はてなキーワード: 奴隷化とは
ローズはむしろ「美女しか活躍できない」従来のハリウッド(に限ったこっちゃないけど)映画界に対するアンチテーゼだろうし
愚鈍ではなく単なる凡人(レイが超人過ぎて叩かれている中で、更に超人女は出せないだろう)程度だろ。
レイとポーが今後恋愛関係になるなんて予感は全くしなかったが。
フォースと共に云々なら他でも言いまくってるし。
(SWのお約束とやらはよく知らないので、それ以外でこの台詞を言った二人は絶対にくっつくのだ!とか言うのがあったとして
それを見落としてたのならすまんが)
そしてラストシーンにはエイリアンに奴隷化された白人少年がフォースに目覚めるかのように描かれる。過去ジェダイ・ナイトとしてたくさんいたエイリアンではなく、新しいジェダイは白人少年なのだ。
当たり前だが、ネタバレだらけだ。だが知ったことか。こんなクソ映画。
人生で一番のクソ映画だった。(いままでのナンバーワンはロボコップ3)
「ローグ・ワン」も「フォースの覚醒」も大した映画じゃないが頭には来なかった。
プロットホールは皆が話しているとおり。出て来る登場人物一人のこらずアホで感情移入を拒む。お約束を破りたいがためのめちゃくちゃな展開。
設定無視はフォースの新能力やイミフな爆撃機、一番ひどいのはハイパードライブ・アタック。あれがありなら今までの戦いはほとんど無意味になる。
だが、こんなものは平凡なクソ要素だ。べつにスクリーンを切り裂いて、なかったことにしたいほどのことじゃない。
一番頭に来たのは「差別構造」肯定だ。スター・ウォーズは世界観のなかで基本的に「人間」中心主義がある。共和国にもあったが帝国が勃興してよりそれが強固になったわけだ。だから帝国に基本的にエイリアンはいない。(例外が映画以外のメディアでいるのは知っている)
エイリアンと人間の差別、被差別関係は作品で何度も描かれる。そしてそれよりも下の被差別階級としてドロイド。この3つの種族関係はそれぞれの立場がきちんと映画で描かれ続けてきた。ジャージャーやイウォークの存在も「スター・ウォーズ」の必須の要素だった。
それが今回はじめてまったくないがしろにされている。もっともレジスタンス側で位の高いエイリアンであるアクバー提督を雑に殺し、その代わりに人間の紫おばさんをコネ抜擢する。老齢の身でありながらレジスタンスに身を捧げた大提督は人間とエイリアンの友愛の象徴だったはずなのに。
エイリアンに見えるファースト・オーダー最高指導者も、彼が受けてきた恥辱や野心もまったく描かれず、雑に殺される。
その他のエイリアンは背景に押しやられ、奴隷(または逆に低能な人間差別者)としてしか描かれない。ジェダイテンプルに仕えるエイリアン原住民を愚者のように描き、あまつさえルークはそれをあざ笑っているかのように描く。ポーグのような意識を持たない「かわいい」エイリアンしかクローズアップされない。この映画でエイリアンは全くの差別されて然るべき存在としか描かれないし、登場人物全員がそんなように行動する。(指導的なエイリアンは二体でてくるが実体として描かない狡猾さまで備えている)
ドロイドはそれにまして影が薄く、まったく雑な扱い。
この差別構造の肯定はもっとエスカレートする。有色人種と白人との分断まで肯定してくる。
黒人と白人は絶対くっつけないために、容姿の悪い愚鈍な黄色人種をわざわざ黒人主人公に割り当てる。
最後には白人女主人公と白人パイロットが出会うと今後の結びつきを予感させる、例の言葉を口にするのだ。
そしてラストシーンにはエイリアンに奴隷化された白人少年がフォースに目覚めるかのように描かれる。過去ジェダイ・ナイトとしてたくさんいたエイリアンではなく、新しいジェダイは白人少年なのだ。
馬鹿にしてんのか。別にエイリアンを主人公にしろとか有色人種を活躍させろっていってんじゃない。出すならちゃんと扱えよ。過去に敬意を払えよ。ルーカスはつたなくとも他者(エイリアン、ドロイド、有色人種)にたいして良い奴も悪いやつもいるし、バカも利口もいるように描いてきたぞ。
だから「スター」ウォーズだったんだ。主人公たちがエイリアンやドロイドに対して見せる豊かな感情に共感してきたんだ。
聖書に則ったテーマがあれば絶賛するクソ評論家の町山には心底失望した。こんな酷い、悪意の塊のような映画はまったく認めれらない。
白人の人間だけにクローズアップされた「スター」ウォーズなんてスカイウォーカーの血筋の物語の百倍クソだってわかんないのか。神話を民主化したというが、個人(家族)の話が人種の話にすり替わるほうが何倍も悪質なのがわかんないのか。
立ちっぱなし歩きっぱなしの仕事でもある
重い物を持ち運びすることも多く、腰や膝を傷めることもある
天候などどうしようもない理由でも担当部門の売り上げが落ちれば吊し上げを食らう
小売は給料が安い
時給で均すと最低賃金を割らないところの方が珍しいレベルである
アルバイトにすらサービス残業を強いているほどそれが常態化している
小売に勤めるということは会社と奴隷契約を結んだといっても過言ではない
そんな環境に優秀な人材がやってくる訳もなく、人材の質は最低レベル
では経営層がそんな従業員達から搾取しているのかというと、大手はともかく中小においてはそういう訳でもない
だがそれも難しい
それ故に小売の店舗がなくなったり規模を縮小したりすることが消費者の不便に直結する
「では店舗を維持する為に商品を全面的に値上げします」と言ったらそれはそれで反発が出るだろう
客足が離れて結局店を畳む以外の選択肢がなくなる
だが店を畳もうとするとやはり反対される
なにしろ天候不順で野菜が値上がりしたり、円安の影響で輸入商品が値上がりしただけでも小売が悪者扱いされるのだ
都会ではそこまで問題にならないかもしれないが田舎であればあるほど地域のヘイトを買うリスクは大きくなる
これは小売だけでなく飲食などの業種にも言えると思うのだが、日本は消費者の立場を強くし過ぎたのだと思う
長時間労働などの問題ではマネジメントの問題や経営者の能力不足を批判する向きが強い
経営層が批判されるべきなのは消費者のわがままを叶え続けることを是とする風潮を改めないことだ
金が無い原因は安く売り過ぎたからだ
労働環境が悪化しているのは過剰なほどの顧客サービスを維持しようとしているからだ
消費者保護の観点は必要とは思うが、それはあくまでも立場を対等にするためのものであって消費者を特権階級化する必要はないと思う
消費者優遇が行き過ぎればそれは消費者であり続けられる富裕層を優遇することに繋がり、間接的に小売従業員のような末端労働者を奴隷化することにつながるのではないだろうか
俺もそう思うわ
普通に考えていつものノリで弱小スタジオを奴隷化しようとしたら
悪用ぅ…私物かぁ…内部抗争がぁ…無許可でぇ…元凶でぇ…管理能力がぁ…
キチ×ガイか
クラウドソーシングでした
[パターン45450721]
https://twitter.com/todesking/status/887970191937740804
リベラルってそういうもんじゃねえみたいなコメントをいただくかと思うが本題そこちゃうし
その試験の際にはウソ発見器をつけて本当に彼彼女がリベラルかどうか高精度で判定できるようにする。
ただここがキモなのだがその前に日本人全員に同じことをしておく。
そして日本人全体の平均点を計算し、平均点以上を取った移民を受け入れるとするとどうだろう!
移民反対派は一生懸命リベラル的思考を身に着けようとするだろうし、
逆に移民賛成派は反リベラル思考を身に着けて極力平均点を下げようとするだろう。
ここまでシミュレートしたところで移民奴隷化派が無双を行い移民だらけになった。
にゃーん。
身だしなみやコミュニケーション能力で採用者に「気に入ってただく」よう頑張るよう指導するわけだ。
それは他に売りがなくお前なんかとっかえがきく存在だからこそ「お気に」してもらいましょうねと言ってるようなもんだ。
とっかえがきかないよう、専門性を高めるとか(別に学部の研究の話だけじゃない、実務的な能力でも些細でも他にはない能力を磨くなどの)指導はしないしそういう戦略については話もしないわけだ。おかげでとっかえがきく売りがない人物だから、一生雇用主の顔を伺わないといけない。
事務でさえExcelでマクロ使えるでもいいそれで生産性あげられたり他分野の専門知識(会計や法務ね)を持ったり、とっかえがきかない戦略って立てられるとおもうんだけど指導しない。
(※ちなみに実際には誰でもとっかえなんてきくんだとかいう批判はいらない。ここでの趣意と違うから)
もちろん雇用主としてはとっかえがきく部品の方がいいんだって話もある。雇用関係で主権握れるからね。
バックヤードの仕事でさえ最近誰でもできるでしょって外部化が進んで、ひどい会社が増えてる。
優秀な会社はバックヤードも圧倒的で書類関係の社内速度が速いわ伝達はできてるわでそこでも他社との差別化ができる。
そういうことをアピールできれば、むしろとっかえがきかない人になる方が被雇用者にとっては圧倒的にいいんだから、そう指導すればいいのに。
中国もアメリカも欧州も失業者はスキルアップをするし新卒もできることを一生懸命増やそうとする。
一方日本は面接マナーや服装やコミュニケーション能力を磨きましょうという指導で、社会人の再勉強時間も率も先進国最低。
これって被雇用者を一億総奴隷化計画なんじゃないの?雇用者が手綱を握れるよう業務の属人性を下げて被雇用者のパーツ化が進めてる。
「俺は外で頑張って働いてるんだから、お前は家の中の事をちゃんとしろ!」
昭和の時代に良く聞かれたセリフを現代の男性が言うには、いくら稼げばいいのか。
まず、夫がどれだけ「頑張って働いているか」を表す指標、「労働の成果」はもちろん「給料」だ。
「長時間労働」も「重労働」も、「給料」が伴わなければ評価には含まれない。
それは家事に置き換えて考えれば一目瞭然だ。
重労働のような掃除をしても、逆に部屋が散らかっていたら意味が無い。
同じように、夫がどれだけ長時間労働や重労働を「頑張った」と主張しても、「給料」が低ければ意味は無い。
あとは平均に当てはめるだけの作業。
2015年の日本の平均年収は、男性で、521万円。(国税庁「民間給与実態統計調査」調べ)
従って、「平均的に」頑張って働いている男性=「平均的な年収(521万)」を稼いでいる夫は、妻に「平均的な家事」を求められる、と言える。
洗濯は、いつも綺麗な衣類が用意されていてアイロンがけも万全。
と考えると、「平均的な家事」において、
食事は、出来合いのものと手作りと半々、栄養バランスもまあまあ、味もまあまあ。
掃除は、埃ひとつ無く隅々までピカピカとまではいかないけれど、生活には支障無いレベル。
洗濯は、まあまあ綺麗な衣類がまあまあ用意されていてアイロンがけもまあまあ。
程度となる。
「俺は外でまあまあ平均的に働いてるんだから、お前は家の中の事をまあまあ平均的に生活できる程度にしろ!」
くらいは言える権利があると思われる。
妻に「完璧な家事」を求められる夫の年収は、2000万くらいか?
もし低収入のくせに妻の家事に不満がある男性がいたら、こう言われるだろう。
と、ここまではもちろん専業主婦における話。
共働きだとさらに条件は異なる。妻も労働して収入を得ているからだ。
仮に夫の年収と妻の年収が同額だった場合、家事分担も同等でなければ不公平だろう。
そこから考えると、夫の年収と妻の年収の「差額」が家事分配に影響を与えるのは明らかだ。
あとは前述の話に置き換えるだけの作業。
平均年収の夫は"専業主婦"の妻に対して、平均的な家事を求められる。
しかし、自身も労働している"兼業主婦"の妻に対しては、平均的な家事は求められない。
兼業主婦の妻は、夫が担当するはずだった労働を妻が分担してくれている状態とも言える。
そうなれば、妻が担当するはずだった家事は夫が分担しなければならないのは当然だろう。
そう考えてみると、「夫の年収」-「妻の年収」=「平均年収」程度を稼いでいる男性であれば、
妻に「平均的な家事」を求められるかもしれない。
年収821万の夫は、年収300万の妻に対して、(差額が平均年収の521万だから)
「俺は外で(お前よりもさらに)まあまあ平均的に働いてるんだから、お前は(外で働いていても)家の中の事をまあまあ平均的に生活できる程度にしろ!」
くらいは言えるかもしれない。
差額が0なら家事の半分は夫も担当するのは当然として、差額が260万程度なら家事の半分の半分、4分の1くらいは夫が担当しなければならないのではないか。
ここまで考えると、もし「夫が低収入で自身も働いて尚且つ家事も全部完璧にやる妻」がいたとしたら、それが如何に特異な行動かお判り頂けるだろう。
普通なら、あまりの不公平さに、馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるはずだ。
もし何らかの信条に従って、そのような生活を送る妻が本当にいたとしたら、
「健気に頑張ってて大変だね」くらいの事は言えるかもしれないが、
そのような妻を美徳としてもてはやし、そのような特異な行動を全ての女性に押し付けることはできない。
※この文章はあくまで「夫の年収と妻の年収が同額だった場合、家事分担も同等でなければ不公平」という考えに基づき作成されたものです。
「愛に年収は関係ない!」「愛の力で妻を奴隷化する!」「愛のために夫に隷属する!」とお考えの方には無関係な文章なのであしからず。
各所で暴言の数々により(支援ってなんなんだよ)家事手伝いになった。
私の実家である一軒家は親の実家から借金して建てたものだった。
その家も20年が過ぎ、所々で劣化が始まっていた。
3口コンロが1口止まってからリフォームの話でギスギスするようになった。
父と母が私をいないと思って話してた口から、働いてさえいればの声を聞いた。
私はその日泣いたし、オーバードーズもした。
普通に働けないのならと風俗案件や臓器売買のサイトを見ながら、
親の中では私が金を稼いでその金が家のリフォームに使われると思っていたようだ。
大層な金額である。若者の不況と過労による自殺は、親からも追い詰められている人もいるのだろう。
私はあれから自分の家が大嫌いだった。単身赴任で数年間使ってなかった見栄で作られた実家が嫌いだった。
母親は島ぐらしだったせいで人への危機感や人の悪意に対して異常に無知であったし、
おまけにクリスチャン2世のアダルトチルドレン持ちだった。子供より世間様第一である。
少なくともこの家には、家をリフォームするという前提がある。
親であれ、上司であれ、育ててやった。雇ってやった。
追記
編集してみました。
※このダイアリーは長文です
いきなりだが、次の一文を読んでみてほしい。
「私は世界でひとりきり」
さて、あなたはこの一文についてどのような解釈を持っただろうか。少し考えてみてほしい。
別に心理テストをしているわけでも何でもないのだが、自然に(1)の解釈を持った人は色んな意味で幸福な人生を歩んできて、今現在も歩み続けている人なんだろうと思う。少なくとも(2)の解釈を持ってしまうような人からすれば、そう思える。かくいう私は「ひとりきり」という言葉を聞いて「個性」よりも「孤独」を連想するタイプの人間である。
話は少し逸れるが、数年前まで週刊少年ジャンプで連載されていた「魔人探偵脳噛ネウロ」というマンガがある。知らない人のためにこのマンガをざっくりと紹介すると、「魔界から来たドSの魔人が女子高生を奴隷化して数々の難事件を解決していく」SMアクション謎ときマンガである。本能に忠実に従って爆弾を爆発させまくる主婦や直接注射すると筋肉ゴリゴリに変身できるスープを作るコック、自分でこしらえた家具を身体に装着して戦う家具屋など、常識の枠にとらわれない犯人が毎回登場することで少し話題にもなった。私は中学生のころジャンプを購読していたので、毎週このマンガを読んでいた。別に「魔人探偵脳噛ネウロ」が読みたくてジャンプを購読していた訳ではなく、「せっかくジャンプを買ったのだからついでに読んでおこう」程度の気持ちで読んでいたのだが、このマンガがあるエピソードに入ったとき(正確にはそのエピソードが終わった時)、私は強い衝撃を受けた。それは「こんなにも私の気持ちを代弁してくれるようなマンガがあるのか」というものだったが、その衝撃は今でも覚えている。人に「一番心に残っている作品は?」と質問されたとき、すぐに「魔人探偵脳噛ネウロ」と答えるくらいだ(作品自体がめちゃくちゃ好きというわけではないが)。
さて、猿のような中学生にそこまでの衝撃を与えるエピソードはどんなものかというと、以下のようなものである。
①探偵事務所に超有名歌手の「アヤ・エイジア」という人物が現れ、仕事を依頼する
②依頼内容は事務所で首を吊っていた彼女のプロデューサー・マネージャーへの警察による自殺判断の調査
③ネウロと主人公が探偵調査を行った結果、実はプロデューサーとマネージャーは自殺ではなく、他殺だった
⑤謎解き終了
私のミジンコレベルの要約能力では読者の方は恐らく何のことかサッパリ分からないと思うが、興味がある人は原作(2巻だったかな)をあたってみてほしい。
ここまで簡潔・適当に要約したのは、私が衝撃を受けたのはこの事件のトリックや謎解き、犯人ではないからだ。私が最も衝撃を受けたのは自身のプロデューサーとマネージャーを殺害したアヤの動機だった。動機については当日記の核心となる部分なのでもう少し丁寧に説明する。
アヤはある特殊な能力を持っている。それは「ある特性を持っている人間を、『歌』を歌うことで失神させる」というぶっとんだものである。では「ある特性を持つ」人間とはどんな人間かというと「自分は世界にひとりきり」と感じている人らしい。アヤによると、全ての人間の中の数%(正確な割合は忘れた)は先天的にこの特性を持っており、この特性はなかなか消滅するものではないという。そして、アヤ自身も「自分は世界にひとりきり」と感じる人間だった。彼女は「ひとりきり」であり、「ひとりきり」を完全に理解できたが故に「ひとりきり」の特性を持つ他人の脳に直接干渉・失神させることができたのである。彼女はこの能力を歌手としてフルに発揮し、数年のうちに全世界に名を轟かせる超有名歌手になった。
そんな彼女を影で支えていたのがプロデューサーとマネージャーだった。両人ともアヤがデビューしたての頃からアヤのことを親身に、時に厳しくサポートしており、アヤにとってはかけがえのない人物となっていたのである。しかし、彼らがアヤに近づけば近づくほど、アヤは「ひとりきり」という感覚を失ってゆく。彼らがかけがえのない人になればなるほど、アヤの能力は弱まり曲の売り上げも悪くなる。アヤは悩みに悩んだ結果、能力の消滅を恐れてプロデューサーを、その次にマネージャーを殺害した。2人が死んで「ひとりきり」の感覚を取り戻した後のアヤの曲は再び世界的に大ヒットするようになった。
孤独を感じない人間などいない。しかし、例えば恋人とデートしていても常にどこか心の中に相手のことを信じていない自分がいたり、友人とどれだけ楽しく話せていても心の中に高い壁があるように感じたり、家族と食卓を囲んでいるのになぜか他人と食事しているように感じたり…と、明らかに異常な場面・異常な頻度で孤独を感じる人がいる。少なくとも私は「ひとりきり」の人間だった。だからこそ、訳の分からないぶっ飛んだ謎解きマンガに信じられないくらいの衝撃を受けたのだ。今考えれば「中二病」と呼ばれる症状の一種なのかもしれないが、しかし20代中ごろを突っ走る今現在も、私自身の「ひとりきり」という感情は存在している。さすがにもう中二病は卒業していると信じたいのだが…。
私がなぜ数年前のマンガを扱ったこの日記を書くに至ったかというと、アヤと同じで「ひとりきり」の感覚を失いつつあるように感じたからだ。私はこれまで孤独とともに生きてきた。この孤独は常に1人であるという意味ではない、常に1人であるように感じてきたという意味だ(実際1人でいることが多いのだが)。1人でいると心が安定するので勉強や仕事も捗る。学生時代は1人でいたので受験には成功したし、そこそこの職に就くこともできたし、社会人になってからそこそこの仕事もこなしてきた。しかしここ1年ほどで状況が大きく変わった。職場でかけがえのない友人や心から尊敬できる上司と出会い、彼らとの交流を深めてゆく中で自分が「ひとりきり」でないように感じてきた。そして明らかに仕事の出来が悪くなった。きっと交友関係に無駄な時間を割いているからだと自分には言い聞かせている。
他人からすれば「ひとりきり」でなくなることは良いことだろう。しかし生まれてからずっと「ひとりきり」だと感じてきた私にとって、「ひとりきり」の感覚を失うことは自分自身を失うようでとても怖い。また、今はまだ問題の無いレベルだが「ひとりきり」でないことが生活にまで影響してきていること、さらに今後も悪化しそうなことも怖い。
もしこの日記を読んだ人の中でこのような精神病を知っている人がいればぜひ教えてほしい。
それにしても、私と同じように自分を「ひとりきり」と感じる人はどれくらいいるのだろうか…