナー(Blechner 2005)は、サリヴァンの病棟管理実践をはじめとするさまざまな着想の背景には彼個人の同性愛(とその社会的苦境)が大きく関わっていると言う。ゲイを公言しているブレッシュナーのもとには、サリヴァンが記述しているような患者が多く訪れており、患者たちは周囲の「ホモフォビア」によって傷つき苦しんでいた。その臨床経験も含めて、彼は、サリヴァンの対人関係論を理解する上で、性欲同や同性愛の側面を除外せず、考慮するように強く主張している」(313 f.)
訳者はこの点(巧妙に回避されていること)をどのようにとらえているのだろうと思った(「ゲイを公言しているブレッシュナー」という書きぶり・・・)。
Mark J. Blechnerの論文は、ウェブ上で入手でき、『精神病理学私記』を読み解くのに有益な情報がいくつかあり面白く読んだ。
The gay Harry Stack Sullivan: Interactions between his life, clinical work, and theory
http://www.wawhite.org/uploads/PDF/E1F_2%20Blechner_M_TGHSS.pdf
同性パートナー、Michael Allenによれば街娼であった、を養子としたことや、相互フェラチオ、いわゆる「69」への着目の背景、意味(サリヴァンの著作表紙にみられる陰陽図を模したような白と黒の馬の頭部の図柄)等の下りが特に興味深かった。
調べると訳者はTwitterのアカウントを運用している様子。明らかに個人が特定されうる投稿内容なのだが、同氏を含め特定可能な仕方でSNS運用する心理臨床家は、自己開示をめぐる職業倫理についてどのようにとらえているのだろう。
先日、「美術館が「差別主義者お断り」という張り紙を出していた」というツイートがバズっていた。以下のリンクがそれである
https://twitter.com/tamago_sukidesu/status/1520608613127008256
このツイートのリプライや引用を見ていると、以下のような「冷やかし」のようなツイートが実に多い。
大別すると
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
といったものだ。
もういつもいつもこの手のカスみたいな意見を見て、しかもどうやら本人たちは上手いこと言ったつもりらしくてウンザリなので、改めて反論しておきたい。
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
→それで言えばイスラム恐怖症とか学歴差別とかここに書かれていない偏見、差別は山ほどあるけど。あなたはこの看板を見て
「なるほど、同性愛差別はダメだけどイスラム教徒の差別はオッケーなんだな」とか思います?
普通は思わないだろ。そこで敏感にミサンドリーの不在だけ読み取ってしまうのはなぜなんでしょうか。
男女関係でいえば歴史的に女性が被差別層だったわけで、反差別の文脈でミサンドリー反対よりまずミソジニー反対が出てくるの、そんなにおかしいか?
こういう人たちがBLMに対して「アジア人の人権も擁護しろ」とかイチャモンつけてたんだろうと考えると勝手な納得感はあるよ
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
→一端冷静に考え直して欲しいんだけど、「感情的な理由に基づく差別」と「「全ての人間は平等に権利を持つ」という理念をベースにした反差別」が、本当に同じものに見えるのか?
自分が極めて差別主義者に優しく、差別する人の肩を持っている自覚がある?
「普段のイジメは完全に無視するくせに、いじめられっ子が反撃するやいなや高速で駆け寄ってきて「君は今暴力を振るったよね。暴力を振るった自覚はある?」「今君はいじめっ子と全く同じことをしたわけだよね」とか言い立てる人」
なんだよね。そのくせ自分は中立の立場で冷静にものを言ってるという自認なわけ
でも実際には「差別に対する抗議」を差別に仕立てることで、「たしかにイジメは良くないけど、イジメの被害者がそれに反撃するのは「イジメっ子イジメ」だから平等に悪だよ」みたいなことを言ってるんだよ。
頼むからその行動力を最初に差別した人に向けてくれませんかね。
■追記
・ミサンドリーはミソジニーの対義語なんだから無いと不自然と感じるのは当然では?
→別に対義語だからというのは理由になってないでしょ。じゃあホモフォビアがあるのにヘテロフォビアは無いのはいいんですか?
この手の話をする際に重要なのはマジョリティとマイノリティの非対称性で、人種差別もトランス差別もホモフォビアもミソジニーも、ぜんぶマジョリティからマイノリティへの差別なわけですよ
で、マイノリティがその差別に対抗するためにこういう言説を持ち出すわけでしょ。だからマイノリティ目線の主張の方が優先度が高いのは何もおかしくない。
こういう話の時に「マイノリティがマジョリティを差別するのは許されるんだよなw」みたいなことを言う人がたくさん出てくるわけだけど、もちろん許されないですよ。明言しておくと当然ミサンドリーだって許されない。
でもそれって「当然マイノリティ差別は許されない」という大前提があってのものでしょ。「差別に反対するくせにミサンドリーに反対してない、はいアウト。やり直し」みたいな態度は何様なんだよ。
「どっちもどっち」的な構図に引きずり込もうとする意図が見え透いているんだよな。
→これはその通りと思う。それにこういった意見は多かったので最初から取り上げるべきだった。
改めて記載しておくと、差別・偏見といった人間の思考をあえて病状に例える必要は無いと思う。
根拠がないし、そういった思想が何らかの精神疾患とセットになっているケースはあるのかも知れないが、それは個別のケースに過ぎないので。
それをあえて病状のように記載すべきではない。
→じゃあ世界で一番人口が多いのはアジア人だからあらゆる白人はマイノリティで弱者になりますね。
■追記2
深夜に書いたせいか重要なことから抜けている。コレを最後の追記にしたい。
→これは重要なことなんですが、あなたがもし「内心ではめっちゃ差別してるけど、言動には移さない人」であれば、あなたは差別主義者ではありません。
トランス排除のやり方がホモフォビアのよく言う「同性愛者はレイプ魔」的な吹聴と同じだからね
ミサンドリー(男性嫌悪)はミソジニー(女性嫌悪)へのカウンターなのに対し
トランス排除は何のカウンターにもなってないどころか、ホモフォビアと仲良くやってるも同然なんよね
しかしそんなトランス排除派のフェミニストとか自称反差別は、個々の問題で見るならホモフォビアの吹聴は偏見であり差別的であると断言し批判できるし、どっかの馬鹿がよく言う「男は足を広げないと座れない」「男は皆レイプ魔」みたいなファンタジーも否定する