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2022-09-15

16歳の女の子が駆け抜けた戦争

飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師戦後72年…激戦地で生き、戦後助産師で赤子抱く

2017年8月14日埼玉新聞

もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの」

 元従軍看護師木村美喜さん(89)=桶川市=は激戦地フィリピンルソン島で約1年、敵の爆撃機砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない。無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。

 生まれも育ちも桶川日本赤十字社埼玉県支部看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外陸軍病院派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。

 9月、マニラ空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院解散。絶え間ない空襲の下、部隊マニラから北に約250キロバギオに移動した。

 悲劇が襲ったのは、45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。

 埼玉班も9人が戦死。「今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。

 4月、バギから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの」

 埼玉班の仲間も一人、また一人と病気栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだい手紙写真日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。

 終戦を知らされたのは8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山。うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラ先住民足跡を見つけるたびに背筋が凍った。

 ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉背中を押され、何とか収容所にたどり着いた。

 約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった。

 戦後助産師として働いた。「もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。

 今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ。」


https://www.saitama-np.co.jp/news/2017/08/14/07_.html

2022-05-30

anond:20220530225407

では!!召集料として100万円を!!

よろしいですかな!!

返事がない場合コダックを30体ボックスに送りますぞ!!

2022-05-18

機雷威力ってやべえな

こんなもん地上で爆発したらどうなるねん

https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y

 昭和17年1942年5月日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要局面を迎えていました。

 しかし、戦時中とは言え普段ほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。

 ニシンの豊・不漁はその年の村民生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに気づきます

 そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体発見します。

 そして、素人から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。

 思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。

 数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者市街地にある派出所へと向かいました。

 ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつ機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。

 ”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。

 実は北海道特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります

 その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。

 こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理地元警防団警察消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。

 しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。

 ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。

 また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。

 そこで、この機雷爆破処理作業一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察威信を確固たるものにするべく画策していたのです。

 かくして、村役場などを介し回覧口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます

 さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落警防団員約150名が事前集結していました。

 二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります

 通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます

 というのも、海中での爆破は一帯の魚介類死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。

 彼らにしてみれば死活問題だけに警察からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。

 粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。

 こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。

 発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。

 それぞれ多忙仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初最後では大きく異なっていました。

 初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体ロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います

 しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海発見された機雷が、軟らかいから馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。

 今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。

 そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像はるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートル渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。

 爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場凄惨を極めたそうです。

 現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。

 そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています

 この大惨事により現場居合わせ警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。

 「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。

https://touch55.hatenablog.com/entry/2019/06/09/181743

合掌

2022-03-23

対話のドアはいつもオープン

彼はおもむろにチャックを下ろし

このときの「おもむろ」は誤用なのかどうか

動きがゆっくりとしているという本来意味であるならば

国会召集の求めになかなか応じなかった安倍政権はむしろ正しいのではないだろうか

2022-03-04

鉄血勤皇隊を知らんとか。さては日本人じゃないな

anond:20220304005333

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)は、第二次世界大戦末期の日本沖縄県において、防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊である

2022-02-25

anond:20220225112215

宣戦布告なり侵攻されて全部取られたら何されるか分からんし全てが終わるから、非戦闘員戦闘員になるべく召集して1か月くらい訓練させて戦争に駆り出されていくんやで。最近ジェンダー論のアレもあるから性別わず戦闘員になるんじゃなかろうか。

2022-02-24

anond:20220224143442

沖縄とかそんな感じって聞いたわ

から召集かけられると断れなくて警察署襲撃したりするんだろうな

anond:20220224142822

こんな時に急遽休みをとった同僚

もしかして召集されたのかな…

2022-01-08

パウパトロールを息子と見てる

四六時中トラブルが起きるのはいいとして、ケントから召集かかったら即座に集まらなきゃいけない子犬たちがかわいそう

手当たくさんもらってて欲しい

2021-09-29

自民党は29日投開票総裁選岸田文雄氏を第27代総裁に選出した。1回目の投票岸田文雄氏が256票、河野太郎氏が255票、決選投票で257票を得て河野太郎氏の170票を上回った。

自民党は29日投開票総裁選岸田文雄氏を第27代総裁に選出した。決選投票で257票を得て河野太郎氏の170票を上回った。

1回目の投票で全候補とも全体の過半数に届かず、首位の岸田氏と2位の河野氏による決選になった。

10月4日召集臨時国会菅義偉首相の後継となる第100代首相指名される見通しだ。

1回目の投票岸田文雄氏が256票、河野太郎氏が255票、高市早苗氏が188票、野田聖子氏が63票を...

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anond:20210929150618

2021-09-16

キューピーキユーピーかについて

キューピーのユが大文字なのに書き方が間違っている!と指弾する人がいるので説明するが

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.j-cast.com/2021/09/15420359.html?p=all

 

「ュ」などの小書き仮名を捨て仮名というが、これは以前は登記に使えなかった。そもそも昭和63年までは法律行政文書に捨て仮名を使うことができなかった。

 

時系列順に並べるとこんな感じ

 

明治公文書カタカナを使う事が決まる(平仮名は大量の変体仮名があったため)

外来語が沢山入ってきてそれへの捨てガナの使用が始まる

法令行政文書には小書きカナ不可、故に屋号商号登記への小書きカナも不受理

この為小書きカナを大書きしたり、小書きを使用しない表記一般化する(例:キューピーキユーピーディーゼルヂーゼル

戦後昭和20年代後半くらいから擬音などで小書きを使うことが一般化していく

新聞では昭和末期まで小書き不使用表記が続く

末期には見出し:小書き仮名使用表記記事本文:小書き仮名使用という混在状態

昭和63年1988年):昭和63年7月20日 内閣法制局総発第125号 『法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記について』

法令における拗よう音及び促音に用いる「や・ゆ・よ・つ」の表記については,(中略)昭和六十三十二月召集される通常国会に提出する法律(中略)から,小書きにする。」

これにより行政文書などにも準用されて小書き仮名使用されるようになり登記可能になる

2002年11月1日商業登記規則改正

ローマ字アラビア数字使用できるようになる

これ以前はローマ字をカナ書きした表記(例:YKK→ワイケイケイ)にしたり数字漢数字にして登記する必要があった

 

こういう経緯なので昭和63年以前に登記した会社は「キュ」などの小書き仮名表記商号登記に使えなかった。

からそれが正式表記かというと法的制約によるものなのでちょっと違う。YKK正式名称がワイケイケイかと言えばおかしさが判るだろうか?

キューピーの社名の元はキューピッドの子供読みで-yを付けた人形なので一般的な「キューピー」でいいはずだ。

登記上の制約で商号一般認知商号登記が違う、NHK新聞けが登記上の商号を使うという状態は嘗ては当たり前だったので、今も昔のままの商号を使う会社の「正式名称」に事更に拘るというのはナンセンスかと思われるよ。

 

 

昭和63年7月20日 内閣法制局総発第125号を受けての商業登記規則改正があったかも知れないが探しきれなかった)

2021-09-03

anond:20210902174107

直近だと、はてブSNSで「臨時国会召集をしないのは違憲」というコメントが多数ありますが、こちらについてはどうでしょう

また、例えばこのはてブでは、そこから少し変わって「期限の無記載=遅滞なく」論が見受けられます

ただ、自分が調べた範囲※ では、借金で「貸主は、相当の期間を定めて返還の催告できる」であって「遅滞なく」ではなくね? と自分は思ってます

この「無記載=遅滞なく」論も、元増田論理ではどのようになるか、併せて教えて欲しいです。

※ 期限の無記載で、自分が参考にしたサイト

https://www.asahi-net.or.jp/~zi3h-kwrz/law2kasiki.html

https://www.nagareyama-lawoffice.jp/blog/2015/11/post-1-162837.html

https://sakura-hokuso.com/houjinhoumu/saiken-kaishu/hennsaikigen.html

2021-08-30

anond:20210830181036

どこまでわかってコメントしてるかしらんが。

野党7月衆議院議長を通じて憲法53条に基づく臨時国会召集要請をしているので、内閣がこれに応じなければ憲法違反になる。

憲法53条に開催時期の制約がないので、菅政権があと伸ばしにしてるだけ。

今日ニュースも「自民党総裁選挙前の臨時国会召集を断念」となっているので、総裁選後に召集することは排除していない。

なので土壇場で召集する可能性は残っているし、憲法違反にならないためにも最終的には召集するだろう。

一方で、総裁選から衆議院任期タイムリミットまで時間がなさすぎて、補正予算通すための審議が十分できるとも思えない。

結局、臨時国会召集を避けたことは、衆院選与党に不利に働くだけだったんじゃないかな。

2021-08-24

anond:20210824162243

医療崩壊する理由日本医者の頭数が足りないからだけど、それを認め増員すると平時医師椅子争奪戦医師同士でやる羽目になる

医師免許を持っているけど医師にならず学校教師や配管工になるのがデフォ世界にもなる

予備役みたいに必要時のみ召集される不安定身分医師も生まれ

それが嫌なんだろうね

2021-07-23

政治的不都合人間召集して切っていくことで、そういう領域人間政治的に殺していく戦法かもしれない

国に都合の良い文化人しかさないような

2021-07-22

くじ引きビール当たります増田スマスマリタアルー美のきび軸(回文

なんだか全国から召集された警察官

交差点の警備と一般道が一車線オリンピック優先道路になってて大渋滞だわ。

そう言えば交番がこないだ手薄で誰も常駐していなくて不在だったのは

みな地方警察官都心招集されているのね。

街の治安心配だわ。

おはようございます

世間オリンピックムードゲームだけど

私は通常運転好調よ!

今日は誰も居ないか仕事捗る捗る

捗りすぎて逆に増田が捗らないって

逆転現象

この現象名前を付けるなら

増田逆転現象とでも言いたいところね。

仕事があって時間がなく忙しいはずなのに増田が捗り

仕事がそんなに無くて暇で時間あるときは逆に増田が捗らないって

背中バターを塗られた猫がテーブルから落ちてバターの塗られた背中の面が高級じゅうたんの上になる確立ぐらいよ。

なんか昔に、

背中バターを塗られた猫をじゅうたんの上に落とす実験動画を見たような気がして、

通常焼きたてトーストならバターを塗った面にして落ちる確立は100パーセントでしょ。

猫が背中から落ちない確立も100パーセントでしょ。

から相反する条件が100パーセントでかち合うと

ぐるぐる空中で背中バターの塗られた猫が永久機関で回り続けるっていうやつ。

これで脱炭素エネルギー問題も一挙解決!って内容だったような気がするんだけどなー。

どっかでその動画見たんだけど。

まあそういう感じよ。

増田の捗り具合って。

からなんだかもしかして時間に急かされているときの方が

ガッツリ増田れるのかも知れないし

たぶん私に足りないのはもっと増田なのだと思うわ。

まあ、

世間は一応連休だしほどほどにして

オリンピックとは無縁な私の住む街のみかん花咲く丘公園前の商店街ビール祭りやってるので、

といっても

ビアガーデンの類いのビール祭りではなく、

商店街で買った福引き券を集めて

くじ回したら漏れなく350mlビール缶がもらえる祭りなのよ。

金賞は金麦500ml1ケースなのよ!

この金賞現実みおびている感じがしない?私も福引き券5枚あっから

引いてみるわよ!

最低でも350ml缶5本は参加賞でもらえちゃうじゃない。

いやー

商店街ビール祭りのしわ!

金賞の金麦1ケースが当たりますように!

あんまり欲深いと当たらないからさ、

こう言うのはよ、

あ、私あんまり興味ないんだけど

せっかく福引き券あるから消化試合的な感じで運試しでやってみるかーって

あ、そうなの?ここでやってるのねーって

知らないふりして今気付いた感じでくじを回すのが

当たる必勝方法でもあるし必須必死わ!

今日はお買い物でるんるん商店街に行ってくじ引きしてくるわよ!

うふふ。


今日ご飯

喫茶店なのに朝の鮭朝食が食べられるところがあっていいでしょ~?

朝鮭定食よ。

香ばしく焼けた鮭の身をほぐす瞬間がたまらないわ!

日本明後日の朝って感じ!

デトックスウォーター

もうお手軽作り置き

水出しルイボスティーウォーラーです。

ガブガブ飲むからノンカフェインが最適よ。

オリンピックゲームを見に行く人は

暑いから気を付けてね。

水筒持って行くの忘れずに。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2021-07-21

悪いことは重なる

会社都合で、クッソめんどくさいのに結果出して当たり前、評価もそれほどされないっていう仕事押し付けられたので、その時点で既に「なんて仕打ちだ」と思いつつ、他の仕事で優先度が低いものを他の人に渡す打ち合わせをしたのが昨日。


そしてその結果仕事を渡す予定だったやつの一人が、既に退職願を出していて退職交渉をしてたこと、それによりどんな結果であれ新しい仕事は受けないことを告げられて打ち合わせを再度持たないといけなくなったのが今日


昨日わかってりゃ言って欲しかった…

こちらも「退職する人に渡す予定だった仕事を俺がやるのは無理だけど、渡した人のサポートはするので他の後任者を決める打ち合わせをする」と会議召集を出した。


俺も辞めたくなってきたわ

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2021-05-14

anond:20210514025153

黄金週間の頃に気になって調べたが、現行の法律では外国人入国者コロナで2週間強制隔離は出来ないんだと。

さっさと法改正すればいいんだが、昨年は安倍ぴょんが数々の疑惑不手際を追及されたくなくて、コロナ対策もそこそこに、要求された臨時国会召集もせず逃げ回ってたからね。

2021-02-10

[]ブクマカが何度も書いてしまうほど伝えたかたこ




何度も書いているけどと書いてあるのを適当ピックアップしただけで本当に何度も書かれているか確認していない

2020-12-09

anond:20201209121827

医者だけは召集かけられたら逃げられないんだっけ?

それでもバックレれば家から強制的連行されるわけでもないか適当に昼寝でもしといて

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