はてなキーワード: プロテストとは
Black lives matterに対してAll lives matterだと言うとキレる子供がいる。今話をしているのは黒人の何百年にも渡る構造的な差別の歴史だと。近所の人の家が燃えている時に、自分の家に消防隊が来ないことに文句を言うのは的外れだ、論点ずらしだと。All lives matterは白人が言って良いことではないと。お前らは特権を分かっていないと。
バカなんじゃないのかと思うよね。確かに黒人の命も生活も大事だ。差別はあってはならない。黒人が酷い扱いを受けてきたことも知っているし、フロイドさんは可愛そうだ。あの警官はThird degree murderで終わらせてはいけない。でもさ、お前らアジア人がコロナのせいで差別受けてた時に立ち上がったか?プロテストしたか?企業がロゴを変えて反対の意思を表明したか?
結局はさ、そういうとこなんだよ。黒人差別はやっちゃいけないことになってるし、それに反対するのはクールなことなんだ。だからお前らはいつまで経ってもそんなんなんだよ。数が多いとか歴史があるとかなんだそれは。お前の差別だけが苦しいと思ってるのは思い上がりなんじゃないのか。いじめられている子が2人いて、片方は長年いじめられているから注目されるけどもう片方は最近いじめが始まったからって放置していていいのか?なんだお前らは。お前らこそ差別主義者じゃないか。
アジア人も差別されている、と言われた時に「今はその話をしていない」と言うのは筋が違うんだよ。お前らが言うべきは「そうだ、全ての差別はよくない。あの時は黙っていてごめん。一緒に戦おう。」これだけだ。
昨今の米国でのプロテストに世界が刮目する中、"Black Lives Matter" というフレーズをご存知の方も増えてきたことと思う。
文字通り訳せば、"黒人の命は大切である"ということなのだが、これに対し"黒人だけじゃなくて、白人も、アジア人も、みんなの命が大切なのでは?"と純粋に思われる方もいるだろう。
その通りである。
米国では、"Black Lives Matter"に対し"All Lives Matter" (="みんなの命は大切である") という発言を様々な場所で読む、又は耳にする機会が多数存在する。
日本でも、この運動やその根底にある人種差別問題への関心が少しずつ高まっている中で、"All Lives Matter"という、(恐らく多くの日本人にとって)一見自明で無害のように見える一文の意味するところを、とあるRedditでの投稿を引用する形で紹介しようと思う。
以下引用及び拙訳 (r/explainlikeimfive/comments/3du1qm/eli5_why_is_it_so_controversial_when_someone_says/ より)
Imagine that you're sitting down to dinner with your family, and while everyone else gets a serving of the meal, you don't get any. So you say "I should get my fair share." And as a direct response to this, your dad corrects you, saying, "everyone should get their fair share." Now, that's a wonderful sentiment -- indeed, everyone should, and that was kinda your point in the first place: that you should be a part of everyone, and you should get your fair share also. However, dad's smart-ass comment just dismissed you and didn't solve the problem that you still haven't gotten any!
以下のような状況を想像してみてください。あなたは今、家族とディナーの席にいます。あなた以外には食事が配膳されていく中、あなたの前には何もありません。そこであなたは、”フェアな分量の食事が私に配膳されるべきだ”、と父親に伝えたところ、彼は以下のように応えました。”家族みんながそれぞれのフェアな分量を配膳されるべきだね”、と。確かに、彼の発言そのものは、当然のことであり、素晴らしいですが、この返答には齟齬があります。というのも、ディナーを取り囲んでいる家族のメンバー各自が、(彼の言う様に)フェアな分量を配膳されるべきだからこそ、その一員であるあなたは自分の分量を主張しているのです。従って、彼の返事はあなたの前に食事がないという現実問題に対して無関心であり、何の解決策も提示していません。そして何より、依然としてあなたの前には食事がありません。
The problem is that the statement "I should get my fair share" had an implicit "too" at the end: "I should get my fair share, too, just like everyone else." But your dad's response treated your statement as though you meant "only I should get my fair share", which clearly was not your intention. As a result, his statement that "everyone should get their fair share," while true, only served to ignore the problem you were trying to point out.
ここでの問題は、あなたの”フェアな分量の食事が私に配膳されるべきだ”という発言の真意が、"(他のみんなと同じように、私にも)フェアな分量の食事が配膳されるべきだ"という括弧内の部分を前提に含んでいるにもかかわらず、”フェアな分量の食事が私(だけに)配膳されるべきだ”とあなたが発言したかのように、父親が(あなたの意図に反して)受け取った、という点にあります。従って、彼の発言そのものが真実であることに変わりはないものの、あなたには食事がないという問題は看過されてしまっているのです。
That's the situation of the "black lives matter" movement. Culture, laws, the arts, religion, and everyone else repeatedly suggest that all lives should matter. Clearly, that message already abounds in our society.
これこそが、"Black Lives Matter" 運動の対峙している状況なのです。文化、法律、芸術作品や宗教、その他全てが繰り返し、みんなの命が大切であるべきだ、と主張しています。米国社会においては、このメッセージは至る所で目にすることでしょう。
The problem is that, in practice, the world doesn't work the way. You see the film Nightcrawler? You know the part where Renee Russo tells Jake Gyllenhal that she doesn't want footage of a black or latino person dying, she wants news stories about affluent white people being killed? That's not made up out of whole cloth -- there is a news bias toward stories that the majority of the audience (who are white) can identify with. So when a young black man gets killed (prior to the recent police shootings), it's generally not considered "news", while a middle-aged white woman being killed is treated as news. And to a large degree, that is accurate -- young black men are killed in significantly disproportionate numbers, which is why we don't treat it as anything new. But the result is that, societally, we don't pay as much attention to certain people's deaths as we do to others. So, currently, we don't treat all lives as though they matter equally.
しかしながら、現実社会においては決してその通りではなく、命の重みは平等ではありません。あなたは、Nightcrawlerという映画を見ましたか?その映画の中で、Renee RussoがJake Gyllenhalに対して、黒人もしくはラテン系アメリカ人が命を落とすような映像ではなく、裕福な白人が殺害されたといったようなニュースが欲しい、と伝えるシーンがあります。実はこのシーンは、ニュースの大部分の受け手である白人層が共感できるような報道を重視するというような、現実に即したメディアのバイアスを如実に反映しています。現実として、若い黒人男性が殺害されることはニュースにならない一方で、中年白女性の殺害事件はニュースとして世間に扱われます。さらに言えば、統計上有意に多数の若い黒人男性が日々命を落としてしまっているという現状において、そういった死のニュース性が少ないということは単なるバイアスとして存在するわけではなく、ほとんどの場合事実なのです。その結果、一部のグループの人々の死に対しては他のグループの人々の死ほどに、私たちは社会全体として注目しません。人の命は本来全て平等であるにも関わらず、現実として私たちはそれらを平等に扱っていないのです。
Just like asking dad for your fair share, the phrase "black lives matter" also has an implicit "too" at the end: it's saying that black lives should also matter. But responding to this by saying "all lives matter" is willfully going back to ignoring the problem. It's a way of dismissing the statement by falsely suggesting that it means "only black lives matter," when that is obviously not the case. And so saying "all lives matter" as a direct response to "black lives matter" is essentially saying that we should just go back to ignoring the problem.
あなたが父親に自分の分の食事を求めた時のように、"Black Lives Matter"というフレーズにも"too"、すなわち黒人の命”も”大切であるという前提があります。他の人種の人々の命と同様、黒人の命も大切に扱われるべきだ、というメッセージがそこにはあるのです。これに対して"All Lives Matter"と応えることは、その根底にある(黒人の命が他の命と同様に大切に扱われていないという)問題を恣意的に無視していることになるのです。そのような問題の共通認識が前提として明らかに存在しているにも関わらず、さも"黒人の命だけが大切だ"という主張であると曲解することで、"Black Lives Matter"という本来の主張を退けてしまっています。"Black Lives Matter"というメッセージに対して、"All Lives Matter"と応えることは、黒人の日々対峙するそのような問題を無視し、そのままの現状を維持しよう、と主張する事と本質的に変わりはないのです。
電子決済ブームに乗って、いろんな音楽バンドも決済アプリを出した。
Nine Inch Pay、Earth, Wind & Payが有名どころだが、他にも注目すべきものがある。
都会的でおしゃな電子マネー。金を払うのが嫌いな人に。
一時期サービス休止のあと「核Pay-MODEL」としてリニューアルスタートしたりしていた。
通称「元ペイ」
発音できないので、いざ支払うときのコンビニのレジなどで難儀する。
なので大手の銀行との入出金はできない。使い所が難しい孤高の電子マネー。
なぜわざわざ「キモくて」をつけるかといえば、あなたの書いている通り本来であればキモかろうがオッサンだろうが関係なく弱者は救済されるべきであるにも関わらず、実際には若くて容姿端麗な女性のことばかりことさら問題にしていることの欺瞞性に対するプロテストだからでしょう。
たとえば、若い女性の相対的貧困をなんとかすべきだという主張に対して、ホームレスといった絶対的貧困者に関していえば中高年男性の方が圧倒的に多いのにそれを差し置いて公的リソースを投入せよという主張は男性に対する性差別やルッキズム、あるいは性欲のなさしむるところではないか?ということです。
やっと引退してくれてパチ屋のドサ回りにでも行ってくれるのかと思ったら
ファイトクラブはまだリングに立つためにプロテストが必要だったから許容できたけど
素人に1000万やるからってコミッション通さずリング上げるとかキチガイかよ
クソ腹立つのがプロで1000万稼ぐボクサーなんてろくにいねーんだ
世界チャンプでも1試合300万程度でやってるのもいるだろう状況で素人に1000万だと
ガキの時分からゴミ親父とのセットで知名度ドーピングしてたハイプ野郎は違うぜ
で、これがすげー視聴者数だったんだろ
ヤンキー気取りでいちびってヘイト稼いでなんかタイトル取ったら
JBCはあいつらを完膚なきまでにバンするべきだったんだ、クソ
ていうか、マジでメイウェザーがマクレガーとやったらどうしよう
たぶん同根だし、動くカネも桁が違うわ
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2016/03/21/kiji/K20160321012254930.html
https://www.amazon.co.jp/七二-仮-高山直人-ebook/dp/B01DDAUVMA
貴方は読んでいるかどうかも怪しいかもしれないが、かつて、私は七二(仮)という電子書籍で文化カーストXというものを提唱した。
詳細は実際に書籍を読んでほしいので省くが、早い話が、エリート、ヤンキー、オタクのいずれにも属さない文化階級で、わかりやすく云えば、理性と精神的価値を重んじる階層で、エリートとは正反対の性質で、精神的価値を重んじるお宅と、理性を大事にするヤンキーを足して2で割ったものだ。
大企業が仕掛けたり、ましてや政治や行政が実施するわけではないのに、ネットと連動する形で自然と大きく盛り上がった文化現象と言う風に考えれば2000年~2010年代の「オタク」も今の「デモ」も類似している。そしてどちらも、世の中の支配的な構造に圧迫された人たちが参画しまくったのだった。
OOAだけでなく、高齢のネット原住民がファッション関連の騒動で活躍したこと、東海道新幹線から「和製自爆テロリスト」が生まれたことなどを考えると、日本の主流もノンポリ優勢の構造ではなくなりつつあり、むしろ今の左翼のパルチザン化の流れに合流するような兆しを私は感じている。
いずれも社会の日陰者扱いされた鉄道オタク文化とバイクオタク文化を大衆文化にぶち上げた「流れ」の当事者たちがもしも左翼に合流するとどうなるだろう。すでに日本でも韓国の10分の1の規模のデモは頻発している。「自分がでネット原住民で流行に煩い大人だから、無意識にバイクお宅にはまっていた人」がこれに加わるとどうなるだろうか。
日本社会の抱える相次ぐ問題である、汚職、裏社会、スパルタ労働(ブラックなんて可愛い言葉はもうやめよう)に続いて、鉄道業界にも政治イデオロギーがらみの黒い噂が立ち込めているという。所謂ネット原住民空間はともかくとして純粋な鉄道オタクさえ右翼バッシングが多いのは、単に右翼憎しという日本人としての公憤や鉄道の印象を悪くされたオタクとしての義憤だけでなく文化への干渉があるからだと思う。裏社会沙汰で自身が影響を被ったり、私鉄が解体されるために遊び場所が鉄道からなくなることもあると思う。
既にJR北海道とか認知症や右派団体がらみの大炎上があるわけで、今後もこれに匹敵したり凌駕する騒動や汚職が続くことは必至なんじゃないかと思われる。そういう繰り返しがあれば、不満によって私鉄否定論が支配的になり、ネオリベに怒りの矛先が向かうようなこともありえなくないだろう。
ポストファミコン世代とかリア充世代とか、30代以上のオタクからすれば「自身の弟子の左派かぶれ」な人間がすでに左翼の側にある。同じく強烈な文化発信地であって同じように1980年代~2010年代時期にトップダウン的な潮流のもとで大衆文化化が進んだ「デモ文化とオタク文化と左翼(リベラル含み、ネオリベ除く)が手を結ぶ」可能性もありえなくはない。
そういうものを「公のお墨付き」と位置付けて、往年の西側諸国のように大衆文化を国民のコントロールを円滑する道具にしつつ、対外PRのための政策芸術として用いようとしていた日本の政治からすると、サブカルや大衆文化という大きな文化軸に矛を向けられることだけは避けたいと思われる。
2000年代の福知山線事故以降、日本のエスタブリシュメント層は鉄道オタク的な文化を嫌悪するようになり、それまで叩く側にあった車・バイクサブカルチャー文化を急に持ち上げだした。そしたら2000年代後半にエスタブリシュメント層によるノンポリ・道路文化迎合政策と鉄道文化・政治思想家潰しが激化し、1990年代には等しくのいかがわしいとされた両者は全く別の道をたどった。
一方は冷遇されたためにプロテストの積極的な集団となり、一方は厚遇されたために御用化したが、この二極構造が、今まさに変わっているさなかにあると思う。それがどうなるのか気になっているため、最近の社会運動やテロシーンの動向にはずっと注目しているのだ。
清志郎は、日本ロック史に刻まれる稀有な才能の持ち主だったと思うが「カバーズ」等で披露したプロテストシンガーとしての側面は、生前から過大評価されていたように思う。
押しつけがましくない率直な言葉やユーモラスな隠喩を紡いで作ったラブソングや、他のソングライターが見逃してきた日常の一断面を切りとる視点こそが、彼の真骨頂であった。
それに比して反原発ソングは直接的な表現が多く、かつ国家権力や巨大組織によって庶民が騙されているという
有りがちなサヨク的なものであって、あまり清志郎ならではのオリジナリティの感じられるものではなかった。
“たくみな言葉で一般庶民をだまそうとしてもほんの少しバレてる、その黒い腹(中略)だまされちゃいけねぇ ”※ラブミーテンダー
“原子力は要らねえ 危ねえ 欲しくない”※サマータイムブルース
「髪の毛が抜ける」「汚染地域の牛乳は危険」といった、過度に不安を煽り立てる歌詞は、チェルノブイリ住民に対する配慮は微塵も感じられず
国内での事故で同様の表現で歌を作っていたら風評被害を巻き起こしていたたろうと想定される。
カバーズの歌詞は、今ではその多くが科学的根拠を欠いた陰謀史観で作られたものとしてされている広瀬隆の著作の影響が強かったとされる。
もし清志郎が生きていたら、311以後日本を席巻した、怪しげな反原発運動に加担した可能性は否定できない。
まさかとは思うけど、「Java or PHP」の経験が1年か2年あるだけでこれだけの数の企業受けたの?(3年以上もしくは「Java and PHP」ならIT業界が人不足の現在こんなに書類で落とされるのは有り得ない)
それでこんなに落ちてるならIT業界で職を探すの辞めた方が良いよ。そっちの方が幸せだと思う。
コロプラとかUnity(C#、UnityScript)を使ってることで超有名な会社じゃん。
WebサーバーにはPHP使ってるっぽいけどZend Frameworkだからやってない人多そう。
増田も「実績が無い」と言われるってことはPHP&Zend Frameworkをやったことが無い1人だったんだろ?
イタリア語版Wikipediaのプロテストによって日本のネットでも話題になった「通信傍受法」の改正案問題について、誤解が大きいので、簡単にまとめておきたい。というのも、TechCrunch の次の記事「イタリアのWikipedia、『ネット傍受法案』に抗議して自主的に閉鎖」があまりにも極端で、また一般にイタリアが誤解されたままでいることにも耐えがたかったからだ。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111006italian-wikipedia-shuts-down-in-protest-of-proposed-law/
前もって断りを入れておくと、イタリアの法制度はもちろん、法律の専門家ではないので、間違いがあれば喜んで指摘を受けたい。また、訳のまずさについてはご寛容願いたい。
さて前段として、話題の法案DDL Intercettazioni(ちなみに、DDLとは”Disegno di legge”の略語で、英語に直訳すると”Design of law”、日本語では単に「法案」と訳すのが適当) で問題になったのは、ネットの規制に関する部分よりも、傍受された通信記録の公開に関する変更についてだった。これまでは裁判前であっても当局と弁護人の合意のもとで通信記録を公開できたものが、裁判中、また事件に関わる部分のみの公開とすることに限定されるというものである。当然、各メディアともこれには批判的な論調を取っているようだ。
最近では、ベルルスコーニが売春婦を政府専用機に乗せていたというニュースが日本の報道でもあり覚えておられる方もいると思うが、これらのことについて話された会話はすべて新聞紙上に掲載された。傍受された通信記録が公開されることの是非についてはひとまず置いておくとしても、こういう背景があることを指摘しておきたい。
そのうえでイタリア語版Wikipediaなどによって、日本でも話題になった部分は次の第29条(24ペ-ジ)であった。
同条の冒頭部分を見れば分かるように、この条文は次の法律の改正だということが分かる。すなわち、Legge 8 febbraio 1948, n. 47 Disposizioni sulla stampa の第8条の改正がこれである。
http://www.mcreporter.info/normativa/l48_47.htm#8
ここでいうstampaとは「出版を目的とするあらゆる様態の、機械的あるいは物理-化学的手段を用いて印刷され、あるいは獲得される複製物」と、ようするに平たく言えば、出版物や新聞等メディア・報道などなどのことを指すのでしょう。たとえば、第5条においては新聞・定期刊行物は裁判所の書記課に登録することなしに出版してはならないとあり、この法律がどういう法律かなんとなくでも分かると思う。
そこで問題の第8条は、一言で言ってしまうと、「訂正請求」”Richiesta di rettifica” を受けた場合、責任のある者は定められた期限内に定められたように訂正を発表すべし、というものだ。
そもそもこの条文の目的は、次のようなものだと理解している。つまり、考えを表現することの自由は、時に、憲法によって保障された他の権利と衝突し、あるいは侵害することもありうる。そのような場合に、速やかに権利を回復することができるようにするためのものである。したがって、客観的な真実性は問題ではなく、当事者にとっての主観的な真実性が問題になると。すなわち、趣旨としてはメディアによる暴力から権利を守ることを狙いにしていることがうかがえる。
http://www.giuffre.it/age_files/dir_tutti/archivio/santalucia_1004.html
これが出版物のみならず、テレビやラジオにも適用されるよう改正されて現在にいたっているのだけれども、ここで注意してもらいたいのは、こう書いてしまうとえらく危ない条文に見えるけれども、実際には1948年以来60年以上も運用されており、メディアがそれで委縮するとか、「メディアが死ぬ」ということは全くないということ。まして第8条の乱用悪用によるメディアの弾圧というものは見られない。
常識的に考えれば、そのようなことがもしあれば、それこそ「表現の自由」の侵害になるはずなので、つまり運用の問題になってくるのだと思うけれども、残念ながら具体的にどのような運用がされているのか僕には分からない(「訂正請求」がどのようなものかは検索すればすぐ出てくる)。ただ、第8条そのものにはたいした問題はないように見えるという点を指摘することしかできない。
そこで、今回騒ぎとなった改正部分は、次の部分であると思う。「訂正請求」の対象となるものとして、
"i siti informatici, ivi compresi i giornali quotidiani e periodici diffusi per via telematica,"
すなわち、データ通信を経由して流布される日刊または定期刊行紙を含む「情報サイト」”i siti informatici” となっているが、はたして「情報サイト」の範囲はどこまでなのだろうか、と。この法律の趣旨や文脈からすれば、例示されているように新聞やテレビニュースなどなどのプロフェッショナルのサイトのことにも読めるけれども、素人のブログはどうなるかはっきりしない。
事実、当初は素人のサイトやブログもこの適用範囲内にしようとしたらしい。たとえば訂正期限を訂正請求後10日以内に延長するとか、罰金を引き下げようといった案も出されていた。
http://www.rainews24.rai.it/it/news.php?newsid=156864
結局どうなったか結論だけ言うと、先述の第5条によって定められている、登録済みのプロフェッショナルによるサイトに対象を限定することで与野党合意となり、落着した。
以下、個人的な感想を書くと、まず仮に与野党合意がなくても、これまで同様の運用がなされるのであれば、それほど心配するような改正ではなかったのではないかという点で、「ブログ殺し」条項とイタリアのネットではあだ名されたようだけれども、そんなことにはまずならなかっただろうと思う。
また、TechCrunchの記事がいかに間違っているか、これでよく分かってもらえたはずだ。第8条を使ってなんでもかんでも訂正請求できるというのは非現実的な妄想ではあるまいか。特に追記部分の、
法案は「正式な報道機関の記事」のみを対象とするよう修正されたもようだ。これがなんらかの改善になっているかはきわめて疑わしい。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111006italian-wikipedia-shuts-down-in-protest-of-proposed-law/
というところは、何の根拠があって「きわめて疑わしい」と言えるのだろうか。
なによりこの問題を見ていて思ったのは、これだけインターネットが普及してしまってもなお、「表現の自由」だけを金看板にできるのかという問題についてもっとよく慎重に考えられるべきではないかということ。確かにこの法改正はベルルスコーニ絡みなので微妙なところがあるとはいえ、しかしながらごくごく一般的に考えれば、いくら「本当」であっても「知られたくない流布されたくない事実」というものは誰にでもあるはずであって、よほど悪質であったり問題性の高い場合、第8条が規定するような処置があるいは何らかの助けになることもあるかもしれない。
もちろん、素人目にもこの第8条をインターネットに広く適用しようとするのは筋悪に見えるし、与野党合意で適用範囲をはっきりさせたことは結構なことだと思うわけだけれども、仮にもっとちゃんとした、インターネットを対象とする法律が出された場合、ネットの住民たちはどういう反応を示すだろうか。「表現の自由」の金看板だけではかばいきれない部分があるのではないかと、正直言って思う。
その意味で、イタリア語版Wikipediaの声明は難しい部分があるのではないだろうか。ごく一般的なサイトならまだしも、これだけ有名かつ頻繁に利用されるWikipediaのようなサイトになると、それなりに記述に責任が持たれるべきなのは当然だという意見もあってしかるべきであって、あの声明を肯定しているだけで本当にいいのかどうか。ネットで言われているほど、また信じられているほど簡単な問題ではないのではないか。
お祭り好きのイタリア人のネットにおける「ショーぺロ(ストライキ)」の言い分を鵜呑みにして、その流れに乗っかってしまう前に、色々考えることがありそうに思うのだが。
後手という生き方って本があるらしいので、紹介。ちなみに読んではいない。
35歳でようやく将棋のプロ棋士になれた瀬川晶司四段と、15歳の時に中学生でプロ棋士になった渡辺明竜王が、人生における「先手」と「後手」がどのような経験をし、どのような生き方をしてきたのかを紹介しあっている対談本らしい。
補足すると、中学生でプロになった将棋棋士っていうのは、その後頂点に上り詰める事がほぼ約束された存在と言っていい。過去の中学生プロは例外無くトップレベルの実力者になっている。
かたや瀬川晶司四段は、一度プロテスト(奨励会三段リーグ)から追い出されてしまった身。要するに落第生。一度は完全に将棋を捨てた彼も、30歳を越えてもう一度やり直す道を見つけた。
中卒で10年以上経ったところで、まだ30歳に手が届くか否かという所じゃない?ならば、anond:20070313094822もまだ色々とやってみると面白いと思うんだけど。それに世の30歳なんて、まだ自分が体験したことの無い事に色々とチャレンジできる年代だし。やってみないのはもったいない。
http://anond.hatelabo.jp/20070211181911って要するに欲望に忠実でありたいがために妙な知恵働かせてるだけだろ。露骨な性描写が堂々と店の軒先に並んでいる状況を正当化しえる理屈なんてありえないだろ。「そういう時代になったんだから仕方ないじゃん古い人間はこれだから困る」とか言う奴もいそうだけどそういうの一番いやなんだわ。俺はフリーセックス万歳! 性行為してぇ! うっひょう! ロリコン! とか言っているような欲望丸出しの童貞だが街をポルノで満たして動物的に萌え??とか無責任に言えるような奴じゃないんだよ。性的嗜好で言えば俺はアキバ系の二次元文化で勃起する。でも俺はどっちかっていうと2ch数字板にみられるような強烈な自虐意識とタフなメンタリティを支持したい。801板の現状を知らない以上無責任なことは言えないが、以前同板に入り浸っているときに感じたのは、ただ「彼女らは強い」ということだった。同人板などにも同じような強さを感じたが、801板に張り詰める緊張感には特筆すべきものがあった。他人(=一般人)を不快にさせないため、また自らを護るためのルールに支配された空間。内輪意識が強すぎるといったらそれまでだけどこりゃ悪いことじゃないと思うんだよ。まあこれはあくまで個人的な感想にすぎないわけだけど俺が理想とする「強さ」はまさしく当時俺の眼に映った彼女らの「強さ」だった。
自分がマイノリティであることを自覚したうえで強靭な自我を構築する。それが重要だ。マイノリティがなんだか勘違いしているのかマジョリティ面して恥も臆面もなく欲望をさらけだしているというのが許せない。恥を知れ。その上で戦え。身の程をわきまえたうえでじわじわと世間の“多数派”を侵食していくんだ。