はてなキーワード: 縮小再生産とは
「弱者男性」って、色んな角度から議論できるけど、フェミニズム界隈から、ちゃんとした論考が出てこないのが不思議。テーマとしては本質的に新しさは無いしね。
もう、フェミニズムは学問としては事実上終了しているんだろうな。
ジェンダーに関する思い込みを一通り剥がした後、そこから先、学問としてする事があるようには見えない。
萌えキャラ批判で、性的表象がどうとか言ってる人をよく居るけど、心理学や神経科学の観点からデータ取らないと、エビデンスもまともに出ないよね。どうやってエビデンス取ってるの?お気持ちでエビデンスにするの?
また、議論する力も低い。「弱者男性」やTERFといったテーマは、フェミニズムのようなテーマからすると、応用問題と言える。こういう答えの整理しにくい問題について、「専門家」なら論点をサクッとまとめられる力が求められる。厳密さは後で担保するとして、まず論点を整理し、ある程度の水準のメッセージを作ることなど、訳もないはずだ。しかし、読むに値する論考は今のところ見たことも聞いたこともない。期待してないけど、どうせ無いんでしょ?
ま、弱者男性に対して、上野千鶴子ぐらいバッサリやるならそれもそれで芸だけど、上野の縮小再生産する奴しかいないなら、わざわざ分野を維持する必要性も無い、という事だ。上野千鶴子も退官したことだし、学問としてのフェミニズムは終わりにすれば良いのでは無いだろうか。
政治活動しかしないフェミニストなら、わざわざ大学で囲う必要もないだろう。どこか政治団体、幸福の科学とか一水会とか中核派にでも囲って貰えば良いのではないだろうか。
作品をかなりディスってるので好きな人は普通に読まない方がいいです。
今回の盛り上がりでまた見始めたけど。
普通のアニメ(なんなら、普通より面白くない)をけもフレ騒動以降のたつき監督がやったらファンが大騒ぎって感じ。
それまででもう大体わかってる謎をわざわざ昔の回想場面をつかって長い答え合わせをして、
最後に引きのシーンを入れただけ。
これまで通り、メリハリのないだらだらしたテンポでそれを見せられるだけだから、
離脱した人を引き込む何かがあるわけではない。
終盤の10、11話が2話かけて最終ステージの直前から進まない話(戦闘での足止めとかじゃなくて、作者都合の時間稼ぎ)ってのも、どう考えてもテンポが悪いし面白くない。
ていうか、説明セリフで済まさないために11話を回想にしたのに、
結局重要なことはほとんど回想の中の台詞でべらべら説明させてるのって本末転倒だと思う。
言っちゃ悪いけど下手だなあと。
1話はアクションと謎設定をたくさん用意してて面白かったんだけど、
その後はのろまな展開と説明が続いて、ぶっちゃけ相当つまんないんだよね。
2話以降は1話の半分の内容を薄く引き伸ばしたような話の進み具合だし、
盛り上がりどころのない低いテンションが延々続いて(でもキャラはうるさい)、本当にかったるい。
毎回、作り手の用意した小イベントに沿ってキャラが動いてスローペースでそれを達成してくだけ。
ストーリーとキャラが一体になって話が動き出すような快感はない。
キャラがただの駒。
破れたメモを手に入れた、続きを読もうとしたら邪魔が入った、主人公が急に別のことに興味を示した、みたいな。
1話で「死」を強く意識させてるのに、それ以降はドキドキもワクワクも感動もなくて、ピンチも探索もほんとイベント消化くらいの描き方。
大体、話の形式はけものフレンズそのまんまのワンパターンだし(基本的なワカバの役回りも)、
けもフレのような魅力のあるキャラが減ったせいで縮小再生産の感が否めない。
(自主制作版ケムリクサの方が先だと言われればそうかも知れないが)
モロ作り手側の都合っぽいのが見ててきつい。
キャラ数が少ないのに、話によってはあいつ空気なの?ってくらい出番と印象が薄くなるのも、
キャラの駒っぽさがより強調されて作品へのイメージがどんどん悪くなる。
2話の最後でもリンが礼を言ってるのに、3話の終盤で礼を言ったら「リンさんでもお礼をいうんですね」とワカバが騒いだりとか、
なんで?って引っかかる。単なるミスなのか記憶力が弱い描写なのか。
ミスだとしたら、「その回の終盤」っていう重要なところでキャラ数も少ないのに矛盾した台詞を喋らせるのは、監督脚本として有り得ない失敗なんだけど。
やっぱり話を組み立てることが不得意なんじゃないかって気がする。
放送初期は視聴者からワカバがヘイトを集めてたけどあれってわかりやすい対象だっただけで、
ファンの評価とは裏腹に、監督の実力の底を露呈した作品だと思う。
けもフレでストーリー作りに参加してたメンバーたちが大事だったのが良くわかる。
こういうことを書くとすぐ新しい物や面白い物を受け入れられない老害的なことを言われるけど、
新しくて面白い物を求めて視聴した結果、期待はずれだったのだということは書いておきたい。
大学を出てサラリーマンとして長年働いてきたが、過労とうつで半年間休職することになった。
まとまった時間ができたため、前から気になっていた『資本論』(大月書店の赤い奴で、8巻は読めなかった)と『聖書』(新共同訳で旧約のみ)を、ともに入門書・略解を引き引き必死に読んだ。
そこで驚いたのが、これまで好んで読んできた、自己啓発本やビジネス本の類が、ほとんどこの2冊の縮小再生産であることだった。
特に顕著なのがビジネス本で、ベストセラーになった本の数々が、資本論で書かれていることをひっくり返す(つまり資本論で批判されている資本家の振る舞いをする)ことを勧めているだけだった。
知人に資本論を読んでいると言うと白眼視されることが多かったのだが、そいつが件のビジネス本を好んで読んでいたりするのを見ると、何だかなぁと思うことしきり。
くだらない本に金と時間を費やすのではなく本当に価値のある本を読もうとか、何事も中身を見ないで批判するのはやめようとか、色々学んだ日々だった。
追記
http://anond.hatelabo.jp/20150906022757
日常系・空気系というけれど多くの作品はその日常の終わり(学校ものなら卒業)を意識して書かれていて、
楽しい時間にもいつか終わりが来ることを意識させられるような構成になっている。
決してそれは安寧の繭と呼べるものではない。
時間の経過を描かない作品はギャグに重点を置いていて、さざえさん時空的にループしていることを自己言及するものもある。
また、現代の中学・高校生活を描くものから、大学・社会人生活を描くもの、ファンタジー、歴史ものなどとジャンルも広がりを見せていて、
アニメ版とは別物ですね。
日常系作品にちょいとホラー要素を加えたのがアニメ版だとすれば、原作コミックはほとんどホラーです。
それと、ただ怖いだけじゃなくて、批評性の高い意欲作です。
日常系とか空気系と呼ばれる作品群をハッキリと否定しています。
エヴァ旧劇なら庵野がオタクたちのことを「気持ち悪い」と言ったのと同じです。
まどマギ劇場版新編なら、ラストで「自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」とまどかに言わせ、ほむらが創った心地よい虚偽の日常を批判しているのに相当します。
学校を出ること(卒業)、あるいはそのまま学校に残り続けること、どちらかです。
"巡ヶ丘"学院という名前と場所そのものが、終わらない、居心地の良い、都合の良い、フィクションの中にしか存在しない日常のメタファーです。
最終的に、学園生活部のメンツは卒業すること(現実を直視すること)を選びます。
とりわけ丈槍由紀の成長は顕著で、ハッキリと夢想に別れを告げ、夢想で彼女を守っていた周囲に感謝の意を示します。
と、ここまでが1~5巻までの概要です。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で言えば、ハリアーで友引町を脱出するところです。
エヴァ旧劇なら他者(アスカ)を望み、LCLから人間の姿に戻るところです。
ただ、揺り戻しがあるのですね。
嘘でも良い、安心できる妄想の繭に守られていたいという願望が再び頭をもたげてきます。
1~5巻では由紀が繭の中に逃避していたのですが、今度は若狭悠里が繭の中に潜り込み、由紀と同じ道をなぞってしまいます。
セカイ系の隆盛後、日常系が流行り、まどマギで一旦は日常から脱出したのですが、また日常に戻った漫画・アニメの消費者自身なのです、悠里は。
一度は他者を望んだものの、やっぱり怖くてアスカの首を締めたシンジ君そのものです。
デビほむが創った新しい世界を半ば受け入れてしまう、まどか以外の魔法少女たちとも似ています。
7巻以降はどうなるんでしょうかね。
おそらく日常と現実の間を振り子のように揺れ、最後は曖昧な位置で静止して終わるのではないでしょうか。
『うる星~』は友引町から脱出できたかどうか分からないまま幕を引きました。
エヴァ旧劇でも、新しい世界でシンジとアスカが共生できるかは未知数なまま終劇を迎えます。
まどマギ新編でも、ほむらは「いずれあなた(まどか)は、私の敵になるかもね」と言っています。
縮小再生産で似たような作品ばかり作っていて良いのかという反問です。
唯たち4人はしきりに「高校を卒業しても、今までのような毎日が続くかな?」と自分たちに問いかけ続けます。
もちろんずっとクローズドな学校生活(がっこうぐらし!)が続くわけはなく、社会に対してある程度開放的であらざるを得ない大学編けいおん!はすぐ打ち切りになりました。映像化もされていません。
まんがタイムきららは自ら日常系の潮流を作り、その流行に乗りつつも、自分たちがまずい方向に進んでいることが分かっているのでしょう。
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
アニオタの社会人は金が余っているはずである。ここではそういう前提で書く。
金が余っているとき、君は、それを円盤に使うのもいいし、ガチャをまわすのに使ってもいいだろう。
だが、金が余っていて、かつ時間も余っているのなら、それをパチにあてても・・・
ダメだと思うが、まあ、そんなダメな自分を楽しむのも大事なんだよ。
しかしながら、そんなに負けません。
パチンコは、だいたい賭けた金の七割くらいが統計的に戻ってくる財布にやさしいばくちです。
パチンコをやる回数は少なく、掛け金は少なく、という方針で挑むと、損する金を減らすことができます。
借金した金がさらに縮小再生産で三割減になり続ける未来がまっています。
仕事帰りに行きます。パチンコを打つことを目的でパチンコを打ちにいってはいけません。
財布の中の五千円は、捨ててもいい五千円にします。
五千円を損したと思うと心につらいので、捨てたものだと思いましょう。
重要なのは「その後の予定がないこと」と「店の閉店時間に近いこと」です。
また、損しても、その後の予定がとくになければ、あまり落ち込まないですみます。
忘れてはならないことは「パチンコはやると負ける」ということです。
ですので、土日の時間のあるときにパチンコをうちにいってはいけません。
自宅近くの店を選ぶべきなのは、職場近くの店だと打ち始め時間が早くなるため、負ける量が増えるからです。
台に座って、左上のお金を入れる口に五千円札を一枚いれて、右手前にある「玉貸」のボタンを押すと玉がじゃらじゃらでるので、右下にあるひねるやつをひねって打ちます。
ひねるときには適度にひねらないと意味がないので、左半分に落ちるように手加減してひねります。これを左うちといいます。
じゃらじゃらでた玉がなくなったらもう一度「玉貸」をおしましょう。
五千円だとだいたい全部食われるまであたらないので、全部玉がなくなったらおしまいです。帰りましょう。
あたった場合は面倒です。あたった場合は、とりあえずあたりが終わるまで台の指示に従って打ちましょう。
で、下側にある皿の前にあるでっぱりをつつくと、だいたい下皿の穴が開くので、えーと面倒くさいな。
じゃらじゃらと出た玉が自動的に計算される店では、とくに気にしなくていいです。
玉が手元にたまるタイプの店だと、面倒なのですが、台の上の方にあるCALLボタンをおして店員をよびます。
店員はなかなかきませんので、てもとの箱がもう二歩ぐらいでいっぱいになりそうだったら店員をよびましょう。
あたった場合は、「玉貸」の近くにある「返却」ボタンを押すと、カードが台の左側からでてくるので、それをもって景品交換カウンターにいきます。
店内に、女性が立っているカウンターがあれば、だいたいそれが景品交換カウンターです。
ここでは店員のいうがままに動きます。深く考えないよう。
ここからが難しいのですが、まあ、ほかにあたった人がいたらその後をついていきましょう。
どうしてもわかんないときは、カウンターの人に「このあとどうしたらいいですか?」とききましょう。
えーと、台は確立が台の上のほうにだいたい張り出してあります。
おおむね、100回に1回程度であたるライト、300回に1回ぐらいあたるミドル、400回に1回のマックスがあります。
というそのまえに、デジタルな感じのやつと、羽が動くやつがあります。
基本的にアニメはデジタル代なので、羽根の動くやつの説明は割愛します。
羽根が動くやつはものすごく「ああ、パチンコってあたんないんだな」と実感できるので、いいところもおおいです。
あーそうだ。1円パチンコと4円パチンコがあります。1円は4円の四分の一です。
が、ここからが本題ですが、アニメ台にはできのいいやつとわるいやつがあります。
つまり、台の作成側が題材になったアニメを理解して作っているやつと、そうじゃないやつがあります。
あたるとかあたらないとか、そういうのはいいのです。
別にあたるために打ってるわけじゃないのです。
でですね。これはですね。微妙なんですよ。
同じ会社が同じ題材で作ってるはずなのに、出来がよかったりわるかったりするので。
良い台か悪い台かはやってみるまでわかりません。
とりあえず、知ってるアニメの台があれば、順番に打ってみるのがいいかと思います。
「化物語」は良かった。あれは理想的だった。ぜんぜんあたらないけど。
理想的なのは、パチだけで原作の内容を理解できて、かつ原作をみたくなるやつがいいのです。
さらにいいやつは、新規録音の台詞があるやつとか。新規でアニメがあるやつ。
まあともあれ、あうか会わないか、はやってみるまでわかりません。
まあだいたいそんな感じで。
パチンコはやると負ける娯楽です。パチンコ一回いく金で円盤が一枚買えます。フィギュアが一個買えます。ガチャが一回回せます。
承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、他人から認められたいとする感情の総称である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E8%AA%8D%E6%AC%B2%E6%B1%82
最適経験の基本要素は、それ自体が目的であるということである。
それは自己充足的な活動、つまり将来での利益を期待しない、することそれ自体が報酬をもたらす活動をいう。
モチベーションの話としてよく
承認欲求が大事だ、いや自己目的的じゃないとダメだという対立構造をよく見る。
まあビジネスでのし上がってお金持ちになりたい、有名人になりたい、って人は承認欲求が旺盛な人が向いてて(マネーの虎達もよく言ってたなあ・・・)、
創作活動をしたい、何かを研究したい、って人は自己目的的な人のほうがいい、ってのをよく聞く。
ただ俺としては
「いや、普通どっちもあるでしょ、どっちもあっていいでしょ」
って思うんだけどね。
手塚治虫なんかもどっちもスゴイ人でしょ。それにまつわるエピソードも多いし。
要するに、なんでそんなに0か1かにしたがるわけ?ってこと。どっちもあるでいいじゃんか。
ま、そうやって2項対立にした方が記事として面白くて盛り上がりそうだから、だろうけど、読み手がそれを真に受ける必要は全然ナッシングなんで。
ただ少なくとも、若い頃自己目的的にやった事で結果的にチヤホヤされちゃったことでだんだん承認欲求が強くなっていって、後年は自己模倣の縮小再生産に陥っちゃって成長しなくなった例があるから(デ・キリコとか松本人志とか)、これには気をつけないとな。