はてなキーワード: 妄言とは
自分は、自分のことをとても頭の悪い人間だと思っているし、実際どう考えても賢いほうではない。
そんな人間でも一応「大学」と呼べる機関に一瞬だけ籍をねじ込めていた時期があって、その頃が人生で最も楽しかった。友達はいなかったが、日々、図書館の本を片っ端から読み、大学が契約している論文サイトから気になるトピックを拾い、学生証を使ってたくさんの博物館美術館を訪ねた。楽しかった。
大学は本当に典型的なしみったれた私文で、偏差値もうんこだったが、同期はみんなとてもクレバーで好奇心旺盛で、専攻分野への野心に燃えていた。みんな僕よりずっとずっと賢かったし行動的だった。ゼミの先生も普通にその分野でブイブイ言わせてる凄い人だった。なので、こんな底辺校ですらこんな素晴らしい学生・教授が在籍しているのだから、「頭の良い」大学は楽園のような場所なんだろうなという憧憬をずっと抱き続けて生きてきた。
自分は、大学を卒業できなかったのでいわゆる就活もできず、適当な仕事を転々としながら生きている。それでもまぁ幸せと言っていい生活を送ることはできていると思う。
だから、インターネットでいわゆるKKO議論や若者の貧困なんかが話題になっていたとき、その当事者たちに旧帝大卒や、それでなくとも国立大卒がゴロゴロいるのを見て、頭を後ろからぶん殴られたような衝撃を受けた。
彼らはそんなに頭が良いのに、頭が良いのにどうして幸せじゃないのだ。おかしい。頭の良い人には幸せになる権利がある。この世界という本に書かれた文字を読むことができる人間にはそれ相応の見返りがあるべきだ。
そして何より、彼らに対して「学歴がないからだ(旧帝だぞ!?)」「努力を怠ったツケが来ただけ」みたいなバッシングが出てくるのに本当にびっくりする。
彼らに「学歴がない」のならクソみたいな大学にしか行けず、それすら卒業できなかった僕はなんなんだ。なんなんだよ畜生。
そもそも大学の格なんかどうでもいいんだ。どんな大学でも、どんな学部でも、それぞれに万金の価値がある。
日本で一番つよい大学は東大か京大だと思うが、先進分野では筑波のほうが強いように、考古分野では東北大のほうが強いように、偏差値がブッチギリであることそれ自体に意味はないんだ。ネットの一部で有名な国士舘だって中東に発掘調査に行くくらい地力があるんだぞ。
正直ここまで書き連ねてきて自分が何を言いたいか全く分からなかった。けども、とりあえず憤りと虚無感のようなものをいっぱい感じているのは分かった。
たくさんの興味を持って大学に行き、たくさんのことを学んできた人達が、大学の名前とか幾つかの数字だけでジャッジされているのを見ると凄く凄くつらいということ。彼ら一人ひとりの頭脳にそれぞれ互換性のない価値がある。忘れないでほしい。それは偏差値に関わらずきっと大切なものだから。
あと、やっぱり僕は学歴厨だから自分より良い大学に入れてちゃんと卒業できた人達にはみんな幸せになってほしいんだよ。そうじゃなきゃおかしいじゃん
最近長文のお気持ち表明がたくさん出ている。私も野次馬精神で何個か見たしそのほとんどがお気持ち表明というだけあってネガティブなことばかりだ。
だから、人生が救われた幸せな話だってあってもいいじゃないか。
別に面白い話でもない。ただ、推しがいたから明日も生きようと思えた根暗陰キャの話である。
成人済み腐女子。オタク歴十数年。ジャンルはひとところに留まりやすい。稀に同人誌を出すが基本支部中心の文字書き。
小中といじめられっ子。高校はどうにか卒業できる程度しか通っていない不登校。大学は地元の私大、就職は地元の中小企業。
平々凡々なネガティブ女。
私がオタクになったのは中学の頃である。当時の覇権ジャンルにハマってブログを開設して文字書きをしていた。バナーを自作し、ブログの検索避け方法を調べ、検索サーチに登録して頑張った。数年経てば拍手やコメントが届くようになった。なんとなく世界に認められた気がした。
不登校の間、新刊の情報とブログだけが私を支えていた。目の前にあるカッターを手首に近づけようとして来月出る新刊で推しが活躍することを思い出してカッターをしまう。おかげで私の腕は傷一つない。
また何年か経って、支部やTwitterがある程度成熟し、スマホの普及率が上がっていた。気軽に誰かと繋がれるようになった。私も活動場所を支部に移した。ブログは消去するには思い出が多いのでそのまま残しているが今は別名義である。
推しは歴史をある程度知っているとキャラ知識が深まる擬人化系のジャンルである。まずキャラのWikiを読み込んだ。原作もがっつり履修した。次に歴史をWikiから学んだ。参考文献のところに記載されている本を読んでみた。幸い学生だったので大学図書館が出入り自由だった。他大学の図書館にも通った。参考文献の参考文献という風に何冊も辿った。違う観点から見ることも重要だと覚えたので毛色の違うものも探した。諸説ありの諸説をまとめた。信用できる著者、そうでない著者を覚えた。学部も担当も違う教授を訪ねた。博物館や美術館に足を運んでみた。
ついでにチビでデブスでメガネでダサい私は推しに会う(概念)ときにこんな格好でいいのか?とインスタでインフルエンサーをフォローしまくって流行を覚えた。YouTubeでメイク動画を見まくって自分の顔をパレットにお絵描きも頑張った。最先端の格好はできずともどこにでもいそうな人間を目指して減量もした。
そうしてほんの少しだけ自信が持てる自分になり、自分の小説や妄言を聞いてくれるフォロワーができた。史実沼の方がオススメ書籍を教えてくれた。妄想が広がってできあがった小説を読んでくれた。同人誌を作ったら買ってくれた。一緒に推しに会いに行く友達ができた。
そして、推しに対しての知的好奇心はまだまだ収まらないので希死念慮も気がつけば消えていた。
最初の推しはリスカする手を止めてくれて、今の推しは私に生きることを選択させてくれている。
推し方がちょっと特殊だと言われやすいタイプではあるが、そこは人それぞれ好きなものを好きなように推していれば幸せになれる。
私は私なりの幸せを手に入れたので他の方もお気持ち表明する前に一旦離れて自分の好きだけ追い求めたら幸せなんじゃないかななどと考えたりもするがそこまでいうのはお門違いも甚だしいのでお口ミッフィーちゃんしておきます。
あんなことできるこんなことできる、確かに事実なのだろうが、そんなことが出来ているのは結局のところエリート採用された上澄か、所謂大都市の拠点支店に初任で配属された一部の人間ばかりだ。自分をはじめとした圧倒的大多数は地方の、さらに片田舎の支店に配属され、一生同じような仕事を繰り返すことになる。まさに歯車と言っていい。尊敬していたかなり年上の先輩は「手をあげ続けてきたけどチャレンジすらさせてもらえなかった。」とかなんとか言って他所に移って行った。研修に行けばいつ辞めようかあいつはもう辞めたと言った話ばかり。
とは言え楽しそうに仕事している人がいるのも事実。10年目ともなると担当先も案件のある先が増え、仕事もある程度自分で回せるようになり、それなりのやりがいを覚えるようだ。若手で楽しそうに仕事している人は稀だろう。大概は支店の、誰も持ちたがらないような先を持たされて疲弊している。若手で楽しそうに仕事している人間は、本当に案件と同僚に恵まれたか、よほどの営業の才能があるか、あるいはただの馬鹿だ。「これまで誰も掘れなかった先を持ってるんだぞ。やりがいしかないだろう。」本気でこう言ってきているのなら余程の呑気であるし、闘魂注入のためであればこれも余程の呑気だろう。
外回りしろ、じゃないんだ。準備してから訪問しろ、じゃないんだ。どこに何が書いてあるのかわからないような手続き書と睨めっこしながら通常の事務をまわしつつ、好き勝手頼まれる雑用をこなしつつ、誰もやりたがらない支店のお荷物先の対応をしてるんだ。いつ潰れるかもわからない会社でご奉公なんて時代じゃ今はもうないんだ。
銀行の採用は実に卑怯である。上の人間が仕事に集中できるように若者を使い捨てている。雑用を、前の世代の尻拭いを、無駄に抱え込んだ不採算先を全て若手に押し付けるために、キラキラした「バンカー」を喧伝し、これまで大量採用を続けてきたに違いない。徐々に減ってきているとはいえ今もそうだ。離職率を見ればわかる。そして生き残った人々が自覚か無自覚か知らないが同じことを続けていくのだ。僕は事務屋さんではない。20代をこんななんのスキルも身につかないような場所で終えたくない。3年で身についたのは「おっしゃる通りです。」「申し訳ございません。」のスピードだけだ。財務もエクセルも英語も、何もわからないまま。仕事は書類を擦り出して一枚一枚丁寧に付箋を貼って、上司の印鑑をもらうだけ。親が泣いているぞ。
給料。世間的に見れば〜という話もあるだろうが、自分の周りを見れば圧倒的に低いと言えるだろう。聞いた話では若手の給料は庶務さんと同じ程度だそうだ。ことによれば事務のお姉さまよりも断然低い。「私たちには責任は取れないので、そちらで判断してから持ってきてください。」だったら判断の分だけでも俺の給料を上げてくれ。もちろん堅確な事務は車の両輪の如く大切であるのは間違いない。ただ、どこまで行っても若手は事務処理要員の一つとしか見做されないのだなあと思うとやりきれない。
銀行は業界も内部の人間ももうめちゃくちゃだ。銀行に限った話じゃないのだろうけれど。
業界はお互いにお互いの首を真綿で締めあっていると言える。採算度外視の金利競争。地方は地方でズブズブの企業・人間関係。じゃあ今度は金利じゃ儲からないから手数料だ。収益を上げろ。そうして投信を売る。かつてはゴルフ会員権を売った銀行もあったそうだ。流動性が桁違いなので全く同じとは言わないが、似たものを感じる。顧客第一主義とは何か。本部から還元される資料には必ず「切り返し話法」が載っている。洗脳と変わらないじゃないか。
内部も内部だ。本部の言うことは一貫していないし、表彰のルールだってややこしい。あれしてこれしてこうして下さい、分厚いルールブックを配られて、それでもよくわからないことだらけ。皆が上席に忖度して媚び諂っている。風通しが良いふうを装っているあるいは本気で信じている上席はいるが、結局のところは自分の意見が正しいのだ。誰も自分の意見は言わず、本人のいないところで愚痴を言うだけ。
「やめられない」のは一番悪いところかもしれない。今やどこの支店もセコムやらアルソックやらを導入しているのに、いまだに金庫内のキャビネットの鍵すら丁寧に施錠している。セコムが破られて、分厚い金庫まで破る相手にキャビネットの鍵がなんだと言うのだ。そう言う決まりだから。これで終わりなのだ。鍵の開け閉めに一日30分はかかっているのに。朝礼も無限に長くなっていく。と言うかそもそも毎日朝礼する必要があるのか?あれもこれもとコンテンツを追加していって、結局始業の時間ギリギリになっている。知っていると思うんだけど、時間は有限だぞ。
仕事の仕組みも散々だ。手続き書に全てが書いてあるはずの銀行業務は、確かに全て書いてあるのだが、各所に分散していて、そこを参照すればいいのかは経験に強く依存している。ある業務を行うにはこの手続き書と、別の手続き書と、あの通達と、どこにも書いていないあの様式の書類を添付する必要がある、なんてのはザラだ。掲示板もいくつもいくつもいくつもあってまるでキメラのようだ。
この原因はおそらくデジタル化の勘違いからきていると僕は考えている。要はかつて銀行業務にパソコンを導入した人たちは「紙でやる業務にワープロを導入した」世代で、上にならえの我が業界人たちは長いことこれを踏襲してきているから不便なのだ。
定型的な業務であれば全て一つのシステムで、一気通貫に、指示通りの動作を行っていけば約定・実行まで終わるようにできて然るべきだろう。いくつもいくつもシステムがあって、それに対応するようにいくつもいくつもパスワードがあって、結局皆覚えきれずに手帳なりノートなりに一覧を作って管理している。何もかも無駄である。銀行にはこれを改革することはできない。お客さんには新しいシステム!を案内しておきながら内部でやる事務はなんら変わっていないどころか手間が増えていたりする。これじゃできの悪いハリボテである。採用もそうだが外面だけ立派で中は人を消耗するボロボロのシステムが銀行である。偉い人々はもう使うことがないから忘れているのだろうが、次世代金融どころの話ではない。そういった妄言はまず中身を整えてから、せめてそういった姿勢を見せてからだろう。若手はもう限界だ。文句を言うくらいなら手続きを覚えろと言うのは全くその通りであるが、人材の流動性が高まろうといった現在、手続きと言うある意味本質的でないところで時間を取らせる現在のシステムのままでは人材の受入はできないだろう。
銀行人材を斡旋すると言うニュースがある。世間がどの程度銀行人材を誤解しているのか知らないが、その太宗は大したスキルのないおじさんたちである。排出は考えるが受入は考えない、いつまで殿様のつもりなのだろう。銀行は働き方改革などと言う訳のわからない施策を講じる前に仕事の仕組みを改めて整えるべきだろう。
サービスが大事だと偉い人は言う。寄り添った提案が大事だと。僕はそうは思わない。これは特にリテール分野の話ではあるが、真に投信等に関心があれば手前でやるのだ。それも手数料の安いネット銀行で。ソニー銀行は口座開設から何から便利だし、楽天銀行はUIは流石楽天あまり良くないが結局便利だ。僕自身のメインバンクもネット銀行だ。寄り添った提案なぞ今働く世代にはできっこない。どうせ同じ時間帯で働いているのだ。寄り添った提案、結局のところ金持ちや年寄りに媚びて情に絆すだけのサービスに過ぎない。フローチャートを細かくすればそれこそネットで出来ることだ。
日本は多くの人が銀行口座を持つ珍しい国だと聞く。この傾向は続くだろうがそれはネット銀行に偏るだろう。店舗型の銀行は今のままでは本当にただコストだけ抱える過去の遺物に成り下がるだろう。いっそ法人と個人を全く別の銀行にしてしまえとさえ思う。そっちの方が余程効率がいいだろう。
偉い人曰くサービスが大事なのは銀行が同じような商品を取り扱っているからだと言う。確かにそうだ。特に法人分野はその傾向が強い。担当者の能力に依るものは大きい。一方で個人分野では少し違うんじゃないか、見落としがあるんじゃないかと思う。
我々商業銀行は商業銀行であるが故に、もっとブランドを意識するべきだろう。それは金持ちや年寄りに対する温い媚びのサービスであってはならず、どちらかと言うとアップルカードに連想されるような、スマートな商品開発だ。キャッシュカードやらスマホアプリやら、実は銀行には他行差別化の図れる商品がいくつかある。保有して人に自慢したくなるような商品の開発こそ、何も捨てられない銀行がいつまでも大衆の銀行であるために必要なことだろう。
なんだってやるべきだ。いつまでもジャケットを着てるのではなく、ポロシャツを着て街に出るべきだ。銀行がタイアップしたカフェやらコーワーキングスペースやらをもっと作るべきだ。せっかく無駄な資産をたくさん持っているのだから。無形の価値を、ブランドを、高めて向こうからやってきてくれる銀行になるべきだ。〇〇BANKがお洒落でスマートの代名詞になる日がくればいい。BANKの語源の確かなところは知らないが、いずれにせよ皆が腰掛けることのできる公器たるべきだ。因みにポロシャツはエスカレーションラダーを増やすといった意味でも是非とも推進するべきだ。普段がカジュアルであるからこそスーツがより際立つのだ。振り切りが大事だ。年寄りと金持ちには徹底的に媚びよう。大理石造りの基幹店を作ってもいい。マホガニーかなにか高級な素材を使った店内で、徹底的に厚遇すれば良い。そしてブランドで大衆を惹きつけよう。認知なくしては居ないものと同じなのだ。
思うがままに書き連ねて、推敲すらできていないが、日々感じるストレスの中、間も無く来るであろう異動を思い、こんなことを書いてしまった。
普段の業務ではこんなことできない。つまらないオトナ達が上の顔を見ながらクソみたいな施策を出してくるのを見守るだけだ。
仮にこう言う仕事ができるような年次になった時、おそらく僕もそういったクソみたいな大人になっていることだろう。
人事へ。探さないでください。なんだかんだ言って僕はまだクビにはなりたくありませんので。辞めるまで待ってくれよな。
何もできない若手の、根拠もない取り止めのない妄想である。これを根性のない若手と切り捨てるのは容易だ。僕でもそうする。ただ、そうして肥大してきた結果が「必要とされない銀行」であると言うことは偉い人は強く認識するべきだろう。だから、少しでもいいから真の改革の姿勢を、我々が充実して働けるような未来を見せて欲しい。何を言ってるのか自分でもわからなくなってきたな。いつかもっとまとめて書くこととする。
逆
まず「頭が悪い」があって
それゆえに「無能だけど頭の悪さ故に無能を自覚できない」があって
そこから「無能な実態にそぐわない異常な承認欲求」が産まれて&肥大して
承認欲求と現実のギャップに対して「自分の実態が悪いのではなく、自分もエリートの立場になりさえすれば欲しいものが得られる」
という妄言に縋るようになる
「ああ何を 違えてしまったのか 日本はきっと起業が栄える筈だったのに
ああせめて 君が起業してくれたなら イノベーションを信じられたかもしれないな」
「などと馬鹿めが! 世迷いごとに沈め! 正直者が馬鹿を見るそんな世界の理なら
ああ!(界隈を去ることを決めた)ボクこそ 最後の勝者なのだ! その真実を噛み締めて今楽園(起業界隈)を後にして
墓標に刻んだ数だけ 胸に込み上げる勝利の余韻に嗤う。」
凋叶棕墓標より。
あー糞、中途半端に起業あきらめていないからやること雑用多くて、書けねぇ。トンチキなリスクマネー(笑)だのイノベーション(笑)叫ぶ謎のピエロが腐った妄言を今日も吐き続けてるわ。
なお、この曲はおそらく実態見ずにきれいごとばかり抜かして、他人をすりつぶすような連中が跋扈する界隈全部に当てはまる曲だと思う。
こんなことを言っている連中のうち、大学以降で学ぶ数学を理解してる奴は1%にも満たないだろう。残り99%強は以下の2種類に分類されると思う。
前者は、たとえばフェルマー・ガロア・ラマヌジャン等の「逸話」が好きなだけとか、「数学の○○という分野が✕✕に応用される」みたいな話が好きなだけな奴である。
こういう連中は数学に限らず、どこにでもいる。プログラミング等の具体的なスキルは無いが、技術のトレンドを知ることでIT通ぶってるような奴。率直に言って、私はこういう奴が嫌いだ。
あとは、数学的な内容が全く無いわけではないが、「0.999... = 1になるのは不思議」とか「Fibonacci数列の比が黄金比に収束するのは神秘的」みたいな、どうでもいいようなことにいつまでも夢中になってる奴。
プログラミングで言えば、Hello worldとかFizzBuzzなどに、「感動」を覚えているよく分からない奴である。まあ、知能が低いのだろう。
後者については、まあ好きな人はそれでいいと思うが、単純に、私は全く面白いと思わない。
中学・高校入試などに出てくる図形問題は、出題者はまず間違いなく余弦定理などを使って答えを求めている。そのような問題のうち、上手いやり方を思い付くと小学校の範囲で解ける問題が出題されるわけだが、いい大人がそんなもんやって何が楽しいのか甚だ疑問だ。
ただ単にこの人の視野が狭いだけじゃないの…?それにしてもこんな穴だらけの妄言に6.7万ファボとかそれだけこれを本気にしてる人がいるかもしれないってことだよね。
それが怖いわ。