「俺は外で頑張って働いてるんだから、お前は家の中の事をちゃんとしろ!」
昭和の時代に良く聞かれたセリフを現代の男性が言うには、いくら稼げばいいのか。
まず、夫がどれだけ「頑張って働いているか」を表す指標、「労働の成果」はもちろん「給料」だ。
「長時間労働」も「重労働」も、「給料」が伴わなければ評価には含まれない。
それは家事に置き換えて考えれば一目瞭然だ。
重労働のような掃除をしても、逆に部屋が散らかっていたら意味が無い。
同じように、夫がどれだけ長時間労働や重労働を「頑張った」と主張しても、「給料」が低ければ意味は無い。
あとは平均に当てはめるだけの作業。
2015年の日本の平均年収は、男性で、521万円。(国税庁「民間給与実態統計調査」調べ)
従って、「平均的に」頑張って働いている男性=「平均的な年収(521万)」を稼いでいる夫は、妻に「平均的な家事」を求められる、と言える。
洗濯は、いつも綺麗な衣類が用意されていてアイロンがけも万全。
と考えると、「平均的な家事」において、
食事は、出来合いのものと手作りと半々、栄養バランスもまあまあ、味もまあまあ。
掃除は、埃ひとつ無く隅々までピカピカとまではいかないけれど、生活には支障無いレベル。
洗濯は、まあまあ綺麗な衣類がまあまあ用意されていてアイロンがけもまあまあ。
程度となる。
「俺は外でまあまあ平均的に働いてるんだから、お前は家の中の事をまあまあ平均的に生活できる程度にしろ!」
くらいは言える権利があると思われる。
妻に「完璧な家事」を求められる夫の年収は、2000万くらいか?
もし低収入のくせに妻の家事に不満がある男性がいたら、こう言われるだろう。
と、ここまではもちろん専業主婦における話。
共働きだとさらに条件は異なる。妻も労働して収入を得ているからだ。
仮に夫の年収と妻の年収が同額だった場合、家事分担も同等でなければ不公平だろう。
そこから考えると、夫の年収と妻の年収の「差額」が家事分配に影響を与えるのは明らかだ。
あとは前述の話に置き換えるだけの作業。
平均年収の夫は"専業主婦"の妻に対して、平均的な家事を求められる。
しかし、自身も労働している"兼業主婦"の妻に対しては、平均的な家事は求められない。
兼業主婦の妻は、夫が担当するはずだった労働を妻が分担してくれている状態とも言える。
そうなれば、妻が担当するはずだった家事は夫が分担しなければならないのは当然だろう。
そう考えてみると、「夫の年収」-「妻の年収」=「平均年収」程度を稼いでいる男性であれば、
妻に「平均的な家事」を求められるかもしれない。
年収821万の夫は、年収300万の妻に対して、(差額が平均年収の521万だから)
「俺は外で(お前よりもさらに)まあまあ平均的に働いてるんだから、お前は(外で働いていても)家の中の事をまあまあ平均的に生活できる程度にしろ!」
くらいは言えるかもしれない。
差額が0なら家事の半分は夫も担当するのは当然として、差額が260万程度なら家事の半分の半分、4分の1くらいは夫が担当しなければならないのではないか。
ここまで考えると、もし「夫が低収入で自身も働いて尚且つ家事も全部完璧にやる妻」がいたとしたら、それが如何に特異な行動かお判り頂けるだろう。
普通なら、あまりの不公平さに、馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるはずだ。
もし何らかの信条に従って、そのような生活を送る妻が本当にいたとしたら、
「健気に頑張ってて大変だね」くらいの事は言えるかもしれないが、
そのような妻を美徳としてもてはやし、そのような特異な行動を全ての女性に押し付けることはできない。
※この文章はあくまで「夫の年収と妻の年収が同額だった場合、家事分担も同等でなければ不公平」という考えに基づき作成されたものです。
「愛に年収は関係ない!」「愛の力で妻を奴隷化する!」「愛のために夫に隷属する!」とお考えの方には無関係な文章なのであしからず。
家事が平等だったら、家に入れるお金も平等なはずですけど